「管制塔、こちらアロン。予報にない、軽い乱気流に遭ったが、定刻、1100時に着陸する。現在、神島の南西27キロ地点。誘導を頼む。」
夏の太陽の、ギラギラとした純白の光が、葉巻型の機体の先端にある、操縦室の大きな窓の、銀色に輝く分厚いフレームを、激しく焼いている。叩き出された電子の群れは、その分厚いフレームの近傍にわずかの時間滞在して、オーロラのように淡くゆらめきながら、機体の金属部分に向かって落ちていく。ために、機体前方は、淡い緑のベールに包まれたようでもあり、そのベールの真ん中辺りに、ぽっかりと、操縦室の大きな窓があいている。
機体は今、少しく機首をあげながらゆっくりと降下を始めて、薄い雲のなかへと、浅い角度で侵入していく。太陽の光は、雲によっていくらかは弱められ、続いて機体が大きく左へ向けられると、もはやその分厚いフレームを焼くこともあたわず。代わりに機体は、白いベールのごとくに雲をまとって、はるか彼方の海中へと延びる黒い滑走路へ向け、さらに高度を下げていく。
「客室、着陸準備できてます。」
操縦室のインタホン越しに、客室乗務員との連絡を終えた副パイロットは、初乗務から愛用の帽子をとって、きちっと分けた髪を軽くなでてから、キリッと、帽子をかむりなおす。ベテランの域にある機関士は、自分も真似て、白髪の混じり始めたボサボサ頭をかきあげて見せる。
「さあ、やって見せろよK。」
主パイロットはサングラスを取ると、胸ポケットに収めて自席を立ち、Kと呼びかけた副パイロットを手招きする。「マズイなと思ったら、手を離せ。あとは俺がやるから。なーに、俺も最初は万歳したさ。なぁCさん。」
「そうな。あれは...、いつだったかな。Mさんが寝坊してな。」Cと呼びかけられた機関士は、人懐っこい丸顔にシワを寄せて、うんうんとうなずきながら、Mと呼びかけた主パイロットを、チョイチョイと指で差す。
「あれは参りました。あのときの主パイロットが、誰とは言わんけど、ものすごい酒飲みでさ。こっちは業務があるから、早々に切り上げたんだけど。夜中に2回も叩き起こされたわ。」
Mは副パイロットの席に座り、前を向いたまま、片手をパタパタと振ってみせる。「よし、やろか。自動操縦解除いいか?」
「はい。いつでもどうぞ。Mさん、Cさん、よろしくお願いします。」
操縦桿を2度握り直し、ペロリと舌なめずりをして、Kはその身を、主パイロットの席へと落ち着かせた。ふっくらとした頬に、ひと筋の汗が流れる。「管制塔、こちらアロン。方位307、160ノットで航行中。R21滑走路へ進入許可願います。」
「アロン、こちら管制塔。R21に、2時間遅れのサンバードが、離陸待機中。速度を150ノットに減速してください。」
「管制塔、こちらアロン。了解。150ノット。」
Kはスロットルを少し戻す。Mは無言で、Kが戻したスロットルをちょっと引いてやる。
「こちら管制塔。民間機R1、待機してください。先にアロンを降ろします。サンバード、離陸許可。よい旅を。アロン、着陸を許可します。11時の方向、赤い民間機が見えますか。」
「民間機?」
Kは思わず、その方向を覗き込む。Mが指南する。なるほど、翼の表をこちらへ向けて、ゆっくりと旋回していく、小さな船が確かにある。「管制塔、こちらアロン。ターンアラウンド中の赤い民間機が見えます。着陸許可ありがとう。」
「おいK、忘れてないか?」
機関士のCが、ギアのスイッチの横を、トントンとノックして聞かせる。
「あっ!、えー、タイヤお願いします。」
Kは脇目もふれず、ガッツリ前を向いたまま、生唾を飲んで言った。
「タイヤ。ようがす。」
Cは慣れた手つきで、ランディングギアをおろしていく。「はい...。O.K.確認。で、どうする?」
「着陸前の最終確認いきます。方位307、150ノット。高度よろし。滑走路クリア。エンジン、」
「いいよ。」
「油圧、」
「O.K.」
「燃料、」
「規定どおり。」
「衝突防止灯、」
「オン。」
Kは、客室と、自分のインカムとをつなぐボタンに、指をかける。が、なかなか押せない。時間が経つほど、頭のなかが真っ白になっていく。えい!とばかりに、Kは指先が白くなるほど、ボタンを押し込んだ。
「乗客のみなさま。ふ...、機長のKと申します。当機はこれより着陸態勢に入ります。客室乗務員の指示に従って、今一度、シートベルトをご確認ください。安全のため、機体が停止したあとも、着用サインが消えるまで、シートベルトはお外しにならないよう、お願いいたします。到着空港の天候は晴れ、気温は45℃となっております。では。みなさまの旅のご安全を、乗務員一同、心より願っております。」Kは、振るえる、汗ばんだ指で、客室とインタカムとの接続を切る。
「うまいもんじゃないか。」
