小雨の朝となりました。しばらく雨がなく乾燥していたのでちょうど
よいお湿りになったかもしれません。今日は母・宇野美代子(旧姓)の命日です。
昭和48年(1973年)の5月31日の朝、母は長い闘病生活から解放されました。
満44歳は若すぎたかもしれませんが、よくなる見込みのない癌との闘いの
辛い日々をそばで見守るしかない私にとって、少しでも長生きしてほしい
という気持ちの一方で、早く楽にしてあげてほしいというのも正直な気持ち
でした。
その朝、ずっと混濁していた意識が一瞬ふっと蘇ったように見えました。
何か言いたかったのでしょうか、口元が少し動いた気がします。次の瞬間、
大きな深呼吸をして母は旅立ちました。道庁の横にある斗南病院の一室
でのその瞬間は今でも鮮やかに蘇り、時々涙します。
母の姉(宇野元子)が帯広からかけつけてくれていてずっと看病してくれ
ました。後日、納骨の際、次の歌を残してくれました。
妹の永遠の住処となりし藻岩(やま)緑豊かに美しくあれ
父方の墓が藻岩山の麓にあり、その墓参の際の気持ちでした。家族思いの
伯母で厳しい面もありましたが、忘れられない思い出です。その伯母も
今は母と楽しく過ごしていることでしょう。当時、ルーツに関心の薄かっ
た私は、満州での生活など、今になって色々なことを聞いておけばよかった
と悔やんでいます。
母の葬儀の朝も雨上がりで、今日と同じようにボタンや芝桜が雨に
濡れていました。今日はその山に墓参して来ます。
よいお湿りになったかもしれません。今日は母・宇野美代子(旧姓)の命日です。
昭和48年(1973年)の5月31日の朝、母は長い闘病生活から解放されました。
満44歳は若すぎたかもしれませんが、よくなる見込みのない癌との闘いの
辛い日々をそばで見守るしかない私にとって、少しでも長生きしてほしい
という気持ちの一方で、早く楽にしてあげてほしいというのも正直な気持ち
でした。
その朝、ずっと混濁していた意識が一瞬ふっと蘇ったように見えました。
何か言いたかったのでしょうか、口元が少し動いた気がします。次の瞬間、
大きな深呼吸をして母は旅立ちました。道庁の横にある斗南病院の一室
でのその瞬間は今でも鮮やかに蘇り、時々涙します。
母の姉(宇野元子)が帯広からかけつけてくれていてずっと看病してくれ
ました。後日、納骨の際、次の歌を残してくれました。
妹の永遠の住処となりし藻岩(やま)緑豊かに美しくあれ
父方の墓が藻岩山の麓にあり、その墓参の際の気持ちでした。家族思いの
伯母で厳しい面もありましたが、忘れられない思い出です。その伯母も
今は母と楽しく過ごしていることでしょう。当時、ルーツに関心の薄かっ
た私は、満州での生活など、今になって色々なことを聞いておけばよかった
と悔やんでいます。
母の葬儀の朝も雨上がりで、今日と同じようにボタンや芝桜が雨に
濡れていました。今日はその山に墓参して来ます。