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おじんの放課後

仕事帰りの僕の遊び。創成川の近所をウロウロ。変わり行く故郷、札幌を懐かしみつつ。ホテルのメモは、また行くときの参考に。

午後3時21分

2025年08月14日 | 読み物

「管制塔、こちらアロン。予報にない、軽い乱気流に遭ったが、定刻、1100時に着陸する。現在、神島の南西27キロ地点。誘導を頼む。」

夏の太陽の、ギラギラとした純白の光が、葉巻型の機体の先端にある、操縦室の大きな窓の、銀色に輝く分厚いフレームを、激しく焼いている。叩き出された電子の群れは、その分厚いフレームの近傍にわずかの時間滞在して、オーロラのように淡くゆらめきながら、機体の金属部分に向かって落ちていく。ために、機体前方は、淡い緑のベールに包まれたようでもあり、そのベールの真ん中辺りに、ぽっかりと、操縦室の大きな窓があいている。

機体は今、少しく機首をあげながらゆっくりと降下を始めて、薄い雲のなかへと、浅い角度で侵入していく。太陽の光は、雲によっていくらかは弱められ、続いて機体が大きく左へ向けられると、もはやその分厚いフレームを焼くこともあたわず。代わりに機体は、白いベールのごとくに雲をまとって、はるか彼方の海中へと延びる黒い滑走路へ向け、さらに高度を下げていく。

「客室、着陸準備できてます。」
操縦室のインタホン越しに、客室乗務員との連絡を終えた副パイロットは、初乗務から愛用の帽子をとって、きちっと分けた髪を軽くなでてから、キリッと、帽子をかむりなおす。ベテランの域にある機関士は、自分も真似て、白髪の混じり始めたボサボサ頭をかきあげて見せる。

「さあ、やって見せろよK。」
主パイロットはサングラスを取ると、胸ポケットに収めて自席を立ち、Kと呼びかけた副パイロットを手招きする。「マズイなと思ったら、手を離せ。あとは俺がやるから。なーに、俺も最初は万歳したさ。なぁCさん。」

「そうな。あれは...、いつだったかな。Mさんが寝坊してな。」Cと呼びかけられた機関士は、人懐っこい丸顔にシワを寄せて、うんうんとうなずきながら、Mと呼びかけた主パイロットを、チョイチョイと指で差す。

「あれは参りました。あのときの主パイロットが、誰とは言わんけど、ものすごい酒飲みでさ。こっちは業務があるから、早々に切り上げたんだけど。夜中に2回も叩き起こされたわ。」
Mは副パイロットの席に座り、前を向いたまま、片手をパタパタと振ってみせる。「よし、やろか。自動操縦解除いいか?」

「はい。いつでもどうぞ。Mさん、Cさん、よろしくお願いします。」
操縦桿を2度握り直し、ペロリと舌なめずりをして、Kはその身を、主パイロットの席へと落ち着かせた。ふっくらとした頬に、ひと筋の汗が流れる。「管制塔、こちらアロン。方位307、160ノットで航行中。R21滑走路へ進入許可願います。」

「アロン、こちら管制塔。R21に、2時間遅れのサンバードが、離陸待機中。速度を150ノットに減速してください。」

「管制塔、こちらアロン。了解。150ノット。」
Kはスロットルを少し戻す。Mは無言で、Kが戻したスロットルをちょっと引いてやる。

「こちら管制塔。民間機R1、待機してください。先にアロンを降ろします。サンバード、離陸許可。よい旅を。アロン、着陸を許可します。11時の方向、赤い民間機が見えますか。」

「民間機?」
Kは思わず、その方向を覗き込む。Mが指南する。なるほど、翼の表をこちらへ向けて、ゆっくりと旋回していく、小さな船が確かにある。「管制塔、こちらアロン。ターンアラウンド中の赤い民間機が見えます。着陸許可ありがとう。」

「おいK、忘れてないか?」
機関士のCが、ギアのスイッチの横を、トントンとノックして聞かせる。

「あっ!、えー、タイヤお願いします。」
Kは脇目もふれず、ガッツリ前を向いたまま、生唾を飲んで言った。

「タイヤ。ようがす。」
Cは慣れた手つきで、ランディングギアをおろしていく。「はい...。O.K.確認。で、どうする?」

「着陸前の最終確認いきます。方位307、150ノット。高度よろし。滑走路クリア。エンジン、」

「いいよ。」

「油圧、」

「O.K.」

「燃料、」

「規定どおり。」

「衝突防止灯、」

「オン。」

Kは、客室と、自分のインカムとをつなぐボタンに、指をかける。が、なかなか押せない。時間が経つほど、頭のなかが真っ白になっていく。えい!とばかりに、Kは指先が白くなるほど、ボタンを押し込んだ。

「乗客のみなさま。ふ...、機長のKと申します。当機はこれより着陸態勢に入ります。客室乗務員の指示に従って、今一度、シートベルトをご確認ください。安全のため、機体が停止したあとも、着用サインが消えるまで、シートベルトはお外しにならないよう、お願いいたします。到着空港の天候は晴れ、気温は45℃となっております。では。みなさまの旅のご安全を、乗務員一同、心より願っております。」Kは、振るえる、汗ばんだ指で、客室とインタカムとの接続を切る。

「うまいもんじゃないか。」
Mがおだてる。「じゃあ、やろうか。フラップ。も少し戻していい。上昇気流がけっこうあるから。うん、そうだ。タッチ。」

「タッチ。スロットル中立。逆推進かけます。」
Mがそう言うのと同時に、ボスンと、大きな音はしたものの、跳ねることはなく、機体は無事、滑走路へと降り立った。「管制塔、こちらアロン。誘導路3で、乗降口7番へ向かいます。」

「アロン、こちら管制塔。お疲れ様。誘導路3で、先着のアンバーが、乗降口8番へタキシング中です。」

「了解。お疲れ様です。」
誘導に従って、Kは牽引車に機体をつけ、愛用の帽子を取って、腕で額の汗を拭う。

「まあ、最初にしては。」
Cは、書類にペンを走らせながら、Kの顔も見ずに言う。

「戻しが遅いんだ。そうすりゃ、あんな音もしなくて済む。」
Mは、Kの顔をみながら、片手で操縦桿を少し引き、それから押して見せる。「ゆっくりな。帰りもこの面子だろ?」

Cはちょうど、書類にチェックをつけ終えて、そうだという返事のつもりで、ペンの尻を、ポンと、操作パネル付属の小机に打ちつける。カチッと、ペンの芯が引っ込む。足元の書類カバンにペンを投げ入れ、Cは立ち上がって、書類をひっつかむと、「では4時間後にお会いしましょう。」歌舞伎の台詞のように抑揚をつけて言い、背中越しに手を振って見せた。

夏休みの空港は大混雑で、入るにせよ出るにせよ、ひとの流れに逆らうことなどできそうもない。市民会館での収録を終えて、売れっ子芸人のJは、このあまりの混雑にヘソを曲げてしまい、付き人がなかば力づくで道を拓いてゆくなか、ソフト帽はずり落ちるにまかせ、ズボンのポケットへ両手を突っ込んでしまい、口を尖らせて天井を仰ぎながら、ズカズカと歩いていく。道行くひとびとが、Jに気づいて歓声をあげるが。しかしJは、ソフト帽を斜めにして顔を覆ってしまい、群集の波へと潜り込むようにして背をかがめ、一向、応える様子はない。

「もうすぐ手荷物検査所ですJさん。」
付き人は、かき分けた群集に小突かれながら、メガネが曲がろうが、髪がグチャグチャになろうが、ひるむことなく突き進んでいく。

「おぅL、なんじゃい、このひとの波は。」
ソフト帽で顔を隠したまま、Jは、Lと呼びかけた付き人に、腹いせまがいの悪たれをつく。

「夏休みですから、どうしようも...。痛ぇなこの野郎!」
Lは、したたかに頭をはられて、畜生とばかり、両手を振り回して群集にはたき返す。メガネなどは、当の間になくなった。

「いやそうじゃねぇ。なんでこんな時間に俺を連れてきたって言ってんだ。聞いてんのかバカヤロウ。」
Jは、応戦するLの背中を、ソフト帽でパンとはたく。Lはビクリとして手を止め、恐る恐る、Jのほうへ体をよじる。と、Jの上着の胸ポケットが、ブイブイと鳴り出した。Lは、アッという汗だくの顔のままで、Jの胸ポケットを凝視する。

「なんじゃい。この忙しいのに...」
Jはその場にすっくと立ち止まって、胸ポケットから華麗に携帯を取り出す。ひと目、表示された電話の主の名前を見るや、Jはほとんど、直立不動の姿勢に直った。「はい。お疲れ様です。お世話になってます。」Jの体が、自然とお辞儀をしていく。「え?乗るなって...。間に合いませんが。」すっと体を起こし、Jは、相変わらず自分を凝視している、Lの顔を見やる。「はい!すみません。ありがとうございます。では明日の便で。はい。失礼します。」

付き人Lは、Jを凝視したままで、口までポカンとあけてしまい、背中をはたき返してくる群集の勢いに押されまいと、ただ足だけは、振るえるほどに踏ん張っている。

「おい、戻るぞ。今日は泊まりじゃ。」
ソフト帽をグイと頭に押し付け、Jは片手を上着のポケットに突っ込んだまま、群集に向かって、退けと手振りをする。Lは、Jの脇をギリギリすり抜けて、また砕氷船をやりだす。

「乗るなって、どういうことじゃい...」
Jは、ソフト帽を片手に取り、さっきのように顔を隠して、その帽子のなかで、いぶかしげに呟いた。空港内のアナウンスが、登場手続きの開始を告げる。

「これより、手荷物検査を、開始いたします。ご登場の、お客様は、出発時刻の、45分前までに、手荷物検査を、お済ませになり、搭乗口、7番付近で、お待ちください。」

潮風が、海鳥の群れを押し流し、遠くから、黒く煙ぶる厚い雲を、こちらへと引きずり寄せる。カーキ色の作業服に身を包み、Uは、おもむろに、ティアドロップ型のグリーンのサングラスを取って、彼方の黒い雲を、さも迷惑そうに睨みつける。Uの背後で、同じくカーキ色の作業服を着、同じサングラスをかけた数人の作業員らが、あおりをさげたトラックの荷台の、緑色の幌をたたみにかかる。その下から、目の覚めるようなオレンジ色の機体が現われ、作業員らは続いて、固定用のワイヤを外しにかかる。

「天気屋め。また適当なこと言いやがって。」
Uは、忌々しげに呟いて、サングラスをかけなおす。トラックを振り返り、無言で、片手の人差し指を、クルクルと小さく回して見せる。作業員の1人が、トラックの後ろ側、オレンジ色の機体の機首の下へと潜り込み、腕を大きく回しだす。その動きに従い、ウインチのカチ、カチという音が聞こえ、機体の機首が、ゆっくりと持ち上がる。その動きが止まるのを見極めて、Uはまた無言で、人払いをするような仕草を見せる。そして自分も、作業員らとともに駆け出し、かねてから停車してある、オフロード車の陰へと身を隠した。作業員の1人が車のドアを開け、なかから無電のマイクを引き出し、Uに差し出す。

「タイタン。」
Uはそれだけ言うと、マイクの送信スイッチを離し、無電の向こうからの返信を待った。

「あの雲は何だ。」
上下の周波数をフィルタでカットされた、薄っぺらなしゃがれた老人の声が、スピーカーから再生される。「上空は青いか?」

「はい。」
Uは、要点だけを伝え、自分がタイタンと呼びかけた、しゃがれた老人の声を待つ。

「よろしい。塗装は完璧かな。」
かすかにカランと、グラスのなかで氷が踊る音がした。

「はい。」
Uは、片手でサングラスを外し、今のところ雲ひとつない、頭上の真っ青な天蓋を見渡す。

「乗客に、目撃してもらわねばならん。それには補色がいいだろう。」
老人は口を閉ざし、何かがパカリと開かれる音が、それに続いた。「時間だ。」

バシュッ!という鋭い音とともに、トラックの運転席を反射板として、オレンジ色の機体が、一直線に空高く飛び立つ。Uはその姿を見送って、再び無言で、人払いの仕草をする。作業員のうち2人がトラックへと駆け戻り、残りの作業員らとともに、Uはオフロード車へと乗り込んだ。沖合いには、2艘の警戒艇が見える。合同演習と称して、連中だけがその沖合いへと駆りだされてきたのだ。同じ色の標的機を積んで。順調だ。Uはかすかに微笑む。そしてまた無言で片手をあげた。オフロード車が動き出し、それを見て、トラックが動き出す。そして、どこへともなく走り去った。

「管制塔、こちらアロン。誘導路3で、出発待機位置へ移動します。」
副パイロットのKが、主パイロットの席についている。副パイロットの席についたMは、もうサングラスをかけてしまい、頭の後ろに両手を回して、Kと管制とのやりとりを、黙って聞いている。機関士のCは、ひとつ大きな欠伸をして、計器の数値を一通り眺め渡す。

「アロン。こちら管制塔。識別装置を274にセットしてください。先発のカッパが、機材トラブルで運休しました。そのまま滑走路へ侵入してください。」

「へぇ。あの会社がトラブルなんて、めずらしいね。」
Mは上体をひねって、Cの顔を見やる。「あれは戻りだから、あっちでも運休だな。こりゃ、うちにもシワ寄せが来るわ。」

「管制塔。こちらアロン。識別装置を274にセット。牽引車が外れ次第、離陸位置につきます。」
Kは慣れた手つきで、識別装置のテンキーを叩く。

「ほほぅ。調子を戻してきたようだな。」
Cは身を乗り出して、Kの手さばきに見入る。「よし、牽引車外れた。前輪のロック解除を確認。」

「こちらも確認。動きに問題なし。」
Kは足元のペダルを左右に踏み分ける。「エンジンスタート。」

「1番、2番、3番、始動を確認。問題ない。」
Cはパネルの数値を指で追う。

「管制塔。こちらアロン。離陸位置につきます。」
Kはスロットルに手をかけ、1度離して、ギュッと手を握り、再びスロットルに手を置く。「汗がすごいや...。離陸位置。滑走路クリア。」

「緊張するな。大丈夫だ。」
Mは操縦桿に軽く手を置き、Kに微笑みかける。「降りるほうがよっぽど難しいぞ。」

「アロン。こちら管制塔。離陸を許可します。現在のところ、付近に乱気流の報告はありません。よい旅を。」

「管制塔。こちらアロン。離陸します。ありがとう。」
Kはひと息大きく吸い込むと、スロットルを握る手に力を込めた。「推力87%。ブレーキ解除します。」

「ここの滑走路は、十分に長さがある。じっくりやれ。」
Mは、滑走路の端にたなびく吹流しをチラリと見て、右足のペダルを少し踏み込んでやる。「お前は操縦桿に集中しろ。尾翼は俺がやるから。」

「すいません。離陸します。」
Kは上体を使って、ゆるやかに操縦桿を引く。機体もそれに従い、ゆるやかに滑走路を離れる。「ギアお願いします。」

「ほい。ギア格納。確認。衝突防止灯も消すわ。」
Cはポンポンと、年季の入った手つきで、確実に消灯していく。「ん?Mさん、2時の方向に、何か見えんか?何じゃろね。」

「民間機かな。派手な色していやがる。」
Mはサングラスを外し、頭を少しく乗り出して、そこらを凝視する。「遠いな。平行して飛んでるだけだ。K、一応、管制に報告しとけ。」

「はい。管制塔。こちらアロン。」
Kは、そちらを見る余裕まではなくて、前を向いたまま、計器に目を配りつつ、口だけ動かして管制塔と通信する。「現在、神島付近を、方位163で航行中。当機から見て2時の方向に、当機と平行して、民間機か何か飛んでいるようだ。そちらで確認できますか?」

「アロン。こちら管制塔。本日、1430時から、海上で、イ軍との合同演習が行われている。機体はその標的機と思われます。機体の色を確認できますか。」

「管制塔。オレンジだ。よく見える。」
MはKに目配せして、通信を代わった。「現在のところ、当機やほかの便に危険はないと思われる。以上、報告まで。」

「アロン。こちら管制塔。間違いないです。こちらも監視を続ける。」

「巡航速度。自動操縦に切り替えます。」
ハァッと、Kは溜め息をして、操縦桿を離れ、背もたれに体を沈めた。それから席を立って、操縦室の窓のきわ辺りに見える、遠くの点のようなオレンジ色の機体に目を凝らした。

その時、ガーンという、大きいがくぐもった音が、機体の後ろのほうから聞こえてきた。聞こえてきたというよりは、響いてきたと言うほうが近いかもしれない。

「何だぁ?ぶつかった?」
Cの顔は、風船がありったけ膨らまされた時の、表面の絵みたいに、目も鼻の穴も口も、のっぺりと開ききった締まりのない顔になって、パネルの数値全部を2回、3回と、まばたきもせずに見渡す。幾粒かの冷や汗が、額から頬から、鼻の先から、ポタリと垂れる。そしてパクンと口だけは閉じて、Cは残りの目と鼻の穴とで、別になんともないという、解せない感情をKに伝えてくる。

背後のドアの脇にある、客室からのインタホンが鳴った。3人全員が、反射的にインタホンのほうへと身をよじる。すでに席から立ち上がっているKが、ひと息早く動き出して、MとCとが固唾を呑んで見守るなか、インタホンを取りに向かう。Mは、副パイロットの席を立って、主パイロットの自席に戻ろうと、片手だけで、何か体の支えを探そうとするが。しかし、本来あるべき何かが、そこにない。Mは自分の手元を見て、息をするのさえも忘るほど、それを凝視した。もしもこれが夢でないなら、機体は今、ものすごい速度で急降下しており、自分たちは操縦室の天井で、身じろぎすらもできなくなっているだろう。

「Cさん、駄目だ。スカスカだ。」
Mの、にわかにかすれた声を聞いて、Cはその顔のまま、操縦室の前方へと体を戻す。そしてまた、口をあんぐりと開け放った。操縦
桿が、見たこともないほど、前方へと倒れこんでいる。Mが自席の操縦桿を、前へ後ろへ、右へ左へと動かすけれども、副パイロットの席の操縦桿は、ピクリとも動かない。まったく連動していない。「こんなこと...」

「Mさん、さっきの音で、酸素マスクがいくつか客室に出たそうです。」
ドアの脇のインタホンで、客室乗務員とやりとりしていたKが、顔だけ横へ向けて、状況を話す。「もやのようなものも、一時出たようです。その後は何もないとのことです。」

「分かった。こちらからアナウンスするって伝えて。Cさん、警告灯はつけたままで。」
Mは、自分の長いパイロット人生を振り返ってみても、まったく記憶にないこの操縦桿のありさまと、機体の現在の状況とのちぐはぐさとが、自分のなかで結びつかないまま、それでもまず乗客を安心させることだと、客室とインタカムとの接続スイッチを押そうとするのだが。しかしさすがに、何と言ったものか。ひと筋の汗が頬を流れる。ほんの数秒ではあったが、Mは頭痛がするほどの大量の記憶が、頭のなかで長い間、黒い渦を巻いたように思った。客室とインタカムとの接続スイッチを押す。

「乗客のみなさま。機長のMと申します。当機はさきほど、予報されていなかった、小規模で急激な乱気流に遭い、その際、機体後部のみが、乱気流に巻き込まれたために、前後に大きな気圧差が生じて、その解消にあたって、あのような大きな音が生じたものと思われます。一部の酸素マスクが、その音を振動として感知してしまい、誤動作しておりますが、当機の運行に支障はございません。どうぞ安心して、機内サービスをお楽しみください。なお、今後も同様な乱気流が発生する可能性がありますので、警告灯が消灯しますまでは、お席でシートベルトをご着用くださいますよう、お願いいたします。」

Mはインタカムのスイッチを切るなり、振り返って、Cの、ようやく元に戻ったその顔を見つめた。「スコーク77出そう。マニュアルに載ってないことが起きてるんだ。大体、油圧の警報すら鳴らないってのは、なんでだ?」

「わたし...」
Cが、定まらぬ目線のまま、誰に言うとなく、ぼそりと言った。「わたし、あの音、聞いたことがあるんや。若い頃、新品の油圧ポンプぶっ壊して、教官にえらく叱られた。嫌な音やった。わたし、閉めちゃいけないバルブを、一気に閉めてしもうたんや。」ちょっと間があって、Cは、確固たる目線を、Mの顔へと投げた。「油撃の音や。間違いあらへん。」

海岸はすでに、黒く厚い雲に覆われて、方角を変えた冷たい風が、沖から高波を吹き寄せ、その先の砂浜に停車する、オフロード車の脇で立ち尽くすUの、清く刈り上げられたウナジを、荒々しくなでていく。両手で、大きめな双眼鏡を支えて、Uはもう10分も、直立不動の姿勢で、内陸の、まだ美しく青く晴れ渡る空の一角を凝視していた。オフロード車のなかから、カーキ色の作業服の手が伸びて、Uに無電のマイクを差し出す。Uは差し出されたマイクを取り、代わりに双眼鏡を渡す。

「タイタン。」
Uはまた、それだけ言って、老人からの返信を待った。風は強さを増して、オフロード車のフロントガラスに、細やかな水滴を残す。

「君の打ち上げた中継機は、順調に働いておるよ。まだ自動操縦の段階だが、逐一、機体の情報を送ってくるそうだ。」老人の声はそこで途切れ、ガサガサッと、数枚の紙が擦れ合う音がした。

Uは、大きくなってきた雨粒を見上げて、オフロード車の後部座席へと身を隠す。ほとんど同時に、ポンポンと、大粒の雨がオフロード車の屋根を叩きだす。車内に座ってもなお、Uは姿勢を崩さない。運転席の、ハンドルを両手で抱え込んでしまっている作業員の姿とは、対照的だ。スピーカーからは老人の、今度は打って変わった、メリハリのある声が届く。

「聞いたかね。もう、スコーク77を宣言したそうだ。予定よりも、ずいぶんと早い。機長はなかなか、頭の回りがいいようだな。」ふふんと、老人の笑い声が聞こえる。ご機嫌よろしく、お楽しみのようだ。「最小限の装置しか詰めない。市街地周辺では、アマチュア無線家の耳もある。であれば、中継機をそばへやって、そこから強い電波を出せばよい、という私の発想は、完璧だったわけだ。」

「おめでとうございます。」
Uは、顔色ひとつ変えず、身じろぎもせずに、ただそうとだけ、マイクにしゃべった。

「ありがとう。では、本題に入ろう。君たちはもう引きあげたまえ。今晩、私と夕食を楽しもう。祝ってくれるかね?」老人は、スピーカーの向こうで、パチンと指を鳴らす。

「喜んで。」
Uはただ、そうとだけ言った。

「ありがとう。いい宿を手配した。そこで夕食をともにしよう。」
ふふふふという、老人の笑い声が、途中で途切れる。Uは、前の席でハンドルを抱え込んでいる作業員の肩を、ポン、ポンと、ゆっくりと2度叩いた。車はUターンし、海岸沿いの街道へ乗り入れる。そのまま、ライトも点けずに、どこへかと走り去った。

地上はるかな、上空1万2千メートルの真っ青な天蓋のなかを、オレンジ色の小型機に追尾されつつ、音速の80%で巡航する機体アロンは、スコーク77を宣言してからも、しばらくの間は自動操縦のまま、安定して飛び続けた。これは、新手のハイジャックだという理解が、Mたち3人の間の、共通の理解となりつつあった。すでに幾度となく、管制塔との通信を試みてはきたものの、現在まで一切、連絡がとれていない。VHF帯もHFも帯も、機器自体に故障の兆候はないものの、管制塔はおろか、付近を航行中の他の航空機とも、まったく通信できない状況にある。にもかかわらず、垂直尾翼の真上についているGPSは、なおも正常に、機体の位置を刻々と画面上に表示し続け、同様に、垂直尾翼の斜めの稜線に沿って設けられた、HF帯のアンテナは、依然として、故障の警報を発しないままでいる。

「なぁCさん、本当に、そんなことが出来るのかい?」
Mたち3人は、操縦席の床にあぐらをかいて座り、Cが床に広げた、ひと昔前の航空機の油圧系統図を、じっくりと眺めている。

「分からんな。少なくとも、整備会社の協力は必要やろな。」
Cは人差し指を出して、油圧系統図の垂直尾翼の真下、圧力隔壁の裏側に走っている、まとまった配管部分に、ゆっくりと丸を描いて見せる。「ここ以外にないな。ワイヤは先に切断しておくんや。あんなもの、定期検査でしか使わんわ。前回わたしが見た時には、問題なかった。ここもあるけど。」Cは、操縦室の次にある、客室乗務員が乗客の食事を手配する区画の真下に、また、人差し指で丸を描いた。「ここは、せんやろと思います。」

「どうしてです?そっちのほうが空間は広いですよね。」
Kが身を乗り出して、Cの人差し指が描く輪のなかをのぞき込む。「作業するにしても、配管なんかの取り回しがいいでしょう?。キッチンの床下にハッチがあるから、ひとの出入りも楽です。」

「だからや。」
そうCに言われて、Kは不思議そうな顔を、Mに向ける。Mはうなずく。

「つけやすいってことは、はずしやすいってことでしょCさん?」
Mは面白そうに、Cの顔を覗き込む。

「ご名答。」
Cは、パネル付属の小机の上から、メモ紙とペンとを取って、自分の前へ置く。「つまりや。こう、元の系統へ割り込んでる装置があるっちゅうわけや。こいつが、操縦室と翼やエンジンとの間に割り込んで、操縦室の油圧をみんな飲み込んどる。油圧とは言うけどな。操縦桿とかペダルとかの油圧は、倍力装置につながってて、その倍力装置が、実際には翼やエンジンスロットルを動かす。工学で習わんかったか?」

「知ってます。知ってます。」
とってつけたように、Kは生返事を返す。「先を聞かせてください。」

「ほんとか。ちゃんと勉強したんやなぁ。わたしはちっともしなくて、現場で見たのがお初やったわ。」
Cは笑って、話を続ける。「でな、自動操縦の間は、倍力装置を機械のほうで使ぅとるから、こっちがドロップしても、ちゃんと飛んでくれるわな。倍力装置から先の油圧が落ちれば、警報が鳴るし、数字も出る。それやから、こっちが自動操縦入れるまで、待っとったんやろね。倍力装置は重くて大きいから、この機体では、尾翼の下にある。尾翼のエンジンから、最短距離で電力をもらうこともできるしな。」

「そこへ行って、バルブを開けてくればいいわけだな?」
Mは腕組みして、垂直尾翼の辺りの配管図を、じっと見つめている。「これは、一筋縄ではいかんぞ。」

「そうですね。」
Cはまた、人差し指を出して、その配管の下にあるハッチを、トントンと指し示す。「外からしか入れんのよ。客席からやと、圧力隔壁の向こうになる。」

「できるとしても、客に多大な不安を強いることになる、か。」
うーむと、Mは腕組みしたままでうなる。ブィン、ブィン、ブィンと、警報が鳴り渡る。

「自動操縦解除?なんで?」
Kは立ち上がり、自席へと座り込む。操縦桿は相変わらず、飲んだくれのように、前方へと倒れ掛かったままだ。引き起こしてみても、何の手応えもない。機体が穏やかに、左へ、右へとロールし始める。2本の操縦桿の間、そのなかごろにある、自動操縦のスイッチをいじってはみるが、やはり反応はない。Kはめまいを感じて、ふっと、目線を落とした。目線の先にあるスロットルレバーが、じんわりと動いている。「Mさん!スロットルレバーが勝手に!」

Mは、スロットルレバーに飛びついて、その動きを止める。「確かに、誰かが動かしてるな。手応えを感じるわ。」

「ははぁ。」
Cはそれを見て、この機体の型式特有の現象だというのを、思い出した。「フィードバックが強い機体やから、逆に操作できるかもしらん。」

「おいK、やってみようぜ。」
Mは、床へ座り込んで、左のスロットルレバーにとりすがる。Kも席を降りて、Mの右に座り込む。「お前は推力上げろ。俺は下げるから。少しだぞ。Cさん、機首、見ててくれ。」

「任せとき。」
Cは、目の前のパネルの、エンジンの推力計の数字をチラチラと見ながら、操縦席の画面にも注意を向ける。

「よし、いけっ!」
Mの掛け声ととともに、Kはスロットルレバーを引きにかかるが、思いのほか、フィードバックのほうが強力で、普通に引き負けてしまう。MはMでもう立ち上がってしまい、組み合った相手の両手をねじ伏せるような格好で、すごい形相でスロットルレバーを押しにかかっている。

「左、推力6%減。右、変わらず。」
Cは、目の前のパネルの数値を概算しながら、操縦席の画面に目を戻す。その中央辺りに見える大きな十字が、ゆっくりと左へロールしていく。「Mさん、駄目や。相手が翼で対抗しよる。」

「クソッ!」
Mは肩で息をしながら、その場へとひざまづく。2人の目の前で、まるで余裕とでもいう感じで、スロットルレバーがゆっくりと元位に戻っていく。「まあ、これで、相手の存在が、確実にはなったな。」

「機械には勝てんか。」
Cは、パネル付属の小机に片ひじをついて、深いシワの寄った額を、親指と人差し指とで支える。「倍力装置自体が、まるっと、そういう用向きに改造されたものと、交換されたんか。それとも、倍力装置に、別の装置がついてるんやろか。それなら、フィードバックが生きてるわけないなぁ...」

「そういや、おまえ、帽子は?」
Mは、フゥと、深い吐息をして、床に座ったまま、両手を後ろに突っ張る。操縦席の天井をいろどる、緑や黄色や赤の小さなランプ類が、現状に対して的確な配色になっているのを、Mは見て取った。とりあえず、落とす気はないようだ。「昼も、あの帽子で気合入れてたろ。なかなか似合ってたぞ、K。」

