宇野ルーツだより

ご先祖のルーツを探す旅

武士の家計簿

2010-10-29 20:07:44 | 日記
 先日の積雪、しばらくして消えました。やはりまだ根雪にはならないようです。
 これからしばらく降っては消えのくり返しでしょうね。皆さま、いかがお過ごしですか?

 宇野家の先祖付けの冒頭には「宇野貞雄 百石」とあります。この「百石」とは、現代の
 年収に換算するとどのくらいになるのか、ずっと興味をもっています。それが分かれば
 江戸時代の宇野家の経済がどうだったのか、知る手がかりになるかもしれません。

 「百石」の実態を知ることができる参考書として「拝見・武士の家計簿」(磯田道史・
 NHK)という平易な解説書がありました。幕末のある加賀藩士が几帳面に付けて
 いた「家計簿」を解読して、その生活ぶりを再現したものです。

 江戸末期の1両は、今の価値に直すと約25万円。1両で米1石が買えたといいますから
 百石は約2500万円ということになります。この年収なら相当裕福な生活!ということに
 なりますが、実態はかなり違っていたようです。藩によって多少の違いはありますが、
 実際に百石がすべて収入にはなりません。五公五民あるいは四公六民ですし、熊本藩
 では、知行百石で18石の手取り(文化年間)だったという記録があります。これだと
 年収約500万円。贅沢しなければ何とかなりそうな・・・

 でも武士、特に下士はそうはいかなかったようです。武士としての格式を保つための
 費用(身分費用)が相当必要でした。藩から支給される俸禄は、もともとは「いざ鎌倉」
 というときのための「軍費」の意味合いが強い。家来や使用人への支出、親類縁者との
 付き合いの支出、先祖供養など寺社への支出などでかなりの赤字だったようです。また、
 江戸詰め(単身赴任)を命じられると、多少の手当ては出るものの、二重生活でさらに
 出費が増えました。何となく現代の生活と似ていますね。この辺りの詳しい分析は、別途
 「宇野ルーツだより」(印刷版)で紹介します。

  先日、晩秋の北大キャンパスを歩きました。写真はクラーク会館です。
  しっかり冬の装いの女性を多く見かけました。

速報・初雪

2010-10-27 19:02:10 | 日記
 今朝起きてみると、一面真っ白。昨日から降った雪が10cmくらい積もっていました。
 これから天気は回復に向かう予報ですから、この積雪もいったん消えることでしょう。
 根雪となるのは、もう少し先になりそうです。皆さま、どうぞ暖かくしてお過ごしください。

  手稲山(1024m)も真っ白。雪が朝陽で輝いていました。

囲碁はスポーツ!?

2010-10-21 19:58:21 | 日記
  秋晴れの一日となりました。峠からは雪の便りのこの頃ですが、
 平地ではまだのようです。それでも朝は冷え込むので、ストーブをつけています。
 宇野ゆかりの皆さま、お変わりはありませんか?

 囲碁を覚えたのは、いつでどんなきっかけだったのか、今では思い出せませんが
 かなりのキャリアの割にはなかなか上達しません。継続的に勉強していないこと、
 実戦の機会がなかなか持てないことが要因かと思っています(素質もない?)。

 それでも囲碁番組を見たり、新聞棋戦を調べたりはしていて、なかなか面白い。
 スポーツ(運動)と違って年齢や体力に関係なく楽しめるところがいいですね。
 ところが、この囲碁がスポーツの一つという位置づけになりつつあるというの
 ですから驚きです。

 この11月に中国で開催されるアジア大会で囲碁が正式種目となりました!
 「頭脳スポーツ」であるという認識です。囲碁がさかんなアジア地域ならではと
 思います。欧米でも愛好家が増えてはいますが、やはり中心は日本・中国・
 韓国などのアジア諸国。近年は韓国・中国勢が強く、日本の棋士はなかなか
 勝てません。

 その日本勢もアジア大会に参加します。キャプテンは旭川出身の山下敬吾天元。
 天才少年もいつの間にか32歳。本因坊のタイトルも獲得して「本因坊道吾」と
 名乗っています。名実ともに日本を代表する「選手」です。男女10名のプロ
 棋士からなる日本代表の愛称は「知恵の和ジャパン」。是非とも金メダルを
 持ち帰ってほしいものです。

 平安貴族、特に女性のたしなみのひとつだった囲碁は、江戸時代になって武士に
 引き継がれ発展しました。囲碁は地(陣地)を取り合ったり、相手の石を取る
 (殺す)ゲーム。領土争いがひと段落した時代、盤上での陣取り合戦が武士の
 気風に合っていたのかもしれませんね。

