おじんの放課後

仕事帰りの僕の遊び。創成川の近所をウロウロ。変わり行く故郷、札幌を懐かしみつつ。ホテルのメモは、また行くときの参考に。

執務室にて

2024年07月08日 | 小金井充の

 暗い執務室に二人の老人が、おでこに深い深いシワを寄せて、向かい合って座っていた。
 「大統領」と、他方の老人が呼びかける。
 「ケイス君」と、大統領。
 ここで稲妻でも走れば、二人の老人の心境を形容しやすいのであるが。外は昨夜からの小雨が続くだけの、静かな暗い朝である。
 「私は昨日の夜、聞いてしまったのだ。」と大統領。執務席の前の接待用ソファに、脱力してのけぞる。
 「私は今しがた、大統領から聞きました。」と、ケイス君こと補佐官。大統領の向かいのソファで、顔を片手で覆って、長い長い溜め息をつく。
 「この世が終わるなどということが世間に知れたら……。えらいことになる。」大統領はのけぞったまま、両目を手のひらで揉む。寝不足なのだろう。
 「でも絶対、漏れますよ大統領。ノストラダムスやエリア51なら、オカルトで一蹴できますが。政府発表となると、話は別ですから。」ケイス君は、ソファに座ったまま両膝をかかえて、爪先立ちしたり、やめたりする。
 トントンと、執務室の厚いドアが鳴る。補佐官が応じると、ドアの向こうから白衣の聖職者があらわれた。これも相当な老練。
 「おお、サドバド卿。朝早くから申し訳ない。」立ち上がって、大統領はサドバドと呼ばれた品のよい老人と、しばし握手を交わす。
 「秘め事との補佐官のご注進がありましたので、人目を避けて参りました。」サドバドは静かに言う。左手のひとさし指の根元には、ダイヤモンドで縁取られた、大きなエメラルドの指輪が据えてある。
 「こちらへ。」補佐官は自席をサドバドに譲り、自分は大統領の隣に、やや距離を置いて座る。
 「サドバド卿、なにか、よい案はありませんか。」大統領は懇願するように身を低めて、斜め下からサドバドの顔を仰いだ。ケイス君も同じ心境のようだ。
 五千年の宗教の叡智は、悩める二人の子羊に微笑みかけると、うんと、うなずいて見せた。「公表しましょう。この世が終わることを。」
 えっ!と、大統領も補佐官も、ソファの背にのけぞった。二人とも、続く言葉がない。
 二人の様子を面白そうに見ながら、サドバドは腹の上に手を組んで、静かに言った。「この世の終わりが来るのを知って、なお苦しい目に遭おうという奴はいませんよ。」エメラルドがキラリと輝く。
 大統領と補佐官とは、二人同時にお互いを見合って、二人同時にサドバドのほうへ向いて、「なるほど」とつぶやいた。
 「終わりの日づけは、我々が決めるのです。我々の有利なように。」猫好きが猫をなでるように、サドバドはエメラルドをなでる。
 ケイス君は言う。「待っていれば終わると知れば、もうどうせ終わるんだから、細かいことを言う気にもならない。」
 「そうです。」とサドバド。
 「この世を終わらせる何かがあるとしても、その何かをしようという気にならない。」と大統領。顔はサドバドのほうを向いているが、頭の回転のせいで、ひとりごとのように言う。
 「そうそう。」とサドバド。「何もしなくても終わるんですからな。そこのところを、よくよく強調しておくべきです。」
 「ケイス君。これは、案外、簡単かもしれんぞ。」と大統領。暗い気持ちはどこへやら。
 「はい大統領。さっそく手配します。」と補佐官。年相応ながらもスッと立ち上がり、執務室を颯爽と出て行く。
 「サドバド卿、またあなたに助けられましたな。」顔もほころぶ大統領。思わず両手でサドバドの右手をにぎる。エメラルドを他人にさわらせたくないのは、大統領も知っている。
 「これも神のご加護です。」サドバドは左手で十字を切り、席を立つ。長居は無用だ。サドバドの手にくっついて、大統領も一緒に立ち上がる。なかなか離さない大統領。うまいところで電話が鳴る。
 「私だ。」失礼という手振りをして、大統領は執務席の電話を取る。そのすきにサドバド退場。
 「大統領、朝食のご希望はございますか。」と給仕のミス・デイビー。
 「ポーチドエッグにしてくれ。」と大統領。日常の電話が、日常を取り戻させる。大統領は執務席につき、愛用のペンを取って、いつもの朝のように、メモ帳にサインのためし書きをする。


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薫の場合

2024年06月20日 | 小金井充の

  汗に濡れた制服のすそを、初夏の風になびかせ、薫は、ポケットに手を突っ込んで、暗い路地を、ひとり、トボトボと歩いている。白い粉のようなものが、そこだけを照らすLEDの街灯の下を、薫は、うつむいたまま通り過ぎる。その顔は、深い疲労と、LEDの光で明暗が強調されたためとで、白い能面のように、無表情に見える。いくつかの白い粉のなかを過ぎて、薫は今日初めて、顔をあげた。行く手の角に、コンビニの明かりがある。薫は、仕事の間じゅう、帰りはコンビニに寄ることだけを、考えていた。今、薫の目の前で、スッと自動ドアが開く。流れてくる店内のニオイが、薫の目を覚ます。瞳に輝きが戻って、一直線に、薫はスイーツの棚へと歩み寄る。脇の小ぶりな買い物かごを、ほとんど見ることもなく手に取り、薫は、スイーツの棚の一点を凝視する。その顔がほころぶ。安堵の溜め息がもれる。誰に遠慮することもなく、薫は自分の手を伸ばして、昼間そのことばかりを想っていた、定番の菓子をそっとにぎる。売れてしまっていないか不安だった。それが今や、確かに自分のものなのだ。まだ買ってもいないが、心の中の何か張り詰めたものが、ほどけていく。二個目を手に取り、三個目に手を出したが、これは食べきれない。同じ過ちは犯すまいと、薫はあえて菓子から目をそらし、飲料のほうへ向かう。その菓子にはコレというものが、薫にはある。突然、薫は足早になった。そのコレというものも、また競争率が高いのだ。胸が高鳴る。冷蔵庫の棚を見上げたその先に、あった。薫は、思わず笑ってしまう。職場の誰かに会うという心配はない。だがもし会えば、たぶん、薫とは分からないだろう。息をしている。薫は思った。高校の嫌なプールの授業で、潜水の試験があった。あの水から身を出すときの必死さ。開放感。薫はあの日、自分が息をしているのを知った。会計をピッと済ませ、店を出る。なんだろうこの身の軽さは。部屋へ駆け込むことすらも、できるじゃないか。薫は、汗で濡れた制服のまま、机の上に菓子などを広げ、その前に座る。この光景を、昼間どれだけ空想しただろう。我慢なんかできやしない。ひとくち。甘い香りが、口と鼻いっぱいに広がる。んんんんっ!。そしてすかさず飲む。くぅぅぅっ!。「コレ!」と薫は言う。「コレ!」。全身に血が巡る。体が熱い。愉快だ。生きてると、薫は思う。一八〇に薫の年齢を掛ける。この世で薫が生きた時間。