「あれ、忘れてきちゃったんです。仮眠室に。」
Kは、Mの横にあぐらをかいた。「髭剃りと、じゃがいもパッキリも。まだ半分も食べてないのに...」

「おまえアレ好きだな。」
Mは操縦席の画面を見つめながら、フッと、微笑んだ。「帽子と、髭剃りと、じゃがいもパッキリか。組み合わせがよく分からんな。」

「大事なものは、別に、ポーチのなかへ入れてたんです。それごと...」
Kの向こうの青空が、ゆっくりと、大きく左へ傾き始める。彼方の地平線が、端から、水平線に変わっていく。真っ青だった真夏の空が、髭剃りのムースのような雲に、下半分を覆われていく。

「K、乗務員を席につかせてくれ。」
Mは自席に戻って、駄目もとで、いくつかのスイッチ類をいじり始める。「何をやるつもりだ?」

Kは無言でうなずくと、ドアの脇のインタホンを取り、呼び出しボタンを押す。「客室乗務員を席に戻して、念のためシートベルトを着用させてください。そうです。気流を大きく迂回しています。」

「交渉真っ最中っちゅうとこやなぁ。」
Cは、パネルに表示された、エンジン推力の数字を凝視している。「操縦は上手いほうやで。使いかたが民間人やないね。」

「交渉なのか、脅しなのか。」
Mは操縦桿を引き起こしてみた。やはり手応えはない。スカスカなままだ。「この国と、何の交渉をするんだ?カネか?だったら交渉するまでもないわな。」Mは、傾いたきりの視界を、憂鬱な面持ちで、ただ見ている。できることは何もない。無電で呼んでみたが、相変わらずの無しのつぶてだ。せめてラジオでも聞ければ、この事案を、できごとのどこに位置づけるべきかくらいは、分かるだろうに。雲に覆われた視界の下半分が、再び、青一面の空に戻る。彼方の水平線は、地平線に取って代わられた。機体がゆっくりと右へ傾き、水平飛行に戻る。MはGPSの表示を見やる。「グルッとひと回りしたな。K、客室ではラジオが聞けるはずだが。乗務員は何も言ってなかったか?」

「いえ、別に。変わった様子は、なかったです。」
Kは、エンジンスロットルに、手を乗せてみる。今は、動きは感じられない。目の前の画面に、新たな文字が現われる。「自動操縦...。Mさん、自動操縦に戻りましたね。」

えっ?という顔で、Cも画面をのぞきに来る。「ほんまや...。まあ、ひと休みっちゅうとこか、Mさん。」

「でしょうね。」
Mも、うなずいて見せる。「どっちにせよ、我々にとっちゃ、自動操縦だけどな。次に油圧が戻るのか、戻らないのか。」

機体は順調に、目的地への飛行を続けている。Kは、ふと思いついて、この際、操縦桿を引き起こしてみようと、手を伸ばした。たいていの機体は、自動操縦の時、操縦桿を意図的に動かすと、手動に戻る設計だ。

「やめぇ!死ぬ気か?」
Cが、Kの意図に気づいて、座席越しに腕を伸ばし、Kの体を引き戻す。「あちらさんも、ひと息入れてる最中やぞ。仕組み上は、手動には戻らんと思うけどな。こういう場合、もしもは禁物やで。」

ヴィン、ヴィン、ヴィンと、警告音が鳴る。間もなく、3人の目線を、地平線が追い越した。ブブーと、機首角度の警報が鳴り、続いてキンキンキンと、速度超過の警報が鳴り始める。

「これは、駄目かも分からんね...。」
Cが、ぼそりと、呟いた。

昼間の雨に洗われた、透明な夜空に浮かぶ美しい三日月。その青い光に淡く照らされて、300年ほど前に建てられたという城塞が、その荒々しい岩壁を、ひとびとの目に晒している。この一角を宿として利用し始めたのは、127年ほどの昔ともいう。地階には、近代のカレッジ様の、質素な装飾で統一せられた大食堂があり、各界の上位のひとびとが、お忍びで来店する、隠れた人気スポットともなっている。

今、この宿の前に、1台の、場違いとも思われる、オフロード車が来て止まる。夜にもかかわらず、ティアドロップ型のサングラスをした、これもまた場違いと言わねばなるまい、カーキ色の作業服を着た人物が、ひとり、オフロード車の後部座席を降りて、食堂の入口へと続く10段ほどの階段を見上げ、まっすぐに登っていく。と、食堂の両扉が大きく押し開けられ、短めの白髪を真ん中から左右へきっちりと分け、黒縁の丸メガネをかけた細身の老人が、パリッとした、質の良い黒のスーツをしなやかに着こなして、大きく手を広げて、その作業服の人物を中へと招き入れる。

「秘密を守ってくれる、夕食の相手というのは、なかなか得がたいものだ。」
老人は席につき、人差し指を立てて給仕を呼ぶ。「シャブリを。」一礼して、給仕は去る。

戻ってきた給仕は、ナプキンに包まれた白ワインのボトルの銘柄を老人に披露して、封を切り、コルクを老人の手に委ねる。ここでは品質は保証せられており、ために、テイスティングは省かれる。給仕がボトルを傾けると、その口から、わずかに青みを帯びた清涼な酒が、22年ぶりに触れる大気とともに、小柄なワイングラスへと注がれる。

「乾杯しよう。今日のために。」
老人はその華奢な手にワイングラスを持ち、作業服の人物の前へと差し出す。チンと、済んだ音色が聞こえて、老人はさも満足気に微笑んで、最初のひとくちを味わう。「私はね、これを最初に飲んだとき、こんなもの飲めるかと思ったが...。今では、これがないと始まらない。特に暑い夏の夜にはね。」

前菜とスープののち、舌平目を使ったメインディッシュが、おごそかに運ばれてくる。老人は、待っていましたとばかりに、胸のナプキンを整える。

「素晴らしい料理には、それなりの敬意をはらわねば。さあ。君もこの幸にあずかりたまえ。」
老人は、給仕がその肉をサーブしてくれるのすらをも待ちかねたという具合で、最初のひとかけを無心にフォークに取り、口へと運ぶ。味わうほどに、満面の笑みが、老人の顔に満ちていく。「素晴らしい。」素晴らしいと、老人は夢心地で二度呟いた。「今夜はまた、格別だ。ここで君の名前を口にすることができないのが、残念だよ。感謝している。君がわざわざ、指揮をとってくれたお陰だ。」老人は給仕に、相手のワイングラスが空であることを、指差して伝えた。

「ありがとうございます。」
Uはワイングラスを取り、老人にささげる。「あなたのために。」

「ありがとう。」
老人もグラスを取り、お互い、新たなひと口を味わう。「遠隔操作をするにしても、まず機体が健全でなければ、話にならん。と、私がいくら上申しても、聞き入れられなかった。それを君が、専門家の立場で、説得してくれたんだ。それがなければ、今日の成功はなかった。」老人はまたひと切れを口に運び、至福の味わいに頬を染めた。「しかし、あの連中の能力には、たまげたよ。個人であのレベルのことをやり遂げるなんて、恐ろしい連中だ。中継機からの電波が届かなくなれば、同時に、獲得した操縦の権利も失われる。もっと配慮すべきだった。結果的に、苦しみを長引かせることになってしまったからね。」

「もうしわけありません。」
Uはフォークを置き、両手をひざの上へやって、姿勢を正した。

「君の落ち度じゃない。私の考えが足りなかった。」
老人はナプキンで口をぬぐい、ワインブラスに残ったひと口の酒をあおった。「我々は交渉などしない。ましてや、どこぞの三下どものように、金員を要求することなど、けっしてない。ただ、秩序のために奉仕しているだけだ。神を知らぬ連中は、何を恐れるだろう。無敵のひとは、我々の社会に、必ず、破滅をもたらす。その役割は、誰かが担わねばならん。」

ガシャン!と、食堂の窓ガラスが一斉に割られ、黒ずくめの者どもが、夜の海のように押し寄せる。手にフォークを持ったまま、あっけにとられ、ただ呆然と眺める老人の背後に、ひとつの黒い人影が立ち、その首に、ひと太刀のひらめきが走った。

そして、2年の月日が流れた。三十路を過ぎた、片足のない1人の男が、松葉杖をつきながら、山あいの慰霊碑の元へとやってくる。肩にかけたタオルで、吹き出す汗をぬぐう。見上げれば、あの日のような真っ青な空に、ギラギラと燃える太陽が輝いている。

切りもみ状態で、ほぼ垂直に落下する機体のなかで、Mはとある確信を覚え、自分とともに、操縦桿を引き続けた。機体が山あいに落ちかかる。PULL UP の警報が鳴り響くなかで、Mの確信した通り、操縦桿に油圧が通った。Mの怒号が飛び、Cは機関士の席へ這ってたどり着くと、ランディングギアなど、ありとあらゆる機能と技とを繰り出して、逆推力の助けとした。スティックシェイカーが作動して、結果的には、失速して落ちたが。それまでに、燃料はほぼ空となり、機体の炎上は避けられた。Mの操縦桿さばきで、機体は山の斜面を斜めに滑るようにして着地し、木々がクッションになったこともあり、相当数の乗客が生存し得たようだった。しかし、機体を斜面に沿わせようとしたがために、操縦室付近は、突き出た岩と横殴りに衝突して粉砕。Mの座席に押されるようにして、自分は周囲の装置ごと、谷底へと放り出された。異常気象続きで、谷底の川が枯れていなければ、そのまま溺れてしまっただろう。あの唯一助かったという乗務員を、自分は知らない。

慰霊碑の前に設けられた献花台には、多くの花々が置かれ、故人の嗜好品が、所狭しと並べられてある。Kは、肩に下げたカバンから、小さな酒の瓶と、じゃがいもパッキリとを取り出し、献花台に供えた。故人に供えるというよりも、自分は当事者の生き残りとして、今ここに立っているということを、MとCとに伝えたいと思った。会社が呼んだお坊さんが到着し、草いきれのなか、青く澄み渡る真夏の空を背景にして、おりんが鳴り、読経が始まる。自分が生き残りのKであるということを、慰霊碑に向かって叫びたかったが。しかし、今は別人として生きている自分には、許されないことだった。その過程でどれほどのひとの手をわずらわせたことか。そのことを思うと、おのずと口がつぐんだ。ただ涙は止まらず、さしもの燃えるような太陽も、この頬を乾かすことができずじまいだった。

(エンディングテーマ)
三好達治詩 木下牧子曲 『鴎』

※この物語はフィクションです。実在の人物や出来事とは、一切関係ありません。

 

(余話)

似ている話になったので、時間とかダブったら嫌だなと、調べてみたんですが。書き始めたのが、123便の40回忌にあたる日でした。表題の3時21分は、書き終えたのが今日の午前3時21分だったので。偶然か、はたまた...。犠牲者のご冥福を、改めてお祈り申し上げます。


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時を見る目

2025年08月10日 | 読み物

その日から僕の目は、昆虫の複眼のようになった。

見た目は普通の目だが。しかし僕には、ものの軌跡が無限に連なって見える。

例えば今、横断歩道の前で止まっている僕の車の前を、チャリに乗ったロン毛の兄ちゃんが、片手をズボンのポケットに突っ込み、軽快にペダルをこいで、颯爽と横切るところだ。

僕にはその兄ちゃんの髪の毛の一筋一筋が、風になびく様が、残像というのか、刻一刻と、高速カメラの映像のように、連なって見えている。

しかし運悪く、車内で何か、もめてでもいるのか。僕の車を追い越した白いファミリーカーが、ブレーキも踏まずに、兄ちゃんをはねる。

ムッとした兄ちゃんの顔がゆがんでゆく様も、運転席の男性の横顔が、アッと青ざめていく様子も、僕にはフィルムのひとコマずつのように、鮮明に見えている。

だけど、動かないものは、僕には見えない。

車を走らせれば、風景が、道端のネコジャラシの風になびく様まで、連続写真のように見えるが。しかし車を止めると、自分で頭を動かしでもしない限り、視野はただ一面の灰色になってしまう。

「あなただけが救われた」と、幼馴染の志野は言う。志野は高校を出て、親の反対を押し切って臨床心理の道へと進み、市内でも地価が最低の地域で、今は小さな診療所を営んでいる。

志野はその非常な成績から、都内の一等地にあるクリニックに招かれた。3年の間は我慢したが。しかしとうとう、そこの優秀なスタッフや患者らと、早々におさらばを決めて、わざわざこの成れの果てのような土地に、自身の診療所を立ち上げた。

僕のこの異様な目について、当然ながら、何か見通しを持ちうる医者はおらず。ために、年齢に関わらず、誰も彼もモチベーションは低くて。むしろ、かかるこちら側が申しわけなく感じるほど。ただ研究肌の医者だけが、好機の目であっても、僕を診ようとしてくれた。

そんなある夜、疲れて帰る僕は、行く手に連なる鬼火を目撃した。百円ショップの、地面に突き刺すタイプの夜灯でも、誰か道端に点々と植えたのかと思ったが。しかし僕は、青白くほのかに燃えるその炎の行く先に、志野を見た。

息を呑むというのは、このことだ。

そのほのかに燃える青白い炎は、志野の差し出す足元から燃えて、刻々と形を変えながら、しばらくは道に残り、そして跡形もなく消滅する。

僕は、暗い灰色の視野のなかで、ただそれだけが美しく燃え立つその鬼火に見とれた。と、何か視線を感じて、僕は、目をあげたその先に、あちらもまた、フィルムのひとコマずつ顔をあげていき、ついには、静かに僕を見つめている、志野の小顔を認めた。片手に小柄な診療カバンを持ち、志野は物憂げに僕の目を見ている。

「彩くん?」と、志野の小さな唇が、残像を残した。

うん、と、僕はうなずく。

「見えるのね?」とだけ、志野は言った。

うん、と、僕はうなずく。

志野の顔が、とても悲しくうつむいていくのを、僕は見た。

「始まったのね、とうとう…」志野は、ぽつりと呟いた。

僕は顔をかしげて見せる。

「あなたはもう、次のヒトなの。」志野の顔が、ゆっくりと起こされてくるなかで、その悲しさの底のような表情であったものが、キリリと締まった、毅然とした顔になり。僕と正対して間もなく、志野はそう、ハッキリとした口調で僕に宣告した。

「え?、どういう…」僕はおどけて見せるが。しかし、志野には通用しない。

「そんな振る舞い…。なんとなくでも、そんな気がするんでしょう?」志野は一撃で、僕の心理を刺し貫いた。

うん、と、僕はうつむき加減で、かすかにうなずく。

「彩くん、あなたは近々、過去や未来を見るようになるわ。」志野はかたくなに、僕の顔を、この異様な目を、あそこから、あんなに遠くから覗き込まんというくらいの勢いで凝視している。その目は、あくまでも、研究者の目。そしてコマ送りで、毅然とした志野のその目が、嫌なものを見たとでもいうふうに、ダラリと下へと垂れていくのを僕は看取った。

「ごめんなさい。」志野は、診療カバンを落として、両手で顔を覆った。「私、集合体恐怖症の気があるの。あなたの目、私にはこの暗がりで、昆虫の目のように、鱗の集まりのように見える…」

僕はまた息を呑んだ。

「私の診療所に来て。少しずつ話すわ。」志野はそれきり、きびすを返して、あの青白くて淡い、蝶の鱗片のように舞う美しい炎を引きつれ、先へ歩いていく。

僕の側に、拒絶する理由はなかった。

田舎の電柱に、まだかろうじて残るかと思われる、一枚の皿の覆いがついた、20ワットほどの白熱灯の下で、小さな羽虫が数匹、舞っている。その下に立って、志野はポケットから大きめな鍵を取り出す。ガチャリという、錆び付いた錠が回される音がして、ガラスのはまった木製の、白い扉がギィと押し開かれる。志野はそのまま、向かいの壁にある、ベークライト製のトグル・スイッチを、すべて点けた。玄関から診療室まで、パッと、真っ白な光で満たされる。

「ほら。こうすると、明かりの下では、あなたの目は私にも、普通の目に見える。」志野は僕を振り返り、ホッとして微笑む。

診療室に入って、僕は思わず、深呼吸をする。古びた民家の木のにおい。なつかしい感じのするにおいが、僕の顔をほころばせる。

「座って。」志野は、奥のスペースに設置された、セラピー用の安楽椅子と丸テーブルのセットを、そのきゃしゃな、細やかな指で差す。僕の横顔を見送って、志野は書類机の脇にある、コーヒーセットに電源を投じる。

「安心するな。こういう感じの部屋。」僕は安楽椅子に身を落ち着け、今の建物の造りからすれば高い天井を見渡す。彫刻された細い木の棒でもって、天井の板を固定してある。丸テーブルの真上あたりから、カフェにでもありそうな、ガラスの火屋の小洒落た電灯が垂れている。今はもうあまり見なくなったが、海岸に漂着する昔のガラス玉にあるような気泡が、そのガラスの火屋にも保存されてあった。

「私の仕事は、環境が武器でもあるの。」志野は、両手にコーヒーのマグを持ち、今改めて見れば、これといった特徴もない、無地の厚手なワンピースをまとっている。その手元にも、細い首筋にも、金気は一切ない。丸テーブルにマグを置き、自分も安楽椅子に座る。そして感無量の面持ちで、志野は部屋のなかを、ゆっくりと、グルリと見渡した。「だから、場所の選定には、苦労したわ。」

居心地のよさに、このまま眠ってしまいそうだと、僕は思った。

「でも私は、あなたを治療するために、今ここにいるんじゃないの。」志野は、スッと、コーヒーをひと口飲んで、その香りを楽しんだ。

「へぇ。」とだけ、僕は言った。これまでずっと、治したいと思ってきたのに。

「世間と少し違うひとたちが、なんとか、世間と歩いていく。私の仕事は、そのお手伝い。だから私は、医師ではあっても、治療者ではないわ。医療を執行する身ではあってもね。」おだやかに、志野はマグを丸テーブルに置いて微笑む。「治すべき症状は、確かにあるわ。でもごくわずか。それよりも、この世と歩いていくために、それぞれの技を見つけるほうが大事。薬だって、そのお手伝いよ。あなたの場合は、ヒトの進化の一段階。むしろ、治してはダメなの。」

部屋が明るかろうと、僕の目には、志野の表情が、コマ送りで見えてしまう。この不快さは、目が回りそうだ。僕はその旨、志野に話した。

「過去や未来を見るようになれば、本当に目が回ってしまうかもね。」志野は顔を引いて、面白そうに含み笑いをする。

僕は片手で顔を洗う。勘弁してほしい。

「過去や未来を見るといっても、タイムマシンのようではないわ。」誰かから聞いた話なのか、志野は向かいの、壁と同じ色の厚いカーテンが引かれた窓のほうへ顔をやって、そのひとを思い出そうかという仕草で、目を閉じ、片手を、若々しいそのふくよかな頬に添える。「影響を及ぼせるような過去があるとすれば、すべての瞬間が存在することになり、宇宙は誕生した時点で、無限の重さによって、まったく身動きできなくなってしまう。だったかしら。私の恩師はSFが大好きだったわ。だからセラピーも、来るひとのこれからを考えなさいって。」

「前向きだね。」とだけ、僕は言った。気分は後ろ向きなままだ。志野の真似をしたわけではないけれど、僕は目を閉じて、より深く安楽椅子に身をゆだね、片手の人差し指と中指とで、コメカミをもむ。

「この世ありき、ですもの。私は私の技を求めて、ここに流れ着いた。踏みとどまれる、ギリギリの場所。私を癒してくれる、この場所を見つけた。」志野もまた、疲れている様子。頬にした手を、安楽椅子のひじ掛けに置き、天井を見て、ふぅと、小さく溜め息をする。

「ここは落ち着くね。寝てしまいそう。」僕は志野に微笑んで見せ、身を起こして、うつむく。今一番聞きたいことを、志野の顔は見ないままで、独りごちたが。しかし、こんな世間離れしたことを、知る限り最も世間の只中にあるこの診療所で、聞いてもいいものなのかどうか。「次のヒトって、何?」

志野は、両手で自身を安楽椅子から引き起こして、顔を伏せると、少しく声を出して笑った。

解せないまま、僕は両手をひざに置いて、猫背になる。「そんなに面白いかな。」

「ごめんなさい。」志野はまだ笑いやまず、片手を口にあてて、安楽椅子に背を戻した。「あなたらしいわ。もっと胸を張っていいのよ。私があなたのお手伝いをするためにここに居るように、あなたもヒトの進化を正すべく、その矯矢としてここに居るんだから。

「それ、選ばれたって話かい?嫌な話だな。」僕は口を曲げる。

「選ばれてなんかいないわ。自分で選んでないし、誰からも選ばれていない。」志野は窓のほうを向いたままで、両手を小さく広げて見せる。

「じゃあどうして僕が…」僕は、安楽椅子から身を乗り出して、志野の顔を覗き込む。

「病気って、大体は自分からなるものよ。望むと望まざるとに関係ないわ。病は気からって、言うじゃない?」両手を安楽椅子のひじ掛けに戻して、志野は当たり前のようにそう言う。

「じゃあ、僕が選んだって言うの?」身を乗り出したままで、僕は引っ込みがつかない。

「風邪は、ひこうとしてひくんじゃないわ。備えを越えるものがあって、風邪をひいてしまうのよ。不可抗力なの。だけど不可抗力なひとがみな、風邪をひくわけじゃないでしょ?」志野は、安楽椅子から姿勢を正して、経験からくる医者らしい威厳をもって、僕の目を見る。

「たまたま、か。」僕は身を引っ込めて、もう降参という具合で、安楽椅子にもたれかかる。「でもたまたまで、この目は辛い。こうしてじっとしていると、この部屋も、隣にいるはずのあなたも、一面の灰色のなかに消えてしまう。」ん?と、僕は思った。一面の灰色のまんなかに、何かが見える。

「どうしたの?」窓のほうを向いたまま、固まってしまった僕に気づいて、志野は安楽椅子を立ち、僕のそばへ来ようとする。

「動かないで。」僕は安楽椅子に身をゆだねたまま、両手だけで、志野をさえぎる。「何か見える。」動かした自分の両手の残像が、それ以上動かしていないはずなのに、勝手に動いて見える。左手が丸テーブルに置かれたマグに触れ、マグが倒れて、コーヒーが床へこぼれた。

志野は、自身の興味に耐えられず、ついに立ち上がってしまう。

僕は志野の動きを抑えるべく、左手を、志野のほうへと伸ばした。マグに当たり、カランというマグの音とともに、コーヒーが床へこぼれる。

「見えたのね?」志野が静かに、噛み締めるように言う。

うん、と、僕はうなずく。「手の残像から、先が見えた。」

ポタリ、ポタリと、コーヒーが床へたれるのもかまわず、二人はその場で固まっていた。遅い月が出たのか、遠くでかすかな、イヌの遠吠えが聞こえる。

「あ、コーヒー…」僕は立ち上がり、ズボンのポケットから、なけなしのティッシュを取り出して、床へかがみこもうとする。

「見ないで!」突然に、志野が叫んだ。「私を見ないで。」

僕は反射的に、大きく身をかがめて、両手を床につき、ただ床に広がるコーヒーだけを見つめた。

「あゝ、ごめんなさい…」志野はそれだけ言って、モップを取りに、玄関のほうへと姿を消した。

僕は、床に両手をついたままで、両ひざも床へとおろしてしまい、一面灰色の視野のなかで、テーブルからしたたり落ちるコーヒーのしずくだけを、ただただ見ていた。と、気づけば、志野が僕のすぐそばに立っていて、モップを足元に置いて、僕を見ている。

「私の過去や未来が見えても、私にも、誰にも言わないでね。お願い。」持っていたバケツを床に置いて、志野は黙々と、こぼれたコーヒーを拭きにかかる。

「約束するよ。」僕はテーブルに片手を置いて、片足ずつ立ちあがり、志野からは目をそらしたままで、テーブルに広がるコーヒーを拭きにかかる。茶色に染まっていくティッシュの残像も、足元の、志野が繰り出すモップの残像も、もうその先へとつながってはいかない。「今日はもう帰ります。ティッシュ、このままでいい?。体を休めなくっちゃ。明日も仕事だから。」

志野の、慣れた手つきでモップを繰り出すその細身が、ワンピースをまとった上からでも分かるほど、わなわなとふるえている。その姿は、場数を踏んだ医者の姿ではなく、いたいけなひとりの少女の姿だった。

「じゃあ。また、来ることになるのかな?」僕は、志野を元気付けるつもりもあって、そんな冗談めいたことを言った。これ以上、志野の過去を見ないようにと、後ろ手で玄関のドアを閉める。

「鏡」とだけ、玄関に背中を向けたまま、志野が言った。

「え?」僕はあやうく、振り返るところだった。

「鏡、見ないほうがいいわ。」志野の声には、疲労がにじんでいた。「あなたの過去や未来が、見えてしまうかもしれない。」

「分かったよ。」僕はそれだけ言って、背中越しに片手を振って見せ、誰もいない夜の道を歩き出した。見上げれば、今日は満月だったのか。しかしその満月すらも、自分が動かなければ、ただ一面の灰色に埋もれていく。目を閉じると、その一面の灰色さえもが失せて、深い闇がおとずれる。もはや、闇のなかにしか平穏のない自分を知って、僕は叫びだしたい気分になった。どこか遠くで、イヌの遠吠えが、その代わりをしてくれた。


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凸凹コンビ(『シトロン』のスピンオフです

2025年07月31日 | 読み物

早朝から降っては止みの、一日中の雨模様。たまたま、お互い明日が非番だったので、斉藤はノソノソと五十嵐のあとについて、官舎から徒歩5分ほどの距離にある、五十嵐の個人宅マンションを初体験することになった。

「すげぇな。デカいマンションだな。」
視界の左端から右端まで続く、高くなりまた低くなるマンションの最上階。その淡く灯っている部屋の明かりを追って、斉藤は頭を上げまた下げしつつ、しきりと感心してみせる。「おまえ、実は、けっこうすごい奴なんだな」と、斉藤は顔をちょっとかしげて、目をまん丸にして五十嵐を見下ろす。

「今ごろ分かった?」
五十嵐が茶化す。真面目顔の斉藤はムッとして口をつぐみ、目でまた最上階の明かりを追いかける。

実際、五十嵐の住むマンションは、他の自治体でもないような大きさ。低所得者向けに安い住居を貸し出す目的で、国が音頭をとって20年前に建てた、築20年の市営住宅ならぬ国営住宅とでも言うべきもの。国の沽券もあって見た目はデカいが、中身としては10畳間に1Kと風呂トイレ別という、並みの物件の集まりでしかない。規模がデカいがために、小さなスーパーマーケットが内臓されていたりと、扱いやすい一面もある。五十嵐のようにケモノと組む人間は、そうした物件に当選しやすい。別に特殊能力が目覚めるわけではなくて、政府や自治体、ケモノ団体からも、支援や補助がなされるためだ。

「ションベンしてくるわ。」
言うと斉藤は、マンション前の公園へと入っていった。ある程度以上の大きさの公園には、必ず、ケモノ用トイレを設置しなければならない。またある規模以上のマンションの前には、必ず、それ相応の公園を作らなければならない。そんな法律の綾のお陰で、五十嵐の住むマンションは、偶発的にせよ、ケモノを招待できる素質を備えていた。

「いてっ!」
マンションの外ドアを入るなり、もう斉藤はやらかしてしまう。片手を頭にやって、うらめしそうにマンションの銘板を睨みつける。先に入って、自室の郵便受けを覗いていた五十嵐は、かつて聞いたことのないガスッという異音に、何事かと振り返る。振り返った反動で丸メガネがズリ落ち、五十嵐は片手でそれを押し上げる。笑ってしまった。自動ドアの上、わずかに出っ張っている後付けなマンションの銘板に、背をかがめて入ろうとする斉藤の頭が、ガスッという音をたてて衝突した。銘板はシャープな仕上がりになっていたが、しかし幸いにも、斉藤のフサフサな頭の毛のお陰で、双方ともに無傷で済んでいる。

「まあ、事件現場へ来たわけじゃないからな…」
ヤレヤレという感じで、片手で頭の毛をなでつけながら、斉藤はぼやいた。そのイカ耳な渋い顔を、五十嵐もまた渋めな笑顔でいたわりつつ、上着の内ポケットから、スマートな感じで長財布を取り出した。表面に何も書かれていない白いカードを取って、内ドアへと歩き出す。斉藤は五十嵐からやや遅れをとって歩き、左の奥まで続く郵便受けのにぎやかな感じや、右側の通路沿いに設置された長い長い掲示板の荒れようを、ものめずらしそうに眺め渡している。真新しいものから茶けたものまで、掲示板には所狭しと、様々な大きさの、いろいろな案内の紙が画鋲でとめられてある。画鋲の争奪戦に敗れた幾枚かは床へと散り、あるいは角の1個の画鋲で危なっかしくぶら下がっている。

五十嵐の行く先にある内ドアは、古めかしくも至極頑丈にできており、セロファンテープを貼ったり剥がしたりした跡がいっぱいのガラスは、実は厚さ2センチの防弾ガラス製だったり、ガラスを支える枠には、よく見れば傷ひとつついていなかったりする。斉藤が体当たりした程度ではびくともしない、頼もしい内ドアだが。しかしなぜこんな仕様になったのかは謎である。役所のすることは、今も昔も謎が多い。その脇の壁面に、塗装の擦り切れたインターホンとカードリーダーとのセットがあり、五十嵐は白いカードをかざすが、しかし1度では反応がない。五十嵐も慣れた感じで何度か繰り返すうちに、ゴロゴロと面倒そうに内ドアが開いた。何となく予感がして、五十嵐はゆっくりと後ろを振り返る。斉藤は掲示板の前に立ち止まって、そのなかの1枚のポスターの、フリルのようになった下端を、利き目でじっくりとのぞき込んでいる。

「何してんの?」
五十嵐は、斉藤のそんな仕草のほうに興味が湧いて、やっと開けた内ドアが閉まるのも気にせずに、斉藤のそばへと歩み寄る。斉藤が深々とお辞儀しているようなのは、いつ貼られたのかサッパリ覚えのない、近所のピザ屋のポスターだった。