Mがおだてる。「じゃあ、やろうか。フラップ。も少し戻していい。上昇気流がけっこうあるから。うん、そうだ。タッチ。」
「タッチ。スロットル中立。逆推進かけます。」
Mがそう言うのと同時に、ボスンと、大きな音はしたものの、跳ねることはなく、機体は無事、滑走路へと降り立った。「管制塔、こちらアロン。誘導路3で、乗降口7番へ向かいます。」
「アロン、こちら管制塔。お疲れ様。誘導路3で、先着のアンバーが、乗降口8番へタキシング中です。」
「了解。お疲れ様です。」
誘導に従って、Kは牽引車に機体をつけ、愛用の帽子を取って、腕で額の汗を拭う。
「まあ、最初にしては。」
Cは、書類にペンを走らせながら、Kの顔も見ずに言う。
「戻しが遅いんだ。そうすりゃ、あんな音もしなくて済む。」
Mは、Kの顔をみながら、片手で操縦桿を少し引き、それから押して見せる。「ゆっくりな。帰りもこの面子だろ?」
Cはちょうど、書類にチェックをつけ終えて、そうだという返事のつもりで、ペンの尻を、ポンと、操作パネル付属の小机に打ちつける。カチッと、ペンの芯が引っ込む。足元の書類カバンにペンを投げ入れ、Cは立ち上がって、書類をひっつかむと、「では4時間後にお会いしましょう。」歌舞伎の台詞のように抑揚をつけて言い、背中越しに手を振って見せた。
夏休みの空港は大混雑で、入るにせよ出るにせよ、ひとの流れに逆らうことなどできそうもない。市民会館での収録を終えて、売れっ子芸人のJは、このあまりの混雑にヘソを曲げてしまい、付き人がなかば力づくで道を拓いてゆくなか、ソフト帽はずり落ちるにまかせ、ズボンのポケットへ両手を突っ込んでしまい、口を尖らせて天井を仰ぎながら、ズカズカと歩いていく。道行くひとびとが、Jに気づいて歓声をあげるが。しかしJは、ソフト帽を斜めにして顔を覆ってしまい、群集の波へと潜り込むようにして背をかがめ、一向、応える様子はない。
「もうすぐ手荷物検査所ですJさん。」
付き人は、かき分けた群集に小突かれながら、メガネが曲がろうが、髪がグチャグチャになろうが、ひるむことなく突き進んでいく。
「おぅL、なんじゃい、このひとの波は。」
ソフト帽で顔を隠したまま、Jは、Lと呼びかけた付き人に、腹いせまがいの悪たれをつく。
「夏休みですから、どうしようも...。痛ぇなこの野郎!」
Lは、したたかに頭をはられて、畜生とばかり、両手を振り回して群集にはたき返す。メガネなどは、当の間になくなった。
「いやそうじゃねぇ。なんでこんな時間に俺を連れてきたって言ってんだ。聞いてんのかバカヤロウ。」
Jは、応戦するLの背中を、ソフト帽でパンとはたく。Lはビクリとして手を止め、恐る恐る、Jのほうへ体をよじる。と、Jの上着の胸ポケットが、ブイブイと鳴り出した。Lは、アッという汗だくの顔のままで、Jの胸ポケットを凝視する。
「なんじゃい。この忙しいのに...」
Jはその場にすっくと立ち止まって、胸ポケットから華麗に携帯を取り出す。ひと目、表示された電話の主の名前を見るや、Jはほとんど、直立不動の姿勢に直った。「はい。お疲れ様です。お世話になってます。」Jの体が、自然とお辞儀をしていく。「え?乗るなって...。間に合いませんが。」すっと体を起こし、Jは、相変わらず自分を凝視している、Lの顔を見やる。「はい!すみません。ありがとうございます。では明日の便で。はい。失礼します。」
付き人Lは、Jを凝視したままで、口までポカンとあけてしまい、背中をはたき返してくる群集の勢いに押されまいと、ただ足だけは、振るえるほどに踏ん張っている。
「おい、戻るぞ。今日は泊まりじゃ。」
ソフト帽をグイと頭に押し付け、Jは片手を上着のポケットに突っ込んだまま、群集に向かって、退けと手振りをする。Lは、Jの脇をギリギリすり抜けて、また砕氷船をやりだす。
「乗るなって、どういうことじゃい...」
Jは、ソフト帽を片手に取り、さっきのように顔を隠して、その帽子のなかで、いぶかしげに呟いた。空港内のアナウンスが、登場手続きの開始を告げる。
「これより、手荷物検査を、開始いたします。ご登場の、お客様は、出発時刻の、45分前までに、手荷物検査を、お済ませになり、搭乗口、7番付近で、お待ちください。」
潮風が、海鳥の群れを押し流し、遠くから、黒く煙ぶる厚い雲を、こちらへと引きずり寄せる。カーキ色の作業服に身を包み、Uは、おもむろに、ティアドロップ型のグリーンのサングラスを取って、彼方の黒い雲を、さも迷惑そうに睨みつける。Uの背後で、同じくカーキ色の作業服を着、同じサングラスをかけた数人の作業員らが、あおりをさげたトラックの荷台の、緑色の幌をたたみにかかる。その下から、目の覚めるようなオレンジ色の機体が現われ、作業員らは続いて、固定用のワイヤを外しにかかる。
「天気屋め。また適当なこと言いやがって。」
