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おじんの放課後

仕事帰りの僕の遊び。創成川の近所をウロウロ。変わり行く故郷、札幌を懐かしみつつ。ホテルのメモは、また行くときの参考に。

僕ホテル(My hotel)

2025年03月30日 | 小金井充の

 

I.出会い編
 
いそがし過ぎるけれど、僕も観光したいな。

週休二日制の勤務形態とはいえ、肉体労働の部類に入るお仕事。週休二日と言ったって、連休なんかもらえるわけがなく。せっかくの休日は、何年やってもなってしまう筋肉痛と、びっくりするくらいの眠気とで、まず半日はつぶれてしまう。レシピを見よう見真似で、チョッと洒落たパスタでも作ろうものなら、もう一日が終わってしまいます。ゆっくり風呂につかるヒマもない…。

「あー。風呂かぁ。ゆっくり風呂に入りたいなぁ。」

布団から起き出して、パソコンのスイッチを入れる。お気に入りの銭湯は何軒かあったんだけど、数年前にすべて廃業した。燃料の高騰もあるけれど、あとを継ぐ人がいないのと、建物の老朽化。そればっかりはどうにもならないねぇ。

「日帰り」「入浴」「和食」などというキーワードを入れて検索にかけ、定山渓だとか、登別だとか、よさげな旅館をみつけては、口コミなんかを見たりもするんですが。結局はやめてしまう。そこへ行くまでが大変なんだ。登別は、思い出があるから、久しぶりに行きたいなぁとは思うんだけれど。札幌駅から特急使っても、片道一時間以上。そこからタクシーなりバスなりに乗らなきゃいけない。往復で何時間かかるの?

ならば、定山渓はどうかというと、札幌駅からバスで一時間はかかる。じゃあタクシーと思って調べてみると、そんなに変わらない。一本道だからな。バスと同じ道を走らざるをえないんじゃあ、タクシー使う利点がないです。観光シーズンともなれば、何時に到着するか分からない。一日しかないんだ。いや、一日もない。

何時に終わるか分からない仕事をやっつけて、タクシーつかまえて、とにかく札幌駅へ。夕飯なんか食うヒマもない。それから一時間、電車に揺られ、バスに揺られ。到着は何時?二一時?二二時?そこからさらに、現地のバスなりタクシーなりに乗らなきゃならない。そんな時間に走ってるバスはあるのかな。二二時に駅に降り立って、客待ちしているタクシーがいるのだろうか。繁華街へ出払ってしまって、もう一台もありませんと言われるのがオチなんじゃないか。オチなんじゃないかというか、過去に何度か経験もした。

そんなんじゃダメだ。いそがし過ぎる日常から抜け出して、「ほっ」としたい。だのにこれじゃ、分単位のスケジュールになるだろう。もう少しここにいたい。その「もう少し」が欲しいのに、速攻、ダメって言われてしまう。観光って難しいもんだなぁ…。時は金に代えがたいとか言うけれど、まさにそれだわ。

「風呂入りてぇなぁ…」

ぼやきつつ、時計を気にかけもしつつ。だけど諦めきれないから、「近所」「穴場」「市内」「現地」「一時間以内」などなど、思いつく言葉を足したり引いたりして検索にかけてはみるんだが。調べても調べても埒(らち)があかない。むしろどんどん遠くなるわ。仕事は、どんなに早くても一九時より前には終わらない。通勤カバンに着替えだけ持って、会社を出たその足で向かいたい。飛行機?もぅ…、無理かな。ついに諦めて、マウスを放り出したんだが。拍子ってのは面白いもんで。

「なら、市内のホテルでよくね?」

という考えがひらめいた。ホテル…、か。脳裏には、過去に経験したビジネスホテルでの出来事が、あれこれとよみがえってくる。ホテルかぁ。あんまりいい思い出はないなぁ。寿司でも買って、家でシャワー浴びたほうがよさそうだ。露天風呂もない。食いきれないほど出てくる夕食もない。カニのグラタンは要らないけど(笑)。窓から見えるのは隣のビルの壁だろう。かといって、カーテンを閉めたら、部屋の狭さがいっそう感じられる。浴室はない。あってもユニットバス。古い。狭い。デザインはちぐはぐ。古いんなら古いままでいいよ。タバコの匂いは嫌いじゃないが、照明がヤニ色に染まっているのは、萎えるわ。仕事思い出しちまうじゃないか。そんなんで、わざわざ行く理由がないねぇ。

だいたい、仕事で疲れきったあとなのに、繁華街の人波をかきわけて行かなきゃならないなんて。もうそれだけで吐き気がしそうだ。会社を出たその足で、交通機関一本。乗り換えは無し。降りたら、長くは歩きたくない。繁華街の近くはイヤ。夜中にオッサンのがなる歌なんか聞きたくないわ。風呂はせめてタップリの湯で、足を伸ばして入りたい。食事は部屋で静かに食べたい。朝食はどこもバイキングなんだろうが、朝っぱらから争奪戦に参戦するつもりはないです。

となれば、いわゆる「高級ホテル」しかないだろうな。高いゾ。一泊素泊まりで五万円とかするんだ。タキシードやドレスに身を包んだ人たちが、一杯いくらなのか分からないワインやシャンパンをたしなむ。そんな脇で、やっとテーブルマナーを覚えたくらいの奴が、上下セット九九八〇円の安物スーツでさ。味なんかしないと思うわ。

だけどほかに、選択肢はないんだな。使える時間は、一日しかない。移動時間を最小限にして、現地でのんびり過ごすには、市内のどこかの高級ホテルを開拓するしかないんだろう。放り出したマウスを拾い上げて、検索キーワードをリセットする。「宿泊」「市内」「ホテル」「結婚式場」と入れて、検索ボタンを押す。「結婚式場」というキーワードが、検索結果からビジネスホテルを取り除いてくれるはずだ。

しかし、やはり高い。高いというか、どこも広い部屋ばかりだから、それに応じた料金になってしまう。二部屋も三部屋も要らないんだ。かえって落ち着かないよ。一部屋でいい。使い慣れたこの部屋と同じくらいの広さでいいんだけど。高級ホテルがそういう部屋を用意したところで、需要があるのかどうか。普段から高級ホテルを使う人たちって、二部屋も三部屋もある部屋がデフォだからなぁ。一部屋なんてかえって落ち着かないだろう。本州勢の、有名どころのホテルは、どこも広い部屋を売りにしている。ダメか。そういうのにこっちが慣れるしかないのか。まあだけど、探せばあるものだねぇ。