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燃える雨

2024年06月08日 | 小金井充の

 真っ赤に燃える無数の魂が、真っ暗な空から、雷雨の如くに降り注ぐ、この地上の頂で、ひとりの僧侶は、地にあぐらをかき、長大な数珠をもみつつ、一心に念仏を唱えおり、またひとりの司祭は、十字架を高くかかげ、残る片手は大きく懐を開いて、落ちかかる、全ての魂を迎えんとしている。

 この地獄の光景を、このふたり以外の誰が見たのであろうか。遠く街は、いつものようにきらめく光を放ち、その騒音は、ここまでも聞こえ来るほどだ。相変わらずの日常が、その光と音との洪水のなかにある。それに比べたら、この燃え盛る魂の光も、その発する轟音も、どれほどのものか。

 僧侶がカッと目を見開き、念仏をやめる。長大な数珠を片手で握り締め、大きくその腕を振って、数珠を地面に叩きつけた。糸が切れ、玉が飛び散らばる。その一粒一粒が、落ちてくる魂のひとつひとつを打つ。真っ赤に焼けた鉄の玉に弾丸が打ち込まれるが如く、玉は個々の魂にめり込んでいき、溶けて、白く輝く塊となった。

 「生きよ!」と、僧侶が叫ぶ。その叫びに応じて、白く輝く塊は人の形を成し、遠く街の上へと降り注ぐ。「おぎゃあ!」と、大きな産声が、ただ一度だけ虚空を揺るがした。もはや暗闇はなく、美しい星空が、ふたりの上に開ける。

 「今夜は俺の勝ちだ。」僧侶は立ち上がり、司祭の醤油顔を睨んで、ニヤリと笑う。が、司祭も負けてはいない。僧侶のソース顔を一瞥して、ふっと笑って見せた。

 「ご覧なさい。あなたはどこを見ていたのですか。」そう言って司祭は、自分の胸をはだける。そこには、無数の血の十字架が、刻みつけられていた。「あなたの二倍、いや三倍はあるでしょう。」司祭は、さも得意気にそう言って、僧侶のソース顔を横目で見やる。

 「嫌な奴だ!嫌な奴だ!」僧侶は両手を握り締めて、いきりたって、地団駄を踏んだ。その様子を、司祭は、さも面白そうに眺める。どこか、天のはるかな高みから、ギギギィと、重々しく扉の閉まる音が響き来たった。

 「次は負けん。覚えておけ。」僧侶は身をひるがえし、もう頂を降りにかかる。逃げしなに、覚えていろは何とやらと、司祭は心の内に思って、僧侶の、哀愁すらをも感じさせる、その背中に、ほくそ笑んだ。そして、遠く輝く、街の光に目を移し、あたかも、いとし子をいつくしむかのような眼差しでもって、その踊る光の輝きを、飽きもせず、眺め続けた。

 司祭は目を閉じ、そして目を開くと、その街の大通りにいた。真夜中だろうが平日だろうが、車の通りが止むことはない。その大通りの、ど真ん中に、突然、白いベールを着た醤油顔の人物が立ったので、当然ながら、周りは騒然となった。鋭いクラクションが鳴り響き、追突する車、避けきれずに横転する車。フロントガラスがドンという音とともに飛び散り、歩道を歩く人々めがけて降り注ぐ。シートベルトをしていない何人かが、カエルのように空を飛んだ。それらの人々すべての目と指先とが、道の真ん中に立ち尽くす、醤油顔の人物を刺し貫く。お前は何だ?、なぜそこにいる?、どこのどいつだ?、そんな、声にならない疑問を、ひしひしと感じて、司祭はスッと片手をあげ、叫んだ。

 「淘汰されてはいけない!」司祭は、もっと私に注目しろと言うように、そこで言葉を切った。群衆の集中度が、いやがうえにも高まるのを感じて、司祭は大いに満足した。「あなたたちの内に、身重のひとはいますか。妊娠しているひとはいますか。今日、あなたたちの元に、子供たちが行った。その子たちが、淘汰されることがあってはいけない。淘汰されるべき私たちが生き延びていくには、淘汰されるべき子供らが、淘汰されてはならないのです!。わたしたちは、なんとしても、頭かずを減らしてはならない!。数の力しか知らないわたしたちが生きていくには、絶対に、頭かずを減らしてはいけないのです!」

 上空にはヘリが飛び交い、指向性マイクとイコライザとを駆使して、その醤油顔の人物の生の声を、細大もらさず収録する。と、その人物の姿が、忽然と消え去り、それを見た周りの人々は、本当に引いてしまって、黙りこくった。その一部始終を報じる動画が、マスコミによって全世界に向けて公表せられ、各国首脳は、拍手をもって、その見知らぬ醤油顔の人物の生の声を、賞賛した。