「おい、ピザ食わねぇか?」
斉藤は、フリルのように刻まれたポスターの下端から、その1枚を千切り取ろうと、大きな手で何度もチャレンジしていた。「この割引券、まだ生きてるぜ。」

「いいね。どれ、僕が取るわ。」
どこかで聞いた台詞だなと思いながら、五十嵐はポスターに駆け寄った。ジレてきた斉藤が、いい加減ポスターごとひっつかもうかと、爪を差し入れようとしている。「相変わらず、やることがラフだねぇ…」呟きながら、五十嵐はポスターを押さえて、割引券を1枚千切る。「ドリタコか!。ここのピザ美味いんだよな。」五十嵐はようやく店名に気がついて、めずらしく大声をあげた。

「ん?、知らなかったのか?」
斉藤は、ドリタコよりも五十嵐の大声のほうにビックリしている。ちょっと開いた口から、太い牙がのぞく。「この紙の痛み具合だと、大分前に貼られたみたいだが。」

「掲示物なんて、誰も見ないさ…」
公共の場で自分が出した大声に狼狽しつつ、五十嵐はのけぞって、息のかかるほどドアップな斉藤の顔に、いいわけめいた、あやふやな笑みを返す。現場で斉藤に事情聴取されてる奴の気分って、こんな感じかなと五十嵐は思った。

内ドアを抜けると、左側に6つのドアが、けっこうな間隔を置いて並んでいる。その手前から3つ目のドアが、五十嵐の居宅。このマンションにはいくつか入口があり、地階の利用のしかたは、それぞれの入口で異なる。ある入口は地階全部が駐輪場になっていたりするけれど、ここの入口の地階には、バリアフリーな広めの部屋が6つ用意されてある。車椅子のまま入れるように、ドアは大きく、スライドして開くようになっており、風呂やトイレも、広めの造りになっている。でも、天井の高さはどこも同じなので、斉藤は相変わらず猫背になって、天井の突起物に気を配りながら、ノシノシと上がり込まねばならない。

斉藤は、靴というかサンダルを脱ぐべく、ドシンと玄関に座り込む。昔のローマ人らが履いていた靴のように、サンダルに脚絆みたいなベルトがついている。座った拍子に、斉藤の肩がギュッと靴箱を押しつける。靴箱の上の彫像が揺れて、五十嵐は慌てて玄関へ戻り、彫像に手を伸ばした。

「あ、わるい。」
斉藤は靴箱から身を離す。頭だけ斜めに持ち上げて、片目でその彫像を見やる。「どこの子だ?」

「伊良部さんの作品さ。去年の事件、覚えてないか。ねたみに絡んだやつ。」
五十嵐はその30センチばかりの彫像を手に取り、帽子をかむった子供の、ふくよかな頬を親指でなでた。「ご遺族からいただいた、試作品のひとつだよ。」

「覚えてる。」
斉藤は両手をグーにして太ももに置き、溜め息をついた。「俺がもう1秒早く犯人をブン殴ってやれれば、撃たれることもなかったな。」

「まさか展示してあるトルソーが犯人の扮装だなんてさ。おまえの鼻と運動神経でもなけりゃ。」
五十嵐は敷物を整えて、彫像を据えなおした。「おまえが胸に食らったもう1発で、娘さんは助かったんだよ。びっくりしたぜ。胸の辺りのシャツが血だらけで。そしたらおまえ、見舞いに行った俺を押しのけて、フン!って筋肉に力入れたら、ポロッて弾が出てくるんだもの。筋肉だけでシャツ破くの、初めて見たわ。」

「すると、モデルはその子か。うん。かわいい子だったな。」
斉藤は座ったまま目を閉じて、事件を回想しているようだ。それから、も一度頭をあげて、今度はおだやかな目で彫像を見る。「風船持ってるのな。ああそれで、風船だったのか。」

「何さ。風船って。」
五十嵐は、手に持ったピザの割引券を、彫像の向こうでヒラヒラさせて見せる。斉藤の目線が、彫像から割引券に移る。

「おぉ、ピザ食おうぜ。早く注文してくれ。」
靴を脱ぎ終えて、斉藤はゆるり、体を返す。勢い、斉藤の頭が低い位置に置かれる。本能なのか反射なのか、頭を低くしたことでスイッチが入っちゃうのか。斉藤は獲物を見るような目で五十嵐を睨み、ムクリと起き上がる。頭が天井に押しつけられ、ミシッと音がした。斉藤は慌てて首を引っ込め、目だけで天井を確認する。

「だからコワイって…」
いつかコイツに食われるのかなと、五十嵐は時々思うことがある。五十嵐の心境を知ってか知らずか、ニッと笑って見せる斉藤。ということは、半ばは、わざとにやっている?。あぁだけど髭が全開じゃないか。獲物を狙う狐の顔だわ。

「俺も、遺族からもらったんだ。」
ふと目を落として、斉藤はそう独りごちた。五十嵐のあとについて、ノシノシと部屋へ入る。奥にキッチン。五十嵐はキッチンの手前の食卓を片側へと押しやり、壁を背にして斉藤の座るスペースを作る。斉藤の背丈であれば、床に直に座って、食卓といい高さだろう。

「もらったって、何をさ。」
五十嵐は、普段、自分がベッド代わりに使っているソファから、座面のマットを3枚ぜんぶ外してきて、斉藤の座る辺りへと置く。それから携帯を出して、割引券の番号に電話をかけた。5?と、五十嵐は無言で斉藤に向かって、5枚で足りるかと、片手を広げて見せる。斉藤は両手を広げて見せ。五十嵐は笑って応えた。「え?、ケモノサイズってのがあるんですか。」

「普通サイズでいい。あれは生地がデカいだけだ。水増しもいいとこ。」
ケモノサイズと聞いて、斉藤は首を振って見せる。五十嵐のさも興味あり気な顔を見て、「とるんなら、追加で1枚だけ、ソーセージのやつにしろ。デカいのが2個乗ってくる。」

五十嵐は斉藤にうなずいて見せ、ずり落ちた丸メガネを片手で押し上げながら、その旨、注文を伝える。店から、重いのでケモノの配達員が行くが、戸口まで入れるかと聞かれ、五十嵐は住所とマンションの名前と、部屋が地階にあることを伝えた。店のほうでも、このマンションのことは知っているらしく、そこなら大丈夫だと、太鼓判を押されて通話が終わる。続く画面で支払いをしながら、「どんだけデカいのが来るんだ?」と、五十嵐は独りごちた。

「おまえじゃ持てないな。」
斉藤は両手を自分の肩幅に広げて見せる。「来たら俺が出る。」

五十嵐は、食卓を寄せたほうの側へ行き、戸棚をガチャガチャやって、もう長いこと使っていないピッチャーと、自分のグラスとを持ち出した。台所へ行き、洗剤をかけて、ゴシゴシと洗う。よくよくすすいで食器立てへ逆さに置き、とりあえずの水切りをする。見れば斉藤は、両腕を食卓の上へと投げ出してしまい、五十嵐の様子を見るともなく眺めている。おなかをすかせた子供のようだと、五十嵐は思った。

「とりあえず、ビールでいいよな?」
言いながら、五十嵐は戸棚の脇から脱衣所へと出て、洗濯機と並べて置いてある冷蔵庫のなかから、あるだけの缶ビールを、両手に抱えて戻ってくる。

「シャツ脱いでいいか?。着てるとなんか落ち着かねぇんだ。」
と言う前からもう、斉藤はシャツを脱ぎにかかる。胸までのホックを外したところで、斉藤は手を止めた。「ここに、ポケットのところに、風船の刺繍があった。破っちまったシャツの代わりにって、俺にくれたんだ。ヒトからものをもらったの、そいつが初めてでな。」斉藤は爪で、ポケットのところを引っかいて見せた。

「風船の刺繍かぁ。パパには似合うんじゃない?。」
五十嵐は、まだ濡れているピッチャーとグラスとを持ってきて、投げ出された斉藤の腕の間に、ドンと、ピッチャーを置く。「あのひとたちらしいな。買ってきたそのままじゃなくて、お礼に、ひと手間かけたんだね。時々は着てるの?」

「いや。仕舞ってあると思う。どこいったかな…」
言葉の最後のほうは、ピッチャーに注がれていく缶ビールに、意識を奪われた。2本、3本と、かさを増やしていく、キンキンに冷えた金色の麦酒を、斉藤は真面目な顔で睨んでいる。ゴクリと、斉藤の喉が鳴る。脱ぎかけのシャツを脱ぎ捨て、あふれんばかりの泡をたたえたピッチャーを、両手でわしづかむ。

「乾杯!」
五十嵐は自分のグラスを斉藤のピッチャーに当てる。

「乾杯!」
斉藤は、ピッチャーを軽々と持ち上げて応えた。そのまま、一気に飲み干す。飲み干すというか、喉へ注ぎ込む感じ。口から一滴もこぼさずに飲みきると、ドンとピッチャーを食卓の上へ返して、斉藤はフゥーと、長い吐息をした。「うまい。ヒトの酒は濃くていい。俺らのは水飲んでるみたいだからな。」

「へぇ。ピザだけじゃないんだ水増し。」
五十嵐は笑いながら、ピッチャーに缶ビールを注ぐ。「たぁんと飲んでけ。」

「2缶でいい。ピザ来る前に酔っ払っちまう。」
言いながら、斉藤は辺りの壁を見回す。戸棚の上に乗っている目覚まし時計を見つけて、今度は床を見回した。「テレビ見ていいか?。観てるドラマがあるんだ。」

五十嵐はソファの脇からテレビのリモコンを出して、斉藤に渡すが。しかしその指にしては、あまりにも小さいボタンが並んでいるのを見てとった。五十嵐は、斉藤からリモコンを受け取ると、チャンネルを適当に進めていく。

「それ!」
片手でテレビを指差して、斉藤はもう片方の手の平でストップの仕草をする。「今日あたり出征なんだ。戦争ってむごいよな。」

戦争とかどこのオヤジだよ、と言いかけて、五十嵐は斉藤のことを思い出した。出稼ぎとはいえ、斉藤も同じようなもんだ。見た目がアレなのでオヤジに見えるが、僕らで言えばまだ20代後半だからな。「奥さんは?息子さんも、元気でやってるの?」言いながら、五十嵐は2杯目のグラスに缶ビールを注ぐ、自分の手元を見ていた。

「うん…」
ドラマに見入っているからか、斉藤は力のない返事をする。「去年帰ったら、子供が分からんくらい大きくなってた。」斉藤はテレビを見ながら、顔だけハハハと笑って見せる。

「そっか。」
自分の助けなしに大きくなってたんだなと、五十嵐は察した。ヒトはともかく、野生の生物としてはショックだろう。「僕は、おまえにこっちへ来てもらって、ほんと助かってる。」五十嵐は、食卓の上に放置された、斉藤の大きな手の甲を、片手でポンポンと叩いた。何か酒の肴でもないかと、頭のなかで冷蔵庫の中身を探る。

「お、ピザもう来たな。」
ぴるんと耳が動いて、斉藤が言った。「バイクの音しかしねぇな。」間もなくインターホンが鳴り、斉藤がノソリと立ち上がる。

「なんで分かるの?」
五十嵐はただもう、見守るばかりだ。何と言うのか、生物のレベルが段ちってのは、斉藤と仕事をするなかで、早くに感じ取られた。斉藤がいなくても解決できた事件を、五十嵐は思い出せない。もしもこんな形ではなく、単に野原でばったり出会ったとしたら、自分はその日の飯になってただろう。思わず知らず、五十嵐のひたいに冷や汗がにじむ。もう一度インターホンが鳴り。え?、と思って、見れば、ドアの前で斉藤が、インターホンを睨んだまま固まっている。

「おい、これ、どうやって開けるんだ?」
斉藤がノッソリと振り返る。「この光ってるの、押せばいいのか?」

「あー…」
五十嵐は、声にならない声を発して、ドアへと走り寄る。まあ、そりゃそうだ。官舎には原始的というか、昔ながらの、物理的な鍵しかない。ノブを回してドアを開ければ、そこはもう外だ。直感的で疑問の余地もないが…。五十嵐は、光っているボタンを押して、ピザ屋と二言三言会話してから、上のやや離れたところに並んでいる、鍵のマークのボタンを押した。それで内ドアが開く。続いてその隣のボタン、ドアのマークのボタンを押すと、部屋の入口がスライドして開いた。

「おい、ケモノのやつは、ねぇのか?」
斉藤に、斜め上から睨みつけられて、ピザ屋の兄ちゃんは遠慮がちだ。両手を小さく前へ揃えて、あれは焼くのに時間がかかる。あとから別の店員が持ってくると、冷や汗浮かべながら説明している。なんとも気の毒な兄ちゃん。とにかくこれで、酒の肴は手に入ったし、話題の転換にもなったなと、五十嵐は兄ちゃんに、心の中で感謝した。

「先に持ってくるとは、ピザ屋もなかなか気が利くもんだな。コレだけでもいいんだ。」
斉藤は、両腕に抱えた10個のピザケースを、ドサリと、食卓の真ん中へおろす。鼻をひくつかせて、ベロリと舌なめずりをする。「たまんねぇ。においがもう全然違う。」はたと振り向いて、ドアの前でぼっと眺めている五十嵐に駆け寄り、斉藤はその肩に太い腕を回すと、ほとんど持ち上げるようにして食卓まで連れてきた。「さあ、食おうぜ。ビールも頼む。」

言うそばから、斉藤は一番上のピザケースを開けて、中のピザを、ごっそりと片手で取り上げる。こんなキラキラな目をした斉藤を、五十嵐は見たことがない。その瑞々しい両の瞳に、ピザの影がドアップで映っている。あーん、と大きな口をあけて、斉藤はピザにかぶりついた。鼻も口元もピザソースでベトベトにしながら、斉藤は手についたピザソースを舐め取り、鼻と口元を舐めまわす。なかなか豪快な食べっぷり。なるほど、これじゃ5枚では足らんなと、五十嵐は微笑ましく思った。

「ここのピザは、ほんと、うまいよね。」
斉藤の食べっぷりに圧されながらも、五十嵐はマイペースにひと切れずつ、味わって食べる。寄る年波とは言われないまでも、五十嵐にとっては、この油の量。どうせそんな沢山は食べられない。それでもここのピザを、こうして1枚独占できるというのは、パーティーの席では、まず、ないことだ。といって、値の張るピザを、ひとりで注文する気分にもなれず。これも斉藤が来てくれたお陰なのだなと、斉藤のピッチャーに缶ビールを注ぎながら、五十嵐はしみじみと思う。

「んー。これが本物のピザの味ってもんだな。」
斉藤は我ながら納得して言う。もう5枚目の半分は飲み込んでしまい、残る半分をどう食おうかと睨んでいる最中。片手でピッチャーをつかみあげ、ビールの残りを一気にあおる。「クゥー、たまんね。いくらでも食える。」

インターホンが鳴り、斉藤は立とうとするが、スッと腰があがらない。すきっ腹に酒からいったものだから、酔いが早く回ったようだ。代わりに五十嵐が出る。光っているボタンを押すと、ダミ声が「狐ちゃぁん!」と言う。後ろでウップと斉藤がえずく。内ドアを開けると、ドシンドシンと足音が近づいてくる。部屋のドアをドンドンとノックしてくる。扉のボタンを押して、ドアをスライドさせてみれば。ワニのような奴が、テカテカのウロコで包まれた太い腕を差し出して、「よぉ狐ちゃん。閉店間際にこんなもの注文するんじゃねぇ。窯の温度見るの大変なんだからな。」と言って、持参したケモノサイズのピザを、ドスンと床に置いた。

「注文するように仕向けたのは、そっちじゃねぇか。っつうか、お前だろ。」
6枚目のピザの箱に手を伸ばしつつ、斉藤はうなる。ワニは、バレたかというふうにベロリと舌を出して見せ、それから五十嵐のほうへかがんで、「毎度ありがとうございます。」ちょっと頭をかしげて、微笑んで見せる。と、次の瞬間、フッと、空気のようにその姿を消した。

「え?」
五十嵐の口から、思わず声が漏れる。廊下をのぞくも、誰もいない。狐じゃなく、まさかワニにつままれるとは。チョンと、何かが五十嵐の後頭部をつつく。振り返れば、もう目のすわった斉藤が、面白そうにニヤけた顔をして、尖った爪で自分の頭をつつこうとしている。

「あいつはもう行った。早くドアを閉めろよ。」
斉藤はその爪で、インターホンのボタンを示す。その示した爪が、ユラリユラリと、ゆるやかに揺れている。これはもうだいぶん、夢心地になってきているらしい。言われるがまま、五十嵐はボタンを押して、ドアを閉めようとした。しかしその時、斉藤の手が、五十嵐の手をわしづかんで、ボタンを押すのを止めた。「まって。トイレ行かして。」

ズシンと、床を踏み抜きそうな勢いで、斉藤は歩き出す。明らかに、姿勢制御できていない感じ。両手を壁に滑らせ、危なっかしく体を支える斉藤を、五十嵐は止めようかどうしようか、決めかねている。途中で倒れられては、あの図体。起こすこともできない。あの体ならば、外で一晩寝ころがろうとも、何の心配もないんだろうけど。

「待てよ。そんな酔っ払って、戻って来れるのか?」
五十嵐は後ろから、斉藤の胴体にすがろうとしたが、やめた。前に冗談のつもりでそれをやって、あの大きな手で、反射的に張り倒されたことがある。元野生生物とはいえ、不意に背後をとるというのは、こちらの身が危ない。「風呂でしてもいいんだぞ。」五十嵐は親指で、部屋の奥の風呂場を指差す。車椅子用の風呂場だから、斉藤が入るスペースはある。

「だいじょうぶ。だいじょうぶ。」
相変わらずの緩慢な動きではあれ、斉藤はもう、内ドアの前まで進んでいた。ほどなくゴロゴロという音とともに、内ドアが開く。その先の、沢山の掲示物のことを思うと、五十嵐はもう、諦めの心境にもなったが。しかし野生の神秘と言うべきか。斉藤はそこから、時々は掲示板や郵便受けに身をもたれつつではあれ、ほぼ自立して歩き出した。何かの調子に乗って、一歩一歩、軽快に踏み出しているかのようでもある。そのまま何事もなく、明るい通路を抜けていく。ついに、斉藤の尻尾の先までもが、外の闇に飲まれようかという刹那。五十嵐は斉藤の肩を支える、何か硬そうなものの連なりに、サッと一条の光が走るのを見たように思った。あのワニかな?。確信はなかったが、現時点で合致しうるものは、ほかになかった。

斉藤が帰ってしまうのではないかという、五十嵐の不安は外れた。思いのほか時間は経ったようだが、外の闇のなかから、ヌッと、斉藤の両手が出てきて、外ドアの左右の枠を支えにしながら、次いで鼻先があらわれ、胸毛があらわれ、そうしてついには大きな足が、自動ドアの敷居をまたいで、ズシリと通路の明かりのなかに踏み出された。

内ドアの前まで来て、斉藤は、部屋のドアからこっちを見ている五十嵐の姿に気づき、ちょっと首をかしげた恥ずかしげな素振りで、ゆっくりと、小さく手を振って見せる。五十嵐は微笑み返しこそすれ、目は笑っていない。玄関へ引っ込んで、鍵のマークのボタンを押してやる。ゴロゴロと、物憂げに内ドアが開いて、斉藤は無事、用をたしてのご帰還となった。

「待って。足洗ってやるから。」
玄関には、斉藤のサンダルが置き去りにされてある。斉藤は裸足のまま、公衆トイレに出入りしてきたわけで。衛生上、このまま部屋へ上げるわけにはいかないと、五十嵐は考えた。風呂場へ取って返し、洗面器にお湯を入れて、ちょっと思案してから、手ぬぐいではなく、バスタオルをひっつかむ。と、玄関でパパンッ!という、クラッカーを続けて2つ鳴らしたような音がして、斉藤が何かうめいている。え?撃たれた?五十嵐は職柄、反射的に戸棚の陰へ身を隠して、玄関の様子をうかがうが。しかし人影はない。斉藤はといえば、玄関の横のトイレの側に、尻餅をついてしまっている。力なく持ち上げられたその手の先に、赤いものがついているのを五十嵐は見た。

「斉藤!」
思わず叫んで、斉藤のもとへと駆け寄った五十嵐だったが。しかし思いのほかの惨状に、「これは、これは…」と呟いてしまった。

「座っちまったぁ。」
尻下がりの力無い声で、斉藤はぼやく。座布団だと思ったのか、斉藤は見事、ケモノサイズのピザの箱ど真ん中に、尻餅をついていた。箱の四辺を突き破って、ピザソースやらチーズやらソーセージのかけらやらが爆散している。斉藤の手の先に見えた赤いものは、トッピングのケチャップらしい。ほかにも何か容器に入っていたようだが。無論、斉藤の体重に耐えられるわけもなく。パパンというクラッカーのような音は、それだった。

「どうした?泣いてるのか?」
五十嵐は斉藤の目に、涙が湧いているのを見て取った。コイツが泣くなんて、初めて見たな。でもなんで?。五十嵐は靴下が汚れるのもかまわず、斉藤に近寄り、しょげかえった顔をのぞき込む。「あんな豪勢な食いかたをしといて、これくらい何でもないだろ。明日片付ければいいんだから。掃除、手伝ってくれるだろ?」

「終わりだ。こんな迷惑かけちまって…」
斉藤はそう独りごちた。涙は止まらず、頬をつたってポタリポタリと、幽霊のように下げた両手の甲や、両の太ももに落ちかかる。

「まてまて。今、足を洗ってやるから。話はそれから、中で聞くよ。」
五十嵐は、お湯とタオルとを取りに、風呂場へと戻る。斉藤の足は思いのほか大きく、肉球の間からは無駄毛が茫々と生えて、洗いにくいったらありゃしない。片足だけでも1度ならず、お湯を取り替えねばならなかった。

「今日はもう帰るよ…」
しんみりとそう言って、斉藤は、自分の足を洗う五十嵐の横顔を、ただ眺めている。

「さあ済んだ。飲みなおそうぜ。」
床のピザソースも一緒に拭き終わって、五十嵐は洗面器とタオルと、汚れた自分の靴下とを、玄関の隅へと追いやった。自分は立ち上がったが、斉藤はなお動こうとしないので、五十嵐はもいっぺんしゃがみ込み、自分の両手で斉藤の片腕を持ち上げようとするが。まあ持ち上がるわけもない。五十嵐はどうしようもないので、ポンポンと斉藤の腕を叩きながら、「ほらほら。せっかくの休みじゃないか。楽しもうぜ。」と、声だけは威勢よく言ってみる。

うん、と、斉藤は力無くうなずいて、身を返そうとはするんだけれども。ピザが箱ごと尻に貼り付いてしまっている。五十嵐は斉藤の背中へまわり、斉藤の尻からピザを引き剥がしてやった。

「Gパンも脱いじゃえよ。洗濯するから。明日には乾くだろ。」
五十嵐は、自分がベッド代わりに使っているソファのところへ行き、座る部分を引きあげて、なかから1枚、タオルケットを出してくる。斉藤は言われるがまま、トイレのほうを向いて腰からベルトを抜き、ズボンを脱いで、五十嵐から受け取ったタオルケットを、横長にしてぐるりと腰に巻いた。長さはちょうどよかったが。しかし、巻いた先をどう止めたものだろうか。五十嵐が手伝って、あれこれとはやってみるものの。斉藤の体の硬性と、タオルケットの柔性とがしっくりとは馴染まず、脇で縛っても、巻き込んでみても、なかなか上手いこと止まってくれない。安全ピンなどという小洒落たものは、ここにはなかった。

「千切っちまいそうだ。」
斉藤も五十嵐も、困ったなあと、お互いの顔を見やる。斉藤は片手で股間を押さえながら、照れくさそうな顔をしている。いいぞ。いつもの斉藤が戻って来つつある。マジで今、コイツにいなくなられたら困るからと、五十嵐は奮闘していた。

「あ、ベルト。ベルトで巻けよ。」
五十嵐は、トイレの前へ落とされたままの、斉藤のベルトを取りあげた。これもまた重たい。腰痛防止のベルト並みに幅がある。無数のシワは、すれて染料を失い、地の皮の色が出てきてしまってはいても、いい造りの品物ではあるなと、表にし裏にしてみて、五十嵐は思った。特に縫製がいい。三重の糸できっちりと仕上げられ、ロウ付けまでされてあるじゃないか。

斉藤はベルトを受け取ると、折り返せる程度の余白をタオルケット上端に残して、自分の腰にグイと締め込んだ。残した上端を折り返せば、もう脱げることはない。斉藤はフラダンスのように、腰を振って見せる。五十嵐は苦笑い。

「ちょっと、そっちへ引いて。」
食卓へ戻り、五十嵐は斉藤に、食卓を少しばかり、自分のほうへ引いてくれと頼んだ。戸棚の側へ間隔ができ、五十嵐は下の扉を開けて、とっておきの、12年もののウイスキーを出してきた。斉藤には手振りで、食卓を戻してもらう。さすがに、こればかりはピッチャーでというわけにもいかないので、新たにグラスを斉藤の前に置き、自分はショットグラスを持ち出して、ウイスキーをあける。キュッという小気味よいコルクの音がして、濃い琥珀色の酒が注がれる。

斉藤は目を輝かせて、自分のグラスを手に取った。五十嵐がやるように、自分も鼻をフンフンいわせて、その香りをたしなむ。そして大きな口をあけて、一気に喉へと流し込んだ。目を閉じて、フーッと、長い吐息をする。頬が火照ってくるだろうが、毛で見えない。「いい香りだ。こういうのは、久しぶりに飲んだぜ。」

「だろ。もう手に入らないんだ。水がダメになったから。」
五十嵐はウイスキーのラベルを、愛おしそうに親指でなでる。2273とナンバリングされた、よき時代のウイスキー。

「いいのか?」
斉藤は五十嵐の顔をのぞき込む。

「もちろん。」
五十嵐は斉藤のグラスに、惜し気もなくウイスキーを注ぐ。今飲まないで、いつ飲むというんだろう。「それ、いいベルトだね。高かったんだろ?」

「嫁にもらったんだ。こっちへ来る時に。」
斉藤はあいた手で、ポンとベルトを打つ。「ベルトだけな。バックルはこっちで買った。」

「てことは、ひょっとして手作り?」
五十嵐は、食卓に手をついて立ち上がり、斉藤の腰をのぞき込む。「そっか。ヒトの仕事じゃない気はしたんだ。ベルトでそんな縫いかたは、見たことがない。」

「刑事になるのが決まって、みんな、すごく喜んでた。」
斉藤は、空になったグラスを、鼻先で揺らす。「俺らが就けるのは、体力勝負か、風俗くらいだ。刑事なんて前代未聞だった。」

「期待されたんだ。」
五十嵐はウイスキーを手に取り、斉藤のグラスに注ごうとする。「プレッシャーは嫌だな。僕は…」

「いや、もうやめとく。大事な酒なんだろ?」
斉藤はグラスを食卓に置き、代わりにピッチャーをつかむ。「ビール、いいか?」

「じゃあ僕も、ピザもまだ残ってるよ。冷めちゃったけど。」
五十嵐は、空のショットグラスを鼻先に揺らして食卓の上へ置き、代わりにグラスを引き寄せ、缶ビールをつかんで、まずは斉藤のピッチャーに、なみなみと注ぎ込む。「冷えてないのでよければ、まだ2ケースあるから。」

「これこれ。」
斉藤は、喉を鳴らしてビールを半分ばかり飲むと、フゥと吐息をして、ピッチャーを食卓に戻した。涙は止まって、もう目がトロンとしている。「期待っていうか…、前例ってやつだな。」

「前例?刑事になったのが?何の?」
五十嵐は、残ったピザの箱をあけて、ひと切れ取ろうとするんだけれども。チーズがもうすっかり固まってしまって、具材はみな残ってしまい、取れたのは生地だけだった。なんだこれという顔で、五十嵐は斉藤の顔を見る。斉藤は指をさして笑う。

「かぶりつけ。かぶりつけ。俺にもくれ。」
差し出されたピザの半分を、斉藤は片手でむしり取る。全部持っていかれそうになり、五十嵐も両手で応戦するが。しかし結局、斉藤に全部持っていかれた。「んー、うまい。冷えたピザもイケるなんてな。あれは食えたもんじゃねぇ。」

ピザソースでべとべとになった片手を、斉藤はさもうまそうになめまわす。五十嵐も真似して、両手をなめる。自分も大分酔ってきたなと、五十嵐は我ながら笑ってしまった。まあ確かに、フォークとナイフとで上品に食べるよりかは、こうして手づかみで食べたほうが、ピザはうまい。

「俺らは、何て言うか、知的な仕事には、まず就けないからな。」
残りのビールをグッとあおって、斉藤はピッチャーを持ったまま、壁に身をあずける。半分夢心地と言ったところか。「刑事もやれるんだっていう、前例だな。それが誰かを、そういう仕事に就かせる。だから俺は、失敗しちゃダメなんだ。だのに俺は…」

トロンとした斉藤の目は、うるうるとして、涙がひと筋、頬を流れた。床に置かれたソファのマットを引き寄せて、斉藤はピッチャーを抱いたまま、横になろうとする。

「寝るかい?毛布持ってくるよ。」
五十嵐はちょっとフラつきながら、立ち上がると、丸メガネを食卓の上へ置いて、テレビのリモコンに手を伸ばす。感覚で電源ボタンを探し、テレビを切る。それからソファへ行って、毛布を1枚持って戻った。

見れば斉藤は、ピッチャーを床へ転がしてしまい、ソファのクッションを枕に、太ももの間に両手をうずめて、目を閉じている。何かブツブツ言ってはいるが、人語でないのか、五十嵐には分からない。