僕と、このホテルとの出会いは、そんな感じで始まりました。えぇ…?、天皇陛下が泊まったところ?。創業以来、道内随一で名の通っている名門ホテルですよ?。恐らく…。どうやら、北海道っていう立地条件が効いているようだな。大部屋ばかりでは、ここの需要を満たせない。高級ホテルでありながら、ビジネスホテルの役割も兼ね備えて、地域の需要に応えている。いわば「北海道仕様」というところか。

ありがたいことに、このホテルは、完成してまだ間もない「地下歩行空間」から、直接入っていけるようになっているんで。寒空の下を、人混みに紛れて、延々と歩かなくていいってのは嬉しい。控えめだが、いい雰囲気の階段がしつらえてあります。


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もろびとこぞりて

2024年12月25日 | 小金井充の

 イブの翌日だというのに、私は朝っぱらから、港にある刑務所まで、車を走らせていた。海岸通りの標識はみな、海側の半分は凍っている。空は大抵が白。そこへかすかな桃色が流れて、海をより一層、暗く見せている。こんな景色じゃ、道を間違ったって仕方がないが。しかし、その暗さのなかで、不定期にキラリと、彼方の標識が朝日に反射して、私の意識を掴む。お前の行く先はほかにない、と。
 接見が許されたのは、2時間前のことだ。当局にはこれまで、何度も接見を申し込んだ。死刑囚と対面するのは、そう簡単なことじゃない。いよいよ執行の当日になって、私はようやく、126号とだけ呼ばれる1頭の人狼と、対面する機会を得た。それがために、今こうして、車を走らせている。彼は別に、誰かをあやめたというのではないが。しかし、死刑に処せられることは、疑問の余地の無いことであった。
 建物のはるか手前のゲートで、FAXされた1枚の許可書を見せ、そこから一直線に円柱の建物本体へと続く、草むらも何も無い、ただ広く開けただけの吹きっさらしの道を、ひたすらに走る。時計に目をやる。あと1時間と35分しかない。刑の執行までに間に合うのか?。不安が胸をよぎる。
 円柱の建物本体はドーナッツ状で、穴の部分に、申しわけ程度の駐車スペースがある。指定されたスペースへ、円の半径に沿って車をきっちり止めるのは、思いのほか難しい作業だ。車を降りる先から、動物園のような獣臭がする。この人間工学に反した駐車スペースからしても、普通の刑務所ではないのだ。どこか上のほうで、力任せに鉄格子をギシギシ揺する音がする。見上げてはみるが、壁には同じ色、同じ形の凹みしか見えない。
 よそ見をしているうちに、音も無く分厚いドアが開いており、反応が遅れた私は、慌てて中へと駆け込むような格好になった。そのすぐ後ろで、分厚いドアが滑るように、音も無く閉まる。出られるのだろうか?。私はふと、不安になった。もしかしてこれは、私を捕らえるための…
 床に描かれる矢印に導かれて、私は地階をぐるりと歩いて、恐らくは、先のドアの反対側辺りにやってきた。あと1時間20分。気は焦るが、頭がついてこない。行く手の右側で、厚いドアがスッと開く。ここへ入れということか。私が踏み込むと、部屋の明かりがパッとついて、目の前のガラスの向こうに、126号がいた。
 「20分間の接見を許可します。会話内容はビデオとして保存されることを、あらかじめお知らせします。」天井のスピーカーから、ほとんど棒読みなメッセージが流れる。
 20分だと!。私はスピーカーに向かって拳をあげた。「約束が違う。執行直前まで話せるはずじゃないか。」
 「俺がそうした。」と、126号は言った。呟いたのだが、マイクの音量は十分だった。「もう話すことなど無い。」126号はそう言って、私を黙って見ている。
 私はガラスの前の席についた。見上げるような人狼の体は、泥にまみれたように汚れている。これが126号、市谷光男だった男の姿なのだ。
 「あと15分です。」抑揚の無い声が、天井のスピーカーから流れる。私は顔をあげてスピーカーを睨む。フフッと、市谷が鼻で笑う。下あごの尖った歯が見える。それは茶けて、輝きは無かった。
 もう時間が無い。私は口を開いた。が、言葉は出なかった。質問なれば、ノート1冊書き溜めている。その欠片すらも出なかった。この死刑になるほかない男に、いまさら、何を聞けばいいのだろう。ひとをあやめたというのでもない。私の調べた限り、法に触れることは何もしていないのだが、死刑になるほかないこの男。私はこの男に向かって質問すべきだろうか。質問する相手が違うのではないか。
 「あと10分です。」抑揚の無い声が告げる。気づけば、市谷はニタッと笑って、その獰猛な目で、私を睨んでいる。鋭い眼差しではあるが、その眼差しのなかに、私は黄疸の症状を見て取った。この男は、どのみち死ぬのだと、私は思った。このバネのようにしなやかな肉体の持ち主、生きることしか頭にない人狼が、ことのほか身の健康を思う人狼が、その目に黄疸をきたすという。いったい、どれほどの苦悩を経験したのか。
 「あと5分です。」抑揚の無い声が流れる。突然、126号は立ち上がり、私の頭上のガラスを、両手でバシンと叩きつける。私はもんどりうって、床へ転がった。縦一筋に、ガラスにヒビが走る。
 「うっせぇぞ!いちいち言うな!」荒い息をして、市谷は人差し指の汚れた鍵爪を、天井のスピーカーに差し向けた。
 「なぜ逃げない?」私は口走った。逃げない、だと?。口走ってから、私は、書き溜めた質問ノートの中身を、思い巡らした。そんな質問、書いた覚えはない。
 市谷だった獣は、今あげた手をぶらりと下げ、無防備な姿で、何か珍しいものでも見るような顔をして、私を見下ろしている。不意に目線を下げ、まるで何かを諦めたかのように、力なく床へと座ってしまう。投げ出された右の足には、ふくらはぎから股間にかけて、捕獲のときに負っただろう、深い傷跡があった。
 私は、その獣の、あまりの変わりように驚いて、縦一筋にヒビの入ったガラスに、かまわず両手をついて、その大きな体を見上げた。おそらくは聞き取れないほどの、小さな呟きだっただろうが。しかし、マイクが、十分にその呟きを増幅して、私の耳にまで届けた。
 「主は、来なかった。」私は確かに、そう聞いた。そしてそれが、人間だったこの生物の、記録では最期の言葉となった。