 「これが聖戦でなくて、なんであろう!」戦う相手を、間違えてはならないと、とある国の首脳は、演題に立って、テレビの前の聴衆に向かって、声をふるわせて言った。これを、この見知らぬ醤油顔の人物の言葉を聞いて、自分がどんなに感動しているかというのを、自身の声で伝えようということらしい。その感動が本物であることを、他国の首脳はみな、自分自身のことであるかのように思って、涙を流したものだ。

 そんなことなど、つゆも知らずに、地球は今日も、のうのうと回り続ける。あらゆる生きものの不安を乗せて。しかしそうして、この星が無関心でいられる、責任を回避していられる時代にも、ついに、終わりが来たのだ。

 それは例えば、カオスに関する簡単な実験からさえも、十分に、予期せられるべき終わりであった。いわゆる「パイこね」のような、単純な作業でも、カオスは再現されうることは、何世紀も昔に知れていた。カオスが取りうる値というのは、なぜかある一時期、一箇所に集まって安定化することがあり、またある時期に、なぜかは分からないが、その安定した状態から突然、まったく別の、飛び離れた値に拡散してしまったりする。この現在の恒常的な環境も同じだ。突然、まったく何の前触れもなく、ものすごく不安定な時期へと移行する。

 「はい、ナレーションさん、ご苦労さん。」僧侶が、上半身をニュッと伸ばすようにして、カオスの説明図の下隅から、斜めに割り込んでくる。実は、この僧侶もまた、この星の終わりについて、早くから勘づいていたのだが。

 「はいはい。もういいから。」僧侶は、面倒くさそうに片手をふって、ナレーションの声を追い立てる。「頑張ったって規定の給料しか出ないんだから。」パンパンと、僧侶は両手を払って、その両手を両の腿になすりつけ、今度こそ、厄介払いをした。

 「えー、テレビの前のみんな、俺が突然出てきて、驚いてるかな。」僧侶の濃いソース顔が、ヒゲの生え際さえも見えるほど、テレビの画面いっぱいに迫る。

 「ちょっと、子供泣かしては駄目ですよ。」司祭の声がする。えっという顔で、僧侶のソース顔が画面から離れ、声のしたほうを睨む。司祭の醤油顔が、テレビの前の聴衆に向かって親しげに手をふりながら、僧侶のソース顔を押しのけつつ、あらわれる。背後で、あれ誰?、誰か呼んだ?、この間の事故のか?、スクープじゃん!、などと混乱するスタジオの声。

 「ほら。あなたより、わたしのが有名ですよ。」マイクを持たないほうの手で、なんとなく僧侶を指し、なんとなく自分を指して、さも満足気にニッコリと微笑む司祭の顔が、画面いっぱいに映る。

 「出たー!」と、画面の外で誰かの小さな叫び。「速報値だけど八十八パーセント!はちじゅうはちぃ!」という、狂気のように裏返った声が続く。

 「視聴率な。」と、僧侶が声だけで、そっけなく言う。画面が引かれ、司祭の醤油顔と、僧侶のソース顔とが、並んで映る。二人は、互いの顔を見合わせたが。しかしめずらしく、僧侶が司祭の肩を小突いて、出番を譲った。

 「へぇ。素直じゃないの。」司祭が、本気で驚いたような顔で、しみじみと僧侶に言う。僧侶は、なんだか照れくさいような、ニタッとした顔をして、片手で頭をかいてみせた。「じゃあ、わたしから。」司祭が居直る。画面も司祭の側へ寄る。

 「うーんと。突然、ショッキングな話だと思いますが。この星は、もうすぐ終わります。終わるというのは、実際には、物理学的にか、生物学的にか、消滅するということですが。」

 「はぁ?」先に、聖戦と言った首脳が、口をあんぐりとあけて、画面の司祭を見ている。お前、我々が淘汰されちゃいかんと、言っただろ。それをお前とでも、言いたげな口元だ。

 「あー、そこの、首脳さん。そうです確かに、わたし、淘汰されてはダメだと言いました。それがわたしの務めですから。あなたたち人類の信仰は、わたしらが務めをきっちりと果たしてこそです。けっして裏切りません。これは先祖からの契約なので。わたしらもそれで飯食ってる。」司祭は、画面に向かって、ニッコリと微笑みかける。

 「さっさと本題に行けって。」横から、僧侶がツッコミを入れる。「放送時間なくなってきてっぞ。」ほらと言う具合に、僧侶が画面の外の時計を指差してやる。

 「あらら。急がないと……。」司祭が居ずまいを正すと、画面も再び、司祭の側へ寄る。「でも、もう伝えることは伝えましたからね。わたしらのお仕事はそこまで。あとのことは、みなさんでどうぞ。」

 「またそんな。いい加減な奴だな。」僧侶が司祭の肩を小突く。しかしマイクは自分の口元から離さない。画面の向こうへ向き直って、僧侶は、下から上へ、ぐるりと腕を回すように、大げさに合掌して見せた。「ではみなさん、さようなら。」フッと、二人の姿が、画面から消えうせる。

 「我々は、自然と闘い、自然に勝つために、頭かずを、頭かずだけを、武器としてきた。」先に聖戦と言った首脳が、司祭らの消えた画面を、まるで吸い込まれるように凝視しながら、ぼそりと、つぶやいた。「ほかにやりようがない。」

 「我々に教えてくれたのでは。」黒い背広を、ビシッと身にまとった側近が、首脳の耳元で囁く。「この星が終わるということを、先んじて、我々に教えてくれたとしたら。我々は、期待されているということでは、ないでしょうか。」

 「期待、されている、とは?」首脳は、夢のように呟いた。まだ画面に見入ったまま、画面の向こうの混乱を、定まらない目線で見ている。そして今度は、自分の言葉で、「そうだ。期待されているのだ。」と、首脳はまず、自分に聞かせるとでもいう具合に、力強く、そう言いなおした。画面の向こうから、音だけ、思い出したように「そうだ」と、他国の首脳らの言う声が、かすかに聞こえた。その声に応じて、首脳はもう一度、改めて、「そうだ!」と、ほとんど叫ぶように言った。「我々人類は、間違っていなかったのだ。誰も、灰の上に座る必要などないのだ。」画面の向こうから、鳴り止まない拍手が聞こえてくる。首脳は目尻をぬぐった。「そうだ。たとえ、我々が間違っていたとしても、後悔など、する必要はないのだ。」