Uは、忌々しげに呟いて、サングラスをかけなおす。トラックを振り返り、無言で、片手の人差し指を、クルクルと小さく回して見せる。作業員の1人が、トラックの後ろ側、オレンジ色の機体の機首の下へと潜り込み、腕を大きく回しだす。その動きに従い、ウインチのカチ、カチという音が聞こえ、機体の機首が、ゆっくりと持ち上がる。その動きが止まるのを見極めて、Uはまた無言で、人払いをするような仕草を見せる。そして自分も、作業員らとともに駆け出し、かねてから停車してある、オフロード車の陰へと身を隠した。作業員の1人が車のドアを開け、なかから無電のマイクを引き出し、Uに差し出す。
「タイタン。」
Uはそれだけ言うと、マイクの送信スイッチを離し、無電の向こうからの返信を待った。
「あの雲は何だ。」
上下の周波数をフィルタでカットされた、薄っぺらなしゃがれた老人の声が、スピーカーから再生される。「上空は青いか?」
「はい。」
Uは、要点だけを伝え、自分がタイタンと呼びかけた、しゃがれた老人の声を待つ。
「よろしい。塗装は完璧かな。」
かすかにカランと、グラスのなかで氷が踊る音がした。
「はい。」
Uは、片手でサングラスを外し、今のところ雲ひとつない、頭上の真っ青な天蓋を見渡す。
「乗客に、目撃してもらわねばならん。それには補色がいいだろう。」
老人は口を閉ざし、何かがパカリと開かれる音が、それに続いた。「時間だ。」
バシュッ!という鋭い音とともに、トラックの運転席を反射板として、オレンジ色の機体が、一直線に空高く飛び立つ。Uはその姿を見送って、再び無言で、人払いの仕草をする。作業員のうち2人がトラックへと駆け戻り、残りの作業員らとともに、Uはオフロード車へと乗り込んだ。沖合いには、2艘の警戒艇が見える。合同演習と称して、連中だけがその沖合いへと駆りだされてきたのだ。同じ色の標的機を積んで。順調だ。Uはかすかに微笑む。そしてまた無言で片手をあげた。オフロード車が動き出し、それを見て、トラックが動き出す。そして、どこへともなく走り去った。
「管制塔、こちらアロン。誘導路3で、出発待機位置へ移動します。」
副パイロットのKが、主パイロットの席についている。副パイロットの席についたMは、もうサングラスをかけてしまい、頭の後ろに両手を回して、Kと管制とのやりとりを、黙って聞いている。機関士のCは、ひとつ大きな欠伸をして、計器の数値を一通り眺め渡す。
「アロン。こちら管制塔。識別装置を274にセットしてください。先発のカッパが、機材トラブルで運休しました。そのまま滑走路へ侵入してください。」
「へぇ。あの会社がトラブルなんて、めずらしいね。」
Mは上体をひねって、Cの顔を見やる。「あれは戻りだから、あっちでも運休だな。こりゃ、うちにもシワ寄せが来るわ。」
「管制塔。こちらアロン。識別装置を274にセット。牽引車が外れ次第、離陸位置につきます。」
Kは慣れた手つきで、識別装置のテンキーを叩く。
「ほほぅ。調子を戻してきたようだな。」
Cは身を乗り出して、Kの手さばきに見入る。「よし、牽引車外れた。前輪のロック解除を確認。」
「こちらも確認。動きに問題なし。」
Kは足元のペダルを左右に踏み分ける。「エンジンスタート。」
「1番、2番、3番、始動を確認。問題ない。」
Cはパネルの数値を指で追う。
「管制塔。こちらアロン。離陸位置につきます。」
Kはスロットルに手をかけ、1度離して、ギュッと手を握り、再びスロットルに手を置く。「汗がすごいや...。離陸位置。滑走路クリア。」
「緊張するな。大丈夫だ。」
Mは操縦桿に軽く手を置き、Kに微笑みかける。「降りるほうがよっぽど難しいぞ。」
「アロン。こちら管制塔。離陸を許可します。現在のところ、付近に乱気流の報告はありません。よい旅を。」
「管制塔。こちらアロン。離陸します。ありがとう。」
Kはひと息大きく吸い込むと、スロットルを握る手に力を込めた。「推力87%。ブレーキ解除します。」
「ここの滑走路は、十分に長さがある。じっくりやれ。」
Mは、滑走路の端にたなびく吹流しをチラリと見て、右足のペダルを少し踏み込んでやる。「お前は操縦桿に集中しろ。尾翼は俺がやるから。」
「すいません。離陸します。」
Kは上体を使って、ゆるやかに操縦桿を引く。機体もそれに従い、ゆるやかに滑走路を離れる。「ギアお願いします。」
「ほい。ギア格納。確認。衝突防止灯も消すわ。」
Cはポンポンと、年季の入った手つきで、確実に消灯していく。「ん?Mさん、2時の方向に、何か見えんか?何じゃろね。」
「民間機かな。派手な色していやがる。」
Mはサングラスを外し、頭を少しく乗り出して、そこらを凝視する。「遠いな。平行して飛んでるだけだ。K、一応、管制に報告しとけ。」
「はい。管制塔。こちらアロン。」