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雪遊び

2024年12月15日 | 小金井充の

 

 「何をご覧になっておいでですか。」

 「雪を観ているのです。」背の高い、ショートヘアーの、切れ長の、力強い眼差しを持つ、名も知らぬその女性は、そう答えた。

 「雪?」

 「ええ。」赤いマニキュアをした、白い両手で、浅黄色のパーカーのホロを脱ぎ、女性は顔をあげて、真っ暗な夜空から、しんしんと降りる雪を、見上げた。

 「僕を、振り向いては、くださらないのですね。」

 「ええ。」女性は、赤いマニキュアの手を伸ばし、軽やかに、一歩踏み出して、まっすぐに落ちてくる、雪を手にする。足元で、キュッと、雪が鳴る。

 (なるほど、僕は、雪ではあるまい。)

 「冷たい雪。温かい雪。」女性は両手で、雪をとらえ、その両手を交えて、いとおしそうに、雪をめでる。

 「止みそうもない。」

 「止むものですか。そら。」女性は、また手を伸ばして、雪をとらえる。

 (実際、止むことはないのだ。)

 「赤い雪。青い雪。」両手のなかで、マリを抱くようにして、女性は、雪を転がす。

 「楽しそうだ。」

 「楽しいですわ。」ぱっと、女性は、両手を空へと開く。色とりどりの雪が、吹雪のように、闇に散る。

 「本当に限りがない。」

 「ひとの想像は無限ですわ。」ふっと、女性は、膝の高さで、ひと粒の雪を、受け止める。

 「見つけましたね。」

 「ええ。あなたは?」そのひと粒の雪を、大切に両手で抱えて、女性は、闇のなかへ、歩き出す。

 「歩いてゆけるのですね。あしたへ。」

 浅黄色のパーカーの裾が、しゃらんと揺れて、女性の姿は無く。
 僕は動転して、振り返る。
 あちら、こちらで、沢山のひとたちが、雪のなかに、手を差し伸べている。

 (ひとの願いもまた、無限なのだな。)

 茶色のコートの、襟を合わせて、僕は、冷たい真冬の空気のなかを、無限に、歩いていった。


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駄菓子屋の夏

2024年11月22日 | 小金井充の

 