 デスクでベルが鳴った。科学相からのホットライン。先の側近が、小走りに、受話器を上げに行く。二言、三言話して、側近は、耳から受話器を離した。「首脳、まずは隕石からです。」

 「よぅし、来てみろ!」首脳は。片腕でガッツポーズをして、もう片方の手で、その二の腕を受け止める。「始まるぞぉ。前代未聞の、感動の、人類の、本物の共同戦線が。」前の、どんな首脳も、経験したことのない。経験したいと思ったけれども、できなかったことが、これから、自分の代で、始まるのだ。そう考えると、首脳は、ウキウキしないわけには、いかなかった。ほどなく、国家間のホットラインが鳴りだす。そうだ。我々は、生き延びることを、期待されているのだ。首脳の声にも、おのずと力が込もる。

 ひとりの、車椅子に座った学者が、これも側近のひとりではあるが、部屋の隅へと引きこもって、その見たこともない、首脳のハッスルぶりを、黙って観察している。その首脳の姿は、この車椅子に座った学者が見たいと思ったこととは、まったく、正反対の姿であった。

 デスクにふんぞりかえって、自信満々の首脳の元へ、各国から次々と、進行状況の知らせが入る。成り行きとはいえ、今や首脳は、世界のリーダー的地位にあったから、本人としてみれば、どうしても顔がニヤけてしょうがない。

 しかしその、首脳の余裕しゃくしゃくっぷりが、ある電話を境に消失し、首脳が、先の黒服の側近と、おでこを突き合わせだすやいなや。車椅子に座った学者の瞳に、消えたはずの光が、かすかに取り戻されて。さらに、首脳が、各国からのホットラインに向かい、側近が止めに入るほどの、荒い言葉を発しだすようになってくると、車椅子に座った学者は、とうとう、部屋の隅からその姿をあらわして、部屋の中央の、天井から明るい光が降り注ぐところへすらも、そのタイヤを踏み入れるまでになっていた。

 「あ、博士……。」存在を忘れていたというくらい、驚いた首脳と側近の顔を見て、車椅子に座った学者は、思わず微笑んだ。

 「どうですかな。」学者は、静かに、車椅子のブレーキをかけた。首脳らの顔色を見れば、もう、部屋の隅へ引きこもることにはなるまいと、学者はこれまでの観察から、確信していた。

 嫌な野郎だという顔をして、首脳は、自分の座る椅子の、床からのわずかな高まりの向こうから、この学者の顔を見下ろした。空軍からのホットラインが鳴る。首脳は、まったく予期していなかったふうで、ビクッとして、あやうく、その受話器を取り落とすところだった。「私だ。なに?」と言って、首脳は、黒服の側近と、不安な顔を見合わせ、次に二人ともが、車椅子に座る学者に向けて、頼むというような目線を向けてきた。その様子を見て、学者はもう、何が始まろうとしているのかを理解した。

 「首脳、残念ですが、避難は、間に合わないでしょうな。」学者はそこで、言葉を切り、指を三本、額にあてて、考えていたが。にわかに顔をあげて、こう首脳らに伝えた。「あなたのご家族、側近のかたのご家族、ご親族、医師、看護人、技術者、教員、冒険者、芸人。わずかなひとたちだけを、突然、迎えに行くことです。絶対に、このことを漏らしてはならない。そのほうが、国民にとって、幸せです。終わりは、飲み食い、めとりなどしているうちに来るほうが、幸せですな。もうどうやっても、全員を、1つの村の住人全てですら、避難させるのは無理なのですから。」

 「あなたは、楽しそうですね。」黒服の側近が、車椅子に座る学者の前に進み出て、腰をかがめて、そう言った。「でも、この世がある限り、あなたは、このかたの側近のひとりです。どうか、私たちと一緒に、頭を悩ませてください。あなたは、この方面の権威でいらっしゃるのですから。私たちに、私たちが助かるための、どんなヒントでも、与えてください。」

 「もちろんです。」と、学者は、深く、うなずいた。「私が楽しそうに見えるとすれば、それは、やっと、みなさんのお役に立てる時が来たからです。この世のある限り、私もとことん、みなさんと一緒に行きたいと思っていますよ。私を評価してくださり、手をかけてくださったのは、この世のほかには、なかったのですからね。ですが、先ほどお話ししたことだけが、今から可能なことだと、改めて、申しましょう。私は、それ以上のことは、思いつきません。」

 「ありがとうございます。」黒服の側近は、自分と同じ、側近の地位にある学者に向かって、軽く会釈をした。そして、首脳のほうへと向き直り、その目を真っ直ぐに見て言った。「首脳、急ぎましょう。失う時間はもう、ありません。私も、この世がある限り、首脳に、喜んで、お仕えいたします。」