Kは、そちらを見る余裕まではなくて、前を向いたまま、計器に目を配りつつ、口だけ動かして管制塔と通信する。「現在、神島付近を、方位163で航行中。当機から見て2時の方向に、当機と平行して、民間機か何か飛んでいるようだ。そちらで確認できますか?」
「アロン。こちら管制塔。本日、1430時から、海上で、イ軍との合同演習が行われている。機体はその標的機と思われます。機体の色を確認できますか。」
「管制塔。オレンジだ。よく見える。」
MはKに目配せして、通信を代わった。「現在のところ、当機やほかの便に危険はないと思われる。以上、報告まで。」
「アロン。こちら管制塔。間違いないです。こちらも監視を続ける。」
「巡航速度。自動操縦に切り替えます。」
ハァッと、Kは溜め息をして、操縦桿を離れ、背もたれに体を沈めた。それから席を立って、操縦室の窓のきわ辺りに見える、遠くの点のようなオレンジ色の機体に目を凝らした。
その時、ガーンという、大きいがくぐもった音が、機体の後ろのほうから聞こえてきた。聞こえてきたというよりは、響いてきたと言うほうが近いかもしれない。
「何だぁ?ぶつかった?」
Cの顔は、風船がありったけ膨らまされた時の、表面の絵みたいに、目も鼻の穴も口も、のっぺりと開ききった締まりのない顔になって、パネルの数値全部を2回、3回と、まばたきもせずに見渡す。幾粒かの冷や汗が、額から頬から、鼻の先から、ポタリと垂れる。そしてパクンと口だけは閉じて、Cは残りの目と鼻の穴とで、別になんともないという、解せない感情をKに伝えてくる。
背後のドアの脇にある、客室からのインタホンが鳴った。3人全員が、反射的にインタホンのほうへと身をよじる。すでに席から立ち上がっているKが、ひと息早く動き出して、MとCとが固唾を呑んで見守るなか、インタホンを取りに向かう。Mは、副パイロットの席を立って、主パイロットの自席に戻ろうと、片手だけで、何か体の支えを探そうとするが。しかし、本来あるべき何かが、そこにない。Mは自分の手元を見て、息をするのさえも忘るほど、それを凝視した。もしもこれが夢でないなら、機体は今、ものすごい速度で急降下しており、自分たちは操縦室の天井で、身じろぎすらもできなくなっているだろう。
「Cさん、駄目だ。スカスカだ。」
Mの、にわかにかすれた声を聞いて、Cはその顔のまま、操縦室の前方へと体を戻す。そしてまた、口をあんぐりと開け放った。操縦
桿が、見たこともないほど、前方へと倒れこんでいる。Mが自席の操縦桿を、前へ後ろへ、右へ左へと動かすけれども、副パイロットの席の操縦桿は、ピクリとも動かない。まったく連動していない。「こんなこと...」
「Mさん、さっきの音で、酸素マスクがいくつか客室に出たそうです。」
ドアの脇のインタホンで、客室乗務員とやりとりしていたKが、顔だけ横へ向けて、状況を話す。「もやのようなものも、一時出たようです。その後は何もないとのことです。」
「分かった。こちらからアナウンスするって伝えて。Cさん、警告灯はつけたままで。」
Mは、自分の長いパイロット人生を振り返ってみても、まったく記憶にないこの操縦桿のありさまと、機体の現在の状況とのちぐはぐさとが、自分のなかで結びつかないまま、それでもまず乗客を安心させることだと、客室とインタカムとの接続スイッチを押そうとするのだが。しかしさすがに、何と言ったものか。ひと筋の汗が頬を流れる。ほんの数秒ではあったが、Mは頭痛がするほどの大量の記憶が、頭のなかで長い間、黒い渦を巻いたように思った。客室とインタカムとの接続スイッチを押す。
「乗客のみなさま。機長のMと申します。当機はさきほど、予報されていなかった、小規模で急激な乱気流に遭い、その際、機体後部のみが、乱気流に巻き込まれたために、前後に大きな気圧差が生じて、その解消にあたって、あのような大きな音が生じたものと思われます。一部の酸素マスクが、その音を振動として感知してしまい、誤動作しておりますが、当機の運行に支障はございません。どうぞ安心して、機内サービスをお楽しみください。なお、今後も同様な乱気流が発生する可能性がありますので、警告灯が消灯しますまでは、お席でシートベルトをご着用くださいますよう、お願いいたします。」
Mはインタカムのスイッチを切るなり、振り返って、Cの、ようやく元に戻ったその顔を見つめた。「スコーク77出そう。マニュアルに載ってないことが起きてるんだ。大体、油圧の警報すら鳴らないってのは、なんでだ?」
「わたし...」
Cが、定まらぬ目線のまま、誰に言うとなく、ぼそりと言った。「わたし、あの音、聞いたことがあるんや。若い頃、新品の油圧ポンプぶっ壊して、教官にえらく叱られた。嫌な音やった。わたし、閉めちゃいけないバルブを、一気に閉めてしもうたんや。」ちょっと間があって、Cは、確固たる目線を、Mの顔へと投げた。「油撃の音や。間違いあらへん。」