 昭和六十二年の夏、私は二十年ほどやった配達の仕事を辞して、思うところあって、町外れの小さな工場へと再就職した。体が資本の職場で、体力がガタ落ちになったのを自覚して、もはや、誰かの上に居られる立場ではなくなったなと。ここは手に職をつけて、将来の生活の安定を得たいと、職安で、かねてから興味のあった駄菓子屋の仕事をまさぐった。世の中は、間もなく年号が変わろうかという気配のなかで、何か新しい、希望のありそうなものへ変身しようと、急速に動き出している。そんな風に圧されたわけではないと、独り呟いてはみるものの、実際は、旧来の知人らの華やかな転職物語を聞くたび、焦りに似たものを感じていたことは否めない。
 その工場は、郊外の広い広い空き地であった所へ、倉庫群や配送センター、大型ショッピングモールなんかがグングンと建ち始めたにぎやかな地域の只中の、まるで時間が止まったかのような、取り残されたような古参の建物の一隅にあった。車屋のガレージなんかが並んでいたかもしれない、長屋のような建物のはずれが、その工場の在り処である。看板らしい看板もなくて、迷いに迷ってしまい、危うく面談の時間に遅れそうになって冷や汗をかいたが。しかし、季節も季節だ。所々砂利のはみ出した軽舗装の路地から延々と立ちのぼる陽炎のなかでは、冷や汗なんぞ一瞬にして蒸散してしまう。
 私はその建物の正面に立ち、汗を拭くのも忘れて、下辺の腐り落ちたドアの脇へ危なっかしくネジ止めされた、これが恐らくはインターホンなのだろうとおぼしき、黒くて四角い物体からはみ出ている、茶化て泡だったような丸いボタンを押した。ビーっとでも言うのかと思ったが、音の高低の危うい「エリーゼのために」が流れ出して和んだ。それがひとしきり演奏を終えるころ、ガタリという音を出して、それは老いた女性の声を私の耳に伝えた。
 「はい、どなた。」
 私が職安から紹介してもらった旨を伝えると、その鬱々とした女性の声は明るいものへと変わり、間もなく、ドアのノブがギッと鳴って、丸顔に銀色のビジネス眼鏡をかけた、笑顔のお婆さんがあらわれた。
 「さ、どうぞ。お待ちしてました。」
 私をなかへと導くお婆さんの指には、緑色の指サックがついている。どうやら、事務方のひとであるらしい。のちに、それは私の勘違いで、誰あろう、この柔らなお婆ちゃんこそが、先代の未亡人、現の社長だと知れるのだが。しかし私は、ややしばらくの間このお婆ちゃんを、パートか何かの事務員だと思っていた。それは私にはほとんど、以後このお婆ちゃんと顔をあわせる機会がなかったことに原因している。私はいきなり工場の鍵を任され、早朝一番に来て、まだ誰も居ない工場に火を入れる役回りとなったし、仕事が終わって帰るころには、お婆ちゃんはもう退勤していた。
 二階建ての工場は、二階を材料や物品の倉庫として使っているがために、ひとが常在するのは一階のみに限られている。他所から駄菓子屋の店主なんかが来ると、まずは工場とガラス窓一枚で仕切られた応接室に案内せられ、そこでお婆ちゃんのいれた茶を飲みながら、工場の製品を食べながら、工場長と談笑して帰るのだが。しかしそれはまた、のちのお話で。今日は面談。自分が客となり、お婆ちゃんのいれた、味のしないお茶をいただきながら、五十路も後半の工場長の、つるりと髭を剃った難しい顔とにらめっこしている。持参した履歴書を眺めて、うーんと唸る工場長。白衣のすそに、きなこだろうか。黄色い粉が散っている。
 「難しいかもしれませんよ。」
 工場長の、予想通りの言葉を聞いて、私は用意した言葉を返した。
 「とにかく何日かでも、やらせてもらえませんか。今からでもいいです。」
 実際、そのつもりで来たんだし。ほかに何を言えばいいんだろう。こっちも生活かかっているし、この日照りのなかを、何の収穫もなく、手ぶらで帰ろうとは思わない。そんなことになれば、しばらくは立ち直れないだろうな。ダメならダメでいいから、ダメだってことを分かりたい。次の仕事を探すにしたって、未練があるままじゃ、目移りしてしまう。
 私がそう言うのを聞いて、工場長はふと私の顔を見て、何だか気まずいような、渋いような顔をして、手にした履歴書を机の上へと投げた。そしてスックと立ち上がり、工場と応接室とを隔てる窓をガラリと開けて、
 「修司、白衣あったか。」
 と、延べ台でタネをのしている男性を、真っ直ぐに見て言った。言ったというより怒鳴ったに近いが、奥の機械の音があるので、そのくらいでしゃべらないと、相手に声が届かない。私はそのデカイ声で言うというのに苦労することになるが。しかし慣れるとまあ気持ちいいものでもある。ネタをのしていた男性は、無言で振り向いて、かまどの前で作業していた二人の人物のうちの一人を見た。偶然か、見られたほうも顔をあげており、代われというような合図にうなずいて、何の疑問もない素振りでスタスタと延べ台へとやってくる。ネタをのしていた、工場長から修司と呼ばれたその男性はというと、もうあとも見ないで、二階へ続く階段のほうへと歩き出していた。まあなんという、なめらかな連携であることか。これまで自分が経験してきた、独り芝居の職場とは、はなから別物の世界がここにある。男の職場とか世間では言っているが、違うな。現に、かのお婆ちゃんだって、気が利くレベルを超えて、実にタイミングよく物事を運んでしまう。要するに、同じ生物だから通じるってことだな。それをより簡単に実現する要素として、同性ってのが有効なだけだ。しかしその早合点が、私を苦しめることになる。外れてはいなかったんだが、それはメインの理由ではなかったのだ。
 工場の二階には、両端に階段がついており、作業場からもあがれるし、ぐるっと歩いて、応接室の側へと降りることもできる。それをまだ知らない私は、修司さんが、作業場とは逆の応接室のドアから現れたので、思わず「あれっ?」と声をもらしてしまった。私の様子を見て、修司さんが笑う。
 「上は、こっちにも降りられるんだ。」と、工場長。「これ着て、髪の毛覆うやつもな。いや、そうじゃない。ったく……」無言で修司さんを見遣る工場長。修司さんは自分の白衣を脱いで、着て見せてくれる。髪を覆う使い捨ての帽子をかむるのが、なかなかに難しい。見れば、工場長はもう、あとも見ないで自席につき、パソコンの画面とにらめっこしている。
 「来て。」と修司さん。あとについて応接室を出、ドアをあけて、作業場の前室へと入る。白い長靴を借り受けて、もうね、手の洗いかたから違うわ。修司さんに最初のレッスンを受けながら、私は今確かに自分が、これまで知らなかった世界に入り込んでいるのを、入り込んでしまったのを、なんとも言えない気分で自覚していた。これでよかったのか?あまりにも急ぎ過ぎではないか?蛇口からほとばしる温水の流れは、しかし、私の不安を洗い流してはくれない。せめて冷たい水であれば、もう少しシャキッとするだろうに。ブロアーで濡れた手を乾かし、続く狭い通路では全身に風を当てられて、ようやく、作業場へと続くドアが開かれる。途端に、かいだことのない香りが身を包む。思わず立ち止まって、鼻を使う私の姿を見て、修司さんが笑う。
 「あれ?かいだことない?砂糖の匂いだよ。砂糖ってか、糖蜜の。」当たり前のように、修司さんが言う。指さされるままに、私は銅鍋から湯気を立てる、透明な液体を見た。それぞれに温度計が入っており、先の二人のうちの一人が、しゃがみこんで、ねんごろにコンロの火力を調整している。その様子に見入る私を見て、
 「沸かしたら終わり。」とだけ修司さんが言った。そのときの私は、沸かし終えたら作業終了という意味だと思ったものだが。しかし違った。沸かしたが最後、この香気はみな飛んでしまう。さらに沸騰まで行くと、コンロの火が回ってしまい、大火災になるのだ。駄菓子といえど、品質を一定に保たなければ、顧客は逃げてしまう。糖蜜への火の入れ具合ひとつにしても、それがそのまま、品質を左右するわけで。その難しさには、熟練したと言われてもまだ、頭をかかえることがあるくらいだ。
 初日の体験は、昼までとなった。体験というか、迷惑かけただけで終わったのが、私には残念でならない。職安で探してた時分には、自炊経験くらいで何とかなるだろうと、甘い、甘すぎる考えでいた自分である。目に見えてしょげかえっていたのだろうか。修司さんが黙ってコーヒー缶をおごってくれた。それを見てか、工場長がスタスタとやってくる。ああ、お断りか。
 「あしたは休んで、住民票とってきてくれ。あさってから六時な。」事も無げにそう言って、工場長は透明ファイルに挟んだ契約書を、私に渡した。えっ?という顔でただ書類を見つめる私。
 「契約は今日からになってるから。ちゃんとカネは払うよ。」そう言って、工場長は私の背中をポンポンと叩くと、スタスタと自席へ戻っていった。修司さんがニヤニヤ笑って見ている。
 「俺もそんな感じだったわ。」修司さんは手招きして、私をロッカー室へと案内してくれた。見れば、いくつかのロッカーの扉が、開け放たれたままになっている。あるものは凹んでおり、あるものは取っ手がなくなっている。脇の壁には穴まであいているじゃないか。でもこの光景は、前の職場にもあった。人生の壮絶な景色は、ここにもあるんだな。修司さんは、手近なロッカーの、鍵がささっている1つを指差した。ここを使っていいようだ。見ればもう、修司さんはロッカー室を出ていた。仕事の流れが見えていなければ、そうもいくまい。私にとっては、それが一番の難問だった。
 「じゃ。」
 私が入社して二年目の春、修司さんは家業を継ぐために、この工場を離れた。盆に遊びに行くと約束して、私は修司さんの愛車である、年代ものの白いクラウンを見送った。工場長は何も言わない。後ろ手を組んで、いつものようにスッと立ち、去り行くクラウンを真っ直ぐに見届ける。あの日、コンロの火の番をしていた奴も、この工場を去っていた。不況の波は、いかんともしがたい。後ろでは、かのお婆ちゃんが、両手で老眼の進んだ眼鏡を持ち上げて、同じように何も言わず、クラウンを見送っている。寂しくなったが、工場は終わらない。スタスタと作業場へ戻る工場長。段取りは、分かっている。まあ、気分で変わることもあるが。
 私が作業場へ戻ると、案の定、工場長は鍋ではなく、延べ棒を持って延べ台に向かった。予定と違うじゃねぇか。そんなことをボヤキつつ、私は糖蜜の鍋に火を入れて、計量台にボールを据え麦粉を計りにかかる。工場長は抜き型を並べだす。私はタネを作りにかかるが、思えばこれも、練るものだとばかり思っていた。
 「麦粉はね、練れば練るほど、焼いたものが固くなる。」修司さんの言ったことが、昨日のように思い出される。ああ、やばい。チョッとウルウルしてきた。でも手を顔にはやれない。鼻水は、マスクが何とかしてくれるだろう。タネがまとまった頃合、工場長が延べ台にパッと打ち粉をする。その音を聞いて、勢い、ボールをかついで、延べ台に返しに行く。子供のほっぺたのようなタネが、フワリと延べ台に着地するや、工場長が指で、それをチョッとひねってみる。よしよし。何も言わないな。工場長は抜き型を自分に引き寄せる。私はもう、延べ棒を手に、タネをのしにかかっている。平釜のかすかなファンの音だけが、今日も作業場を満たしている。もっとも、焼きが始まれば、こんな静けさは吹っ飛んでしまうが。焼き板に次々と型が並び、私はタネをのす合間、頃合を見て焼き板を棚へあげ、順次、新しいものと取り替えていく。棚は間もなく、焼き板でいっぱいになる。カバーをかけ、新しい棚を据え……。ちょっ!今日は手が早いな工場長。絶好調じゃん。見れば、抜き型を脇へ置いて、抜いた残りを集め、工場長直々、自分でタネをのしにかかる。私は延べ棒をあきらめて、計量台に戻り、麦粉を計る。麦のかすかな香りのなかへ、糖蜜の香りが匂いだす。平釜を回す。さあ、忙しくなるぞ。