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審判

2024年05月31日 | 小金井充の

 長い長いエスカレーターが、空の上の雲まで続いていた。教育者は、昔、そういう場面を、猫と鼠のアニメで見たなと思いながら、ひとりぼっちで、空の高みへと、ゆっくりゆっくり運ばれていく。下界を眺めれば、我が家の屋根が見え、見慣れた大通り、そこから山のきわまで広がる、住み慣れた街の景色が広がっている。街外れの墓地に、ひと群の黒い人影があり、かすかに鎮魂の鐘が聞こえたようだ。人間、死ぬときはひとりぼっちだと言うが、本当なんだなと、教育者は思った。寂しい限りだ。しかし、この高みから見下ろしても、人だかりが見て取れるほどの人数が、自分を見送ってくれたのだ。そのことが誇らしくもあり、勇気づけられもした。教育者は、甥が着せてくれた、一番お気に入りの背広を正し、先立った妻からの、最後の贈り物のネクタイを締めなおした。胸を払い、ついでに肩を払って、常世のチリを落としたつもりだ。見上げれば、エスカレーターの動きに従い、輝く真っ白な雲が、ゆっくりゆっくりと近づいてくる。あれが天国かと、教育者は、細いフレームの丸みを帯びた眼鏡をかけなおして、その雲の妙なる陰影に見入った。かすかに、ざわめきが聞こえる。どうやら、あそこには沢山の人たちがいるようだ。地上を去って、つかの間の寂しさが、教育者のそこへの焦がれを、一層、強いものにした。
 ようよう、エスカレーターは終わりを迎えて、教育者は、幾本もの光の柱が立ち昇る、その真っ白な世界へと降り立った。重力はあるなと、一歩一歩確かめながら、教育者は考えた。してみると、ここはまだ地球なのか。向こうにはやはり、沢山の人たちが整然と列を作っており、ただあのアニメと違うのは、みな、それぞれの服装をしていて、誰も白いベールをまとっていないことだ。しかし、それはどうでもいい。この光景を見ろ。ここが天国でなくて、どこだというのだろう。教育者は、今まさに自分が目の当たりにしているこの眺めを、至極当然のものと思った。人生、振り返れば、本当に苦労をしてきた。言葉ではあったが、敵を倒さねばならぬことも、少なからずあった。そのことで咎められるのであれば、致し方あるまい。包み隠さず、ありのままに事情を話そう。教育者の全身が、今、恵まれた人生を歩んだ者だけが醸しだす雰囲気をまとって、光り輝いている。そう考えるだけで、目頭が熱くなるのを、教育者は覚えた。どんなに長く辛くても、最後には、報いが必ずあるものだ。実感に打たれて、教育者は夢見心地で群集の列に加わった。あちこちから、再開の喜びや、明るい笑い声が聞こえてくる。もしも地獄であれば、こうはいかない。教育者は、この先、自分が迎えるだろう場面を想像して、胸が熱くなった。これだ。この報いこそは、人生の総決算なのだと、教育者は感動した。そして感動のあまり、前に並ぶ婦人に声をかけた。
 「ここは天国でしょう。」教育者の声に、疑いはなかった。
 婦人は教育者を振り返って、微笑むと、白く縁取られた青いドレスの裾をつまんで、少し膝を折って見せた。都会ではもう、そんな挨拶の仕方はやらない。このご婦人はどこか地方のかたなのだろうと、教育者は親しく思った。よく見れば、ドレスは、幾つか別の青い生地から出来上がっている。婦人は、差した小ぶりな日傘を、少し上げて、その影に教育者を入れようとした。
 「ええ。わたくしも、ここが天国だろうと思いましてね。官吏のかたに聞いてみましたのよ。そしたら、天国ではないとおっしゃいますの。地獄でもないと。」
 婦人の言葉に、教育者は辺りを見渡した。官吏など、いただろうか。見渡す限り、さまざまな服を着た人々しかいない。無論、軍人や警官もいるが、そういう意味での官吏ではあるまい。辺りを一渡り見回してから、教育者は婦人に目を戻した。
 「官吏が。しかし、今はいないようですな。」そう言いながら、教育者はまた、辺りを見回す。
 「ええ。少し前に、みなさん、門の向こうへ下がりましたわ。」
 「え、門?」と、思わず声に出た教育者の目線を、婦人が白い手袋をした指先で導く。そこには確かに、大きな門があり、今しがた、それが開かれたように見えた。
 「あ、開きましたな。すると、これから審判が始まるのですね。」教育者は、小手をかざして、開け行く門を望んだ。群集のざわめきが静まる。教育者も群集も、門からやってくる、白いベールに包まれ、大学帽のような小高い帽子をかむった人々の姿を見つめた。ひとしお、群集のざわめきが高まる。あれが判事か。私たちの行方を決めるのね。教育者もまた、群集と同じ不安と憧れとをもって、その一群の白い人々を眺めた。
 やおら、その白い人々が、群集の誰かに向かって、それぞれ、無言で指を差す。するとまるで、ベルトコンベアに乗せられた荷物が仕分けされていくように、群集のなかから、ひとり、またひとり、歩くこともなく、時に座り込んだままで、スムーズに滑るようにして、その白い人々の前へと運ばれていく。雲に隠れて、椅子が用意されていたのだろう。白い人々は、おのおのの席に着座して、運ばれ来る人々と対面を始める。聖書にある通り、白い人々の前に、分厚い書物があらわれて、開かれ、白い人々の指がその紙面をなぞる。書かれてある通りだと、群集は興奮して、口々に褒め称えた。
 突然、つんざくような男の叫び声が響いて、群衆は静まり返り、一度にその声のほうを見た。誰かが赤く燃えて、彗星のように落下していく。ヒャッと小さな叫び声をあげて、婦人は教育者の腕に抱きついた。日傘がクルリと回って、ふわりと雲の上に落ちる。群衆の雰囲気も一変した。
 その刹那、教育者は、自分の腕が引かれていくのを感じた。見れば、婦人の体が静かに動いていく。その抱きつく腕は、するりと教育者の腕を滑って離れ、婦人は座り込んだまま、自分を指差す白い人物のほうへ、何の障害もなくスムーズに移動していく。婦人は片手を雲の上に突き、残る片手を、教育者のほうへ差し出す。思わず、教育者は婦人のあとを追った。子供らの姿が、その姿にダブって見えた。