「ほぉら。毛布持ってきたぞ。ほら!」
五十嵐は毛布を広げて、斉藤の耳のそばでしゃべりながら、大きな体にこれをどうかけてやろうかと、横にし斜めにしてみる。

「すまん…」
寝言を言いながら、斉藤は毛布をひったくる。毛布の向こうに五十嵐がいることなど、思いもつかない様子だ。斉藤の大きな手が、毛布ごと、五十嵐の腕をつかむ。そのまま、五十嵐は毛布に包まれた格好のままで、斉藤の抱き枕と化した。五十嵐の脳裏に、大型機械に巻き込まれる事件の映像が、鮮明によみがえる。しかしその腕は優しく、その体は温かく、その両足は、自分の足がへし折られるかと、五十嵐はおののいた。頭上で地鳴りのように聞こえる、斉藤のいびきがすごい。これはもう、何を言ってもアカンと、五十嵐は諦めた。

翌朝。チュンチュン。

「んふぅ…」
斉藤の寝ぼけた溜め息が、毛布を介して、五十嵐の頭に吹きかかる。結局、五十嵐はひと晩、斉藤の抱き枕だった。クンクンと、五十嵐の耳元で、斉藤の鼻が鳴る。と、五十嵐はいきなり投げ出されて、食卓の脚に頭をぶつけた。「にゃ、んで、おまえと寝てんだ!」

「いでで…」
五十嵐は頭をさすりながら、まん丸に目を見張る斉藤の顔を見やる。足がズキズキと痛む。そりゃあ、あんな太ももに、ひと晩圧迫されてりゃ、感覚もおかしくならぁな。五十嵐は毛布の端をつまむと、斉藤にそれを揺らして見せた。「覚えてるか?覚えてないかもだけど。」

「毛布?毛布がどうした?」
斉藤は、怖い顔のまま、壁を背にしてあぐらをかいた。ソファのマットが2つ、尻の下で、ぺたんこになっている。それでも何かしら覚えがあるのか、斉藤は片手を持ち上げて、自分の顔の前で、にぎっては開いてしていた。突然、あっという顔をして、その手でぺチンと、自分の顔を叩く。「あれ、お前の腕だったのか…」

「つぶされるかと思ったわ。」
五十嵐は笑って、身を起こすと、食卓の脚に寄りかかって、あぐらをかいた。毛布をたぐって、床の上に丸めて置く。

「すまん。またやっちまったな…」
斉藤は、自分の顔を打った手で、頭をかいている。お互い、あぐらをかいたままで、部屋のなかを見渡す。玄関には、弾け飛んだピザソースの跡が見え、座る部分が持ち上がったままの、マットのないソファが見え、食卓の周りには、缶ビールの空き缶と、空になったピザケースとが、いくつか散らばっていた。

「朝飯、どうする?」
五十嵐は立って、食卓の上に置かれた丸メガネをかけた。缶ビールとピザの空き箱とを、戸棚の側へと押しやる。落ちた空き缶が、カランカランと、軽快な音をたてて床に転がった。「トーストと、目玉焼きくらいなら、作れるよ。」

「じゃあ俺は、」
と、斉藤は立ち上がって、床に転がった空き缶を踏みつぶし、両手でピザの箱の山を、いとも簡単にひねりつぶす。「この辺のゴミどもを片すぜ。分別は任せろ。」

「なぁ…」
冷蔵庫から卵のパックと野菜とを出してきて、キッチンに並べながら、五十嵐は言う。「昨日、おまえ、自分は前例だって言ってたろ。それ、僕もなんだ。」

「?」
カラン、カランと、ぺちゃんこになった空き缶の山を、燃えないゴミの袋へと投げ入れる、斉藤の手が止まった。「おまえも?何のだ?」

お互い、背中を向けたままで、五十嵐はIHにフライパンをかけ、斉藤はカランカランと、残りの空き缶を燃えないゴミの袋へと投げ入れる。換気扇の向こうから、チュンチュンと、スズメの鳴き声が聞こえている。町内会の廃品回収のアナウンスの、だみ声が聞こえてくる。

「めずらしいだろ。その…、僕みたいなのは。」
五十嵐は、熱くなったフライパンに油をしき、あるだけの卵を落とす。ジュッという、小気味よい朝の音が部屋を包み、白身の焦げる香ばしいにおいがしてくる。頃合いかなと、五十嵐は戸棚からトーストの袋を出して、使い古したポップアップ式のトースターにセットする。

「そうだな。」
斉藤はそう言い切った。五十嵐の両肩が、ぴくりと、ちょっとだけ上がり下がりしたのを、斉藤は確かに見た。やや気まずい雰囲気が部屋に流れる。最初の1秒は意外と長い。斉藤は頭をあげて、鼻をひくつかせる。「おい、なんか焦げてないか?」

「え?、あ…」
五十嵐はフライパンに駆け寄って、シンクの鉄板の上へと置きなおす。「強火のままだったわ。あちゃー。ウェルダンだなこりゃ。」

「俺らの朝飯よりゃ、うまそうだぞ。」
斉藤はノッソリとやって来て、五十嵐の頭越しに、焦げた目玉焼きを見下ろす。そして身をかがめて、五十嵐の肩に、おのおの、その大きな手を置いた。斉藤の大きな口が、五十嵐の耳元にある。もしも夜中だったら、ホラー映画の捕食シーンさながら。「俺がこんなにやらかしても、おまえは告げ口しようとしない。普通ならとっくにクビになってるとこだ。俺たちを見る目は厳しいからな。だのにおまえは、俺にひと晩羽交い絞めにされてても、なんともない顔をする。いろいろおごってくれるのは、補助金が出ているのを俺も知ってる。それだって、俺らをネタに、ケチってカネを儲けようという輩が、いっぱいいやがる。でもおまえは、俺におごれと言ったことはない。昨日は俺の足を洗ってくれた。何をたくらんでやがると思ってた。すまん。おまえみたいな奴に、俺は会ったことがないんだ。」そう言うと、斉藤は身を起こして、食卓へと戻った。「バターあるのか?ある?そいつはいい。早く食おうぜ。」

五十嵐は、フライ返しをノコギリのように使って、目玉焼きをフライパンから外しにかかる。カシャッと音がして、トーストが焼きあがる。斉藤は食卓に両腕を投げ出して、指でトトトンとウエーブをやっている。待ちきれない斉藤の目の前に、大皿に盛られた目玉焼きの山が置かれ、ご所望のバターが、箱ごと小皿に乗って出てくる。

「トースト、どんどん焼くから。トマトとかは、丸かじりでいいだろ?」
冷蔵庫にあるだけの、洗っただけの野菜を、五十嵐はザルにあげたままで持ってくる。「塩気とか、大丈夫かな。僕らの味付けは、濃いみたいだから。」

「イケるイケる。」
斉藤はもう、目玉焼きをつまみ食いしていた。トーストを指差して、バターを塗ってくれと、五十嵐に頼む。狐色にこんがりと焼けたトーストの上に、五十嵐は、厚く切ったバターを乗せてやる。斉藤はウーともオーともつかない、歓喜の声をもらした。実はもう昼飯に近い時間なのだ。でもトーストの香ばしい香りが、水気をはらんだ野菜の輝きが、この部屋のなかだけを、朝に戻してくれている。

「コーヒーでいいよね?」
五十嵐は、斉藤にみんな食われてしまう前に、自分の目玉焼きを取り分けて、トースト1枚に薄くバターを塗り、席を立って、追加で焼けたトーストを取りに行く。そのついでに、戸棚から粉を出して、コーヒーメーカーにセットする。しばし黙々と食事が進むうちに、やがてゴロゴロという蒸気の音がしだして、コーヒーの香りが部屋に広がる。

「な、もしもさ。もしもだよ。」
五十嵐は、食べきれない目玉焼きの片方を、フォークの先でつつきながら、斉藤の顔を見やった。顔というより口だったが。斉藤はちょうど、そこまで口あけなくてもいいだろってくらいの大きな口をあけて、最後の目玉焼きにかぶりくつところだった。「もしも、大した失敗もなく、ケモノと組んで任務をこなせたって前例ができたら、僕らの仕事は、様変わりするだろな。食べる?」五十嵐は目玉焼きの残りを、皿ごと斉藤の前へと滑らす。

「いただきます。」
片手でヒョイとつまんで、斉藤は上を向いて、パクンと目玉焼きを食らう。ヒトで言えば、満面の笑顔だろう。目を細めて、うまかったというふうに、口の周りを一周、べろりと舌でなめ回す。それから両手で、パンパンと腹を叩いて見せた。

「朝から食うねぇ。年頃っていえば、食べ盛りだものな。」
五十嵐は笑って、コーヒーをいれに行く。何かないかなと、数少ない食器のなかから、どんぶりを取り出して注ごうとするが。はたと考えて、斉藤のほうへ振り返る。「おまえ熱いの大丈夫?アイスコーヒーにもできるけど。」

「冷たいのくれ。俺は猫舌なんだ。」
斉藤はベロンと舌を出して見せる。ザルのなかに、まだ小さなトマトが残っているのをみつけて、ぷるんと耳が振るえる。五十嵐はどんぶりをもって冷蔵庫へ行き、氷を山盛りにして戻ってくる。

「ピザやら目玉焼きやら、あんだけパクついてて、猫舌なのかい。」
五十嵐は笑って、どんぶりを斉藤の前に置き、自分は熱いコーヒーカップで、両手をあたためる。「さっきの話だけどさ。その時に、失敗なしで完璧にこなしましたっていうのと、失敗もしたけどこなせましたっていうのとで、次の奴の気持ちが違うと思うのさ。次の奴っていうか、僕らヒトの側の話だけど。」

斉藤は、どんぶりを両手で包み込み、フンフンと鼻を鳴らす。舌でピチャピチャと飲んで、頭をあげてフゥっと、コーヒーの香りを堪能した。「俺は、完璧なほうを目指してきたろ?。おまえん家へ来るまではな。そうだな。あれを、次の奴にもヤレってのは、気の毒かもしれんが…。やることやらんってわけにも、いくまい?俺ら野のケモノは、即、命取りだ。」

五十嵐はウンウンとうなずいて見せ、熱いコーヒーをすする。斉藤の言った、野のケモノというフレーズが、心地よく感じられた。

「でもな。いいんじゃねぇの?」
斉藤は、体をグッと前のめりにして言った。「凸凹コンビ。テレビでやってるだろ。」

「テレビかよ」
五十嵐は笑いながらも、それでいいのかもしれないと思った。今まで通りで。「足して2で割る、か。おまえはおまえ、僕は僕。でもさ、見てて腹立たない?例えばほら、僕は仕事より生活のほうを優先し勝ちだから、完璧を目指すおまえからしたら、努力が足らんように見えるかもよ。それで任務が、ダメになりかけでもしたらさ。」

「俺だって、完璧さのために、突っ走るかもしれない。」斉藤は、奥歯で氷をガリガリとやりながら、片腕を五十嵐のほうへと伸ばし、手をくの字に曲げて、ドンと、食卓に置いた。「ここまでやらなきゃダメだって、ひらめいた時にはな。ひらめくんだ。時々。おまえん家へ来たのも、ひらめきだ。ここには何かあるってな。」

「ピザと缶ビールと目玉焼きだね?」
五十嵐は笑って、斉藤の顔を指差した。差された斉藤も、首をひねってニヤリとなる。伸ばされた斉藤の手の甲に、指差した自分の手を置いて、五十嵐はしんみりと言った。「楽しかったよ。久しぶりに。いい休日になった。」

「ほんとか?」
斉藤は、頭だけを巡らせて、部屋の有様を眺め渡す。昨日脱ぎ捨てたシャツが、床の上に折り重なっている。斉藤は、にわかに下を向いて、目を見張った。まだ、五十嵐のタオルケットを、腰に巻いたままでいる。「ズボン…」口を半開きにしたままの顔で、斉藤は五十嵐の顔を見た。

「忘れてた。もう乾いてると思うけど。」
五十嵐は脱衣場へ行き、夜のうちに乾燥まで済んでいた、洗濯機の中身をのぞき込む。改めて手に取れば、見たことのないサイズのGパンだった。洗濯機の中に、まだ何かある。見れば、ゴミポケットが、すごい量の毛で、パンパンにふくらんでいた。燃えなくてよかったと、五十嵐は今になって冷や汗をかいた。

五十嵐が食卓へ戻ると、斉藤は壁のほうを向いて、シャツを手に、天井を突き破りそうな勢いで、ウンと、背伸びをしている。もしも毛がなければ、その背中に鬼の顔を拝めただろう。

「ほら。」
と、五十嵐は斉藤に声をかける。上体だけ振り向いた斉藤に、洗ったなりの、たたみもしないGパンを放った。その足元には、きちんとたたまれたタオルケットが置かれてある。

「これ、どうする?」
ズボンをはき、ベルトを締めて、片手で頬の毛をなでつけながら、斉藤はかがんで、もう片方の手で、タオルケットを取り上げる。「洗濯して返すのが筋なんだろうが。官舎の洗濯機だからな。かえって毛だらけになるかもしれんし…」

「いいよ。クリーニングに出すから。」
五十嵐は戸棚から、クリーニング屋の洗濯物バックを出して、斉藤の前へ広げて見せる。「ここへ入れて、部屋の前へ置いておけば、管理人が回収してくれるんだ。」

「へぇ。便利なもんだな。」
斉藤は、タオルケットをそのなかへ入れ、ついで、毛布を拾い上げると、それもちゃんとたたんで、バックのなかへと押し込む。「いくらかかったか教えてくれ。俺が払うから。」

「補助金で出るから。気にしなくていいよ。」
五十嵐は、伝票の品目にチェックを入れて、バックの表にある透明なポケットに差し入れる。

「こんなのまで出るのか。畜生あの野郎!。許さねぇ。」
斉藤は両目を見開き、歯を噛み締めて、両手をギュッと握り込んだ。鼻に幾筋もの深いシワができ、ピチピチと、シャツが悲鳴をあげる。見れば五十嵐は、脱衣場まで退避して、壁の向こうからこちらをうかがっている。「あ、すまん。だいじょうぶだ。」

「買出し、つきあってくんない?。冷蔵庫カラッポだ。」
五十嵐は、戸棚の引き出しから携帯を取り出して、ToDoリストを開く。「マンションのなかにスーパーがあるんだ。ついでに昼飯も何か買ってこよう。」品物を打ち込もうとして、五十嵐の手が止まる。「三丁目で事件だと。ハイツ未明ったら、鉄工所の裏だっけ?」

「そうだ。古いアパートな。話題には事欠かんとこだ。」
斉藤はようやく、片方のサンダルを履き終えて、残る片方にとりかかる。「あとにしようぜ。休日だからな。」

「へぇ。それ、おまえが言う?」
五十嵐は、買い物袋のマイバックを肩に下げて、携帯の画面を読み上げながら、玄関へと出てくる。「消防によると、未明にボヤ騒ぎがあり、火元の2階で、性別不明の遺体発見。ボヤで性別不明かよ。現場は去年から空き室。畳からケロシンが出たと。」

「よし。行こうぜ。重いものは持ってやる。」
斉藤は、器用にも爪の先で、インターホンのドアのボタンを押す。入口がスライドして開き、湿った生暖かい廊下の空気が流れ込む。

「雨でも降るんかな。」
五十嵐は携帯で天気予報を開き、付近の1時間天気を見た。「これから雨だと。大きな傘マークがついてるわ。なか歩いて行けるから、関係ないけど。」

五十嵐の後ろで、部屋のドアが閉まる。斉藤が何か言っているようだ。ドシドシという振動が、内ドアとは反対のほうへと遠ざかる。部屋の換気扇から、シトシトと雨音が聞こえてくる。時折、どこか金具に当たった雨滴が、ポカンと、気の抜けた音を出す。


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今更かもしれませんが

2025年07月31日 | 読み物

おととい何があったん?

なんか、いつもの3倍近いPVになってて。

たまーにそういう、

変光星のガス抜きみたいな

よく分からんインフレーションが

起きたりするこのブログです。

大歓迎です(笑

 

ところで、

僕はここへ小説を

載せたりしてますが。

多くは、

某イラストサイトのコンテスト

(お題)をスターターとして、

そちらで書いて投稿したものを、

時間差でこちらへ転載したものです。

なんでそのイラストサイトかというと、

投稿画面で書きやすいからです。

なんでgooブログを選んだか

の答えと、同じです。

ほかでは一度ワードで書いて、

投稿画面に貼っつけてました。

スペースや段落の符号が違うとこもあって、

文字だけべたっと貼り付けてから、

手動で段組みしてたこともありました。

そんなときgooブログに出会った。

そのイラストサイトを見つけた。

そこでみんながやってることと

違うことをしても、

需要がないので。

世間一般から見れば偏重でしょうが、

その世界では約束なのです。

せっかく足を運んでくれた

読者へのお土産は、

僕に可能な方向性と範囲で

になりますけれども。

何もないよりはと

思うものです。

殊に今時は、

文章を読んでもらうだけでも、

けっこうな努力なわけですし。

 

そんなんで、

一部の描写が濃かったり(笑

薄かったりもしますが。

お目こぼしのほど。


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シトロン

2025年07月20日 | 読み物

蒸し暑さはそのまま、ただ日付けだけが更新されていく、とある夏の夜。美しい星空も、ちょっと歩けば喉が鳴る、気の利いた飲み屋街もあるというのに、このむさくるしい1課の凸凹な2人の刑事らはさてさて、何か1枚の紙切れを前にして腕を組んだまま、ひと口もしゃべらない。

「あー…」と、そのひとりの斎藤が、特あつらえの椅子をメキメキ言わせながら、大きく後ろへと背をそらす。あくびをしながら、グッと両手を握りしめる。浮き出る血管。背中の毛が一斉に逆立ち、いい加減に着たシャツが、千切れんばかりに後ろへと引かれ、厚い胸の形をなぞった。ギュッとつむった目から涙が、底無しの穴のようにあいた口からはヨダレが流れる。犬歯の先はやや丸みを帯び、口元まで居並ぶゴツゴツとした歯という歯はみな黄ばんでしまったが、まなこだけはなお、少年のように生々しい。

「おぃ、飲みに行こうぜ。」斎藤はのけぞった勢いで、今度は両手をドシンと机に落とす。「今夜はユキコちゃんと飲める日じゃねぇか。」片手を持ち上げて、くっと、グラスを傾ける仕草をする。

「そだね。」とだけ言って、相方の五十嵐は、斎藤の向かいの自席を立つ。坊っちゃん顔にズレて乗っかった、丸いメガネを片手で押し上げて、長いこと眺めたその紙切れを元通りの封筒にしまい、捜査ノートに挟む。

斎藤も立ち上がって、今度はグァァという感じで、全身の伸びをする。ん?、見れば、相方の五十嵐が、シャツからはみ出す自分の胸毛を見やって、うわ…、という顔をしている。斎藤は片手で、シャツの胸辺りをなでつけ、はにかむような、ニヤけた顔になる。
「残業続きで、ろくな手入れもできん。おまえらニンゲンは楽でいいよな。乾かすの大変なんだぜ。」

「洗っては、いるんだ。」五十嵐は、片手を胸に置いたままで無防備につっ立っている斎藤の前へ来て、シャツからはみ出す胸毛を触ろうとした。その手を斎藤のゴツゴツした大きな手がつまむ。そのまま鼻へ持ち上げてフンフンと嗅ぐ。

「何だ?、レモンか?」斎藤は相方の手を捨てて、捜査ノートをつかみにかかる。自分の胸と机との間で相方がギュウとか言っているが、それより先の封筒を取り上げて、嗅いでみなけりゃ。

「どう?」と言う五十嵐の後頭部が、手を伸ばす斎藤の脇の下から出ている。

斎藤は何も言わず、封筒を開いて、先の紙切れを爪で器用に取り出し、嗅いでみる。もう一度封筒を嗅ぎ、また紙切れを嗅いでみる。

「封筒だけについてやがるな。指紋は出なかったんだよな?」斎藤は、ようやく身を起こして、自重から解放した相方の顔を見やった。

「うん。出なかった。中の紙切れも。」五十嵐は振り向いて、斎藤の顔を見上げる。「つまり、紙切れを入れた奴と、封筒をポストに投函した奴とは、別ってことか。さすが。歩くクロマトグラフィー。」五十嵐は斎藤の顎をつつく。鼻をつつきたかったが、指が届かない。つつかれた斎藤の、ムッとした顔が視野の外に見えた気がして、五十嵐はとっさに手を引いたが、今回は間に合わなかった。

斎藤も、いつものことで、相方が避けるだろうと思った。が、実際は手をモロに食ってしまって、嫌な感触が口のなかにあった。慌てて、吐き出すようにして相方の手を離す。

「大丈夫。ほら。」五十嵐は、轢かれた被害者が直後に見せるカラ元気そのままに、血の引いた顔のままで、食われた手を何度も握っては開いて見せる。握るたびに床にシミが広がる。

斎藤は相方を抱え込んで、部屋のドアを一撃で吹っ飛ばし、隣の病院へと走った。たまたま夜間診療の当番病院で助かった。

「ヤクザの喧嘩で噛まれちゃって」と顔を赤らめつつ処置室に入る五十嵐。斎藤は気が気ではない。自分ら用の頑丈な椅子ではなく、近べの普通の長椅子に座ってしまっていることも忘れて、斎藤はその大きな手で頭を抱えた。と、誰かの手が自分の腕に触れる。小さな手。見れば、いつの間にか、呼吸機をつけた子どもがひとり、斎藤の隣に座っていた。

「かいじゅうさん」と、その子は呼吸機のせいか、消え入るようなか細い声で言い、斎藤の顔を見上げて、ニッコリと笑った。斎藤は思わずその小さな手を取って、両手の内にポンポンと抱いた。処置中のランプはなかなか消えない。子どもは斎藤の腕に寄り添い、斎藤は呼吸機に注意しながら、子どもの肩をその逞しい腕のなかへ迎えた。

「よっ。誰その子、可愛いね。」いつしか処置中のランプは消えて、手にギブスを巻いた相方の姿があった。あっと、斎藤はその真っ白なギブスを凝視する。長椅子が悲鳴をあげる。

「親指の付け根の骨が割れてたみたい。」事も無げに言う五十嵐。えっという顔をして、斎藤は固まってしまうが。しかし子どものことは忘れていない。

「さ、飲みに行こうよ。あのコに会うの、楽しみにしてたろ?」と言っても動かない斎藤に、五十嵐はも一度「さあ。」とせかし、自分はスタスタと歩きだす。

斎藤は、子供の顔が完全に隠れるほどの手で、子どもの頭を撫でて、ようやく長椅子を立つ。長椅子がギュッと安堵の溜め息をつく。

「かいじゅうさん、ばいばい。」子どもは座ったまま、力なく斎藤に手をふって、それから億劫そうに長椅子に両手をついて立ち、廊下を奥へと歩いていく。斎藤は、子どもの姿が廊下の暗がりに紛れるまで、手を振り返した。

「払う。俺が払うから。」そこだけ明るい会計の窓口に相方の姿を認めて、斎藤は手を前へ突き出してドシドシと駆け出す。

薬瓶が揺れだして、地震かと、会計の若いコが窓口から頭を突き出した。駆けてくる斎藤を認めるなり、「走らなきで!」と、声を抑えて叫ぶ。

斎藤は立ち止まり、頭をかきながら、「スンマセン。いくらですか?」と言って、Gパンのポケットから財布を出した。らしくない斎藤の仕草に、五十嵐は思わず笑ってしまった。

「あ〜ら、狐さんいらっしゃい。待ってたのよ。今夜は来ないのかと思ったわ。」ユキコは今夜も張り切っている。道々、浮かない顔で歩いてきた斎藤だったが、ユキコの顔を見てようやく元気を取り戻したようだ。五十嵐のギブスのことは、ユキコは何も言わなかった。ただ、いつもであれば歩合のいい酒を勧めるところ、今夜は自分から「烏龍茶でいいかしら?」と言ってきた。経験から、傷の具合を見て取ったのだろう。

「ユキコちゃん、ついでくれ。」早速、斎藤の横へ陣取ったユキコ。チビチビと烏龍茶をすする五十嵐の向かいで、斎藤はゴクゴクと酒を飲み込んでいく。そのガタイだもの。空瓶がゴロゴロと転がっていく。ユキコは斎藤の口元から垂れる酒を、斎藤の腕にすがって手を伸ばし、紙ナプキンで拭いてやる。

五十嵐はふたりの様子を笑って見ている。もう目がトロンとしてきた斎藤の顔を見上げて、コイツは狐なのかなと、その配色を改めて確認する。なるほど、耳先の黒いのや、赤っぽい毛並み、それでいて腹の側は、今はもうシャツからはみ出し放題にはみ出した胸毛なんかは、つややかなクリーム色で。手が黒くないのを除けば、まあ狐と言われても妥当だろう。斎藤はユキコの手を取って、頬でスリスリをやりだす。もうほぼ出来上がっているらしい。

「ねぇ、何か匂う?」スリスリをやめて、ユキコの手を鼻でクンクンする斎藤に、困惑気味な面持ちでユキコが聞く。向かいで見ていた五十嵐も、スリスリは尋常だが、クンクンは見たことないなと、相方の未知の仕草に注目している。

「ユキコちゃんの手、レモンの匂いがする。これなに?」と斎藤が言う。五十嵐は思わず烏龍茶のグラスを握りしめ、もう片方の手で、ずり落ちた丸メガネを押し上げた。

「え?分かる?さすがワンちゃんね。」ユキコは斎藤のうなじを撫でながら、嬉しそうに話した。「店に出ると何度も手を洗うから、肌荒れが嫌なのよ。オクシテっていう外国のハンドクリーム、女友達の間で評判がよくてね。前から欲しかったんだけど。高くてなかなか買えなかったの。こーんな、スイカみたいなレモンの原種を使ってるそうよ。それをプレゼントしてくれたひとがいたの。」

「なにぅ!」と、頭をあげる斎藤。「俺のユキコちゃんにプレゼントあげたのどいつだぁ。ね、ユキコちゃん、そいつ食べていい?」もはや可愛いペットだなと五十嵐は笑った。

「無理じゃないかしら。」思わせぶりなユキコ。あなたもご存じよと言いたげな感じで、五十嵐の顔をちらっと見て微笑む。自分の腕にすがる、狐ちゃんのうなじを優しく撫でてやりながら、ユキコはそっと、「署長さんよ。」と斎藤に耳打ちした。

ばっと、斉藤が起き上がる。両耳をピクピクさせてから、今度は本当に突っ伏して、軽いイビキをかいて寝てしまった。

「うふふ。可愛い寝顔。」ユキコは、愛おしそうに斎藤の頭を撫でて、五十嵐に、「このまま看板まで寝せてあげて。何があったか知らないけど、今日はいつもと違ったし。」

「すいません席使っちゃって。」五十嵐は相方の代わりに詫びた。けど、看板までに起きなかったらどうしよ?。おぶって帰るなんて絶対に無理だ。

「チャージはよろしくてよ。店長にお願いしときます。あなたもゆっくりしていって。お好きなもの召し上がって。」ユキコはそう言って、斎藤の盛り上がった肩を撫で、次の接客へと向かった。

結局、斎藤は起きず。起こしてはみたものの、
マトモに歩かれずで。困った五十嵐は、はす向かいの店に斎藤の知り合いがいることを思い出して、お願いしに向かった。

「お客さん?ここはヒトはちょっと無理だよ。」開いた小窓の向こうから、馬面がそう告げてよこす。さっさと小窓を閉めようと、大きな茶色い手が小窓のノブをまさぐる。

「斎藤のことで来たんです。酔いつぶれてしまって。」五十嵐は慌てて小窓に取りつき、シッシッという馬面の手ぶりにもひるまずそう言った。すると相手の態度が変わり、今度は大きな目が小窓からこちらを覗く。

「斎藤って、狐ちゃんかい?へぇ!、あいつが酔いつぶれるなんてことがあるのかい。それは、そいつは。あんたじゃ無理だわ。」そうだけ言って、馬面は小窓の向こうへ行った。「狐ちゃん」「えぇあいつが?!」みたいな声だけが聞こえてくる。やおら、馬面が戻ってきて、「あの店だろ。今ケンちゃんが行くから、あの店で待ってな。借りは作ったぜ。」それきり、ピシャンと小窓は閉まった。

ケンちゃん?誰だろ。そう思いつつ店へ戻ると、もうケンちゃんは来ていて、斎藤を脇から抱えに入るところだった。

「う、牛?」急いで来たんだろう。腰みのをつけただけの半裸のミノタウルスが、五十嵐の目の前に立ち上がった。

「あ、あなた、パートナーの五十嵐さんね。俺、連れて帰るから、心配しないで大丈夫。」そう言い残して、ミノタウルスは軽々と斎藤を背負い直すと、ドシドシと店を出て行った。出て行きしな、斎藤がそれと聞きまごうような、か細い声で、すまん、すまん、と言っているのを五十嵐は聞いた。

「これでよし。」夜のしじまに消えゆく斎藤の後ろ姿を眺めつつ、五十嵐はひとつウンとうなづいた。今日は散々だったが、あしたがあるさ。

「あの、」と、五十嵐の背後で、年配の男性の声がした。「お会計、まだなんですが…」

「うそっ」と、五十嵐は思わず口に出てしまった。「いくら?。足りるかな…」よかった。クレジットカード使えた。

「すまん。ほんっとーにすまん。」翌朝、五十嵐は出勤するなり、他の署員の前で、斎藤に土下座された。こんなの初めて。何がどうしたのやら。とりあえず、相手の誠意は受け取らねば。

「一緒に…、昼メシおごってくれたら許す。」あァブナイ。そして直後、せめて夕飯と言えばよかったと、椅子の背に手を添えつつ自席につく五十嵐。まあ、おごってくれ自体、斎藤に向かって言ったことないから。お互いイレギュラーで釣り合ってんじゃないか?