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燃える雨

2024年06月08日 | 小金井充の

 真っ赤に燃える無数の魂が、真っ暗な空から、雷雨の如くに降り注ぐ、この地上の頂で、ひとりの僧侶は、地にあぐらをかき、長大な数珠をもみつつ、一心に念仏を唱えおり、またひとりの司祭は、十字架を高くかかげ、残る片手は大きく懐を開いて、落ちかかる、全ての魂を迎えんとしている。

 この地獄の光景を、このふたり以外の誰が見たのであろうか。遠く街は、いつものようにきらめく光を放ち、その騒音は、ここまでも聞こえ来るほどだ。相変わらずの日常が、その光と音との洪水のなかにある。それに比べたら、この燃え盛る魂の光も、その発する轟音も、どれほどのものか。

 僧侶がカッと目を見開き、念仏をやめる。長大な数珠を片手で握り締め、大きくその腕を振って、数珠を地面に叩きつけた。糸が切れ、玉が飛び散らばる。その一粒一粒が、落ちてくる魂のひとつひとつを打つ。真っ赤に焼けた鉄の玉に弾丸が打ち込まれるが如く、玉は個々の魂にめり込んでいき、溶けて、白く輝く塊となった。

 「生きよ!」と、僧侶が叫ぶ。その叫びに応じて、白く輝く塊は人の形を成し、遠く街の上へと降り注ぐ。「おぎゃあ!」と、大きな産声が、ただ一度だけ虚空を揺るがした。もはや暗闇はなく、美しい星空が、ふたりの上に開ける。

 「今夜は俺の勝ちだ。」僧侶は立ち上がり、司祭の醤油顔を睨んで、ニヤリと笑う。が、司祭も負けてはいない。僧侶のソース顔を一瞥して、ふっと笑って見せた。

 「ご覧なさい。あなたはどこを見ていたのですか。」そう言って司祭は、自分の胸をはだける。そこには、無数の血の十字架が、刻みつけられていた。「あなたの二倍、いや三倍はあるでしょう。」司祭は、さも得意気にそう言って、僧侶のソース顔を横目で見やる。

 「嫌な奴だ!嫌な奴だ!」僧侶は両手を握り締めて、いきりたって、地団駄を踏んだ。その様子を、司祭は、さも面白そうに眺める。どこか、天のはるかな高みから、ギギギィと、重々しく扉の閉まる音が響き来たった。

 「次は負けん。覚えておけ。」僧侶は身をひるがえし、もう頂を降りにかかる。逃げしなに、覚えていろは何とやらと、司祭は心の内に思って、僧侶の、哀愁すらをも感じさせる、その背中に、ほくそ笑んだ。そして、遠く輝く、街の光に目を移し、あたかも、いとし子をいつくしむかのような眼差しでもって、その踊る光の輝きを、飽きもせず、眺め続けた。

 司祭は目を閉じ、そして目を開くと、その街の大通りにいた。真夜中だろうが平日だろうが、車の通りが止むことはない。その大通りの、ど真ん中に、突然、白いベールを着た醤油顔の人物が立ったので、当然ながら、周りは騒然となった。鋭いクラクションが鳴り響き、追突する車、避けきれずに横転する車。フロントガラスがドンという音とともに飛び散り、歩道を歩く人々めがけて降り注ぐ。シートベルトをしていない何人かが、カエルのように空を飛んだ。それらの人々すべての目と指先とが、道の真ん中に立ち尽くす、醤油顔の人物を刺し貫く。お前は何だ?、なぜそこにいる?、どこのどいつだ?、そんな、声にならない疑問を、ひしひしと感じて、司祭はスッと片手をあげ、叫んだ。