 白い人物は、婦人とともに自分のもとへと来る教育者の、哀れみに満ちた姿を見てとると、「お前の番はまだだ」と、毅然として言った。
 教育者は、その声の重みに、思わず立ち止まったが。しかし、この哀れむべき婦人のために、意を決して、その白い人物の視線に立ちはだかる。
 「ここに居させてください。ご覧なさい。ご婦人はふるえている。」教育者は、自分の言葉の半ばにはもう、自信を取り戻していた。しなやかな姿勢で、その白い人物を見返す。
 「よかろう」と、白い人物は言った。そしてもう、教育者のことなど忘れたというふうに、その視線は婦人だけに向けられた。
 教育者は、休めの姿勢で足を出し、腕を組んで、婦人と白い人物との問答に耳傾ける。必要を感じれば、いつでも、婦人に加勢するつもりだ。
 白い人物の前に、厚い書物が開かれ、その指が、一行一行をなぞる。声には出されないが、婦人には、書いてあることが逐一、伝わっているようだ。段落を終えるごとに、婦人の姿勢が変わるので、それが知れた。白い人物が、やおら、顔を起こす。
 「間違いないか」と、白い人物が婦人に聞く。その高圧な態度に、教育者は怒りを覚えた。
 「はい。」とだけ、婦人は答える。そしてうつむいてしまい、その口から嗚咽が漏れるのを、教育者は聞いた。なんたる、痛々しい尋問だろう。教育者のみけんに、おのずとシワが寄る。こめかみに、細い血管が青筋を立てた。
 「ちょっと」と、思わず、教育者は言った。まだいたのかというふうに、白い人物が顔をあげ、教育者を睨む。関心は引いたと、教育者は思った。すかさず、教育者は言葉を続ける。
 「このご婦人は、生前、ずいぶん泣かされてきたのです。死んでなお、泣かされる必要がありますか。」相手が口を開く前に、まず論点をハッキリさせておかねばならない。教育者は、そこでわざと言葉を切り、相手から目をそらして見せた。眼鏡のつるをつまんで、位置をなおす。レンズがキラリと光る。
 しかし、白い人物は、何も言わないまま、分厚い書物へと視線を戻して、続く段落を、その指で追い始めた。婦人は顔をもたげて、両手を雲の上に突いたまま、ほかには聞こえない声に、聞き入っているらしい。
 教育者は、見るからにイライラした態度で、相変わらず腕を組んだまま、その様子を眺めている。こんな屈辱は、久しぶりだ。無名だった若い時分は、ずいぶんこういう目に遭ったが。しかし、世間に認められて以来、今日までなかったことだと、教育者は腹立たしく思った。
 「いえ、それは……」と、婦人は消え入るような、か細い声で言った。「それは……」と繰り返したが、上手く言えないようだ。
 この婦人も、十分な教育を受けられなかったのだなと、教育者は心の内で哀れんだ。なんたることか。教育者は、自分の努力が、まだ及んでいない人が、こうして目の前にいることを、深く悲しんだ。思わず膝を折って、教育者は、婦人と同じ目の高さに、自身の身を置く。
 「落ち着いてください。言葉を選ぶ必要はありません。ご自身の言葉でいいんです。言葉を重ねれば、あの人も理解してくれるでしょう。」教育者は、婦人に優しく話しかけて、白い人物の顔を仰いだ。
 「はい」と、婦人はようやくに言って、呼吸を整えながら、二言、三言話し始める。
 白い人物は、別に何も言わず、婦人の言葉に耳傾けている様子。相変わらず、教育者の存在を、忘れたような素振りでいるが。しかし、教育者にしてみれば、気にもならなかった。こんなこと、何度も経験したことだ。
 婦人のたどたどしい話を聞き終えて、白い人物は、ただ、「よろしい」と宣告した。教育者は、驚いて、一歩二歩、あとずさった。婦人の姿は、急に輝き始めて、音もなく、浮かびだす。
 「ありがとうございます。最後に、伝えたいことを、伝えることができました。」婦人は、教育者を振り返って、頬を涙で濡らしつつ、頭を下げた。その姿は、次第に形を失い、ついに光となって、大きな門へと入る。
 ああ、あのご婦人は、天国へ行ったのだなと、教育者は、にこやかに手を振りつつ、しみじみと思った。背後で、群集がざわめく。あの人はすごい。自分もぜひ、言葉添えを願いたいものだと、人々が口々に言うのを、教育者は満足して聞いた。
 しかし、群集の願いは、叶わなかった。教育者は、自分がいつしか、滑るように移動しているのに気がついた。いよいよ私かと、教育者は、背広の襟を正す。自分が引かれた先は、先の白い人物よりも、見たところ、ずっと若い人物のように思えた。なんだか、見たことのある顔だなという気がして、よくよく見れば、それは、かつて自分が教えたクラスの、落第生ではないか。
 「君は……」と、教育者は言って、その人物の名前を思い出そうと、指を額に添えた。しかし、思い出せない。この生徒が自分に関心がないのと同じく、自分もまた、この生徒に関心がなかったのを、教育者は、痛烈に思い出した。なんということか。若木の至りだと、教育者は唇を噛んだ。
 「すまない。君の名前を思い出せないんだ。あのころ、私はまだまだ若造に過ぎなかった。」教育者は、その若い人物に、頭を下げた。
 「僕も、あなたに興味ないです。」と、素っ気なく、若い人物は言って、先の婦人のものと変わらない厚さの書物を開いた。
 「それは、ありがとう。」とだけ、教育者は答えて、あとは黙って、ほかには聞こえない声の到達を待ったが。しかし、この人物は、普通に、みなに聞こえる声を出して、教育者との問答を始めた。
 「あなたは教育者ですね」と、若い人物が言う。
 教育者にしてみれば、これは答えるまでもない。皮肉かなとも思いながら、教育者は、微笑み返すだけで済ませたが。しかし、若い人物からの次の質問で、教育者は凍りついた。