斎藤もそこは気づいたようで。「おぅ!なんでもいいぞ。」

「じゃあ俺、ポークソテーな。」「私はSランチね。」周囲からもお声がかかる。楽しい職場だ。斎藤は照れながら、大きな手を振ってみせる。

「食いたきゃ俺の相棒になれ。コイツ以上のな。」斎藤はギャラリーにそう応じて、五十嵐の向かいの自席につく。「もいっぺん嗅がせてくれ。あの封筒だ。」

五十嵐は捜査ノートから、くだんの封筒を取り出して、斎藤に渡そうとした。

「いや、お前が持っててくれ。俺は昨日、あのコの手に散々触ったからな。」斎藤は両手を後ろへ組んで、鼻先だけを封筒に近づけた。「同じ匂いだ。間違いないな。」

さすが、と言いそうになって、五十嵐は笑ってごまかした。またかじられでもしたら、面倒なことになる。昨日、斎藤が粉砕したドアは、もう朝イチで交換されていた。部長も何も言わないな。労災と分かって、わざわざ向こうから何か言っては来ないだろうが。

見れば、斎藤は神妙な面持ちで、両手をひざにして、ゆっくりと腰をおろしている。「でもなんで、指紋が出ないんだ?」言い終えて、斎藤は五十嵐の顔を見やる。

「それは」と、五十嵐は姿勢を正して言う。ほかの生きものはしないが、ヒトはするのだ。「ハンドクリームの成分をより浸透させるのに、手袋をするからさ。」

「手袋?」斎藤は上の空だ。そういう目的で手袋をする御婦人がたの仕事明けの場面を、斎藤はまだ見たことがないのだろう。「俺らはしねぇな。」斎藤は自分のゴツい両手を、顔の前に裏にして表にして見入っている。

「御婦人だけじゃない。男もするさ。」五十嵐はこっそり、部長のほうへ目くばせをして見せた。

「へぇ、男もするのか。」斎藤は目を見開いて、これは驚いたという顔をしている。が、意を汲んで部長のほうは見ずじまいだ。

うんと、五十嵐はうなずく。「大体は使い捨ての手袋だから、外側に指紋やクリームがつくことはないだろう。化学分析では何も出ないわけさ。」コイツすごいなと、五十嵐は素直に思う。

「何かついてるか?」五十嵐に見つめられて、斎藤は顔を手でぬぐってみせる。

「いや。ともかくこれで、この封筒を扱った奴が、ヒトだということは確かになった。中の紙切れからは、何も感じない?」五十嵐は封筒を開いて、中の紙切れを取り出し、斎藤の鼻先に突き出した。

「ない。お前のにおいしかしない。」クンクンと鼻を鳴らして、斎藤はそう断言した。「そもそも、この紙切れは何なんだ?。何も書いてないのか?」

「ない。分析でも、あぶり出しとか、何か書いた跡とかは検出してない。元々はちゃんとした用紙で、何かの理由で一部分を破って残したのかもしれない。」五十嵐はその紙切れを、目の前で表にし、裏にして見つめた。

「身元不明のホトケ。目撃情報はなし。手がかりはこの封筒だけときた。犯人がヒトってのは、別の理由からも言えるな。俺たちだったら、食っちまえば済む話だ。」斎藤はニッと笑って見せる。口角に、険しく尖った奥歯がのぞいた。ヒトの骨くらいならば、楽に噛み砕けるだろう。斎藤は笑うのをやめて、何か判然としないものがあるのか、それきり黙ってしまった。

「斎藤、なあ、斎藤!」五十嵐の呼びかけに、斎藤はようやく気がついて、無意識に五十嵐を見返した。五十嵐は、とりつくろうように笑ってみせる。「怖ぇよ。野生の目っていうのか。お前、この封筒から、ほんとに、ほかには何も感じないんだな?」

斎藤は黙ったままで、うつむいている。両手を腹の前に組み、親指同士をぐるぐると回している。五十嵐が、もう一度声をかけようと、身を乗り出す。その時になって斎藤が、「ユキコちゃんのにおいがした。」と、ぽつりと呟いた。


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初詣

2025年07月06日 | 読み物

hito「ねぇ、しっぽ貸して?」
kemo「なんで?」
hito「書初めするの。ダメ?」
kemo「自分の使え。」
hito「歯ちゃんと磨いてんのね。」
kemo「やめ!触んな!」
hito「噛みますか?」
kemo「はい。」
hito「なに嬉しそうに。」
kemo「自分のでやれって!」
hito「ないもん。」
kemo「脱ぐのめんどい。」
hito「脱ぐ気あるんだ。」
kemo「気に入ってんの。この紋付。」
hito「普段、裸じゃん。」
kemo「引っ張るなって!」
hito「下、はかまだけでしょ?」
kemo「今日は履いてる。」
hito「うっそ!」
kemo「正月くらい、ちゃんとするって。」
hito「その口で?」
kemo「噛むぞ?」
hito「よしよし。」
kemo「ツ!手ぇ入れんなって!」
hito「ほら。出てきた。」
kemo「正月からコレかよ…」
hito「ふかふか~。いい匂い。」
kemo「乾かすの大変なん!オィィ!」
hito「あはっ。垂れ耳かわいい。」
kemo(ガブッ)
hito「ちょっと!クッションやめて!」
kemo(あぐあぐ)
hito「それお気になんだから!」
kemo「おあいこだ。」
hito「穴あいたじゃない。もー。ヨダレ!」
kemo「お前の味がした。」
hito「ほら。おっちゃんこ。」
kemo「何書く?」
hito「あなたの名前。」
kemo「正月だぞ?」
hito「だからよ。」
kemo「こしょばい。」
hito「もうちょっとだから。」
kemo「済んだか。」
hito「うん。」
kemo「洗ってくれ。優しくな。」
hito「わかった。」
kemo「こしょばい。」
hito「タオル取って。」
kemo「ほら。」
hito「ドライヤー取って。」
kemo「ブラシもだ。」
hito「ふかふか~。あったか~い。」
kemo「おあずけ。」
hito「えー。」
kemo「ほら。立てよ子猫ちゃん。」
hito「つままないで。」
kemo「土鈴買うんだろ?売り切れちまうぞ。」
hito「そうだった。」
kemo「ちゃんと入った?」
hito「だいじょうぶ。」
kemo「歩いてるうちに出てこないよな。」
hito「いつも出してるでしょ。」
kemo「変態かよ。」
hito「帰りにホムセン寄っていい?」
kemo「いいけど?」
hito「クッション買う。」
kemo「ここにあるだろ。」
hito「しっぽじゃん。」
kemo「嫌か?」
hito「うんん。」
kemo「顔赤いぞ。」
hiro「やめて。」


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2025年07月06日 | 読み物

「とうとうたらりたらりら…」

能「翁」のシテのセリフが
階下の舞台から聞こえてくる

古式ゆかしいこの能楽堂は
震災をまぬかれた
数少ない昭和の名残りのひとつ

「我らも千秋さぶらわん…」

そこにお宝があればこそ
私のような招かれざる客もまた
さぶらうずるほどに

そしてこのお宝を欲しいと言う
コレクターもまた
世界中におわします

しかしどうだ
この箱の多さは

「ちはやふる神のひさごの…」

今手にしている
鹿倉舞人作の鬼面ですら
億の声がかかる
私でなければ
この面でもいいわけだ

おお、あった…
伝、二代鬼頭狛翁作
黒尉(くろのじょう)の面
誰もかぶらん前から
瞳が見えると恐れられた
厶。確かに…

「きりきり尋常に舞うており…」

いやいやおなごにそうらへ
私は思わず口ずさむ
ちょっと嬉しかった
限られた時間のなか
これだけの箱のなかから
目当てのものを見つけたのだから
されば鈴を…
はっ!
しもぅた…

「翁」のためだけに作られた
この面の後ろには
鈴の置かれる場所が
しつらえてある
それを私は忘れた
この面の瞳に魅入られて
私は不覚をとった

するりと
生きもののように鈴は
箱から滑り出た
ゆっくりと回転しながら
床へ落ちる
拳ふたつほどしかない
上矢印のようなそれから
緑青のわいた小粒の鈴がひとつ
床を突いたはずみに飛んだ
そのまま階下の舞台へと
他に音はなかった

「これは異な…」

小粒の鈴は落ちて
今しも舞台からまかろうずる
千歳(せんざい)の襟元へ飛び込んだ

きっと天井を見て
千歳はひとつ舞台を踏む

千歳「尉どの鬼が己が顔をとりにまいった」

黒尉「いやいやあれはおなごよ」

千歳「おなごとあらば舞をまいらしよ」

黒尉「猿楽きりきり尋常に舞うて」と
大黒が釣りをする風情で
天井へ向けて釣りの素振りをする

私は例の面を手にしたまま
鬼のような力で天井を引き回され
なんの抵抗もできぬままに
破れた床と柱の間から
舞台へと墜落した

千歳「あら稀代の魚や」

私は墜落の痛みのなか
薄らぐ意識のなかで
舞台の四方を限った結界が
暴風のさなかのようになびくのを
はっきりと認めた
なんと…
依頼者はこの世の者ではなかったか

「とうとうたらりたらりら…」

舞台のすそが開き
翁の面をつけたシテが
呪文のようにうたいつつ
そらそろと舞台へと進み来る
ほとんど「翁」以外では見られぬ
両手を大きく広げたスタイルで
舞台の四方をにぎはやすと
紙垂(しで)は静まり

パン!
私の手にする例の面が
電球の割れるような音とともに
真っ二つに割れた

黒尉「とれぬと知らば割りて逃げよる」

ふっと
シテが舞台に背を向ける
私は悟った

あゝついに
警察のご厄介になるときが来たのだ

さて…
今回のことを
どうして説明したものかな
あるいはこのまま
鬼籍に入るのも面倒がないかと
私はドヤドヤと迫りくる
世俗の足音を聞きながら
静かに目を閉じた


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夜会

2025年07月06日 | 読み物

「わたくし、納得できませんわ。」
髪を蝶々に結った御婦人が、赤みのさしたお顔を、半分ほど白い扇で隠されて、そう控え目におっしゃっる。

「あゝ御婦人、ご機嫌がよろしくないようですな。」
タキシードの上着だけ、どこかへ脱いできてしまった、スラリと背の高い初老の男性が、お辞儀を兼ねてその御夫人の前にちょっとかがみ込む。

「あら紳士さん。昨日の夜もお会いしましたかしら。」
御婦人は扇の向こうから、小さく丸い、真っ白な手を、その男性の前に差し出す。

「ええ。お会いしましたとも。ご機嫌よろしゅう。」
男性は慣れた手つきで婦人の手を取り、甲にそっとキスをする。

「いいえ。機嫌は悪いのよ。」
御婦人はその手を、サッと、扇の向こうへ引っ込める。そしてまた扇に顔の半分をうずめて、男性の目線を避けようとする。

「一体、なんだというんです。貴女をそんなに怒らせるのは。」
男性は大袈裟に腕を開いて、この機会に、ホールの女性全員の顔を見回した。

「毒よ。」
御婦人はポツリとおっしゃる。会場が静まる。

えっ?という顔をしたまま、男性も固まってしまった。これはどうも、マズいひとに話しかけてしまったなと、そんな顔をしている。それからやっと口を開いた。
「盛られたのですか、毒を。」

ようやく、御婦人も周りの勘違いにお気づきになった。白い扇の向こうで、今度は恥ずかしさで頬を染めながらお話になる。
「誤解ですわ。漢字のお話でしてよ。」

「漢字?」
男性はキツネにつままれたような顔をする。周囲に軽い笑い声が広かる。

「わたくし、ひとりの母といたしまして、漢字にまで適当なことを言われるのは、納得できませんことよ。」
御婦人はプリブリと口を尖らせ、頬を膨らます。

(そだ。このひと、旦那は教育庁の役人だったわ。)
男性はこのプンプン丸な御婦人に、愛想よくほほえみ返しつつ、時あらば退散の、段取りの初めとして、ちらりとドアのほうを見やった。

御婦人はそんな男性のそぶりも気にかけず。もとより気にかけてもいないような雰囲気で、男性のほうは見ずに、扇の向こうで、ひとりごちている。
「母だ母だと、みなさんはおっしゃいますが。母ではございませんのよ。それを母にしようとするから、主の部分にしても、わけのわからない解釈になるのです。それは表という漢字と同じ、毛ですのよ。そして母は、虫を横へ倒して書いたのですわ。昔から、読書に耽ることを、本の虫と申しますわ。」

時あらば退散の時とは、今のことだと、男性はまるで無重力空間のように身をひるがえし、影のように静かに会場を出て行った。

話し終えた御婦人が目を上げられると、男性の姿はそこになく、周囲の誰も、御婦人を気にしていない。ほっと小さな溜め息をして、御婦人は扇をスッと下ろされ、もう片方の手で、ドレスの裾をちょっとつまんで、会場の隅へと移られた。

ポッカリと空になったその場所で、次はどんな小劇が始まるのか。僕は向かいのカウンターでスコッチを傾け、背広のシガーポケットから、吸いかけの葉巻を取り出した。バーテンダーが、灰皿に、マッチの箱を入れて寄越す。僕は手でちょっと礼を言って、葉巻の先を新しい火で炙った。


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若者よ

2025年07月06日 | 読み物

「磯中くん、職員室へ来なさい。」
担任は通りしな、磯中の顔も見ずに言った。大きな角顔、髪をベッタリと頭皮に撫でつけ、度の強いビジネスメガネをかけている。かつてはヒゲ面だったが、校長のヒゲ禁止令に渋々従った。

磯中は無言で担任のあとについて、階下の職員室へと向かう。呼び出しにはもう慣れた。階段へ来ると、先をゆく担任の姿が視界から消える。身長差が20センチほどもあれば、行き交うほかの生徒のなかに埋もれるのも早い。

「失礼します。」
磯中は一応、礼を尽くした。礼はしないが、自分のなかでは居並ぶ教師らに声をかけることが、もうできる限りの最高の礼であった。

「来たまえ。」
応じたのは担任ではなく、また体育教師でもなく、はるか彼方の黒板の前に座る教頭だった。担任よりもさらにひと回り小柄な体に小豆色のスーツを着、カマキリのような逆三角形の顔には、牛乳瓶の底のようなメガネがついている。今その姿はないが、もし校長と並べば、絵に描いたような凸凹コンビだ。校長はバスケをやってたらしい。

「失礼、します…」
磯中はちょっと面食らった。黒板の裏には面談室があるのを、磯中は知り尽くしていたし、稀に教頭が臨席することはあっても、メインは担任と体育教師ばかりだ。しかし今、窓を背にして、小さく見える机に、校長が座っている。姿勢正しく座っているのは、スポーツマン・シップの一環だろうか。フェアという言葉を矢鱈と使う校長。当の昔に引退してもまだ、その世界の一員のつもりなのだろう。ついにクビかと、磯中は心のなかで笑った。

「時間がないので」
と言いながら、校長は目の前の定型封筒を開き、紙切れを1枚取り出す。何かつまらないものをつまむように、それを指先で摘んで磯中に見せた。何も書いてない、ただの茶けた紙切れ。しかし意外なほどシワはなく、まっさらだ。
「君にはこれから、この紙を警察本部の赤坂さんに届けてもらう。」
そう言いながら、校長は大して大事に扱うわけでもなく、定型封筒を適当に開いて、中へその紙切れを落とした。封筒を机の上に置く。
「君には本当に手こずらされた。私らの気持ちを、ほかの生徒の分まで君が持っていったことを、忘れないでほしい。だが、君もまた紛れもなく、この学校の生徒のひとりだ。私らはほかの生徒と同じく、やりかたはそれぞれだが、君の支援もする。だけどもう、並の支援では駄目だということは、君自身も分かっているだろう。それでコレだ。」
校長は机に置いた封筒をつまみ上げ、隣に座る教頭と笑みを交わす。

「磯中君、コレは落とし物です。」
ビン底のメガネを神経質に押し戻して、分かっているね?と言わんばかりに、教頭はちょっと身を乗り出して、磯中の顔をのぞき込んだ。
「君は不思議なことに、学力点はそこそこにいいです。特に体育と国語。他の生徒がうらやむほどですね。だけど内申が、見るべきものがない。」
骨のような両手を机の上に組んで、教頭は校長が、立ち上がって磯中に上体を傾け、封筒を渡そうとするのを、イライラしたそぶりで見ていた。
「受け取りなさい。君にはもう、ほかに道はない。こあなったのは、自分の責任なんだよ。」

磯中は、汚いものをつまむようにして、校長の手から封筒をつまみ上げ、裏にし表にして、胡散臭そうにジロジロと眺める。表にも裏にも、何の名前もない。磯中は封筒をつまんだまま、校長、教頭の顔を、交互に見た。

「折り返し、赤坂さんが君に、学校あての感謝状を渡してくれる。」
体を席に戻して、校長は両手でひざをつかみ、真っすぐに磯中の顔を見て言う。
「君は私らを、しょうもない大人だと笑っているだろう。その評価は甘んじて受け入れよう。私らの経験が、こんなことをしても、君は君の望む学校へ進学すべきだと言うんだ。私らはそれに従ったまでだ。」

「けっして、濡らさないでくださいね。」
教頭が話を継いだ。メガネの向こうで、教頭は目を閉じている。目尻に寄ったシワが、この試技に対する個人的な感情を語ってもいるようだ。やおら、目を開き、教頭はとんでもないことを言い出した。
「なかの紙には、水分に反応して発色する薬品で、『やっぱり駄目でした』って書いてあります。赤坂さんはそれで、本物かどうかを見る。もし文字が出なければ、君がすり替えたってことです。簡単でしょ。今日は夏日だ。雨の心配はないから。」

試されているのを知って、磯中は封筒を胸のポケットに仕舞った。教頭にガンをとばす。教頭は磯中の様子を知って、ふふっと笑った。

「気を付けて。水はあなたの体からも出ていますよ。ワイシャツとはいえ、汗をかけば湿ります。」
教頭は、実に面白ものを見ているといった具合で、臆面もなく頬を染めている。さっきの目尻のシワは、どこへ失せたのか。

「行きなさい。課外授業として認めることは、職員会議で通っている。ただし、放課後の下校時間までだ。その時間を過ぎると、赤坂さんは封筒を受け取らない。」
校長はもう磯中の顔を見ずに、ただ事務的な仕草で、片手を磯中に向ける。

教頭は教頭で、ポケットから小銭入れを取り出して、1階の売店で缶コーヒーでも買うつもりなのだろう。校長に「いつもので?」などと囁くのが、磯中にも聞こえた。

へぇ、おもしれぇや。磯中は無言で、挨拶もなしに面談室を出ると、教室へは戻らず、そのまま外へ出た。警察本部の場所はもちろん、赤坂という刑事の部屋が何階なのかも、磯中にはよく分かっていた。

ギラギラとした午後の太陽は、みずからを覆い隠すものを知らず。ただ午前中とは変わって、午後は風が吹き出し、ジメジメと湿った服から汗をぬぐってくれるのを、磯中は心地よく思つた。

手にした封筒が風にはためく。といって、ポケットはどれも使えない。そもそも、こうして手に持っていて大丈夫なのか。磯中は舌打ちした。教室の鞄の中に、ビニール袋がある。取りに戻るか。いや、すでに午後の授業が始まっている。恥をかきたくはない。それに、小銭はあるのだ。コンビニでジュースでも買うか。

以前と違って、真っ昼間に学生が来ても、店内の雰囲気は変わらない。店員の鋭い視線が1度投げられただけで、ほかの買い物客と変わらない扱いだ。お茶にするか炭酸にするか。未成年が昼からチューハイは駄目だろう。

「あれ?、封筒がねぇ…」
磯中は思わず独りごちた。暑さのせいか、店内の涼しさに気が抜けたか。手に持った封筒から意識が退いた。慌てて冷蔵ケースの前に戻る。あった。が、封筒には自分の靴の足跡がくっきり。慌ててズボンで拭こうとして、ハッとなる。汗で湿ったズボンなんぞにこすりつけたら、濡らそうとするようなものだ。まあ、落とし物だから、靴の跡くらいはついていそうなものだろう。

缶入りのサイダーを買ってビニール袋をもらい、コンビニを出る。大きいのにしてくれと言ったが、大きさは店員が選ぶと言われた。地元のコンビニは独特のものがあるわ。まあいいと、磯中はサイダーの缶をズボンのポケットにねじ込み、かわりにビニール袋のなかへ封筒を落とす。速攻で拾い上げた。
「俺のバカ!バカ!」
思わず呟く。自分の頭をポカポカやりたいくらいだ。封筒には湿った跡。慌てて封筒を開き、なかの紙切れを確認する。おお、濡れてないぞ。だが封筒はちょっと濡れたな。

ひとの流れの邪魔にならぬよう、歩道の脇へと寄りつつ、磯中は封筒を筒状に開け広げたままにして、乾燥するのを待った。なかの紙切れが飛んでいかないように、両手を駆使して風が巻くのを防ぐが。ビニール袋への意識が薄れたちょうどそこへ、運悪く風が吹き込んで、磯中の手から華麗にビニール袋を奪い取った。ギラギラの太陽に向かって、真っ白なビニール袋が高く舞い上がる。

「嫌な予感だ。」
磯中は真夏の空に舞い上がる、眩しいほどに白く輝くビニール袋を見上げて思った。ものの1時間と経たないうちに、風がこんなにも強さを増していたなんて。学校サボってほっつき歩いた経験が今、磯中に雨雲の到来を確信させた。

もうこのまま、手づかみのままで急ぐしかない。封筒はある程度、防水性があるようだ。磯中は封筒が乾いたのを確かめて、できるだけその端をつまんで手の中へと収め、手のひらと封筒との間に風を入れるようにして、もう黙って警察本部へと歩き出した。走れば速いが、汗をかいてはどうしょうもない。

歩くそばから、空がかげり出す。小さな綿雲がいくつも飛んでくる。「簡単でしょう?」と言った、教頭の抜け目のないカマキリ顔が思い出される。上がワイシャツだけなのも痛いなと、磯中は思った。上着があれば、ビニール袋の代わりにもなったが。備えなければ憂いありだ。あの教頭、天気予報を知ってたのかもしれない。教頭の赤みのさした頬の意味を、磯中は今更に悟った。

ぽつり、と、ついに雨粒が、乾ききった路面に、黒い穴を開ける。警察本部までは、まだまだ歩かねばならない。終わった。磯中は思った。歩道の真ん中で立ち尽くす磯中を、通行人は横目で邪魔そうに見やり、行き過ぎる。助けを求めることなど、できはしない。今さら。ましてや、自分の身から出た錆だ。せめてタクシーにでも乗れれば。

立ち尽くす磯中の横を、バスが通り過ぎる。あっ、という顔をしたままで、磯中はバスを見つめた。窓越しに、かわいい女の子のおさげ髪が目えた。
「足りるか。」
呟いて、磯中はポケットから財布をつかみだす。だが足りない。あとふた駅歩かなければ、運賃を払えない。ポケットにねじ込んだサイダーの缶が、否応なく存在を誇示しだす。これを買わなければ乗れた。

「いや、まてよ。」
磯中は財布に入れてある、通学定期の券面を睨んだ。雨粒は次第に増えて、道路を黒く染め出している。ハッという顔を見せて、磯中は突然、封筒を折りたたみだした。濡らすなとは言われたが、折るなとは言われていない。最初から財布の中に仕舞えばよかったと、磯中は恥じた。

改めて、通学定期の券面を読む。2つ先の分岐点まで、この定期で乗れる。とにかく、雨に当たらずに済むのは、ありがたい。磯中は目を上げて、バス停を探した。探すうちから雨粒は雨足となり、小さな水たまりが、そこかしこにでき始める。

たどり着いたバス停には、屋根がなかった。ワイシャツ姿で傘もなく、濡れそぼつ磯中。気温だけは高いままなので、風邪をひく心配はなかったが。これでは席に座れない。

「学生さん、傘忘れたの?」
見知らぬ小柄なおばあちゃんが、そう言いながら、磯中の頭上に自分の傘の片側をかけた。磯中は意図せず、自分の腹の底から出た感謝の言葉に、自分で驚いた。

おばあちゃんは、お安い御用とばかり、磯中に笑いかける。
「どこ行きますの。私と違うと、傘さしてあげられんようになりますでな。」

磯中は封筒、落とし物を警察に届けに行くとだけ答えて、話の証拠にと、ポケットから財布を取り出した。中の封筒は、雨に濡れていた。

あっ、とした磯中の顔を見て、おばあちゃんは慌てた。そしてバッグからチリ紙のパックと、三角にたたんだビニール袋とを、呆然とする磯中の前へ差し出した。
「チリ紙で包んで、ビニールに入れて、お尻の下に敷いておけば、着く頃には何とかなるよ。」

磯中は、おばあちゃんに礼を言うと、軽く手を振って見せ、チリ紙とビニール袋とを遠慮した。濡れてしまってはもう、どうにもならない。
「事情を話して、このまま渡します。俺はあのバスに乗ります。傘、ありがとうございました。」
ほんとうに感謝だぜ。窓の向こうで手を振るおばあちゃんへ、磯中は頭を下げた。

警察本部の受付を通して、赤坂は磯中と1階で会うと言ってきた。かたわらのベンチにも座らず、風が吹き抜ける1階の廊下で、磯中は赤坂が降りてくるまでただ突っ立っていた。

「おいおい、ずぶ濡れじゃないか…」
捜査の都合からか、赤坂は暗くやつれた顔をしている。自分が捕まったころの覇気は、今の赤坂にはない。磯中は財布から濡れた封筒を取り出し、何も言わず、赤坂の前へと差し出す。

「なんだこれは。ベチャベチャじゃないか。」
赤坂の疲れた顔に、ちょっと笑みがさす。靴の足跡がベタッとついた封筒を、剥がすようにゆっくりと開けて、赤坂は中の紙を覗く。紙切れは封筒にくっついてしまって、取り出すことができないらしい。磯中は何も言わずに、赤坂の仕草を見ているだけだ。

「やっぱり駄目でした。」
赤阪が、紙切れに浮かんだ文字を読む。
「ってことは、ズルはしなかったんだな。」
突然、赤坂は封筒を両手でクシャクシャに丸めて、壁に叩きつけた。
「なにが、やっぱり駄目でした、だ。ふざけやがって。」
赤坂の突然の荒れようを、磯中は驚いて見つめた。

「じゃあ、俺は行くぜ。」
磯中はくるりと回れ右して、スタスタと出口へ向かう。

「待てよ。」
赤坂は磯中の肩をつかんで、警察本部の正式な定型封筒に入った、薄っぺらな書類を磯中の肩越しに差し出した。
「説明はできるが、したってまだ分からんだろ。今は黙って持ってけ。いつか、俺たち大人がお前にしてやったことに気づいて、むせび泣け。」

磯中は、赤坂の顔も見ずに封筒を受け取ると、すでに大雨となった街のなかへと消えた。

「あっ」
赤坂の声に驚いて、受付嬢の女性警官が赤坂を睨む。
「あれもずぶ濡れになるな。まあ、感謝状を濡らすなとは、言われてないだろう。」
赤坂は久しぶりに笑ったなと思った。


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月の庭(終)

2025年02月10日 | 読み物

 雲天の平日火曜日。二十三時を過ぎる頃だろうか。大きく左にカーブした、街灯のない田舎の坂道を、遠方から、二台のマイクロバスがのぼってくる。最初はわずかにエンジンの音が聞こえ、音は次第に大きくなり、路面を照らすヘッドライトの明かりが見えたかと思うと、突然のように目の前にバスが姿をあらわし、大きく右へハンドルを切って、かつてのベンチャー企業、今は大企業の一部門となったユニバス社の敷地内へと乗り入れていく。
 真っ暗な倉庫内。グオン、グオンと、電動シャッターが開きだす。マイクロバスのエンジン音はまだ遠く、シャッターがあがるにつれてそれは大きくなり、開ききる辺りで、その二台のマイクロバスが走り込んでくる。バスは並列に停車して、電動シャッターが閉まるのも待たずに、おのおの十名ずつの男女が、時折、ゴム長の作業靴の音をキュッ、キュッとさせつつ、バスから次々に下車していく。
 電動シャッターが閉まりきり、パチンというスイッチの音とともに、まばらに灯りだす蛍光灯の冷たい明かりが、倉庫の内部をほの暗く照明する。手前に置かれた四つの大きな銀色の箱の並びにならって、シャッター側に向かい、男女それぞれが五名ずつの隊列を作り、団長らの登場を待つ。キィッ、バタンと、金属製のドアの開閉する音がして、手前から角刈り頭の団長と、スラリとした短髪の女性副団長とが、威厳というよりも事務的な姿勢で、コツコツと軍靴の音をさせながら、隊列の前へとやってくる。
 見渡す限り、団員は、男女ともに薄緑色の作業服を着て、同色の帽子をかむり、ズボンの縫い目に中指をあて、ビシッと姿勢を正している。
 「マニュアルは理解したか」と、角刈り頭の団長。手を後ろへ組んで、胸を張る。言えば分かる奴らを前にしては、声を荒げる必要もない。
 「はい!」と、団員は一斉に返事をする。
 「シッ。」団長は白い手袋をした人差し指を、口に当てて見せる。「声がでかい。」
 まばらな笑い声が、団員の中で起こる。副団長も、顔を伏せてちょっと笑っている。
 「指令書は厳格だが、我々はリラックスして行こう。」団長は片手をあげて、笑いを制する。「作業もたいして難しくない。ただ本当に、今回ばかりは、この地上ではなく、あの月の腹の中で、一度きりのチャンスしかない。ここならば、ヘリでかけつけることもできるが。あそこで応援を呼ぶことはできない。男女の居住スペースは、五キロと離れていないが、どういうわけか、居住者は、互いの存在を知らされていない。たとえ五キロの距離であっても、女が男湯へ、男が女湯へかけつけるわけには、いかないのだ。事を荒立てて成し遂げるのであれば、わざわざ我々が出向く必要はない。」角刈り頭は、振り返って、副団長に話題を譲る。副団長は一歩前へ出る。
 「我々はこれから、あくまでも修理屋として、月に乗り込む。」副団長の厳しい口調が、場を締める。「我々が活動中、居住者は部屋に退避させるが、万一、居住者と出会った場合は、挨拶以上の話はするな。ただし、地球への送還を希望する者がいれば、すみやかに、宇宙船へ行くよう指示せよ。荷物はカバンひとつまで。プラグの入手方法、挿入箇所への経路と挿入方法は、マニュアルに従え。完了次第、速やかに離脱する。以上。」一歩下がって、副団長は顔を伏せる。あとを角刈り頭が引き受ける。
 「諸君も知っての通り、夕刊真実が伝えたように、ちかぢか、あそこは運用を終わって、主催者の手で、破壊されることになっている。それは表向きではないのかと、世界中が心配している。あれは、我々人類にとって、非常に危険な実験なのだ。といって、事を表沙汰にすれば、とにかく反対したい輩が、きっと出てくる。そうならんように、我々が出向く。今、この世に平安をもたらすことができるのは、我々しかいない。我々がやらなければ、ほかにやれる者などいない。もし、我々のうちの誰かが、あそこに残されたとしても、我々はかえりみない。計画を遂行するまでだ。計画の完了は、最終的に、この建物内の司令室にある、起爆装置の作動によって確認される。地盤を破壊して、構造物をすべて、月の内側へ落とす仕組みだ。観測可能な変化が、月の表面に及ぶことはない。それは、ちかぢか、月への進出を計画している、我が国の首脳部が望む結果でもある。お前らは、俺だけじゃない、全世界百億の人類から、期待されているんだ。それを忘れるな。」
 「出発!」副団長の号令に従い、団員は回れ右をする。男女各十名のなかから、おのおの四名ずつが、手前の銀色の箱を二つあて取りに来る。残りの団員が男女それぞれ、別々に左右のドアを出るのにならい、箱のロープ製の取っ手を持った二人一組の団員も、男女おのおの、別々のドアから出て行く。最後に副団長が、キビキビとした身のこなしで、女性陣のあとへと続く。
 「吉報を待っている。」角刈り頭が、副団長の背中に敬礼する。副団長は立ち止まり、回れ右をして、答礼を返した。