 北海道は囲碁が盛んな地域のひとつ。山下天元はじめ、小林・依田九段など
 トッププロが多くいます。熊本はどうでしょうか、詳しく調べてはいませんが
 タイトルホルダーはいない? かもしれません。江戸時代、宇野家の人々も
 囲碁に興じていたのではと想像しています。

  中島公園では紅葉が進んでいますが、今夏の猛暑のせいか、遅れて
  いるようです。そんな中、ナナカマドの実が赤くなっていました。

黒船来航と宇野

2010-10-14 21:36:38 | 日記
  朝は冷え込みましたが、秋晴れの一日でした。天気は下り坂です。
  明日の朝の予想気温は7℃。ストーブを点けなければなりません。宇野ゆかりの
  皆さま、体調の管理にはお気をつけください。


  宇野家の先祖付けを読み返していて、黒船来航時の動向が分かる記述があることに
  気が付きました。アメリカ合衆国の使節ペリー率いる艦隊が浦賀沖にやってきたのは
  嘉永6年(1853年)6月のことでした。この時、熊本藩にも幕府から警備が命じられて
  いました。本牧付近(今の横浜市)をはじめ、11月には猿島台場・観音崎台場などを
  担当しました。この時期の宇野家の様子について、先祖付けには、次のように記され
  ています。

  宇野貞雄、弘化2年(1845年)4月、16歳で父の知行の内130石を下し置かれ、御留守居
  御番方。嘉永6年(1853年)11月、江戸において御用の儀あり、組置きにて出府。相州
  御備え場詰と差し越され候ところ、同7年(1854年)11月、罷下る。

  相州とは相模国、つまり今の神奈川県のこと。ペリーの艦隊は引き揚げていたものの
  再来に備えて、幕府は警備を強化したのです。熊本藩からも総勢1600人余が台場の守り
  などに当たりました。この中に宇野貞雄さんもいたのです。24歳の青年でした。1年間
  お勤めしていたのでしょう。「龍馬伝」のドラマの中で、沿岸から黒船を見て感動する
  龍馬が登場していましたが、ほぼ同時期に宇野貞雄さんも、同じ場所にいたのですね。

   朝焼けに染まる手稲山です。もう間もなく頂上付近は白くなるでしょう。

因果応報

2010-10-07 19:41:58 | 日記
 
 よい天気の一日でした。ここ数日、20℃くらいの安定した天候が続いています。
 宇野ゆかりの皆さま、いかがお過ごしですか?

 ルーツ探索を続けていると、さまざまな事実に出合いますが、中には意外な事も
 あります。また、ご先祖の嫌なこととも向き合わなければならないことも・・・

 「因果応報」という言葉があります。どちらかというと、あまりよい意味では使わ
 ないことが多いのではないでしょうか。一般的には、「過去の善悪が現在の生活に
 影響を与え、現在の善悪が未来の生活に影響を与える」というような意味かと思い
 ます。人の一生の中で、善行を積めば、いつか幸せなことが返ってくる、その逆も
 ある、というのです。

 この「因果応報」をさらに広げて、ひとつの家系で考えてみると、どうでしょう。
 ご先祖の善悪が、現世の善悪に反映し、さらに来世の善悪に影響を与える。今の
 自分があるのは、ご先祖がいたからであることは間違いありませんが、今の境遇
 までご先祖の善悪でしばられていると考えるのは・・・?

 運命論や前世というものも、にわかには信じられませんが、ルーツ探索をしている
 と、「おや、似た境遇のご先祖だなぁ」と感じることはあります。小さい時に親と
 死別・離別していたり、比較的若くして亡くなっていたり・・・偶然とは思えない
 こともあります。ずっと同じ血(遺伝子)を受け継いできたのですから、外見や
 罹る病も似てくるのかもしれません。また、何かの岐路に立った時の対処の仕方・
 考え方も似るのかもしれません。それが「因果応報」のもとだと言われれば、そう
 かもしれないとも思います。だとしたら、ルーツ(ご先祖の生きざま)を知ることは
 ますます大切です。その過去に学ぶなら、同じ過ちは繰り返さず、未来に手渡す
 ことができるのではないでしょうか。なかなか難しいことではありますが・・・

 
 昨夜の札幌は、ノーベル賞受賞のニュースで大騒ぎでした。北大出身の受賞者は初。
 一貫して北大で研究したのも異例でした。北大の長年の有機化学や触媒に関する
 研究が認められた瞬間でした。街ではナナカマドの実が赤くなっていますが、葉は
 まだ緑です。全体に紅葉が遅れているようです。