海岸はすでに、黒く厚い雲に覆われて、方角を変えた冷たい風が、沖から高波を吹き寄せ、その先の砂浜に停車する、オフロード車の脇で立ち尽くすUの、清く刈り上げられたウナジを、荒々しくなでていく。両手で、大きめな双眼鏡を支えて、Uはもう10分も、直立不動の姿勢で、内陸の、まだ美しく青く晴れ渡る空の一角を凝視していた。オフロード車のなかから、カーキ色の作業服の手が伸びて、Uに無電のマイクを差し出す。Uは差し出されたマイクを取り、代わりに双眼鏡を渡す。
「タイタン。」
Uはまた、それだけ言って、老人からの返信を待った。風は強さを増して、オフロード車のフロントガラスに、細やかな水滴を残す。
「君の打ち上げた中継機は、順調に働いておるよ。まだ自動操縦の段階だが、逐一、機体の情報を送ってくるそうだ。」老人の声はそこで途切れ、ガサガサッと、数枚の紙が擦れ合う音がした。
Uは、大きくなってきた雨粒を見上げて、オフロード車の後部座席へと身を隠す。ほとんど同時に、ポンポンと、大粒の雨がオフロード車の屋根を叩きだす。車内に座ってもなお、Uは姿勢を崩さない。運転席の、ハンドルを両手で抱え込んでしまっている作業員の姿とは、対照的だ。スピーカーからは老人の、今度は打って変わった、メリハリのある声が届く。
「聞いたかね。もう、スコーク77を宣言したそうだ。予定よりも、ずいぶんと早い。機長はなかなか、頭の回りがいいようだな。」ふふんと、老人の笑い声が聞こえる。ご機嫌よろしく、お楽しみのようだ。「最小限の装置しか詰めない。市街地周辺では、アマチュア無線家の耳もある。であれば、中継機をそばへやって、そこから強い電波を出せばよい、という私の発想は、完璧だったわけだ。」
「おめでとうございます。」
Uは、顔色ひとつ変えず、身じろぎもせずに、ただそうとだけ、マイクにしゃべった。
「ありがとう。では、本題に入ろう。君たちはもう引きあげたまえ。今晩、私と夕食を楽しもう。祝ってくれるかね?」老人は、スピーカーの向こうで、パチンと指を鳴らす。
「喜んで。」
Uはただ、そうとだけ言った。
「ありがとう。いい宿を手配した。そこで夕食をともにしよう。」
ふふふふという、老人の笑い声が、途中で途切れる。Uは、前の席でハンドルを抱え込んでいる作業員の肩を、ポン、ポンと、ゆっくりと2度叩いた。車はUターンし、海岸沿いの街道へ乗り入れる。そのまま、ライトも点けずに、どこへかと走り去った。
地上はるかな、上空1万2千メートルの真っ青な天蓋のなかを、オレンジ色の小型機に追尾されつつ、音速の80%で巡航する機体アロンは、スコーク77を宣言してからも、しばらくの間は自動操縦のまま、安定して飛び続けた。これは、新手のハイジャックだという理解が、Mたち3人の間の、共通の理解となりつつあった。すでに幾度となく、管制塔との通信を試みてはきたものの、現在まで一切、連絡がとれていない。VHF帯もHFも帯も、機器自体に故障の兆候はないものの、管制塔はおろか、付近を航行中の他の航空機とも、まったく通信できない状況にある。にもかかわらず、垂直尾翼の真上についているGPSは、なおも正常に、機体の位置を刻々と画面上に表示し続け、同様に、垂直尾翼の斜めの稜線に沿って設けられた、HF帯のアンテナは、依然として、故障の警報を発しないままでいる。
「なぁCさん、本当に、そんなことが出来るのかい?」
Mたち3人は、操縦席の床にあぐらをかいて座り、Cが床に広げた、ひと昔前の航空機の油圧系統図を、じっくりと眺めている。
「分からんな。少なくとも、整備会社の協力は必要やろな。」
Cは人差し指を出して、油圧系統図の垂直尾翼の真下、圧力隔壁の裏側に走っている、まとまった配管部分に、ゆっくりと丸を描いて見せる。「ここ以外にないな。ワイヤは先に切断しておくんや。あんなもの、定期検査でしか使わんわ。前回わたしが見た時には、問題なかった。ここもあるけど。」Cは、操縦室の次にある、客室乗務員が乗客の食事を手配する区画の真下に、また、人差し指で丸を描いた。「ここは、せんやろと思います。」
「どうしてです?そっちのほうが空間は広いですよね。」
Kが身を乗り出して、Cの人差し指が描く輪のなかをのぞき込む。「作業するにしても、配管なんかの取り回しがいいでしょう?。キッチンの床下にハッチがあるから、ひとの出入りも楽です。」
「だからや。」
そうCに言われて、Kは不思議そうな顔を、Mに向ける。Mはうなずく。
「つけやすいってことは、はずしやすいってことでしょCさん?」
Mは面白そうに、Cの顔を覗き込む。
「ご名答。」
Cは、パネル付属の小机の上から、メモ紙とペンとを取って、自分の前へ置く。「つまりや。こう、元の系統へ割り込んでる装置があるっちゅうわけや。こいつが、操縦室と翼やエンジンとの間に割り込んで、操縦室の油圧をみんな飲み込んどる。油圧とは言うけどな。操縦桿とかペダルとかの油圧は、倍力装置につながってて、その倍力装置が、実際には翼やエンジンスロットルを動かす。工学で習わんかったか?」