 夕食を済ませた僕は、机の完了ボタンをタップして、表示される明日の日課に、軽く目を走らせる。ピピッと、机が鳴って、これもまた、あの時と同じくらいの、長文の告知が表示される。
 「班長会より居住者のみなさまに。かねてお知らせした、汚水処理プラントの機器交換修理が、今晩、行われます。その件で、来場の作業班から、居住者のみなさんに、当夜、守っていただきたい事柄などをお伝えするよう、指示がありましたので、告知いたします。有毒ガスが発生する可能性があるため、居住者は今晩、部屋から出ぬように。殊に中庭への出入りは、ゲートの電源を切りますので、機械的に不可となります。各部屋からの排水については、今晩、極力、排出を控えてほしいとのこと。ただ、新しい機械を取り付けるまで、古い機械にバイパスを作るので、部屋に溜める必要まではないとのことです。最後に、帰還を希望されるかたは、作業班の到着次第、すみやかにハッチへ来るように。手荷物はカバンひとつまでとのことです。以上。」
 「ちょうどいいや」と、僕。前田さんとは、もう、会えないのだろう。斉藤さんは、同期の半数が帰還したと言っていた。僕も、前田さん以外、同じ船で来たひとを知らない。まあ、角刈り頭は……。
 歯をみがいて、ベッドに身を投げる。自分は、そんなにも、少数派なのかと。それとも、斉藤さんや角さんの時で、出尽くしたということなのか。絶滅という言葉が、僕の頭をよぎる。それもまあ、いいかな。
 「ひでぇ星だ……」どこかで聞いたセリフを、僕も呟く。本当に、ひどい星だと思う。横になり、掛け布団を抱き込む。モヤモヤとした気分で、とりとめもないことを思ううち、いつしか眠っていた。
 ハッチに着陸した船の中から、防水服を着て、酸素マスクをかむった六人が、一列に連なって、静かにタラップを降りてくる。続く四人の団員が、二つの銀色の大きな箱を携えて、そのあとに続く。
 ハッチから伸びる広い通路を、各部屋へと続く脇の廊下へは入らずに、そのまま進んで行く。誰一人、話す者もない。突き当たりの階段を、全員が下へ降り、汚水処理区画よりもさらに下へと降りて、最深部の扉の前に出る。各自、端末を取り出して、扉の前の脇の壁の、四角く囲われた部分へ、おのおの、端末をかざして中へと進む。
 天井からの、間のあいたスポット照明の下で、隊列はサイレント・フィルムのひとコマずつのようでもある。時折、中庭の側の壁の中から、ピシッ、ピシッという、何かが押し砕かれるような音が聞こえる。この最深部のフロアは、引力によって生じる、月の内部のわずかな歪みを利用して、発電の研究をしていた場所。歪みを電気に変える結晶が突然に砕けて、飛んできた破片で研究者が死亡したため、現在は放置されている。
 廊下は直角に曲がって、さらに先へと伸びている。隊列はしずしずと、道なりに歩いていく。やがて突き当たりとなり、先頭を務める団員が、目の高さにある囲われた部分に端末をかざすと、その突き当たりの壁が内側へと沈み込み、横へ隠れて、各部屋へと続く廊下のような、青白く縁取られた、短い廊下があらわれる。
 左右の壁、ちょうど両手が触れる辺りに、すべて違う形で縁取られ、ナンバリングされた部分が並んでいる。先頭の者が、そこを手でなぞりつつ、廊下の奥へと歩くと、その縁取られた部分が壁から剥離し、その部分の裏に固定された、六本の細くて長い、筒状の端子の一部分をのぞかせる。
 続く団員らが、それらを壁から、慎重に両手で抜き取り、持参した銀色の大きな箱の中の、それぞれのプラグの形に工作せられた穴の中へ、上から差し込んで収納する。全部で十個のプラグ・セットが、すべて回収せられた。
 団員らは隊列を整えて、今度は階段をのぼりにかかる。この階段で、最上階まで、行かねばならない。そこは中庭の天井裏であり、中庭の壁と天井とを支える十本の太い柱が、唯一、コンクリート打ちはなしの、生の表面を晒す場所でもある。
 到着した一行は、めいめい、箱の中から指定された番号のプラグを取り出し、その同じ番号がふられている、太い柱のひとつひとつへと向かう。隊列のさきがけをつとめる団員は、しんがりをつとめる団員とともに、おのおの五番と六番のプラグをたずさえ、はるか彼方の柱を目指して、黙々と歩き出す。銀色の箱はその場に放棄せられ、プラグの挿入を終えた団員らは、三々五々、階段を降り、宇宙船へと帰還する。計画上、一番最後に挿入されるこれらのプラグについて、警告するような仕組みは、元よりない。
 さきがけをつとめる団員は、今、ようやくにして、五番の柱に到着し、青白く柔らかな照明のなかにそびえたつ、その威厳ある物体の前にひざまずけば、ちょうど肩の高さに、プラグと同じ形状の穴が工作されてある。持参したエア・スプレーのスイッチを入れ、降り積もったチリや、穴の中の接点を吹き清める。おもむろに、持参したプラグを両手でかかげて、まずは番号と上下の間違いとがないことを確認してから、慎重にその穴へと差し入れる。
 最後にスッと吸い込まれるように入った感覚があり、プラグに書かれた数字の背景が、ほの青く光る。さきがけをつとめる団員は、そのほの青い光に、うむ、とうなずいて立ち上がり、六番の柱へ向けて歩きだす。
 途中、六番のプラグを担当した、しんがりをつとめる団員とすれ違い、軽く片手をあげて、プラグの挿入完了を伝え合う。半周分、五箇所のプラグのほの青い光を確かめて、さきがけをつとめる団員は、階段へと戻る。ややあって、しんがりをつとめる団員が到着し、二人で、足のつくようなものが残されていないか、周囲をくまなく確認する。互いにうなずき、チラリと辺りを見渡してから、二人は階段を降りていった。

 深夜、ユニバス社の、月のミッション専用の司令室に、背広を着た角刈り頭が、ひとり座っている。見下ろす端末の画面が明滅して、副団長からの、両船ともに離脱完了の通知が、音もなく届く。背広の胸ポケットに端末をしまい、角刈り頭は、グイと、背広の襟を引き締める。ユニバス者の襟章が、モニターの光に鈍く輝く。
 上着のポケットに手を入れると、かねてから準備しておいた、二個の小さな鍵が、指先に触れる。その存在を確かめて、椅子から立ち、角刈り頭は、最前列の責任者の席へと、ゆっくりと降りていく。
 指令席のコンソールの、その一角だけ、更新のたびに切り取られて、はめ込まれてきた、古めかしい、傷だらけの、五インチほどの液晶タッチパネルがある。左右の鍵穴にこの鍵を差し、回してやれば、電源が入る。ドラマのように、同時に回す必要はない。月のほうで、プラグが完全に差し込まれていれば、パスワードを要求する画面と、ソフト・キーボードとが表示されるはず。
 角刈り頭は、上着のポケットから、小さな鍵を取り出し、ひとつずつ、鍵穴にさす。ギュッと拳を握り締めて、力を解き、ひとつ、またひとつ、鍵を回す。確かに、画面には“PASSWORD?”の文字と、自分の指には小さい、アルファベットのみが順番に升目に並んだソフト・キーボードとが、表示されている。
 こんなもんだろうと、角刈り頭は苦笑する。内の胸ポケットに手を入れ、タッチペンを取り出す。ソフト・キーボードの上をさまよいながら“DAWN”と入力し、一番下の、横に細長く表示されたエンター・キーを押す。内の胸ポケットに、タッチペンを戻して、角刈り頭は結果を待つ。ややあって、画面が暗転し、数行の文章が表示されたが。しかし、文字が小さくて、角刈り頭は、両手をコンソールに置き、それを支えにして、画面にグッと頭を近づける。
 “THE SELF-DESTRUCT CIRCUIT 
  WAS SAFELY LOCKED DOWN. 
  NOW, ERASING SOFTWARE."
 その下の表示が、五分の一、五分の二と、秒単位で分子の数字を上げてくる。角刈り頭は、両手の拳で、ガンガンと、コンソールを叩きつけるが、しかしそれも虚しく“COMPLETE”の表示。司令室のモニターが、その古風な液晶タッチパネルのみを残して、一斉に暗転する。角刈り頭の、赤く握り締められた両手の拳のなかで、画面が暗転し、新たな表示があらわれる。
 “YOU CAN TYPE THIS LETTER 
  INTO YOUR OWN CONSOLE 
  "DONE" THAT IS OUR SELF-
  DESTRUCT PASSWORD. 
  WHO KNOWS IT WAS 
  SUCCESSFUL OR NOT?”
 握り締められた拳が、次第に開いていく。

 仕事明け、喫茶「夜明け」で、内藤はひとり、ホット・コーヒーを楽しんでいる。佐々木さんは初孫の誕生日。福ちゃんはトルコ辺りで、何か買い付けをしているらしい。今日のコーヒーは格別に美味いと、内藤の顔が言っている。
 「ありがとうございます」と、店主に見送られ、内藤は地下一階の踊り場から、階段をのぼり、地上へと出る。ビルの高さすれすれに、ポッと、明るい月が出ている。ズボンのポケットに手を突っ込んで、内藤は道行くひとびとの流れに呑まれ、タクシー乗り場まで歩く。ビル街を抜けると、タクシーの窓からも、月が見えだす。
 「済んだよ親父。」内藤は呟く。もしも人が、この先も続いていくのだとすれば、彼彼女らは、いずれは、お互いの存在に気がつくだろう。月を見上げて、内藤は微笑む。あの人たちは、何と呼ばれるんだろうな。宇宙人?、月の人?。
 馴染みの、近所の商店の看板が見えてくる。今日の道は、割とスムーズだったなと、内藤は来た道を振り返る。座席に身をゆだね、両手を腹の前に組んで、目をつむる。たのむぞ、と、内藤は心の中で呟いた。


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月の庭(3)

2025年02月09日 | 読み物

 「こんな星はやく宇宙から消えろっつってんだよ!」
 目を開くと、机や窓の輪郭が、うっすらと見える。まだ夜明け前。起きるには早い。参ったな。叫んじゃったんだろうか……。掛け布団を抱き込み、胎児のようにちぢこまって、僕はあの、カンカンと鳴る、軽い造りの廊下のことを思う。まだ時々、発作のように、あそこでの夢を見る。
 暑い。ものうげに、仰向けになる。フゥとひとつ、溜め息が出る。天井はもう、元の天井にしてある。中庭に雨が降れば、連動して、天井にも雨が降る。天井が落ちた家で、ビニール・シートにくるまって見上げたのと同じ空。それを見てから、天井は天井のままにしてある。
 そろそろと、布団から片手を出して、汗で湿った前髪をぬぐう。でも、思ってみれば、誰かの叫びを聞いたことはない。はや存在を忘れかけた、窓枠と一体型のスピーカーから聞こえる中庭の音のほかには、自分が出す生活の音以外、聞こえてこないな。なら大丈夫かと、気分は軽くなる。外れた枕を手繰り寄せて、首の下へ詰め込む。スッと息が深まる。
 目覚めはよかった。ピピッと机が鳴る前に、起床完了のボタンをタップする。続けて日課が数行、表示されるが。しかしもう、見ずとも分かっている。昨日干した靴下を、浴室へと取りに行く。シーツ類と一緒に、衣類を全部、回収に出すひともいるけれど、僕は下着と靴下だけ、洗面所で洗っている。回収されたシーツ類が、どのように洗われ、仕分けされるのかは、当番で実際にやっているので、よく分かっている。下着や靴下を回収に出したとしても、衛生的に問題ないし、誰かの手間になることもない。あとは個人の好み。ここでは時間があるから。時間があるというだけで、部屋も綺麗になる。
 机の引き出しから端末を出し、昨晩支給されて、扉の前の壁のフックにかけておいた、今日の分の作業着一式を着込む。レイン・コートのような、防水性の作業着。帽子を前後ろにかむり、フードをかむる。あの日支給された長靴をはく。今日は軍手ではなく、厚手のゴム手。あの日、ずぶ濡れになった靴は、ちゃんと乾かされて戻ってきて、今は、なかなか履く機会のないままに、扉の脇へ置かれてある。
 キュッキュッと靴底を鳴らしながら、青白い光の回廊を歩き、緩やかに照度を上げる空間に立つ。ゲートの脇の細い換気口が開き、ゴロゴロとゲートが引き上げられる。端末の画面に出る矢印は、もう見なくていい。見学は頓挫してしまったが、あの日、斉藤さんに連れられて降りた螺旋階段を、まさにその地下二階まで降りていく。台風と洪水とを難なく過ぎて、廊下で酸素マスクを受け取り、汚水処理のプラントに入る。誰かポンと、僕の肩を叩く。
 「今日も早いね」と、斉藤さん。マスクの中で、いつもの笑顔が少し汗ばんでいる。「前田さん今起きたところだから、来たら始めましょう。」
 僕はうなずいて、細長い処理槽の奥で、段取りを始めている角さんの脇へつき、水のホースの接続を手伝う。
 「あ、おはよー。」と、マスクの中の、いつもの眠たげな顔で角さんは言う。斉藤さんの次の船で来た、ひょろりと背の高いひと。挨拶した日に、首の傷を見せてもらった。
 「おはようございます」と僕。「もう一機、使いますよね。」
 「うん。じゃあ、任せたね。」と、角さんは、僕が横手に水ホースをつなげた、まるで酸素ボンベのような機械を、よいしょという具合に両手で抱え上げて、処理槽のさらに奥へと入っていく。機械の頭についている、太くて短い排水ホースが、前回の残りの水分を垂らしながら、ズルズルと、角さんのあとをついていく。
 僕は残りの一機に水ホースをつなぎ終え、角さんのように抱え上げようとするが。しかし、ことのほか重いこと。おまけに排水ホースのせいで、あちらへ、こちらへと振り回されそうになる。
 「コツがいるんだよ」と、僕の後ろで斉藤さんが言う。「後ろ、持ったげるから。」
 角さんは、機械を床に置いて、慣れた手つきで、排水ホースを処理槽の下のすき間へ引き回し、脇の乾燥機の下側につないでいる。見よう見まねで、僕もやってはみるものの。処理槽の下のすき間はけっこうシビアで、思うように通ってくれない。そうこうするうちに、太い腕がヌッと、僕の前にあらわれた。排水ホースをつかむ。
 「機械、も少し前に出してくれたら、俺つなぐから。」と、前田さん。宇宙船の中で、角刈り頭と、力こぶの見せ合いしていたひと。僕は排水ホースを手放して、機械を押しにかかろうとするけど、前田さんの力だけで、機械がグイグイと前へ出て行く。
 「つなげたぁ?じゃあ、フタ、開けよっか。」眠そうな角さん。でもアクビは出ない。「これやらないとぉ、みーんな、生きていけなくなっちゃうから。」そう言って、ハハハと、力なく笑う。
 斉藤さんと僕とで、片手ずつ、処理槽のフタの取っ手をつかむ。「ィヨッ!」と、気合を入れて持ち上げる。重っ!。持ち上がるそばから、黒い泥があふれ出す。空調がうなりをあげる。
 「あー、カラカラ言ってる。」斉藤さんは、天井の吸い込み口のそれぞれに、耳を向けてみる。「次の班のひとたちに、お願いしなけりゃ。」
 角さんはそつなく、前田さんは力技で機械を抱え上げて、泥のなかへ、その先を差し入れるが、しかしなかなか、ウレタンのような黒い泥の中へは、入っていかない。
 「水ぅ。」と、角さんが、マスクの中から表情のない顔で、僕を見やる。この顔には、最初はドキリとさせられたものだ。
 フタが倒れないのを確かめて、僕はさっき、機械に水ホースを組み付けたところまでとって返し、かがんで、壁から出ているコックに手を伸ばす。ブォォォという、プロペラの回る音が聞こえだす。
 「ぶはっ!」という、前田さんの声。振り返れば、前田さんの側から、黒い水しぶきが上がっている。角さんが、前田さんの機械を、グイと引き寄せる。水しぶきは止んだが。しかし、二人とも、泥をかむって散々な姿。斉藤さんは、元よりフタの陰に隠れていて、無事の様子。
 「もっと出せ!」前田さんの、マスクのせいでくぐもった、太い声が響く。出し過ぎると、かえって泥があふれてしまうから、単純に全開というわけにもいかない。斉藤さんが僕のほうを向いて、両手で大きく丸を作る。
 乾燥機の底からは、ゴボゴボと泥があふれ、コンベアで、一段目の電熱器の下へと運ばれていく。生乾きになった泥は、ローラーで押されて薄い板状になり、二段目の電熱器で焼かれて、養分に富んだ、無菌の土になる。粉砕されたあと、コンベアで中庭におろされ、居住者の食卓にあがる菜園の、新たな土壌として利用される。
 「もういいでしょう。水、止めてください。」斉藤さんが、僕に手を振る。泥が引いて、澄んだ水が流れ始めたころあい。角さんと前田さんは、泥の散った床へ機械を寝かせて、水ホースを外しにかかる。
 「水ぅ。ちょっとね。」と、角さん。前田さんと、お互い、かむった泥を洗い流す。それからホースを床へ向けて、「いいぞ」と、前田さんは僕に言う。ここからは水全開。処理槽や天井に跳ねた泥を、丁寧に洗う。
 角さんは、機械を洗ってから、床の泥を流しにかかる。常に空気が吸われるために、どれだけ濡らしたところで、じきに乾いてしまう。綺麗にしておかないと、虫や動物に侵食されかねず、次に自分らがやるとなれば、気が滅入ることにもなる。それは誰だって同じだろう。
 斉藤さんと僕は、機械を引いてきて、コックの向こうの、二つあいた横穴に、それぞれ押し込む。頭までは入らないので、そこへ排水ホースを巻きつける。
 「おーい」と、前田さんの声。コックを閉めて、斉藤さんと僕は、水ホースを引っ張りながら、手前のフックへと、巻き収めていく。
 「ちょっと出して、私らも洗いましょう。」斉藤さんが、僕にホースの口を向ける。上はフードから、下は長靴の底まで、互いに水をかけあう。まあとにかく、みんなビショ濡れだ。年をとったら、こんな作業はできないだろうなと、僕は思った。
 プラントの出口で、酸素マスクと防水服、厚手の手袋をあずけ、長靴は、消毒槽の中でジャブジャブやって。満足げな面持ちで、四人はプラントを出る。青白く縁取られた螺旋階段をのぼりだす。上からの光が眩しい。
 「ごくろうさんです。午後は牛をやりますから。」と、斉藤さん。頭上の枝に、小鳥のさえずりが聞こえる。
 「あの汚水は、あの先は、どうなるんです?」と、僕は斉藤さんに聞く。
 「この中庭の土からの蒸発と、木々の蒸散とで、いわば濾過されて、あの上の換気扇とパイプで」斉藤さんは天井を指差す。「回収されて、生活用水になります。その一部がフィルターを経て、飲用水になる。」
 「吸い出した臭いは、どうなります?」と僕。この際だから、聞きたいことは聞いてしまえ。
 「場内の排気はすべて、ダクトの中を流れて、一度、月の表面に出るんです。」斉藤さんは、片手の指を上へ向かわせ、その手にもう片方の手の指を、上から降り注ぐ感じで当てて見せる。「そこでは、宇宙線から二次的に出る粒子を適当に減速して、脱臭の効果を持たせてあります。そして」
 斉藤さんは、自分らの行く手にそびえる、中庭の周囲の壁と天井とを支えている太い柱の一本の、その一番上のほうを指差して見せる。「あそこら辺から横へ噴き出したのが、中庭を大きく、ゆっくりと巡るうちに、虫や木々や細菌、建材、ホコリなどで成分を調整されて、この地べたで、私らも呼吸する空気になります。」
 「だからぁ、変なもの、使っちゃダメだよ。」角さんが、相変わらずの眠そうな顔で、僕らに微笑む。自分の部屋へと、やんわり、歩き出す。
 「さあ、飯だ飯だ。」前田さんも、ズンズンと先へ歩いていく。
 「私らも、ご飯にしましょう。食べてから、あの泥を見る気には、なれないなぁ。」斉藤さんは、背中越しに、手を振って見せる。みなさん、なんだか楽しそうな。前田さんは飯があるとしても、斉藤さんや角さんは?。僕も、だな。
 「ニャア」と、脇の木陰で、猫氏の鳴き声がする。今日もオヤツにありついて、ご満悦の様子。ここにいる動物は、僕の見た限り、オスだけだ。午後から世話に入る牛も、オスしかいない。牛とは言うものの、子牛ばかりだし。
 猫氏の隣に座って、僕は木にもたれる。はるか以前の記憶に、こんな景色があったかもしれない。猫氏は、頭をかいてやると、気持ちよさそうに顎を出して、目を細める。この中庭に何匹かはいて、それぞれが誰か彼かからオヤツをもらうので、少々太り気味。イヌやカラス、騒々しい輩は、ここにはいない。
 ドヤドヤと談笑しつつ、他の班のひとたちも戻ってくる。僕がここにいることを、誰もとがめない。一人が立ち止まって、僕に声をかける。
 「泥の掃除、大変だったでしょう。」港さんは、斉藤さんと同期。小柄ながら、作業服の似合うひと。あそこでは、無理をして、電気工事の下請けをしたのが、最後の仕事だそうな。
 「みんなズブ濡れになりました。」と僕。港さんは、うんうんとうなずいて、片手を振って、自室へと戻っていく。科学の進歩。見た目では分からないが。しかし、感電して墜落して、左足を失ったことは、みんな知っている。僕は……。
 そうだ。午後も力仕事。飯、食っとかなきゃ。猫氏とお別れして、僕は自分の部屋へと続く、高いゲートの前に立った。
 部屋へ戻ると、麦の焦げた、いい香りがする。思い出したように、唾が湧いてくる。机の上に帽子を放りだし、ビジネス・チェアを押して、洗面台の横へ。いい感じに焼けた分厚いトーストが、四角く斜め半分に切られて、編みかごの布の中に、鎮座している。
 「さすが」と、思わず声が出る。今日のうちに何もなければ、僕らは明日、これを作る。黄身のトロリとした茹で卵の脇には、ジャムと、バター風味のマーガリン。ジャーマン・ポテトも、いい塩加減。ここでは希少品のコショウも、惜しげなく入っている。牛肉なのを除けば、本場もビックリだろう。
 半分くらい、一気に食べてしまったが。しかし、昼の時間は、十分にある。デザートのリンゴを一切れ。紅茶を飲み、気分を落ち着かせる。子供の頃、あそこでは、よく噛んで食べろと言われたなと。ここではおのずと、よく噛むようになる。よく噛むというか、味わうようになる。
 机に戻って、完了のボタンをタップする。昼から散水の告知が出ている。うまく水が回ったようだ。午後の仕事は、それからだな。ビジネス・チェアの背にもたれて、あれも自動化すればいいのにと、僕は思う。思ってから、考えてみれば。忘れかけていた。ここは研修所なのだから。
 ピピッと、机が鳴る。ここに来て以来、見たことのない長文の告知が、画面に表示されている。
 「班長会より居住区のみなさまに。汚水処理プラントの、昨今の故障頻発の状況にかんがみ、本社へ修理改修を打診しておるところです。その返答が来ましたので、みなさまにお知らせいたします。まだ期日は決まっておりませんが、準備が整い次第、緊急の要件として、新たな装置持参で、作業班が派遣されます。おそらくは、次回の物資輸送に伴って、来場するものと思われます。その際、みなさまの日課には、一日から数日の間、汚水貯留の作業が追加されます。方法などについては、追ってお知らせいたします。以上。」
 「故障かよ……」思わず声が出る。いやしかし、どんな故障にも、対処していかねばならないのだろう。サーッと、ホワイト・ノイズのようなかすかな音が、窓から聞こえてくる。散水が始まったようだ。僕はビジネス・チェアを立ち、窓辺へ寄る。雨というよりは、霧に近い。見上げれば、けぶった天井の所々から、水が噴きだしている。いずれ、あれも修理しなけりゃならなくなるのか。僕はいつしか、窓枠に添えた手を、握り締めていた。
 牛舎と畑とは、地下へ降りる螺旋階段を過ぎて、中庭のもっと真ん中辺りに設営されている。僕は散水が終わってすぐ、中庭に出た。道端の、つややかに光る芝生を眺めながら、螺旋階段を過ぎて、稀に、どこかで水浴びしている小鳥の羽音を聞きなどしつつ、牛舎へと歩く。後ろから、ドシドシと迫ってくる、長靴の音。振り返らずとも、前田さんとは知れる。
 「告知見た?」前田さんは、横へ並ぶなり、少し背をかがめて、僕の横顔を覗き込む。「俺、帰ろうと思うんだ。」
 「帰る、って?」どこへ?、と聞きそうになって、僕は言葉を呑む。もうすっかり、ここの住人だな。
 苦笑いを浮かべる僕の顔を、別の意味で見取って、前田さんは黙ってしまう。
 二人並んで歩いている姿は、きっと、僕が子供のころ好きだった、獣人さんの漫画みたいだろう。何となく筋書きを思い出して、僕は微笑む。
 「なんだよ。渋い顔したり笑ったり。」隣で前田さんがいぶかる。「まあいいや。ちかぢか来るっていう修理の船に、便乗させてもらうつもりだ。部品をおろしたら、そのくらい余裕はあるだろ。」
 僕は、うんうんと、うなずいて見せる。実際、希望すれば無条件で戻れるんだし。希望しなくても、戻されるくらいなんだから。
 「ここへ来る前、前田さんは、どんな仕事をしてたんですか。」と僕。宇宙船で乗り合わせた時から、聞いてみたかったこと。
 「トレーラー運転してた。運び屋さ。半日かけて荷物を積み込んで、半日かけておろす。ティッシュの箱は辛かった。」ズボンのポケットに手を突っ込んで、前田さんは、中庭のはるかな天井を見遣る。クンクンと鼻を鳴らして、渋い顔になる。
 「ンゴォォォ」という、子牛の鳴き声が聞こえてくる。作業、もう始まっているんだろう。
 僕らは軍手をして、戸口に立てかけられたフォークを手に取る。とりあえずは、斉藤さんと角さんとで集めた古いワラを、一輪車に積んで、脇の堆肥場へと運ぶ。土をかけて、臭いをおさえる。
 ちらりと、斉藤さんたちのほうを見れば、角さんが、僕らを手招きしている。
 「これから牛舎へ戻すんですが」と、斉藤さん。角さんは、何かを取りに、牛舎の中へ入っていく。
 背後の柵に立てかけてある、黒く塗ったベニヤ板を、斉藤さんはコンコンと、僕らにノックしてみせる。「どれか一頭、二人で、この板で追って、向こうの小屋へ閉じ込めてください。子牛とはいえ、力が強いです。甘く見ないように。」
 見渡せば、十頭もいない。次の物資補給船が来るまで、もてばいいくらいの数字。運悪く、一番遠く、小屋の近くに、一頭、草をはんでいる子牛がいる。
 角さんが、牛舎の中から戻ってくる。背中にポータブル電源を背負い、手には、磨かれた分厚い電極が先っぽについている、棒状の器具と、アース線のクランプとを持っている。太い一本の電線が、棒をつたって、角さんの肩越しに、背中の電源へ接続されている。
 「肉の在庫が不足気味です。」と、斉藤さん。「さばくのは、別の班ですが。私らは、絶命させるところまでです。」
 ここへ来て、初めて、嫌な仕事だなと、僕は思った。角さんは、そんなそぶりも見せないが……。
 「僕もねぇ、悩んだ。」角さんは、例の表情のない顔で、電極を、僕らの前へ突き出す。「だいじょーぶ。スイッチ、入れてないから。」電極には、研がれて薄くなってはいるが、確かに、焦げた跡がある。
 「僕の答えは、言わないョ。」角さんは、いろんな意味で当惑する僕らに、ニッコリと笑って見せ、小屋のほうへ歩いていく。
 前田さんが、無言で板を取り、小屋の近くにいる子牛のほうへ、スタスタと近づいていく。僕も板を持って、そのあとを追う。僕らの狙いが定まると、斉藤さんは僕らに近い側から、子牛を牛舎に追っていく。
 閉じ込められても、子牛は暴れる様子もなく。おそらくは怯えてしまっているのか、でなければ、何か新しい遊びでも始まるように思っているのか。角さんが、アース線のクランプを、小屋の床に敷かれた金属板につなぐ。
 「スイッチ、入れてぇ。」背負ったポータブル電源を、角さんは、たまたま近くに突っ立っていた僕に向けてくる。「右の上の、丸ぁるいツマミ。右にひねって。」
 カンッと、スイッチが入る。四角い赤いランプが灯る。ヒューと、電流回路の動作音が聞こえる。角さんは頭をかしげて、その音を確かめてから、小屋を覗き込み、子牛のおでこの位置を確認する。棒を差し入れる。ピーと、ポータブル電源が鳴った。
 「そのままでいいです。」いつの間にか、斉藤さんが、僕らの後ろで見ている。「別の班のひとたちが、回収してくれます。スイッチ、切ってあげて。」
 「自動で、切れるんだけどー。」角さんは、僕のほうへ、背中を向ける。四角い赤いランプは消えて、ヒューという音もない。スイッチを左へひねると、ただ、カチッという、小さな音だけがした。
 「子牛なのは、輸送費の問題ですか。」と、前田さん。「大きいと、扱いも難しそうだ。」
 「そうです。」と、斉藤さん。角さんは、道具を置きに、牛舎へと戻る。
 「そうですが、それだけではないです。」斉藤さんは、腕を組んで、ちょっと、首をかしげる。話したものかどうか。話して何かになるのか、思案している様子。やおら、斉藤さんは言葉を継いだ。「その生物の文化や秩序を受け継ぐことができるのは、大人だけです。子供に、何の価値があるのでしょうね。」
 「子供がいなければ、その生物は絶えてしまいますよ。」と、前田さん。僕は何も言えないまま、二人の問答を聞いている。
 「その通りです。だから、沢山生まれてくるんです。時間をかけて、大人を残していくために。」と、斉藤さん。僕らに寂しく微笑んで、牛舎へと歩きだす。
 前田さんは、渋い顔をして、何か決意したとでもいうように、うんと、無言でうなずく。僕のことは忘れたふうで、スタスタと、牛舎へ歩いていく。
 僕はそこに突っ立ったまま、胸の鼓動を感じていた。僕は気がついた。いや、改めて、確認したと言うべきかもしれない。僕がここへ来た理由。ここが好きな理由。もう何があっても、あそこへ戻ることは、けっしてない。戻っちゃダメなんだ。僕には今、そのことがハッキリと分かった。


