宇野ルーツだより

ご先祖のルーツを探す旅

吉野弘さんの詩の意味

2015-01-31 20:26:20 | 日記
  札幌はまだ荒れていませんが、道東では荒れ模様です。今がいちばん
  厳しい時期ですが、宇野ゆかりの皆さま、どうぞご自愛ください。

 たくさんの印象的な詩を残した吉野弘さんが亡くなって1年が経ちました。
 「虹の足」「夕焼け」「生命は」などなど…国語の教科書にも採り上げ
 られた詩は多いので、皆さんも一度は触れたことがあるのではないで
 しょうか。1926年(大正15年)に山形県酒田市で生まれ、地元の校歌も
 つくりました。

 今、彼の詩が、ますます注目されているといいます。それはなぜで
 しょうか。それは今の社会の情勢と無関係ではないと思います。
 「虹の足」で象徴的に示されたような「他人には見えて、自分には
 見えないものがある」との気づき。また「生命は」で表現された
 「おしべとめしべ」だけでは果たせない役割…仲介する虫や風が
 あるからこそとの指摘。

 ともすると「白か黒か」「善か悪か」「戦争か平和か」などなどと
 安易に判別すること=ニ項対立に押し込めることへの警告があった
 ように思います。「善・悪の一方にその人を押しこめないことだ」
 「正義を振りかざしても本質的な解決はない」との指摘は、いつの
 時代でも通用する真理でしょう。

 それを忘れて?対立・戦争をくり返してきた西洋の歴史とは違う歩みを
 日本はしてきたはずです。少なくとも戦後70年は。それが今回の
 人質事件に見られるような「リスク」を国民全体が背負わされる
 ことになりかねない現実。そこへの漠然とした不安感が吉野さんの
 詩に今一度立ちかえらせているのではないでしょうか。抗争を繰り
 返してきた「西洋文明」とは違う立ち位置があるはず…その意味を
 改めて考えています。

   北大構内のポプラ並木です。ふだんは観光客でにぎわうの
 ですが、真冬のこの時期閑散としています。農場に住みついた
 キタキツネの遊び場となっていました。インターネットの接続
 環境が変わるので、しばらく更新できず、メールもつながらなく
 なります。ご了承ください。

都会のビルは卒塔婆のよう

2015-01-19 22:14:17 | 日記
 やはり真冬らしい天気になっています。積雪は60cm超でしょうか。
 でも「冬来りなば…」で、もう少しの辛抱ですね。宇野ゆかりの皆さま、
 暖かくしてお過ごしください。

 先日のNHKETV「日本人は何をめざしてきたのか」には、石牟礼道子
 さんが登場していました。ご存じの方も多いと思いますが、「苦海浄土
 わが水俣病」と言えばお分かりでしょう。もちろん熊本の方です。

 ほとんどリアルタイムのインタビューが貴重でした。1927年生まれなんで
 すね。私の母とほとんど同世代でした。車椅子での生活のようでしたが、
 声や発言内容はしっかりしていました。その中で、とても印象に残る
 言葉がありました。

 東京に出て座り込みをしていた時に見かけた光景。アスファルトの上で
 一匹のネコが用を足した。砂をかけようとしたが、いかんせんできない。
 それでも本能のままに続けようとする。普通なら馬鹿だなぁ、こんな所で
 と見過ごす場面ですが、やはり彼女の感性はそれを許しませんでした。
 すべての生き物にとって(もちろん人も)生きにくい社会の象徴のような
 一場面。これを感じられる心が水俣にもつながっているのでしょう。

  札幌も200万人に迫ろうかという大都市になりました。「内地」の歴史
  とは違ってわずか150年前には、ほとんど人がいなかった場所です。
  石牟礼さんは「都会のビル群は、まるで卒塔婆のようだ」と言って
  いました。札幌のこのビル群にも何万という人々の生活があります。
  私もそれに埋もれて生活してきましたが、なるべく近郊の自然に触れる
  時間を取るようにしているのは、知らず知らずにに息苦しさを感じて
  いるからかもしれません。

「花燃ゆ」の時代と宇野

2015-01-06 19:32:20 | 日記
  穏やかな年明けが続いていましたが、ここにきてまさかの雨となりました。
 明日以降は雪に変わって大荒れになる予報です。宇野ゆかりの皆さま、どんな
 年明けになりましたか? 今年も健康でつつがなく過ごされることを願っています。

 NHKの新しい大河ドラマ「花燃ゆ」が始まりました。吉田松陰の末妹の文を主人公
 とした幕末の志士たちの人間模様が展開されるようです。果たしてどんな内容になる
 のか…多少の興味はあります。

 彼らが「活躍」した幕末から明治維新にかけて宇野家・緒方家はどうしていたのか?
 比べてみました。

        吉田松陰:1830年~1859年(安政の大獄で刑死)
        桂小五郎(木戸孝允):1833年~1877年(病死)
        坂本龍馬:1836年~1867年(暗殺)
        宇野貞雄:1833年~1879年(病死)
        緒方夫門:1833年~1915年(病死)

 吉田や木戸・龍馬とほぼ同じ時代の空気を吸っていたのは宇野家では貞雄さん、
 緒方家では夫門さんでした。尊王攘夷・倒幕で固まっていった長州藩と比べ、
 細川藩(肥後藩)は徳川幕府に忠実な学校党の勢力が権力を握っていきました。
 そうした中で宇野貞雄さん(病弱?)についてはよく分かりませんが、緒方夫門
 さんは血気盛んな学校党の有力な志士のひとりだったようです。

 緒方夫門さんは慶応2年(1866年)の長州征伐に参加し、小倉口の戦いで「活躍」した
 という記録が残っています。あの長州の志士たちと一戦を交えていたのですね。しかし
 薩長同盟が成立して江戸幕府は滅びました。肥後の学校党の一部の人々は明治の世に
 なっても納得することなく西南戦争へと突き進んでいきました。典型的な「肥後もっこす」
 だったのかもしれません。

 薩長主導で進められた維新がどうだったのか…今となってはその直前には戻れない
 わけですが、再評価しながらこれからの日本の歩みを考える価値はありそうです。
 なぜ今長州(山口)が舞台のドラマなのか、その視点はどうかなど、いろいろと課題が
 りそうですが、時代考証はされているでしょうから、若い宇野・緒方が生きた時代の
 雰囲気を見てみたいと思います。

  若い頃の緒方夫門さんです。いくつくらいに見えますか? おそらく西南戦争直前の
 40歳過ぎではないでしょうか。なかなかのイケメン! 「西南戦争 戦袍日記写真集」より
 引用させていただきました。