「知ってます。知ってます。」
とってつけたように、Kは生返事を返す。「先を聞かせてください。」
「ほんとか。ちゃんと勉強したんやなぁ。わたしはちっともしなくて、現場で見たのがお初やったわ。」
Cは笑って、話を続ける。「でな、自動操縦の間は、倍力装置を機械のほうで使ぅとるから、こっちがドロップしても、ちゃんと飛んでくれるわな。倍力装置から先の油圧が落ちれば、警報が鳴るし、数字も出る。それやから、こっちが自動操縦入れるまで、待っとったんやろね。倍力装置は重くて大きいから、この機体では、尾翼の下にある。尾翼のエンジンから、最短距離で電力をもらうこともできるしな。」
「そこへ行って、バルブを開けてくればいいわけだな?」
Mは腕組みして、垂直尾翼の辺りの配管図を、じっと見つめている。「これは、一筋縄ではいかんぞ。」
「そうですね。」
Cはまた、人差し指を出して、その配管の下にあるハッチを、トントンと指し示す。「外からしか入れんのよ。客席からやと、圧力隔壁の向こうになる。」
「できるとしても、客に多大な不安を強いることになる、か。」
うーむと、Mは腕組みしたままでうなる。ブィン、ブィン、ブィンと、警報が鳴り渡る。
「自動操縦解除?なんで?」
Kは立ち上がり、自席へと座り込む。操縦桿は相変わらず、飲んだくれのように、前方へと倒れ掛かったままだ。引き起こしてみても、何の手応えもない。機体が穏やかに、左へ、右へとロールし始める。2本の操縦桿の間、そのなかごろにある、自動操縦のスイッチをいじってはみるが、やはり反応はない。Kはめまいを感じて、ふっと、目線を落とした。目線の先にあるスロットルレバーが、じんわりと動いている。「Mさん!スロットルレバーが勝手に!」
Mは、スロットルレバーに飛びついて、その動きを止める。「確かに、誰かが動かしてるな。手応えを感じるわ。」
「ははぁ。」
Cはそれを見て、この機体の型式特有の現象だというのを、思い出した。「フィードバックが強い機体やから、逆に操作できるかもしらん。」
「おいK、やってみようぜ。」
Mは、床へ座り込んで、左のスロットルレバーにとりすがる。Kも席を降りて、Mの右に座り込む。「お前は推力上げろ。俺は下げるから。少しだぞ。Cさん、機首、見ててくれ。」
「任せとき。」
Cは、目の前のパネルの、エンジンの推力計の数字をチラチラと見ながら、操縦席の画面にも注意を向ける。
「よし、いけっ!」
Mの掛け声ととともに、Kはスロットルレバーを引きにかかるが、思いのほか、フィードバックのほうが強力で、普通に引き負けてしまう。MはMでもう立ち上がってしまい、組み合った相手の両手をねじ伏せるような格好で、すごい形相でスロットルレバーを押しにかかっている。
「左、推力6%減。右、変わらず。」
Cは、目の前のパネルの数値を概算しながら、操縦席の画面に目を戻す。その中央辺りに見える大きな十字が、ゆっくりと左へロールしていく。「Mさん、駄目や。相手が翼で対抗しよる。」
「クソッ!」
Mは肩で息をしながら、その場へとひざまづく。2人の目の前で、まるで余裕とでもいう感じで、スロットルレバーがゆっくりと元位に戻っていく。「まあ、これで、相手の存在が、確実にはなったな。」
「機械には勝てんか。」
Cは、パネル付属の小机に片ひじをついて、深いシワの寄った額を、親指と人差し指とで支える。「倍力装置自体が、まるっと、そういう用向きに改造されたものと、交換されたんか。それとも、倍力装置に、別の装置がついてるんやろか。それなら、フィードバックが生きてるわけないなぁ...」
「そういや、おまえ、帽子は?」
Mは、フゥと、深い吐息をして、床に座ったまま、両手を後ろに突っ張る。操縦席の天井をいろどる、緑や黄色や赤の小さなランプ類が、現状に対して的確な配色になっているのを、Mは見て取った。とりあえず、落とす気はないようだ。「昼も、あの帽子で気合入れてたろ。なかなか似合ってたぞ、K。」
「あれ、忘れてきちゃったんです。仮眠室に。」
Kは、Mの横にあぐらをかいた。「髭剃りと、じゃがいもパッキリも。まだ半分も食べてないのに...」
「おまえアレ好きだな。」
Mは操縦席の画面を見つめながら、フッと、微笑んだ。「帽子と、髭剃りと、じゃがいもパッキリか。組み合わせがよく分からんな。」
「大事なものは、別に、ポーチのなかへ入れてたんです。それごと...」
Kの向こうの青空が、ゆっくりと、大きく左へ傾き始める。彼方の地平線が、端から、水平線に変わっていく。真っ青だった真夏の空が、髭剃りのムースのような雲に、下半分を覆われていく。
「K、乗務員を席につかせてくれ。」