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月の庭(2)

2025年02月03日 | 読み物

 喫茶「夜明け」の、小さなテーブルを挟んで、ビジネス・ウェアをさりげなく着こなした男女が、声を落として談笑している。短いお昼休み。
 「何年になるかしら。」目じりのシワは増えても、えくぼの可愛らしさは、なお、変わらない。企画課を経て、この十年来、人事課で人材リサーチをやっている。肩まで伸ばしたつややかな黒髪は、今もう、後ろで簡単にくくられて、年齢相応の落ち着いた雰囲気に、軽快感を添えている。
 「八年?十年?」男性は茶化すように言う。手にした白いコーヒー・カップを引っ込め、残る手を女性にむけて、ちょっと前のめりになる感じ。センターで分けた、白髪の混じった短めの髪が揺れる。その白と、白いコーヒー・カップとが、茶色のスーツに映える。
 「会長さんがお亡くなりになってから……」女性は顔を恥かしげにティー・カップへ向け、両手でその温もりを包む。「もう八年かしら。」色とりどりの控えめな花柄に縁取られたティー・カップが、深い青のドレスに映える。
 「そんなになるかぁ……」男性は椅子の背にもたれて微笑む。「親父の遺言みたいなものだから。」ひと口コーヒーをすすり、カップを置く。老いて節の目立ち始めた両手を、腹の前へ組んで、フゥと軽く溜め息をする。
 「でも、ひどい言われようね。」女性は微笑み返し、カップを持って軽く揺らす。立ちのぼる紅茶の香りを楽しみ、ひと口飲む。お肌のケアは欠かしていないが、男性同様、節の目立ち始めた華奢な両手のなかへ、カップを戻す。男性の胸の辺りに、かすかな光のまたたきを感じて、女性は顔をあげる。「社長、お電話ですわ。」
 え?、という顔をして、椅子の背から起き上がり、男性は胸ポケットを探る。探り当てたとみえて、かすかなバイブレーションの音が、女性の耳に届く。手のひらに十分収まるサイズのスマホを、もう片方の手に持ち替えて、男性は画面の明滅の眩しさに切れ長の目を細めつつ、通話ボタンを押し上げる。
 「どした?うん。今、佐々木さんとお茶してるとこ。あー、例の件ね。はい。十分くらいで戻るから。よろしく。」通話ボタンを軽やかにタップして、男性は慣れた仕草で、スマホを胸ポケットへ返す。「あんまり関心持たんで欲しいなぁ。」やれやれという具合で、男性は椅子の背にうなだれ、ダラリと両手をたらす。口をとがらせて、女性の手の中のカップを見遣る。
 「送還のことで?」女性はやや体を曲げて、顔を少し斜めに、男性の顔を確かめるような仕草で、ん?というふうに目を見張って見せる。
 男性は口をとがらせて、渋い顔だ。「新聞が取材に来てるって。約束の時間くらい守れよなぁ。せっかく佐々木さんとお茶しに来たのに。」背を起こして、まだ中身が十分に残っているカップを取り、顔の前で揺らす。コーヒーの香りを楽しんで、飲まずに、そのままカップを戻す。「ねぇ、佐々木さん、急で済まないけど、一緒に取材受けてくれない?。世間の評判とか、うちも把握してますって、ちょっと披露しておきたいから。」
 「でも、あんまりいい評判ではないですけど。」女性はティー・カップを持ち、ひと口飲む。飲むときに無意識に目をつむってしまう。
 その様子を微笑ましく見守りながら、男性は頭の中で、言うべき内容を整理し始める。「佐々木さんの所へは、どんな噂が聞こえているの?」
 「路頭に迷うよりまだひどい。面白いことは何もない。刑務所よりひどい。監禁。強制労働。社長の独裁。趣味の悪い道楽。」手帳を見ながらのほうがいいと、女性は脇の小さな黒いバッグへ手をやるが、しかし男性の、もう十分という仕草を見てやめる。「いい噂は、ありませんね。」
 「それはむしろ歓迎さ。」男性は、あらためてカップを取り、ひと口飲む。カップを戻し、両手を両のひざへかける。女性に微笑んで見せ、椅子の背に戻る。「そういう噂が広まれば、かえって集まるひとたちがいる。カネは無いが、むしろこの世を謳歌しているそういうひとたちが嫌うほど、やって来るひとがいる。そこは、取材には言わないけど。」男性は、テーブルの上にちょっと見えるくらいの位置で、片手の人差し指を立てて、チッチッと振って見せる。
 「世間様は、悪いほうに取りますわ。」ティー・カップに顔を向けてしまい、女性は紅茶の水面に映る、船倉のように梁の多い天井の影を見遣る。「ゴシップで有名な新聞社ですもの。八年前のように、一流の新聞からの取材ではありませんわ。」そして男性の顔を見て、「なぜお受けになりましたの?」と言い、何か出すぎたことを言ってしまったというような、後悔の表情を浮かべて、女性はまた、紅茶の水面に目を戻す。
 男性は、顔を女性のほうへ近づけて、さらに声を落として言った。「これはまだ秘密だけど。役員会の満場の一致で、計画の終了を決めたからさ。」
 「ええ?」女性は、面白そうに微笑みを浮かべて自分を見ている男性の、まるで事も無げな姿に、困惑してしまう。
 そんな女性の姿を前にして、男性は、事の経緯を説明しておかねばと思った。「すべては、この喫茶店から始まったんだ。」椅子の背にもたれ、カップを口へと運ぶ。コーヒーの香りを楽しみ、今度はしっかりと飲む。「佐々木さんがまだ企画やってたころ、親父と親父の知り合いと、ここへ初めて来てね。僕はまだあの時分、レトロな趣味はなかったけど。世の中がどんどん変わり始めるなかで、目覚めたさ。」男性は女性に紅茶をすすめる。「その時、親父が声をひそめて、変なことを言い出した。この世でカネを残すのはよくない。俺もそろそろお迎えだから、パッと使ってしまいたいって。そりゃあ、親父が稼いだカネなんだから、異存はないさ。けど額が額だから。何に使うのって聞いたら、秘密基地を作るって言うんだ。ガキかよって笑った。それが、ただの秘密基地じゃなかったのは、世間も佐々木さんも知ってる。」
 楽しげに微笑む男性の顔に、女性は真顔で頷く。「宇宙基地ですものね。」そして男性の話を促すように少し微笑んで見せ、もう冷めかけた紅茶を、ひと口飲む。
 その女性の仕草に、さすが、人材リサーチの室長だけあるわと、男性は改めて思った。その微笑みに甘えて、話を続けるとしよう。「僕らはここで、週に一度か二度、その話をすることにした。親父は言うのさ。社会人としては、確かに成功したようだが、生物としては落第だって。その時の残念そうな顔、昨日のように覚えている。」両手を小さく振り、おでこに触りなどして、手振りを交えつつ、男性は思い出話を続ける。「もう、どこへ行っても遅いが、希望はあるってね。親父と一緒に来てた知り合いが、宇宙進出を目論むベンチャーの社長でさ。スポンサーと事業主ってわけ。その次にはもう、お前には今の会社と、これだけ残すからって、弁護士も連れてきて、ここで生前贈与のハンコ押したさ。お前は成り行きを見ててくれればいい。直接には関わるなって言われた。ただ、予算が尽きたら、事業を閉めてくれ。その手続きは頼むって。金持ちの秘密の道楽に、つきあわされたってわけ。」
 困ったなというふうに、男性はおでこに手をやって、自分でも苦笑いしながら、ひと呼吸置くべく、冷めたコーヒーを飲む。「登記上は、うちのハッチャケた、奇想天外な事業の扱いで、世間様の興味関心をひきつつ、正味八年やったわけ。その予算が尽きつつあったから、いい機会だと思ってさ。月の腹の中に、生きものだった頃の僕らの生活を再現するなんて、僕には意味不明だったけど。親父の道楽だから仕方ないくらいに思ったけど。今は親父と同じ思いだわ。僕ももう、あそこへは行けないが。希望はある、と思いたい。結局、十二回かな、男女別に、可能性のありそうなひとたちを、」
 ブブーと、男性の胸ポケットがふるえる。ペカペカ光る画面を、眩しそうに見ながら、通話ボタンを押し上げる。「はい、今から向かいます。待たせといて。よろしく。」小さなスマホを、スルリと胸のポケットに滑り込ませて、それがちゃんとあることを確かめるように、背広の胸をポンポンと触って安心する。「さあ、行きますか。佐々木さんに話して欲しいところは、僕がふるから。さっきの噂のとこね。」
 「ありがとうございました。」と、店主に送り出されて、二人は喫茶「夜明け」を、あとにする。ガラス戸の自動ドアを出れば、そこは踊り場。地下二階にある地下鉄駅から、地上へと続く階段の、地下一階の踊り場。下からのぼってくるひとの波は、二人を飲み込んで、地上にあふれだす。タクシーをひろって、走ること数分。かつて名うての新聞社だった建物が、内藤商事のオフィス。輪転機のあった広い空間が、空調を効かせた倉庫に、もってこいだった。
 「お待たせして申しわけない。」ふて腐れて椅子に雪崩れている記者の姿を認めて、内藤社長は自分から声をかける。
 「いえ……」と、小柄ながら、なかなかのおなか回りな記者は、めんどくさそうに立ち上がり、背広の脇の膨れたポケットに手を突っ込んで、擦れた名刺入れを取り出す。「夕刊真実の鈴木といいます。今日の版に間に合わせたいので、さっそく伺いますが、」
 「今日?それはまた急だな。いや、光栄です。」内藤は鈴木記者に先の椅子をすすめ、自分は佐々木室長を連れて、向かいの席に座る。
 「光栄?」と、鈴木記者は無表情に呟いて、メモ帳を広げたテーブルすれすれの位置から、内藤の顔をマジマジとのぞきこむ。短髪の丸顔に、黒眼鏡が光る。眼鏡の奥に宿る眼光は、本物のようだ。
 「ええ。」と、その眼光を避けるように、ちょっと背をそらしつつ、内藤は応じる。テーブルの上に両手を軽く組んで、記者に真向かう。大きく息を吸う。「この事業はもう、世間から飽きられていますから。わざわざ取材に来てくださる新聞社さんは、ありがたいです。」
 内藤の自然な微笑みを見取って、鈴木記者はしばしメモ帳を見下ろす。しかし、何かが足りないらしく、テーブルの上や下をキョロキョロと見てから、今気がついたというふうに、自分の黒カバンに手を入れ、短くなった鉛筆を拾い出す。黒眼鏡の相当に近くまで鉛筆を持ってきて、芯が出ていることを確かめてから、ノートに「栄光。世俗から忘られつつある事業に、今も親しみを忘れ得ぬ内藤社長。」としたためた。相手に見られても、一向、構わないらしい。
 「それでは伺いますが」と鈴木記者。「月へひとを送るというこの事業は、亡くなった会長さんの御遺志だそうですが。会長さんがこの事業を始められたのは、どういういきさつですか。」相変わらず、テーブルすれすれの位置から、内藤の顔をのぞきこむ鈴木記者。
 「その前に、佐々木室長を紹介します。」と内藤。隣で佐々木室長が礼をする。鈴木記者は答礼をするだけはして、もう内藤のほうへ意識を向けてしまう。佐々木室長は微笑んで、鈴木記者のその姿勢を受け入れた。渋い顔の内藤。
 内藤のご機嫌を察してか、鈴木記者は再び佐々木室長のほうへ顔を向けて、「すみません佐々木さん。次回、お話を伺う機会もあるでしょう。なにぶん、今日の版に間に合わせたいので。勘弁願います。」と言って微笑んだ。
 この男、微笑むことができるのかと、内藤は思った。まあいい。今は質問に答えよう。「父は生前、儲けることに忙しくて、夢を持てなかったと、嘆いておりました。それで何か、ハッチャケたことをしてやろうと、思ったようです。」
 ところが鈴木記者、先ほどとは打って変わって、今度はスラスラと、メモ帳に記号のようなものを引き出す。ははぁ、速記かと、内藤は思った。なるほどこれならば、相手に見られても構うまい。
 「事業規模は、金額にして、どのくらいですか。」と、鈴木記者。椅子にしゃんと座り直し、もう、ノートから目を離さない。
 「およそ、五八〇億ほどです。」と、内藤。これを聞いて、ほぉ!という雰囲気を漂わせる鈴木記者。顔が見えないから、察するほかない。
 「当時は、世間に夢を与えた事業でしたね。反響は大きかった。」と、鈴木記者。
 まあ、今のところ好意的だなと、内藤は思った。「そうです。みなさんに夢を持ってもらえて、父もあの世で喜んでいると思います。」
 内藤の言葉を聞いて、鈴木記者の鉛筆が止まる。「すると、会長さんの夢は、叶ったということですね。」念を押すように、しかしやはり、ノートからは目を離さずに、鈴木記者は言う。
 「そう思います。父も満足でしょう。」内藤は、鈴木記者の頭の、大きなつむじを相手にして言った。
 「会長さんも、ということは、社長さんも満足されているということですね。」と、鈴木記者は念を押す。おしまいの「ね」は、問いかけというよりも、そのように理解したという通告だなと、内藤は感じた。
 ヤバイな。質問に押されそうだ。内藤は少し不安になる。ゴシップ新聞とはいえ、いや、ゴシップ新聞であればこそ、気軽に取材を受けるべきでなかったかな。
 「ううむ」と、鈴木記者が突然に唸る。鉛筆は止まったままだ。今、たぶん、すごい勢いで、鈴木記者の頭の中に、何かが駆け巡ったのだろう。
 内藤の横で、黙って見ていた佐々木室長も、鈴木記者に何があったのかと、テーブルに身を乗り出している。
 「社長さん」と、突然、ぶっきらぼうに鈴木記者が言う。
 「はい?」少々驚かされて、内藤の言葉の語尾が上がる。
 語尾があがったのを、鈴木記者は、内藤の不服の意志のあらわれだと、とらえたのかもしれない。フッと、ノートから顔をあげて、鈴木記者は、内藤の顔を、今度はテーブルすれすれからではなく、姿勢を正した真っ直ぐなままに、のぞきこむ。
 「社長さん、今日の版は、諦めました。」と、鈴木記者は、ぼそっと言った。
 「え?、どうして?」内藤は、横の佐々木室長と、不思議そうに顔を見合わせる。
 ためらいがちに、もしかしたら、少し恥らうようにも見える様子で、鈴木記者は、身振りも、手振りも交えずに言う。「ご存じのように、うちは、ゴシップで売っている新聞です。でもその前は、そうなる前までは、無名の平凡なタブロイド新聞でした。大手とは住み分けて、地元のちょっとした喜怒哀楽を、取材してました。私的な話で恐縮ですが、私はそれが好きで、入社したんです。」微笑む鈴木記者。寂しい微笑みだと、佐々木室長は感じた。内藤も黙って、鈴木記者の言葉を待つ。
 「これは、久々に、そのころの新聞として書ける記事です。ぜひ、書かせていただきたい。」そう言うや、メモ帳に鉛筆を挟み込み、黒カバンをひったくって、あっけにとられている二人を前に、スックと、鈴木記者は立った。「戻って、デスクとかけあいます。近々、改めてお話をうかがいたい。お電話します。では。」
 「分かりました。電話お待ちしてます。」内藤は、テーブルの上に両手を組みつつ、鈴木記者の背中に、そう言葉をかけた。
 「張り切ってますわね。」佐々木室長が、胸の前に、両手を握って微笑む。
 うん、と、内藤はうなずく。あのひとも、月へ行くべきだったと、内藤は思った。
 仕事を終えて、内藤はひとり、喫茶「夜明け」に向かう。ここで一杯コーヒーを飲んで、仕事とプライベートとを切り替えてから、家路に就くのが常だ。
 「あれ?、内藤ちゃん。」ガラスの自動ドアをくぐるや、聞き覚えのある声が、内藤を見舞う。見れば、奥の四人がけの席に、ひとりで陣取って、誰か手招きをしている。シワシワの白いコートを着た、やや大柄な体の、短髪面長のふくよかな顔の男。名前も覚えやすい。
 「よぉ。福ちゃん。元気してた?」軽く片手をあげて、内藤は手招きに応える。「あ、コーヒー。ブラックで。」
 好物のハンバーグ定食にありついて、福ちゃんはご機嫌な様子。「午後に空港へ着いたんだ。ここの雰囲気が懐かしくてさ。時間ギリギリで、食えるか分かんなかったけど。」
 「ハンバーグなんて、海外のほうが普通に食べられるだろ。洋食なんだから。」コーヒーが来る。カップを手に取り、内藤はコーヒーの香りにひたる。
 「んー、いい香りだな。」福ちゃんが鼻を鳴らす。「すいません、食後のコーヒー、今もらえます?」
 「ハンバーグ美味そうだな。僕ももらおうかな。」福ちゃんの食べかけを覗き込んで、内藤は喉を鳴らす。
 「残念。オーダーストップです。ちょっとつまむか?」福ちゃんは、内藤のコーヒーに添えられたスプーンで、ハンバーグを切り出しにかかる。「ほら。」
 「悪いね、折角の好物を。あー、美味い。明日の昼飯だな。」内藤はスプーンをねぶって、カップの脇へ戻す。
 「そうさ。何か楽しみがあったほうがいいよ。会社のほふは?」テーブルに覆いかぶさるようにして、サラダを頬張る福ちゃん。シャリシャリといい音がする。
 「本業は相変わらず。」椅子の背にもたれて、内藤はそっけなく言う。
 「本業?本業以外にあるのか?」と言ってから、「ああ、月な。」と、思い出す福ちゃん。カップを取り、コーヒーの香りを吸う。ひと口飲んで、満足そうな顔をする。
 「福ちゃんほんと、美味しそうに食べるよね。」内藤の顔から、微笑みが薄れる。「あれ、終了するわ。」
 「終了?月をか?」手にしたフォークで、福ちゃんは内藤を指差す。「まあ、いろいろ噂は聞いてるけどな。」
 「噂じゃない。費用が予定の額に達したんだ。ここまで続くとは、僕も思ってなかった。」手を腹の前に組んで、内藤はひとつ、深呼吸をする。「けっこう、成し遂げた感があるわ。」
 「月かぁ。まあ俺は、地上を飛び回ってるだけで十分だ。美味いものも食えるしな。」ハンバーグの最後のかけらを食べてしまって、福ちゃんはご満悦。「んー。故郷の味が一番だ。」皿を脇へあずけて、コーヒーを、自分の前へ引いてくる。
 「あと、月へ行ったひとたちの帰還と、基地の処分と。けっこうギリギリの額しか残ってない。」手にカップを持ち、椅子の背にもたれたまま、内藤は目を閉じる。改めて思い返せば、けっこう長い八年だった。
 「へぇ。壊しちまうんだ。」言いながら、福ちゃんは皿の隅に見つけた野菜のかけらを、フォークで追っている。
 「ああ。建物を維持するお金は無いし、次の開発の邪魔になるかもしれないし、生物汚染の可能性もあるから、当初の契約でそうなんだ。特集番組でもアニメーションでやってたから、覚えてるひとも、いるかもしれない。焼却して、最後は爆薬でドカン。地盤を落下させて、完全に埋める。建設当初に、装置は組み込んであるから、その費用はかからない。」内藤は、手まねでドカンとやって見せて、微笑む。「五八〇億の、一夜の夢もおしまい。」
 「ひとがいるうちに、ドカンなんてことは無いのか?」野菜のかけらをやっつけて、福ちゃんはコーヒーで祝杯をあげる。
 「ない。一部、現地で組み立てる構造になってる。」内藤は、福ちゃんの前に両手を出して、ゆっくりと組んでみせる。「壁にあいた一塊の穴に、一塊になったソケットを差し込むだけさ。数は多いが、簡単にできるから、最後に離れるひとたちで組みつけて、こっちから信号を送って発火、起爆させる。それで完全に終わり。」
 「SFみたいだな。暗号とか送信してさ。」福ちゃんのほがらかな笑いを、半年振りに見る内藤。
 「僕ね、あの特集番組に、ちょっとだけ出てたんだ。」福ちゃんのほうへ顔を寄せて、内藤は声をひそめて、はずかしげに言う。「暗号、僕が決めたから。」
 「へぇ。そんな場面、あったか?」福ちゃんも、内藤のほうへ顔を寄せる。
 「思い出の場所。そうでもなきゃ、八年も覚えてる自信ないよ。」椅子の背に戻って、内藤は微笑む。コーヒーを飲み干して、満足げにカップを戻す。「久しぶりに、福ちゃんに会えてよかった。いい気分転換になった。しばらくは、こっちにいるのかい?」
 「そうしたいんだがなぁ。」福ちゃんもコーヒーを飲み終えて、ホッと、椅子の背に身をあずける。「週末にはもう、機上のひとさ。ま、今時、忙しいのは、ありがたいことだ。稼げる時に、稼ぐに限るわ。」
 会計を済ませ、地下一階の踊り場へ出る。「じゃあ。」と、お互い片手をあげて、福ちゃんは階段をおり、内藤は階段をあがる。陽はとうに暮れて、空一面を雲が覆い、風が出ている。この時間では、流しのタクシーはつかまるまい。階段の途中で、内藤は振り返る。父との思い出の場所、喫茶「夜明け」の、小ぢんまりとしたレトロな店構えに、内藤は思わず知らず、懐かしさを覚えた。
 地下二階の踊り場に、この時間でも客足の途絶えない、立ち食いそば屋がある。角刈り頭の、外套とジーパンの上からでも体格のよさが知れるオッサンが、二人分のスペースを占領して、天玉うどんを豪快にすすっている。その後ろでは、女子たちと観光客らが、声をひそめてキャアキャア言いながら、立ち食いそば屋とムキムキのオッサンという、稀に見る光景を写真におさめている。誰か、外国のドラマ俳優と、勘違いしているらしい。
 シワだらけの白いコートを着た、短髪面長の冴えないオッサンが、階段をおりてくる。角刈り頭を、ものめずらしそうに眺めながら、コートのポケットから釣り銭を出して、天玉うどんを注文する。角刈り頭が気をきかせて、一歩脇へ退き、スペースを作ってやると、後ろでは女子たちのブーイング。
 汁を一気に飲み干し、優しくトンと、どんぶりを置く角刈り頭の横で、短髪面長のオッサンが、「夜明け」と囁く。
 しかし、角刈り頭には何も聞こえなかった様子で、ただ「ごっそさん」と言い残して、角刈り頭は地下鉄へと向かうひとびとの流れに混じり、改札の中へと消えた。


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月の庭(1)

2025年01月28日 | 読み物

 