 「淘汰されてはいけない!」司祭は、もっと私に注目しろと言うように、そこで言葉を切った。群衆の集中度が、いやがうえにも高まるのを感じて、司祭は大いに満足した。「あなたたちの内に、身重のひとはいますか。妊娠しているひとはいますか。今日、あなたたちの元に、子供たちが行った。その子たちが、淘汰されることがあってはいけない。淘汰されるべき私たちが生き延びていくには、淘汰されるべき子供らが、淘汰されてはならないのです!。わたしたちは、なんとしても、頭かずを減らしてはならない!。数の力しか知らないわたしたちが生きていくには、絶対に、頭かずを減らしてはいけないのです!」

 上空にはヘリが飛び交い、指向性マイクとイコライザとを駆使して、その醤油顔の人物の生の声を、細大もらさず収録する。と、その人物の姿が、忽然と消え去り、それを見た周りの人々は、本当に引いてしまって、黙りこくった。その一部始終を報じる動画が、マスコミによって全世界に向けて公表せられ、各国首脳は、拍手をもって、その見知らぬ醤油顔の人物の生の声を、賞賛した。

 「これが聖戦でなくて、なんであろう!」戦う相手を、間違えてはならないと、とある国の首脳は、演題に立って、テレビの前の聴衆に向かって、声をふるわせて言った。これを、この見知らぬ醤油顔の人物の言葉を聞いて、自分がどんなに感動しているかというのを、自身の声で伝えようということらしい。その感動が本物であることを、他国の首脳はみな、自分自身のことであるかのように思って、涙を流したものだ。

 そんなことなど、つゆも知らずに、地球は今日も、のうのうと回り続ける。あらゆる生きものの不安を乗せて。しかしそうして、この星が無関心でいられる、責任を回避していられる時代にも、ついに、終わりが来たのだ。

 それは例えば、カオスに関する簡単な実験からさえも、十分に、予期せられるべき終わりであった。いわゆる「パイこね」のような、単純な作業でも、カオスは再現されうることは、何世紀も昔に知れていた。カオスが取りうる値というのは、なぜかある一時期、一箇所に集まって安定化することがあり、またある時期に、なぜかは分からないが、その安定した状態から突然、まったく別の、飛び離れた値に拡散してしまったりする。この現在の恒常的な環境も同じだ。突然、まったく何の前触れもなく、ものすごく不安定な時期へと移行する。

 「はい、ナレーションさん、ご苦労さん。」僧侶が、上半身をニュッと伸ばすようにして、カオスの説明図の下隅から、斜めに割り込んでくる。実は、この僧侶もまた、この星の終わりについて、早くから勘づいていたのだが。

 「はいはい。もういいから。」僧侶は、面倒くさそうに片手をふって、ナレーションの声を追い立てる。「頑張ったって規定の給料しか出ないんだから。」パンパンと、僧侶は両手を払って、その両手を両の腿になすりつけ、今度こそ、厄介払いをした。

 「えー、テレビの前のみんな、俺が突然出てきて、驚いてるかな。」僧侶の濃いソース顔が、ヒゲの生え際さえも見えるほど、テレビの画面いっぱいに迫る。

 「ちょっと、子供泣かしては駄目ですよ。」司祭の声がする。えっという顔で、僧侶のソース顔が画面から離れ、声のしたほうを睨む。司祭の醤油顔が、テレビの前の聴衆に向かって親しげに手をふりながら、僧侶のソース顔を押しのけつつ、あらわれる。背後で、あれ誰?、誰か呼んだ?、この間の事故のか?、スクープじゃん!、などと混乱するスタジオの声。

 「ほら。あなたより、わたしのが有名ですよ。」マイクを持たないほうの手で、なんとなく僧侶を指し、なんとなく自分を指して、さも満足気にニッコリと微笑む司祭の顔が、画面いっぱいに映る。

 「出たー!」と、画面の外で誰かの小さな叫び。「速報値だけど八十八パーセント!はちじゅうはちぃ!」という、狂気のように裏返った声が続く。

 「視聴率な。」と、僧侶が声だけで、そっけなく言う。画面が引かれ、司祭の醤油顔と、僧侶のソース顔とが、並んで映る。二人は、互いの顔を見合わせたが。しかしめずらしく、僧侶が司祭の肩を小突いて、出番を譲った。

 「へぇ。素直じゃないの。」司祭が、本気で驚いたような顔で、しみじみと僧侶に言う。僧侶は、なんだか照れくさいような、ニタッとした顔をして、片手で頭をかいてみせた。「じゃあ、わたしから。」司祭が居直る。画面も司祭の側へ寄る。

 「うーんと。突然、ショッキングな話だと思いますが。この星は、もうすぐ終わります。終わるというのは、実際には、物理学的にか、生物学的にか、消滅するということですが。」

 「はぁ?」先に、聖戦と言った首脳が、口をあんぐりとあけて、画面の司祭を見ている。お前、我々が淘汰されちゃいかんと、言っただろ。それをお前とでも、言いたげな口元だ。

 「あー、そこの、首脳さん。そうです確かに、わたし、淘汰されてはダメだと言いました。それがわたしの務めですから。あなたたち人類の信仰は、わたしらが務めをきっちりと果たしてこそです。けっして裏切りません。これは先祖からの契約なので。わたしらもそれで飯食ってる。」司祭は、画面に向かって、ニッコリと微笑みかける。

 「さっさと本題に行けって。」横から、僧侶がツッコミを入れる。「放送時間なくなってきてっぞ。」ほらと言う具合に、僧侶が画面の外の時計を指差してやる。

 「あらら。急がないと……。」司祭が居ずまいを正すと、画面も再び、司祭の側へ寄る。「でも、もう伝えることは伝えましたからね。わたしらのお仕事はそこまで。あとのことは、みなさんでどうぞ。」

 「またそんな。いい加減な奴だな。」僧侶が司祭の肩を小突く。しかしマイクは自分の口元から離さない。画面の向こうへ向き直って、僧侶は、下から上へ、ぐるりと腕を回すように、大げさに合掌して見せた。「ではみなさん、さようなら。」フッと、二人の姿が、画面から消えうせる。

 「我々は、自然と闘い、自然に勝つために、頭かずを、頭かずだけを、武器としてきた。」先に聖戦と言った首脳が、司祭らの消えた画面を、まるで吸い込まれるように凝視しながら、ぼそりと、つぶやいた。「ほかにやりようがない。」