Mは自席に戻って、駄目もとで、いくつかのスイッチ類をいじり始める。「何をやるつもりだ?」
Kは無言でうなずくと、ドアの脇のインタホンを取り、呼び出しボタンを押す。「客室乗務員を席に戻して、念のためシートベルトを着用させてください。そうです。気流を大きく迂回しています。」
「交渉真っ最中っちゅうとこやなぁ。」
Cは、パネルに表示された、エンジン推力の数字を凝視している。「操縦は上手いほうやで。使いかたが民間人やないね。」
「交渉なのか、脅しなのか。」
Mは操縦桿を引き起こしてみた。やはり手応えはない。スカスカなままだ。「この国と、何の交渉をするんだ?カネか?だったら交渉するまでもないわな。」Mは、傾いたきりの視界を、憂鬱な面持ちで、ただ見ている。できることは何もない。無電で呼んでみたが、相変わらずの無しのつぶてだ。せめてラジオでも聞ければ、この事案を、できごとのどこに位置づけるべきかくらいは、分かるだろうに。雲に覆われた視界の下半分が、再び、青一面の空に戻る。彼方の水平線は、地平線に取って代わられた。機体がゆっくりと右へ傾き、水平飛行に戻る。MはGPSの表示を見やる。「グルッとひと回りしたな。K、客室ではラジオが聞けるはずだが。乗務員は何も言ってなかったか?」
「いえ、別に。変わった様子は、なかったです。」
Kは、エンジンスロットルに、手を乗せてみる。今は、動きは感じられない。目の前の画面に、新たな文字が現われる。「自動操縦...。Mさん、自動操縦に戻りましたね。」
えっ?という顔で、Cも画面をのぞきに来る。「ほんまや...。まあ、ひと休みっちゅうとこか、Mさん。」
「でしょうね。」
Mも、うなずいて見せる。「どっちにせよ、我々にとっちゃ、自動操縦だけどな。次に油圧が戻るのか、戻らないのか。」
機体は順調に、目的地への飛行を続けている。Kは、ふと思いついて、この際、操縦桿を引き起こしてみようと、手を伸ばした。たいていの機体は、自動操縦の時、操縦桿を意図的に動かすと、手動に戻る設計だ。
「やめぇ!死ぬ気か?」
Cが、Kの意図に気づいて、座席越しに腕を伸ばし、Kの体を引き戻す。「あちらさんも、ひと息入れてる最中やぞ。仕組み上は、手動には戻らんと思うけどな。こういう場合、もしもは禁物やで。」
ヴィン、ヴィン、ヴィンと、警告音が鳴る。間もなく、3人の目線を、地平線が追い越した。ブブーと、機首角度の警報が鳴り、続いてキンキンキンと、速度超過の警報が鳴り始める。
「これは、駄目かも分からんね...。」
Cが、ぼそりと、呟いた。
昼間の雨に洗われた、透明な夜空に浮かぶ美しい三日月。その青い光に淡く照らされて、300年ほど前に建てられたという城塞が、その荒々しい岩壁を、ひとびとの目に晒している。この一角を宿として利用し始めたのは、127年ほどの昔ともいう。地階には、近代のカレッジ様の、質素な装飾で統一せられた大食堂があり、各界の上位のひとびとが、お忍びで来店する、隠れた人気スポットともなっている。
今、この宿の前に、1台の、場違いとも思われる、オフロード車が来て止まる。夜にもかかわらず、ティアドロップ型のサングラスをした、これもまた場違いと言わねばなるまい、カーキ色の作業服を着た人物が、ひとり、オフロード車の後部座席を降りて、食堂の入口へと続く10段ほどの階段を見上げ、まっすぐに登っていく。と、食堂の両扉が大きく押し開けられ、短めの白髪を真ん中から左右へきっちりと分け、黒縁の丸メガネをかけた細身の老人が、パリッとした、質の良い黒のスーツをしなやかに着こなして、大きく手を広げて、その作業服の人物を中へと招き入れる。
「秘密を守ってくれる、夕食の相手というのは、なかなか得がたいものだ。」
老人は席につき、人差し指を立てて給仕を呼ぶ。「シャブリを。」一礼して、給仕は去る。
戻ってきた給仕は、ナプキンに包まれた白ワインのボトルの銘柄を老人に披露して、封を切り、コルクを老人の手に委ねる。ここでは品質は保証せられており、ために、テイスティングは省かれる。給仕がボトルを傾けると、その口から、わずかに青みを帯びた清涼な酒が、22年ぶりに触れる大気とともに、小柄なワイングラスへと注がれる。
「乾杯しよう。今日のために。」
老人はその華奢な手にワイングラスを持ち、作業服の人物の前へと差し出す。チンと、済んだ音色が聞こえて、老人はさも満足気に微笑んで、最初のひとくちを味わう。「私はね、これを最初に飲んだとき、こんなもの飲めるかと思ったが...。今では、これがないと始まらない。特に暑い夏の夜にはね。」
前菜とスープののち、舌平目を使ったメインディッシュが、おごそかに運ばれてくる。老人は、待っていましたとばかりに、胸のナプキンを整える。
「素晴らしい料理には、それなりの敬意をはらわねば。さあ。君もこの幸にあずかりたまえ。」