 「ひでぇ星だったぜ……。」前の席の角刈り頭が、そう呟く。
 僕は窓の外の、はるか下の地面が遠のいていくのを、ただ眺めていた。
 ひとが、死ぬことなしに、生まれた星を離れられるようになったのは、つい昨日の話のように思える。
 星系内の他の惑星で、開拓の仕事をするという、冗談のような求人を公共職業安定所で紹介されてから、再利用可能な宇宙船ができあがり、それに乗船するまで、二年も経たない。とりあえず月で研修してから、隣の惑星に行くそうな。
 「よぅ、おまえは何で志願したんだよ。」前の席の角刈りが、ヘッドレストと壁との間に顔半分を突っ込んで、ギロッと、目玉だけで睨んでくる。
 「ひっ!」と、思わず声が出て、僕は体が椅子にメリ込むくらいその目玉から逃げて、「職安……」とだけ言った。腹にベルトが食い込んで痛い。
 「職安!」角刈りは、すき間から顔半分を引っこ抜いて、モロ手をあげて大声を出した。船内が静まり返る。
 ほぼ全員の目線が僕に刺さる。僕は椅子に埋もれてしまいたいほど体をちぢこませて、いつものようにギュッと目をつむる。「だからこの星の奴らは嫌なんだよ……。」壁に口づけするほど顔をそむけて、僕はそう呟いた。しかし、それも一瞬。
 船内はザワメキを取り戻して、もう僕の存在を忘れている。前の席の角刈りは、隣の奴と、ちからコブの見せ合いを始めた。
 「どこかの軍人さんかな?」僕は溜め息をして、椅子から浮かび出る。この感じ。この空気が、僕をここに居させる。言ってしまえば、雑多な連中の集まり。ここへ至った経歴も、年齢も国籍も、ここでは「ふーん」で済んでしまう。
 急に船内の照明が落ちて、ザワメキが止む。みな、窓の外や、正面の映像を見つめている。窓の外、ずっと下のほうで、地表はもう鮮明さを失い、茶色と緑色と青色と白の塗り絵になっている。もう二度と、この景色を見ることはない。
 シューっと、かすかだが、聞きなれた音をとらえて、僕はそのための姿勢に直る。間もなく眠くなり、深い吐息をして、記憶が途絶える。最初の夢は、子供のころ、町内の子供らと、ケイドロをした場面。
 「おまえがトロいから、またドロじゃん。」耳元で、ガキ大将の大声がした。
 「ごめん……」と、僕は泣く。縁石に座って、体をちぢこめる。ゲームは僕抜きで再開して、楽しそうな子供らの様子を、僕はただ見ていた。あそこに、僕の居場所はなかったなぁと、僕は思った。最初の夢はそこで終わり、次の夢が始まる。
 誰か大人が、僕の植木鉢を、ポイと投げ捨てた。土しか入ってないようだから、その扱いも仕方がない。横倒しになって、雪崩出た土の中に、やっと根を出したカボチャの種があることを、僕は誰にも言わずにいた。あれを号泣というんだなと、僕は思った。あの時は、本当に悲しかったが。すでに車の中にいて、そこから出ることを許されなかった僕には、なす術もない。懐かしい家。幸せだった家。あの家に帰ることはなかったな。夢はそこで終わり、次の夢が始まる。
 何の集まりだろう。大学のコンパかな。古びた部屋に、ギュウギュウに机が詰まって、みんなでガヤガヤ騒いでいる。
 「ひとーーーつ!」と、間延びした大声が、僕のうしろで始まる。
 「よぉー!」みんな喝采。グラスをかかげる奴、から揚げを箸で持ち上げる奴、ビローっと焼きそばを引きのばす奴もいる。
 「剣道部所ぞーく!春季大会第さーーーん位!」間延びした大声は続く。
 「おぉー!」みんな拍手。頭の上で手を叩く奴。机をドンドンする奴。
 「伝とぉーーと栄こーーぅの!しば!うえ!たに!よん!きょう!ぞーく!」みんな大笑い。何言ってるのか分からんが、あれは楽しかったなぁ。あのあと焼きそばにあたって、みんな寝込んだんだっけ。
 ズキッと、頭に激痛が走って、僕は目を覚ます。
 「この頭痛だけは慣れん。」前の席の角刈りが、無い髪の毛を片手でかきむしる。「ふぁー」と、両手をうんと伸ばして、あくびをする。
 角刈りはあれから、まったく、僕のことなど忘れたふうだ。ありがたいと、僕は思った。体が、ゆっくりと、後ろへ回りだす。間もなく、着陸するらしい。
 ザザッと、船内のスピーカーから音が出る。「当機は着陸態勢に入る。諸君の自主性に期待する。」プツンと、それだけ言って、スピーカーは黙った。パイロットは乗っていない。代わりに、自動操縦のプログラムが走っている。
 ゴォーッという逆噴射の音が始まり、宇宙船は、重厚なハッチを、規定通りの間隔と速度とで通過する。このハッチが閉まれば、もう空を見ることもない。
 逆噴射の音が止まり、船内のあちこちで、ガチャリと、シートベルトを外す音がする。ハッチの内部に空気が満たされるまで、みな、船内にとどめられる。全員が居住区に入ると、この船は自動で飛び立ち、次の旅団を迎えに行く。
 「誰もいねぇな。」前の席の角刈りが、窓の外を眺めて言う。「逃げ出したい奴は、いないらしいな。」角刈りは、ヘヘッと笑って席を立ち、後方のハッチへと歩き出す。荷物は先に、それぞれの部屋に届いているはず。
 僕は座席の肘かけを、名残り惜しく撫でて立ち、後方のハッチから並ぶ列の最後についた。誰も、僕も、自分の後ろを見ない。
 列の前方で、シャーッと、ハッチが開く。無味乾燥だが、新鮮な空気が流れ込んでくる。みんな深呼吸している。おそらく、新天地なんて、誰も思ってやしない。出社する感覚。それだけ。
 カンカンと、軽い金属音のする廊下を歩いて、言葉もなく、自分の番号の部屋へと散っていく。個人のスケジュールは、その部屋の机の上に、すでに用意されてある。あの角刈りと出会うことも、もう無いだろう。
 扉は僕を認識して、音もなく開いた。これからここで、僕は暮らす。コンクリート打ち放しの、寒い部屋だろうと思っていたが。ホテルのダブルベッドの部屋のようだ。
 なんと、窓がある。思わず歩み寄って見れば、どうやら中庭が見渡せるようだ。窓は開かないが、眼下に広がる果樹。川まで流れている。小鳥もいるのか。
 窓枠に、スピーカーが埋まっているのに気がついて、僕はスイッチを押した。ボリュームを上げると、かすかに水の流れる音が聞こえる。時折、小鳥の鳴き声も聞こえる。わずかにエコーがかかっているから、中庭も天井で覆われているのだろう。
 しばし景色に見とれていると、ピピッと、机でアラームが鳴った。スケジュールはもう、始まっているようだ。机の天板を兼ねたディスプレイに、「入浴」、「昼食」、「採血」の文字が浮かぶ。それぞれの文字の隣には、完了のボタンがある。完了以外のボタンは無い。どこへ行けとも言わないから、始めは座学なのだろう。
 湯船に体を沈めるのは、久しぶり。ずっと、シャワーだけだった。それも、シャワー室のある場所がとれればの話。朝早く起きて、遅くまで現場で働く毎日。食いつなぐだけの毎日だった。
 思わず長湯してしまって、気まずい思いで完了のボタンをタップする。トイレの手前の、洗面所の明かりが自動でついて、ピピッと、そこのアラームが鳴る。洗面所の脇の台に、せりあがってきた昼飯を見て、僕は驚いた。ビニールに包まれた、そっけない保存食一式だろうと思っていたが。ホテルの朝食並みだな。パンにバターにジャムに目玉焼き。サラダとドレッシング、グラスにつがれたジュース、牛乳、コーヒーまである。
 「ここで作っているのか!」僕はうなった。合成食品ではなく、まぎれもない、栽培された野菜、加工された肉。これは、どういうメカニズムなのかと、僕は食べながら空想していた。原理は、宇宙船に乗る前に、ひと通り教わりはした。それが実際、機能しているとはな。
 トレイを持って、机で食べようと思ったが。台に固定されている。ここで食えということらしい。机からビジネスチェアを引いてきて、座る。まあなんて、久しぶりの晩餐だろう。コショウと塩が欲しいところだが、この際、贅沢は言うまい。
 ウキウキで完了のボタンをタップすると、ふたたび、洗面所のほうで、ピピッと、アラームが鳴った。さっき、昼食が乗っていた台に、採血用の小さな器具が乗っている。指の先に当てると、自動で針が出て、少量の血を採取する。宇宙船に乗る前に、何度かやった。チクリとはするが、血はすぐに止まる。これも、台に固定されていて、指のほうをあてる方式らしい。
 机に戻って、完了のボタンをタップしたが、続く指示は出ない。今日のスケジュールは、これだけということのようだ。
 とりあえず、ベッドにもぐりこむ。なかなか心地よいが、カビ臭く汚れたベッドに慣れた身では、戸惑いのほうが先に出てしまう。
 僕の荷物は、何もない。衣類一式は支給される。あそこから持ってこようなどと思うものは、何もなかった。枕の上には、いくつかスイッチがある。カーテンの開け閉め、照明のオンオフ、空調まである。このスイッチは?。押すと、天井がなくなった。どうやら、ベッドの上の天井は、一面のディスプレイらしい。中庭の照明に連動した、空の風景が映し出される。窓枠のスピーカーの音が、実感を添えてくれる。
 旅の疲れだけでは説明できなさそうな疲れで、僕はすぐに、ウトウトしだした。「病院みたいだな。」不明瞭な意識のなかで、僕はそう呟く。記憶にある、唯一、安らぎを感じた場所。現場の事故で救急搬送されて、気づけば、体中に管が差し込まれていた。一週間くらい、意識不明だったそうだが。病院にいたときは、涙が出るくらい、初めての、安らかな気持ちだった。あれがなければ、この求人に応じることもなかったな。
 目を覚ますと、夜になっていた。中庭の照明で、二十四時間を演出する仕組みのようだ。アナログの時計を持ってくればよかったなと、今更に思う。デジタルばかりのこの部屋に、アナログの時計でもあれば、ぬくもりを感じるだろう。
 机のディスプレイは、天板を兼ねているので、立てることができない。ベッドからは位置的に、画面を見ることはできない。なかなか上手くできているなと思う。ひょっとして、天井のディスプレイに表示されるのかと思ったが、そんなことはなくて。あくまでも天井か、または、空の景色を映すだけだ。ピピッとアラームが鳴る以外は、スケジュールの存在を意識させないつもりらしいな。
 「しかし、あまりにも……」僕は呟く。あまりにも、良すぎるのではないか。これまでの経験が、何かあるぞと僕に警告してくる。どんな研修が、始まるのだろう?。いつまでやるのだろう?。あの肉は、何の肉だろう?。
 ピピッと、机でアラームが鳴る。「夜に?」僕はベッドを抜け出して、机の前に立つ。「睡眠導入剤」の文字の横に、「要」、「不要」のボタンがある。不要のボタンがあるなと、僕は思った。「要」のボタンを押してから、あの頭痛を思い出して凹んだ。続いて、ベッドに入るよう指示が出る。シューという、聞きなれた音が聞こえて、僕は眠りに落ちた。
 夢の中で、僕はどこかの岬の突端にいた。足元から吹き上げてくる、潮の香り。霧が立ち込めるなか、赤と白とに塗られた、ひとつの灯台が、彼方へ一筋の光を投げている。どこだったか。いくつか思い当たる場所はあるが、判然としない。けれども、そこへ行った目的は、同じだった。とどろく波の音におじけて、夜明けまで、そこに座っていただけ。この求人に応じたのも、同じ理由だなと、僕は思った。
 ズキッという頭痛が走って、僕は飛び起きた。ピピピピと、目覚まし時計のようなアラームが、机のほうで鳴り続けている。それが頭に響いて、両手で顔をこすりながら、ベッドを出る。
 「起床」の文字が、机のディスプレイに出ている。僕は片手で顔を覆って、指の間からディスプレイを見下ろし、起床完了のボタンをタップする。続いて、「身支度」、「端末持出」の指示。しかし、時間の指定は無い。常識の範囲内で、ということだろうか。
 朝シャンの趣味もないので、昨日の上着を着て靴下をはき、汚れたままの靴をはいて、身支度完了のボタンを押す。カシャッと、机の引き出しが少し出る。引き出して見れば、スマホがひとつ。手に取ると、「場内見学」の文字が現れた。しかしこれにも、時間の指定は無い。
 「どういうこと?」僕は不安になる。初日だからだろうか。いや、初日ならなおさら、今にも部屋の扉が開いて、「17号出ろ!」とでも、言われるのではないか。
 僕は身構えたが、しかし、誰も来ないな。窓枠から流れる、川のせせらぎ。太陽はとっくに、始業時間を過ぎ越して昇っている。ボヤボヤしていていい時間ではないが……。
 部屋の中を見回してみるが、本棚のようなものは、見当たらない。ルール・ブックとか、ないのか?。机に戻って、天板を兼ねたディスプレイを、あちこちと触ってみる。キーボードはおろか、カーソルすらも出ない。ただ相変わらず、「場内見学」の文字だけが、表示されているだけ。
 このまま篭城してみるのも、いいかもしれないと、僕は思った。思いはしたが、しかし、この建物への興味のほうが勝ってしまうのは、悲しいサガだなと、つくづく自分でも思う。
 「そうだ。端末……。」胸ポケットから、スマホ型の端末を取って、画面をあちこち触れてみる。サイドにあるはずの、ボタンや穴はない。裏面はのっぺらぼうだ。画面には、机と同じに、「場内見学」の文字があるばかりで、ほかには何も出ない。ほかに持参するものもないし。
 「中庭、行けるのかな?」地図くらい見たいなという気持ちで、僕は手にした端末に、なに言うともなしに言ってみた。「シカトかよ。」期待はしていないが、実際、何も出ないと凹む。端末は胸ポケットに仕舞ってしまい、歩きたいほうへ歩くことにする。
 部屋の扉は、何の抵抗もなく開いて。そして、誰もいない。靴音も話し声もない。床と壁面との境には、こなたから彼方に至るまで、薄青い間接照明が植わっている。サイバーな雰囲気。いかにも最新という感じ。
 カン、カン、という軽い金属の足音をさせながら、僕はとりあえず、昨日きた方向と、同じほうへ歩いてみる。ハッチから散り散りになった僕らは、誰も誰かのあとを追うことなく、ひとりっきりで散っていった。僕も僕の部屋まで、僕だけが歩いてきたし。だから同じほうへ歩いていけば、ずっとひとりでいられるだろう。
 カン、カン、という軽い金属の足音を聞きながら、僕は思った。窓から見た中庭は、相当な規模だ。宇宙船に乗っていた人数と、この中庭の大きさ。たぶん、この道は、ハッチと中庭とを、つないでいるだけだろう。
 見れば、行く手の先で、薄青い照明が途切れている。振り返れば、道は緩やかに弧を描いていて、まだそんなに離れてはいないはずなのだが、しかし僕の部屋の扉は見えない。通勤してる感じ。バスの窓から、遠ざかる自分の部屋の窓を、悲しく見ていた。そんな記憶。
 薄青い照明が途切れたところからは、道の幅はそのままで、天井だけ斜め上にあがっていて、その先には、やはり、ハッチがあった。僕の背後で、スッという、かすかな音がして。振り向くと、来た道は、扉で閉ざされていた。
 そして今度は、斜めになった天井から、真昼のような明るさが、その強度をゆるりと増しつつ、この空間を満たしていく。
 静かなブウンという、ファンの回る音がして、嗅ぎ慣れた土のにおいがする。都会の、枯れた土のにおいじゃなく、田舎のドカタで嗅ぐにおいだ。光に目も慣れた頃合い、わずかにゴロゴロという音をさせて、道の幅のままではあれ、ハッチが大きく、上へと引き上げられた。途端に僕を覆う湿気。
 「何か、ハエ?」僕の耳元を、何かが飛び去った。小鳥のさえずりが聞こえる。見上げれば、はるか上には、やはり、天井らしきものがある。うまく塗装はされているが、無数のダクトや換気口を見てとれる。
 僕の背後で、ゴロゴロとハッチが閉まる。と、ハッチの両側に、細いすき間が開いて、そこからかなりの勢いで、内側の空気を排気しだす。ブウンと、さっきのハエの羽音が、僕の耳元をかすめていった。
 ピピッと、胸ポケットのスマホが鳴る。取り出して見れば、画面に「斉藤さん」の文字。行方に目を向ければ、確かに誰かが、こちらへ手を振っている。
 「斉藤、さん?」僕はスマホの画面を相手に見せる。小柄な斉藤さんは、首にかけた手ぬぐいで顔を拭きながら、ウンウンと、僕にうなずいてみせる。
 「ここへ来るまで、大変だったでしょう。」にこやかに話す斉藤さん。ここへ来るまでという部分に、実感がこもっている。
 「ええ、まあ。」ひとよりも、まだ見足りない景色のほうへ、僕は視界を持っていかれる。斉藤さんは、そんな僕の様子を見て、微笑んでいる。
 「あなたよりも、四つ前の便で、私はここへ来ました。」と斉藤さん。僕は、えっ?という顔をして、斉藤さんの顔を見る。
 「四つ前……。一年と少し前ですか。」現場主任とか、教官とかだと、僕は思っていた。
 「私も、そんな顔をしてたんでしょう。」斉藤さんは、道端にしゃがんで、草取りの続きをする。「ここには、指導教官のようなひとは、いません。研修を終えたひとたちは、みんな、隣の惑星へ行ってしまうから。」それきり、ベルトに下げた、根切り用の、先が二股になった棒をとって、斉藤さんは、黙々として、作業を続ける。
 気が引けたが、僕はどうしても、聞きたいことがあった。「ルール・ブックとか、ないんですか。」
 「ないです。」と斉藤さん。即答だった。「私も、来た時分に探しました。ここには、ルール・ブックはおろか、法律も、警察もありません。ただ、不適格な者は、送還されるみたいです。私と来たひとたちは、一週間経たないうちに、半数になってました。」
 ピピッと、スマホが鳴る。手に持ったままなのを忘れていて、僕は空の胸ポケットを見、周囲を見回してから、ようやく、手元のスマホに気がついた。慌てて画面を見ようとしたところ、ちょうど、ズボンのポケットからスマホを出した斉藤さんの姿が目に映った。
 「用意ができたみたいです。行きましょう。」タオルで顔を拭きながら、斉藤さんはもう、スタスタと道を歩き出す。僕は言葉もなく、スマホを胸のポケットに仕舞った。それをポケットの上から触ってみて、改めて存在を確認してから、だいぶ先へ行ってしまった斉藤さんの背中を、僕は追いかけた。
 「あとからゆっくり見られますから。」微笑む斉藤さんに諭されて、僕は歩きを早めて、斉藤さんに追いつく。行く手に、丸い天井のかかった、幅の広い螺旋階段があり、地下へと降りられる仕組み。掘削した当時の穴の形状そのままなのだろう。
 「最初の何段か、滑りますから。気をつけて。」斉藤さんに倣い、僕も手すりをしっかりと握る。思わず胸ポケットに片手をやって、安心する。
 ぐるりと一周して、中庭からの光が薄れた辺りから、廊下の薄青い照明が始まる。二周目に踊り場があって、同様に高いハッチが開き、僕らは中へ入った。螺旋階段は、その先もずっと続いている。
 ハッチが閉まると、その脇の細いすき間が開いて、僕らは、猛烈な旋風に巻かれた。僕は思わず身構えたが、しかし斉藤さんは慣れたもの。薄い髪の毛から上着からズボンから、旋風のなかでバサバサとはためかす。上着などは前を開けてしまって、旗みたいにあおられている。しかしいまだ、旋風は止まない。
 斉藤さんは気づいて、僕のほうへと歩み寄り、耳元で教えてくれた。「ホコリや虫が飛んでしまわないと、この風は止まらないんです!あなたも私のようにやってください!あっ!上着、脱がないで!飛んでいってしまいますから!」
 ようやくにして旋風が止み、二人とも、寝起きの髪のような格好になって、半ば放心状態でいると、今度は足元へ、早瀬のように水が流れだした。僕の靴など、見る間に、水浸しになるくらいの量。僕ひとりでバシャバシャ慌てている。斉藤さんは慣れたもの。両の長靴を互いにすりあわせて、ついた泥をうまく洗い流している。水は間もなく止んだ。バシャバシャやった甲斐があったんだろう。
 「この先で長靴もらえますから。靴下ももらえます。」にこやかではあるものの、笑いはしない斉藤さん。たぶん、自分も同じ目にあったんだろう。
 廊下への扉を入ってすぐ、ピピッと僕のスマホが鳴る。「二番」とだけ、画面に出ている。斉藤さんが指をさす。その先を見れば、壁に方形の線が入っていて、その枠のひとつに「二番」の文字が出ている。
 斉藤さんが、向かいの壁の「一番」をタップすると、そこがパカンと上へ開いて、斉藤さんはその中へ、汚れた軍手と道具一式とを預ける。
 僕も倣って「二番」をタップする。パカンと開いたその中には、横に置かれた長靴と、靴下と、手ぬぐいとが入っていた。濡れた靴と靴下と、拭いた手ぬぐいとをそこへ戻して、新品の長靴をはく。長靴ではあれ、新品の靴なんて、久しぶり。
 見れば斉藤さんが、スマホを出すように、身振りで教えてくれている。自分のスマホを出して見れば、四角いバーコードが表示されている。「その日のスケジュールは、スマホが教えてくれますから。」と斉藤さん。
 短い廊下の突き当たりにある、扉の脇の壁面に、黒い線で四角く囲われた部分がある。斉藤さんがそこへ、スマホの画面をかざすと、スッと扉が開いた。「電波でやればいいのに。ここはみんな、バーコードを読ませて出入りします。あなたも読ませて。でないと、すごい勢いで扉が閉まるから。クセつけとかないと、病院送りです。」
 怖いな、と思いながらも、なるほどこれが、ここのルール・ブックだなと僕は思った。音もなく開閉するこの扉。ということは、十分に余力のある動力に、つながれているということだろう。病院送りで済むのかしら。
 先を進む斉藤さんに、半ば冗談のつもりで、僕は問うた。「ここに墓地はあるんですか。」
 「ないです。」これも即答。「ここへ来た日が誕生日で、ここを去る日が命日みたいなものですよ。」独り言のように、斉藤さんは言う。なるほど、わかりみが深い。
 さっきから、実に美味そうなにおいがしている。ピピッと、スマホが鳴る。僕はまた「二番」。通路の壁面に、さっきよりもずっと大きな、ドアのサイズの黒い囲いがいくつかあり、その一番手前に「二番」の表示が出ている。
 斉藤さんが「一番」の表示をタップすると、パカンとドアのように開いて、台に置かれた紫色の手袋が見える。
 「中で着替えます。上着とズボンを脱いで、白い作業着と、紫色の手袋と、マスクと、頭にかむる網をつけてください。つけたら扉が開くので、消毒液に、手袋をしたまま浸してから、風のなかを歩いて、先へ進んでください。スマホは、服のポケットに入れてください。」と斉藤さん。
 僕は「二番」の表示をタップして、言われたように着替えて、また風にあおられ、先へと進む。斉藤さんはもう待っていて、僕をにこやかに迎えてくれる。
 「ここでは、居住者全員の、朝昼晩、三食をまかないます。さっき私がやっていた、中庭の手入れもそうですが、この作業も、全員が持ち回りでやります。し尿の処理から、家畜の世話、回収した衣類やリネンなどの洗濯、発電所の管理、道具の製造から修理、リサイクル、廃棄まで、すべてやらねばなりません。居住区で虫やカビが発生すると、それだけで面倒な仕事が沢山増えますから、中庭のものを、部屋へ持ち込まないでくださいね。これらの作業がない時間は、いつでも、中庭に出られますから。」斉藤さんの話を聞きながら、僕は昨日食べた肉が、ちゃんと飼育された牛の肉だと確かめた。
 ぐるりと調理場を歩いて、着替えを済ませ、螺旋階段に向かう通路で、僕は斉藤さんに聞いた。「電力の源は、何ですか。」
 「それは、最後に案内しますよ。宇宙服を着なければならないので。」斉藤さんは、事も無げに言う。
 「宇宙服?。すると、原子力か何かですか?。」と僕。
 「いえ。宇宙線です。月の表面へは出られませんが、監視室から全体を見渡せます。もちろんその役目も、輪番でやります。修理は、規模にもよりますが、住人総出でやることも、あったみたいです。」斉藤さんは、螺旋階段へ出るハッチの前で、僕に、宇宙服の着かたを、そのコツを、ゼスチャーを交えて教えてくれた。
 螺旋階段は、頑丈な作りらしく、通路のような、軽い音はしない。それがかえって寂しくもあり。斉藤さんと一緒に降りていることが、心強い。下の階のハッチでは、先の失敗もなくて。新品の長靴に、僕はついぞ、現場では考えたこともない、ありがたみを覚えた。
 「この階は、し尿などの処理をするところです。部屋ごとに陰圧になってますから、においはここまで来ないです。」斉藤さんのスマホが、ピピッと鳴る。
 画面を見る斉藤さんの顔が、見てとれるほど暗くなる。「ごめんなさい。今日のスケジュールは延期です。事故がありました。あなたは指示あるまで、部屋へ戻っていてください。あなたの部屋へ続くハッチは、スマホが教えてくれます。矢印が出るので、従ってください。私はこのまま、一番下まで行きます。」
 ハッチを出て、斉藤さんと別れる。なるほど、スマホの画面に、矢印が出ている。薄青い照明のなか、ぐるぐると螺旋階段をのぼって、中庭に出る。真上からの強い光が、僕におよその時間を教える。
 「そういえば、朝飯、食いっぱぐれたなぁ。」部屋に戻れば、何か食えるだろう。そう思うと、歩みも速まる。スマホの矢印に従い、旋風と洪水とを難なくこなして、カンカンと鳴る通路へと入る。僕の部屋の扉が見える。
 「おい。」と、ドスのきいた声。ビクッとして、声のほうを振り返る間もなく、僕の肩に、誰かの手がかかる。力づくで振り返らされて、見ればあの、前の席の角刈りじゃないか。
 「逃げるぞ。一緒に来い。」言うなり、角刈りは「しっ!」というふうに、自分の口の前に指を立て、通路の前後を、鋭く睨む。自分でも驚いたが、僕はその角刈りの手を、払いのけていた。
 「なんだお前!助けにきてやったんだぞ!」角刈りは、今度は両手で僕の両肩をわしづかみ、ガクガクと僕をゆさぶる。「どうしちまったんだ!もうおかしくなったのか?。」座席と壁との間から、ギロリと睨んだその目と同じ目で、角刈りは僕の目を見る。しかし僕は、僕の両手で外側から角刈りの両手をつかみにかかり、持ち上げるようにして、それらを払った。
 角刈りは、怒りにうち震えながらも、もはや何も言わず、どこで手に入れたのか、コルク抜きのような金具を通路の床材に突き入れて、その一枚を引き剥がす。そのままストンと、中へ飛び降りた。ほとんど同時に、僕は強力な眠気を感じて、意識を失った。


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もろびとこぞりて

2024年12月25日 | 読み物

 イブの翌日だというのに、私は朝っぱらから、港にある刑務所まで、車を走らせていた。海岸通りの標識はみな、海側の半分は凍っている。空は大抵が白。そこへかすかな桃色が流れて、海をより一層、暗く見せている。こんな景色じゃ、道を間違ったって仕方がないが。しかし、その暗さのなかで、不定期にキラリと、彼方の標識が朝日に反射して、私の意識を掴む。お前の行く先はほかにない、と。
 接見が許されたのは、2時間前のことだ。当局にはこれまで、何度も接見を申し込んだ。死刑囚と対面するのは、そう簡単なことじゃない。いよいよ執行の当日になって、私はようやく、126号とだけ呼ばれる1頭の人狼と、対面する機会を得た。それがために、今こうして、車を走らせている。彼は別に、誰かをあやめたというのではないが。しかし、死刑に処せられることは、疑問の余地の無いことであった。
 建物のはるか手前のゲートで、FAXされた1枚の許可書を見せ、そこから一直線に円柱の建物本体へと続く、草むらも何も無い、ただ広く開けただけの吹きっさらしの道を、ひたすらに走る。時計に目をやる。あと1時間と35分しかない。刑の執行までに間に合うのか?。不安が胸をよぎる。
 円柱の建物本体はドーナッツ状で、穴の部分に、申しわけ程度の駐車スペースがある。指定されたスペースへ、円の半径に沿って車をきっちり止めるのは、思いのほか難しい作業だ。車を降りる先から、動物園のような獣臭がする。この人間工学に反した駐車スペースからしても、普通の刑務所ではないのだ。どこか上のほうで、力任せに鉄格子をギシギシ揺する音がする。見上げてはみるが、壁には同じ色、同じ形の凹みしか見えない。
 よそ見をしているうちに、音も無く分厚いドアが開いており、反応が遅れた私は、慌てて中へと駆け込むような格好になった。そのすぐ後ろで、分厚いドアが滑るように、音も無く閉まる。出られるのだろうか?。私はふと、不安になった。もしかしてこれは、私を捕らえるための…
 床に描かれる矢印に導かれて、私は地階をぐるりと歩いて、恐らくは、先のドアの反対側辺りにやってきた。あと1時間20分。気は焦るが、頭がついてこない。行く手の右側で、厚いドアがスッと開く。ここへ入れということか。私が踏み込むと、部屋の明かりがパッとついて、目の前のガラスの向こうに、126号がいた。
 「20分間の接見を許可します。会話内容はビデオとして保存されることを、あらかじめお知らせします。」天井のスピーカーから、ほとんど棒読みなメッセージが流れる。
 20分だと!。私はスピーカーに向かって拳をあげた。「約束が違う。執行直前まで話せるはずじゃないか。」
 「俺がそうした。」と、126号は言った。呟いたのだが、マイクの音量は十分だった。「もう話すことなど無い。」126号はそう言って、私を黙って見ている。
 私はガラスの前の席についた。見上げるような人狼の体は、泥にまみれたように汚れている。これが126号、市谷光男だった男の姿なのだ。
 「あと15分です。」抑揚の無い声が、天井のスピーカーから流れる。私は顔をあげてスピーカーを睨む。フフッと、市谷が鼻で笑う。下あごの尖った歯が見える。それは茶けて、輝きは無かった。
 もう時間が無い。私は口を開いた。が、言葉は出なかった。質問なれば、ノート1冊書き溜めている。その欠片すらも出なかった。この死刑になるほかない男に、いまさら、何を聞けばいいのだろう。ひとをあやめたというのでもない。私の調べた限り、法に触れることは何もしていないのだが、死刑になるほかないこの男。私はこの男に向かって質問すべきだろうか。質問する相手が違うのではないか。
 「あと10分です。」抑揚の無い声が告げる。気づけば、市谷はニタッと笑って、その獰猛な目で、私を睨んでいる。鋭い眼差しではあるが、その眼差しのなかに、私は黄疸の症状を見て取った。この男は、どのみち死ぬのだと、私は思った。このバネのようにしなやかな肉体の持ち主、生きることしか頭にない人狼が、ことのほか身の健康を思う人狼が、その目に黄疸をきたすという。いったい、どれほどの苦悩を経験したのか。
 「あと5分です。」抑揚の無い声が流れる。突然、126号は立ち上がり、私の頭上のガラスを、両手でバシンと叩きつける。私はもんどりうって、床へ転がった。縦一筋に、ガラスにヒビが走る。
 「うっせぇぞ!いちいち言うな!」荒い息をして、市谷は人差し指の汚れた鍵爪を、天井のスピーカーに差し向けた。
 「なぜ逃げない?」私は口走った。逃げない、だと?。口走ってから、私は、書き溜めた質問ノートの中身を、思い巡らした。そんな質問、書いた覚えはない。
 市谷だった獣は、今あげた手をぶらりと下げ、無防備な姿で、何か珍しいものでも見るような顔をして、私を見下ろしている。不意に目線を下げ、まるで何かを諦めたかのように、力なく床へと座ってしまう。投げ出された右の足には、ふくらはぎから股間にかけて、捕獲のときに負っただろう、深い傷跡があった。
 私は、その獣の、あまりの変わりように驚いて、縦一筋にヒビの入ったガラスに、かまわず両手をついて、その大きな体を見上げた。おそらくは聞き取れないほどの、小さな呟きだっただろうが。しかし、マイクが、十分にその呟きを増幅して、私の耳にまで届けた。
 「主は、来なかった。」私は確かに、そう聞いた。そしてそれが、人間だったこの生物の、記録では最期の言葉となった。


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雪遊び

2024年12月15日 | 読み物

 

 「何をご覧になっておいでですか。」

 「雪を観ているのです。」背の高い、ショートヘアーの、切れ長の、力強い眼差しを持つ、名も知らぬその女性は、そう答えた。

 「雪?」

 「ええ。」赤いマニキュアをした、白い両手で、浅黄色のパーカーのホロを脱ぎ、女性は顔をあげて、真っ暗な夜空から、しんしんと降りる雪を、見上げた。

 「僕を、振り向いては、くださらないのですね。」

 「ええ。」女性は、赤いマニキュアの手を伸ばし、軽やかに、一歩踏み出して、まっすぐに落ちてくる、雪を手にする。足元で、キュッと、雪が鳴る。

 (なるほど、僕は、雪ではあるまい。)

 「冷たい雪。温かい雪。」女性は両手で、雪をとらえ、その両手を交えて、いとおしそうに、雪をめでる。

 「止みそうもない。」

 「止むものですか。そら。」女性は、また手を伸ばして、雪をとらえる。

 (実際、止むことはないのだ。)

 「赤い雪。青い雪。」両手のなかで、マリを抱くようにして、女性は、雪を転がす。

 「楽しそうだ。」

 「楽しいですわ。」ぱっと、女性は、両手を空へと開く。色とりどりの雪が、吹雪のように、闇に散る。

 「本当に限りがない。」

 「ひとの想像は無限ですわ。」ふっと、女性は、膝の高さで、ひと粒の雪を、受け止める。

 「見つけましたね。」

 「ええ。あなたは?」そのひと粒の雪を、大切に両手で抱えて、女性は、闇のなかへ、歩き出す。

 「歩いてゆけるのですね。あしたへ。」

 浅黄色のパーカーの裾が、しゃらんと揺れて、女性の姿は無く。
 僕は動転して、振り返る。
 あちら、こちらで、沢山のひとたちが、雪のなかに、手を差し伸べている。

 (ひとの願いもまた、無限なのだな。)

 茶色のコートの、襟を合わせて、僕は、冷たい真冬の空気のなかを、無限に、歩いていった。


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