 「我々に教えてくれたのでは。」黒い背広を、ビシッと身にまとった側近が、首脳の耳元で囁く。「この星が終わるということを、先んじて、我々に教えてくれたとしたら。我々は、期待されているということでは、ないでしょうか。」

 「期待、されている、とは?」首脳は、夢のように呟いた。まだ画面に見入ったまま、画面の向こうの混乱を、定まらない目線で見ている。そして今度は、自分の言葉で、「そうだ。期待されているのだ。」と、首脳はまず、自分に聞かせるとでもいう具合に、力強く、そう言いなおした。画面の向こうから、音だけ、思い出したように「そうだ」と、他国の首脳らの言う声が、かすかに聞こえた。その声に応じて、首脳はもう一度、改めて、「そうだ!」と、ほとんど叫ぶように言った。「我々人類は、間違っていなかったのだ。誰も、灰の上に座る必要などないのだ。」画面の向こうから、鳴り止まない拍手が聞こえてくる。首脳は目尻をぬぐった。「そうだ。たとえ、我々が間違っていたとしても、後悔など、する必要はないのだ。」

 デスクでベルが鳴った。科学相からのホットライン。先の側近が、小走りに、受話器を上げに行く。二言、三言話して、側近は、耳から受話器を離した。「首脳、まずは隕石からです。」

 「よぅし、来てみろ!」首脳は。片腕でガッツポーズをして、もう片方の手で、その二の腕を受け止める。「始まるぞぉ。前代未聞の、感動の、人類の、本物の共同戦線が。」前の、どんな首脳も、経験したことのない。経験したいと思ったけれども、できなかったことが、これから、自分の代で、始まるのだ。そう考えると、首脳は、ウキウキしないわけには、いかなかった。ほどなく、国家間のホットラインが鳴りだす。そうだ。我々は、生き延びることを、期待されているのだ。首脳の声にも、おのずと力が込もる。

 ひとりの、車椅子に座った学者が、これも側近のひとりではあるが、部屋の隅へと引きこもって、その見たこともない、首脳のハッスルぶりを、黙って観察している。その首脳の姿は、この車椅子に座った学者が見たいと思ったこととは、まったく、正反対の姿であった。

 デスクにふんぞりかえって、自信満々の首脳の元へ、各国から次々と、進行状況の知らせが入る。成り行きとはいえ、今や首脳は、世界のリーダー的地位にあったから、本人としてみれば、どうしても顔がニヤけてしょうがない。

 しかしその、首脳の余裕しゃくしゃくっぷりが、ある電話を境に消失し、首脳が、先の黒服の側近と、おでこを突き合わせだすやいなや。車椅子に座った学者の瞳に、消えたはずの光が、かすかに取り戻されて。さらに、首脳が、各国からのホットラインに向かい、側近が止めに入るほどの、荒い言葉を発しだすようになってくると、車椅子に座った学者は、とうとう、部屋の隅からその姿をあらわして、部屋の中央の、天井から明るい光が降り注ぐところへすらも、そのタイヤを踏み入れるまでになっていた。

 「あ、博士……。」存在を忘れていたというくらい、驚いた首脳と側近の顔を見て、車椅子に座った学者は、思わず微笑んだ。

 「どうですかな。」学者は、静かに、車椅子のブレーキをかけた。首脳らの顔色を見れば、もう、部屋の隅へ引きこもることにはなるまいと、学者はこれまでの観察から、確信していた。

 嫌な野郎だという顔をして、首脳は、自分の座る椅子の、床からのわずかな高まりの向こうから、この学者の顔を見下ろした。空軍からのホットラインが鳴る。首脳は、まったく予期していなかったふうで、ビクッとして、あやうく、その受話器を取り落とすところだった。「私だ。なに?」と言って、首脳は、黒服の側近と、不安な顔を見合わせ、次に二人ともが、車椅子に座る学者に向けて、頼むというような目線を向けてきた。その様子を見て、学者はもう、何が始まろうとしているのかを理解した。

 「首脳、残念ですが、避難は、間に合わないでしょうな。」学者はそこで、言葉を切り、指を三本、額にあてて、考えていたが。にわかに顔をあげて、こう首脳らに伝えた。「あなたのご家族、側近のかたのご家族、ご親族、医師、看護人、技術者、教員、冒険者、芸人。わずかなひとたちだけを、突然、迎えに行くことです。絶対に、このことを漏らしてはならない。そのほうが、国民にとって、幸せです。終わりは、飲み食い、めとりなどしているうちに来るほうが、幸せですな。もうどうやっても、全員を、1つの村の住人全てですら、避難させるのは無理なのですから。」

 「あなたは、楽しそうですね。」黒服の側近が、車椅子に座る学者の前に進み出て、腰をかがめて、そう言った。「でも、この世がある限り、あなたは、このかたの側近のひとりです。どうか、私たちと一緒に、頭を悩ませてください。あなたは、この方面の権威でいらっしゃるのですから。私たちに、私たちが助かるための、どんなヒントでも、与えてください。」

 「もちろんです。」と、学者は、深く、うなずいた。「私が楽しそうに見えるとすれば、それは、やっと、みなさんのお役に立てる時が来たからです。この世のある限り、私もとことん、みなさんと一緒に行きたいと思っていますよ。私を評価してくださり、手をかけてくださったのは、この世のほかには、なかったのですからね。ですが、先ほどお話ししたことだけが、今から可能なことだと、改めて、申しましょう。私は、それ以上のことは、思いつきません。」

 「ありがとうございます。」黒服の側近は、自分と同じ、側近の地位にある学者に向かって、軽く会釈をした。そして、首脳のほうへと向き直り、その目を真っ直ぐに見て言った。「首脳、急ぎましょう。失う時間はもう、ありません。私も、この世がある限り、首脳に、喜んで、お仕えいたします。」