老人は、給仕がその肉をサーブしてくれるのすらをも待ちかねたという具合で、最初のひとかけを無心にフォークに取り、口へと運ぶ。味わうほどに、満面の笑みが、老人の顔に満ちていく。「素晴らしい。」素晴らしいと、老人は夢心地で二度呟いた。「今夜はまた、格別だ。ここで君の名前を口にすることができないのが、残念だよ。感謝している。君がわざわざ、指揮をとってくれたお陰だ。」老人は給仕に、相手のワイングラスが空であることを、指差して伝えた。
「ありがとうございます。」
Uはワイングラスを取り、老人にささげる。「あなたのために。」
「ありがとう。」
老人もグラスを取り、お互い、新たなひと口を味わう。「遠隔操作をするにしても、まず機体が健全でなければ、話にならん。と、私がいくら上申しても、聞き入れられなかった。それを君が、専門家の立場で、説得してくれたんだ。それがなければ、今日の成功はなかった。」老人はまたひと切れを口に運び、至福の味わいに頬を染めた。「しかし、あの連中の能力には、たまげたよ。個人であのレベルのことをやり遂げるなんて、恐ろしい連中だ。中継機からの電波が届かなくなれば、同時に、獲得した操縦の権利も失われる。もっと配慮すべきだった。結果的に、苦しみを長引かせることになってしまったからね。」
「もうしわけありません。」
Uはフォークを置き、両手をひざの上へやって、姿勢を正した。
「君の落ち度じゃない。私の考えが足りなかった。」
老人はナプキンで口をぬぐい、ワインブラスに残ったひと口の酒をあおった。「我々は交渉などしない。ましてや、どこぞの三下どものように、金員を要求することなど、けっしてない。ただ、秩序のために奉仕しているだけだ。神を知らぬ連中は、何を恐れるだろう。無敵のひとは、我々の社会に、必ず、破滅をもたらす。その役割は、誰かが担わねばならん。」
ガシャン!と、食堂の窓ガラスが一斉に割られ、黒ずくめの者どもが、夜の海のように押し寄せる。手にフォークを持ったまま、あっけにとられ、ただ呆然と眺める老人の背後に、ひとつの黒い人影が立ち、その首に、ひと太刀のひらめきが走った。
そして、2年の月日が流れた。三十路を過ぎた、片足のない1人の男が、松葉杖をつきながら、山あいの慰霊碑の元へとやってくる。肩にかけたタオルで、吹き出す汗をぬぐう。見上げれば、あの日のような真っ青な空に、ギラギラと燃える太陽が輝いている。
切りもみ状態で、ほぼ垂直に落下する機体のなかで、Mはとある確信を覚え、自分とともに、操縦桿を引き続けた。機体が山あいに落ちかかる。PULL UP の警報が鳴り響くなかで、Mの確信した通り、操縦桿に油圧が通った。Mの怒号が飛び、Cは機関士の席へ這ってたどり着くと、ランディングギアなど、ありとあらゆる機能と技とを繰り出して、逆推力の助けとした。スティックシェイカーが作動して、結果的には、失速して落ちたが。それまでに、燃料はほぼ空となり、機体の炎上は避けられた。Mの操縦桿さばきで、機体は山の斜面を斜めに滑るようにして着地し、木々がクッションになったこともあり、相当数の乗客が生存し得たようだった。しかし、機体を斜面に沿わせようとしたがために、操縦室付近は、突き出た岩と横殴りに衝突して粉砕。Mの座席に押されるようにして、自分は周囲の装置ごと、谷底へと放り出された。異常気象続きで、谷底の川が枯れていなければ、そのまま溺れてしまっただろう。あの唯一助かったという乗務員を、自分は知らない。
慰霊碑の前に設けられた献花台には、多くの花々が置かれ、故人の嗜好品が、所狭しと並べられてある。Kは、肩に下げたカバンから、小さな酒の瓶と、じゃがいもパッキリとを取り出し、献花台に供えた。故人に供えるというよりも、自分は当事者の生き残りとして、今ここに立っているということを、MとCとに伝えたいと思った。会社が呼んだお坊さんが到着し、草いきれのなか、青く澄み渡る真夏の空を背景にして、おりんが鳴り、読経が始まる。自分が生き残りのKであるということを、慰霊碑に向かって叫びたかったが。しかし、今は別人として生きている自分には、許されないことだった。その過程でどれほどのひとの手をわずらわせたことか。そのことを思うと、おのずと口がつぐんだ。ただ涙は止まらず、さしもの燃えるような太陽も、この頬を乾かすことができずじまいだった。
(エンディングテーマ)
三好達治詩 木下牧子曲 『鴎』
※この物語はフィクションです。実在の人物や出来事とは、一切関係ありません。
(余話)
似ている話になったので、時間とかダブったら嫌だなと、調べてみたんですが。書き始めたのが、123便の40回忌にあたる日でした。表題の3時21分は、書き終えたのが今日の午前3時21分だったので。偶然か、はたまた...。犠牲者のご冥福を、改めてお祈り申し上げます。