 「あなたは、大勢の人たちから、訴えられています。」分厚い書物を指で追いながら、若い人物は淡々とそう言った。実際、そう言ってから、若い人物は黙ったまま、分厚い書物を三枚、四枚とめくった。
 「え……、なぜ?」とだけ、教育者は言うことができた。自分の人生を急いで振り返ってみても、そんな沢山の人たちから訴えられる理由は見つからない。現に、今さっき、ひとりの婦人を救ったじゃないか。
 「あなたは多くの子供たちから、学びの機会を奪ったのです。」と、若い人物は、罪状を淡々と述べた。教育者の顔が、にやけてくる。
 「ねぇ君、ちょっと、何を言われているのか、分からないが。」一体、この人物は、何を言っているのか。嫌がらせなのか。妬みからか。それなら、あるかもしれないと、教育者は真顔に戻った。仕返しというのなら、応戦せざるをえまい。なんてことだ。死んでまで、戦わねばならんとは。しかも相手は、落第生とはいえ、教え子だ。
 「あなたの教育の信条を、聞かせてください。」若い人物は、分厚い書物を閉じて、背筋を伸ばし、教育者と真っ直ぐに対面した。
 いいだろうと、教育者は思った。人生の集大成に、それを語る機会を設けてもらったというのならば、粋な計らいというものだ。教育者は、かつて教壇にあった時と同じに、両手を後ろに組んで、その場を逍遥しつつ、語り始めた。
 「子供の自主性を前提にすることは大事だが、ただ子供に任せてしまうのはよくない。経験ある者が、陰からサポートしなくては。課題の解決、コミュニケーション能力、洞察力、リテラシー。この四つの基本を軸にして、適当な機会に、子供の興味関心をそそるものを、与えてやらねばならん。安全な場所で、のびのびと育ちながら、将来を見据えた、子供ひとりびとりのための適切な課題を与えてやることで、この世界で生きる子供らが、みずからの未来を、希望のあるものにしていける。5Eとも言うが、有意な物事に関心を持たせ、探求させ、理由の説明を受け、みずから実践し、みずから評価する。それこそが、長い教育史を経て、ついに確立せられた、教育のスタンダードなのだよ。私の教育の信条も、その5Eにある。子供たちが、この世の必要とする産業や、社会の出来事にみずから関心を持ち、考案し、新たな常識を築き上げていくのを見るのが、私の人生の醍醐味だった。」
 若い人物は、何も言わずに、教育者が言うことを聞いた。それから、分厚い書物を開いて、おそらくは該当する箇所を指でなぞり、独り、うなずく。教育者を見て、「確かに、そう記されています。」と言った。
 それだけか?と、教育者は、やや、面食らった様子で、定まらない視線を、若い人物に投げかけた。若い人物は、教育者の視線など気にもせずに、次の質問を口にした。
 「あなたが言う、安全な場所、ここにはキャンパスと書かれていますが、それはどういう場所ですか。」若い人物は、また、分厚い書物を閉じて、教育者の語るのを待った。
 君にも教えたじゃないかと、言いかけて、この場の趣旨を思いなおし、教育者もまた、淡々と話すことにした。何十年かぶりの授業再開だな。
 「キャンパスとは、本来、野原というくらいの意味がある。子供たちが、あたかも野原で元気よく駆け回るみたいに、好きなことに、自由に興味を発揮して、そこから、学びの機会が拓けてくる。しかし実際には、野原で駆け回るわけにはいかない。野獣が狙っているし、先生にとって予測不可能な出来事が起こるからな。整えられた環境、教室などで、安全にそして自由に子供たちが活動して、十分に用意された教材によって、無駄を省いた実りある教育が与えられる時、子供たちの生きる能力は、飛躍的に伸びる。そうした子供たちが、将来の世界の指導的立場に立ち、すべての人々のための、新しい社会を創っていくんだ。」
 群集は、ざわめきをやめて、この問答に関心を寄せている。さすがに、群集を振り向いてはみなかったが、どうだ、と、教育者は思った。しかし、若い人物の反応は、教育者の思いのほか、薄いようだ。
 「確かに、そう書かれています。」若い人物は、さっきと同じことを言う。ちぇっと、教育者は思った。しかし、それでモチベーションを下げられることはない。多くの先生がたを悩ますシチュエーションを、この教育者もまた、幾度となく打開してきた。
 「ところで」と、若い人物はまた、分厚い書物を閉じて言った。「僕はそういう教育も受けず、そういう育てられかたもしてないですが。こうして、あなたばかりでなく、あなたが育てた人たちをも、裁く立場にいるのは、どういうわけですかね。」
 教育者は、笑って答えた。「それは君が、私より先に死んだからだよ。」
 「ごめんなさい、何言ってるのか分からない。」と、若い人物は面を伏せて、片手を振って見せた。
 「私が先に死んでいたら、私がそこに座っていたってこと。」と、教育者は、少しイライラした気分で、若い人物を指差した。若い人物は、ただ、従前のように、まっすぐに教育者を見たまま、ハッキリとこう告げた。
 「もしもあなたが、誰からも訴えられていなくても、私が死のうと死ぬまいと、ここに座ることは、けっして許されません。」
 なぜ?という顔で、教育者は、若い人物を睨んだ。
 「自然が、あなたにとっての敵だからです。」
 何を言われているか分からないというふうに、若い人物を睨んだままの教育者に、若い人物は、ためらっていたが、ふと、何かを聞いたように天を見上げると、教育者の視線を避けて、うつむいたまま、こう宣告した。
 「あなたが育てたのは、この地上の、生きものの子供ではなく、自然を拒絶するこの世が続いていくための、部品としての子供だからです。」
 教育者は、叫んだ。「動物の子供を人間の子供に育てるのが、教育の使命だ!お前は、それすら知らないのに、そこに座っているのか!」その開かれた口から炎が吹き出して、教育者は、真っ赤に燃えながら、墜落していった。若い人物の濡れた瞳に、その光跡が一筋、淡く輝いた。


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ノクターン

2024年05月18日 | 小金井充の

 その最後のピアノ・コンサートは、市民ホールなどの、相応しい場所で開かれたわけではなかった。金曜の夜、演奏者の自宅の居間に、その日の仕事を終えた、わずかばかりの人々が、恩師のピアノを聞くために集まった。事情を知る者もあったが、しかし誰も、あえて話題にはしない。というのも、恩師のその人となりとから、こういう終わりもありうるだろう。ついにその時が来たのかと、みなが思っていたことだから。約束の時間を前にして、一人、また一人と、最低の音量にしぼられたドアホンの呼び鈴を鳴らす。玄関先で祝意があり、贈答品があって、恩師は気恥ずかしそうにその品を披露する。そもそもこの居間でのラスト・コンサートも、このわずかばかりの人々の発案ではあった。最後なんだから、市民ホールを借りて、せめて小ホールでやろうという話にもなったのだが。しかし誰のコンサートなのかを思えば、賞だとかメンツだとか気にしない人だから、そんなところへ引っ張り出さずとも、自宅にお邪魔するのがいいだろうということで一致をみた。ついでに、花は誰、酒は誰と、贈答品が重ならないようにしようということにもなり、年季の入ったヤマハのピアノを囲んで、ちょうどいいくらいの飾りつけにはなった。めいめいが、ソファや椅子にくつろぎ、恩師はお返しにと、秘蔵の山崎をふるまって、ひとしきり、思い出話がはずむ。それでは、と、予定の午後七時半、ピアノの所の白熱灯を残して、部屋の明かりが消され、恩師は、紙ナプキンをあてたグラスを、ピアノのいつもの場所へと置く。そして何か、ちょっと思案した気なそぶりを見せ、微笑むと、おもむろにカバーを上げて、鍵盤に手を添える。静かな、山崎色の明かりのなかに、ショパンのノクターン二十番が溢れる。今夜の物語の序章に、これほど相応しい曲はあるまい。観客は拍手も忘れ、この、何人ものピアニストを世に送った教授の、最後の晩餐を堪能した。
 今、私の手のなかに、その恩師の現役時代の演奏を収めた、4トラックの大きなテープ・リールがある。再生装置は、とうの昔に廃棄されて、もう聞くことはできない。大学の旧図書館の、書庫の片付けを、私のいる会社が、仕事として請け負った。ホコリとカビとに覆われ、半ば崩壊したダンボールのなかから、私はその大きなテープ・リールを見つけた。手にして、ふと、色褪せたインクの、手書きのタイトルを見た時には、まさかと思ったが。しかし筆跡に懐かしさを覚えて、私は軍手をした親指で、タイトルを二度ぬぐった。もう遠い昔になったが。でも確かに、私は授業で、このテープを聴いた覚えがある。あの最後のピアノ・コンサートが、思い出される。ピアニストにも、作曲家にもならず、世のなかを斜めに生きてきた私は、あの日も無言で去ることができなかった。最後まで残って、私は恩師に聞いたのだ。先生、どうして辞めたんですか、と。恩師の答えは、私にそのまま当てはまった。
 「僕はね、この世のどの一人にも、生き残って欲しくない。そんな想いを持つ奴が、教壇に立ってちゃいけないだろう。そうだな。君くらいの年代の人を境にして、人は人でなくなった。僕はそれを、敏感に感じた。僕はもう、誰にも、何も教えたくなくなったんだ。」
 新しい図書館に、蔵書として受け継がれる書籍は、みな、引越しが済んでいる。ここにあるものは、すべて廃棄扱いの物ばかりだ。私のいる会社が、大学側と結んだ契約書には、撤去した物の所有権を、会社へ移転する旨の取り決めがある。会社はこれらをオークションにかけ、収入を得る。その代わり、撤去の費用を安く済ませるわけだ。無論、私はこのテープ・リールを、欲しいとは思ったが。しかし、もう終わるというのなら、何を残すこともあるまい。おそらくはマニアが、ただレトロだという理由だけで、このテープを落札するだろう。私はそれを、半ば崩壊したダンボールのなかへ、元のように戻して、そっと、ダンボールを抱えた。ダンボールの下半分は、まだ強度を保っていて、このまま、階段を登っていけるようだ。見上げれば、暗い地下道の出口のように、午後の明るい陽射しが差して、私はその光のなかに消えた。


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思春期の終わり

2024年05月05日 | 小金井充の

Kindle本で1本にしました。

170ページちょい。

表紙カラーにしたりすると

どんどん値段が上がるので、

モノクロ表紙とか

必要最低限の装丁です(笑

別途に電子版もあって、

Kindle Unlimited だと

タダで読めますし、

僕にも少しお金が入るので

オススメです。

表記の揺れがありますが、

公開時のままにしてます。

電子版は試し読みできますので、

ご利用ください  (^^)/

もともと、

某、イラストサイト向けに

書き始めたものなので、

登場人物の名前などは

未決のままですし、

一部の表現が、

そういう方向で

「濃いめ」です(笑

あしからず。


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もうすぐ6年

2024年04月25日 | 小金井充の

なんだかんだで、

既読ページ(knp)通産

およそ1万5千ページだそうで。

500部ほど出ておりました。

注文分も入れると、もう少し行くかな。

ありがとうございます。

なお評価、口コミともに

ダメダメで(笑

それでも何か反応があると

嬉しいものです。


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作ってみた(笑

2024年03月24日 | 小金井充の

AmazonのKindleで、

日本でも

紙の本を出せるようになった

というんで、作ってみた。

カラー表紙にすると、お高いので、

墨一色の体裁にした。

70ページ弱で、背の幅は5ミリ弱。

110ページで、背の幅は

1センチくらいになる。

文字もなかなか読みやすい。

PDFでの、完全版下入校なので、

文字の大きさとか、行間とか、

そこくらいは

自分のデザインでやれる。

値段も、

従来の自費出版より

断然安いし、

Amazonで検索可能な、

ISBN番号ももらえる。

八つ目の短編は、

こちらからPDFで読めます。

ただ……

某お絵かきサイトの住人向け

に書いたものなので、

一部の表現が、何と言うか、

「濃い」です(笑

 

 


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過去の記事を見てました

2024年01月07日 | 小金井充の

このブログを見返していて、

思いました。

つまるところ、

創成川の近所しか

歩いてないな、と。

三昧は言い過ぎ。

それでまた題名を

変えようかと思います。

 

 

 


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本やらTシャツやらお便りやら

2018年01月01日 | 小金井充の

小金井 充の本

プログの記事にするにはやや長いので、アマゾンのkindleを使った電子書籍にしました。

 

小金井 充のTシャツ

ユニクロがTシャツの通販サイトを立ち上げたので、久しぶりに作ってみようかと。

 

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