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審判

2024年05月31日 | 小金井充の

 長い長いエスカレーターが、空の上の雲まで続いていた。教育者は、昔、そういう場面を、猫と鼠のアニメで見たなと思いながら、ひとりぼっちで、空の高みへと、ゆっくりゆっくり運ばれていく。下界を眺めれば、我が家の屋根が見え、見慣れた大通り、そこから山のきわまで広がる、住み慣れた街の景色が広がっている。街外れの墓地に、ひと群の黒い人影があり、かすかに鎮魂の鐘が聞こえたようだ。人間、死ぬときはひとりぼっちだと言うが、本当なんだなと、教育者は思った。寂しい限りだ。しかし、この高みから見下ろしても、人だかりが見て取れるほどの人数が、自分を見送ってくれたのだ。そのことが誇らしくもあり、勇気づけられもした。教育者は、甥が着せてくれた、一番お気に入りの背広を正し、先立った妻からの、最後の贈り物のネクタイを締めなおした。胸を払い、ついでに肩を払って、常世のチリを落としたつもりだ。見上げれば、エスカレーターの動きに従い、輝く真っ白な雲が、ゆっくりゆっくりと近づいてくる。あれが天国かと、教育者は、細いフレームの丸みを帯びた眼鏡をかけなおして、その雲の妙なる陰影に見入った。かすかに、ざわめきが聞こえる。どうやら、あそこには沢山の人たちがいるようだ。地上を去って、つかの間の寂しさが、教育者のそこへの焦がれを、一層、強いものにした。
 ようよう、エスカレーターは終わりを迎えて、教育者は、幾本もの光の柱が立ち昇る、その真っ白な世界へと降り立った。重力はあるなと、一歩一歩確かめながら、教育者は考えた。してみると、ここはまだ地球なのか。向こうにはやはり、沢山の人たちが整然と列を作っており、ただあのアニメと違うのは、みな、それぞれの服装をしていて、誰も白いベールをまとっていないことだ。しかし、それはどうでもいい。この光景を見ろ。ここが天国でなくて、どこだというのだろう。教育者は、今まさに自分が目の当たりにしているこの眺めを、至極当然のものと思った。人生、振り返れば、本当に苦労をしてきた。言葉ではあったが、敵を倒さねばならぬことも、少なからずあった。そのことで咎められるのであれば、致し方あるまい。包み隠さず、ありのままに事情を話そう。教育者の全身が、今、恵まれた人生を歩んだ者だけが醸しだす雰囲気をまとって、光り輝いている。そう考えるだけで、目頭が熱くなるのを、教育者は覚えた。どんなに長く辛くても、最後には、報いが必ずあるものだ。実感に打たれて、教育者は夢見心地で群集の列に加わった。あちこちから、再会の喜びや、明るい笑い声が聞こえてくる。もしも地獄であれば、こうはいかない。教育者は、この先、自分が迎えるだろう場面を想像して、胸が熱くなった。これだ。この報いこそは、人生の総決算なのだと、教育者は感動した。そして感動のあまり、前に並ぶ婦人に声をかけた。
 「ここは天国でしょう。」教育者の声に、疑いはなかった。
 婦人は教育者を振り返って、微笑むと、白く縁取られた青いドレスの裾をつまんで、少し膝を折って見せた。都会ではもう、そんな挨拶の仕方はやらない。このご婦人はどこか地方のかたなのだろうと、教育者は親しく思った。よく見れば、ドレスは、幾つか別の青い生地から出来上がっている。婦人は、差した小ぶりな日傘を、少し上げて、その影に教育者を入れようとした。
 「ええ。わたくしも、ここが天国だろうと思いましてね。官吏のかたに聞いてみましたのよ。そしたら、天国ではないとおっしゃいますの。地獄でもないと。」
 婦人の言葉に、教育者は辺りを見渡した。官吏など、いただろうか。見渡す限り、さまざまな服を着た人々しかいない。無論、軍人や警官もいるが、そういう意味での官吏ではあるまい。辺りを一渡り見回してから、教育者は婦人に目を戻した。
 「官吏が。しかし、今はいないようですな。」そう言いながら、教育者はまた、辺りを見回す。
 「ええ。少し前に、みなさん、門の向こうへ下がりましたわ。」
 「え、門?」と、思わず声に出た教育者の目線を、婦人が白い手袋をした指先で導く。そこには確かに、大きな門があり、今しがた、それが開かれたように見えた。
 「あ、開きましたな。すると、これから審判が始まるのですね。」教育者は、小手をかざして、開け行く門を望んだ。群集のざわめきが静まる。教育者も群集も、門からやってくる、白いベールに包まれ、大学帽のような小高い帽子をかむった人々の姿を見つめた。ひとしお、群集のざわめきが高まる。あれが判事か。私たちの行方を決めるのね。教育者もまた、群集と同じ不安と憧れとをもって、その一群の白い人々を眺めた。
 やおら、その白い人々が、群集の誰かに向かって、それぞれ、無言で指を差す。するとまるで、ベルトコンベアに乗せられた荷物が仕分けされていくように、群集のなかから、ひとり、またひとり、歩くこともなく、時に座り込んだままで、スムーズに滑るようにして、その白い人々の前へと運ばれていく。雲に隠れて、椅子が用意されていたのだろう。白い人々は、おのおのの席に着座して、運ばれ来る人々と対面を始める。聖書にある通り、白い人々の前に、分厚い書物があらわれて、開かれ、白い人々の指がその紙面をなぞる。書かれてある通りだと、群集は興奮して、口々に褒め称えた。
 突然、つんざくような男の叫び声が響いて、群衆は静まり返り、一度にその声のほうを見た。誰かが赤く燃えて、彗星のように落下していく。ヒャッと小さな叫び声をあげて、婦人は教育者の腕に抱きついた。日傘がクルリと回って、ふわりと雲の上に落ちる。群衆の雰囲気も一変した。
 その刹那、教育者は、自分の腕が引かれていくのを感じた。見れば、婦人の体が静かに動いていく。その抱きつく腕は、するりと教育者の腕を滑って離れ、婦人は座り込んだまま、自分を指差す白い人物のほうへ、何の障害もなくスムーズに移動していく。婦人は片手を雲の上に突き、残る片手を、教育者のほうへ差し出す。思わず、教育者は婦人のあとを追った。子供らの姿が、その姿にダブって見えた。
 白い人物は、婦人とともに自分のもとへと来る教育者の、哀れみに満ちた姿を見てとると、「お前の番はまだだ」と、毅然として言った。
 教育者は、その声の重みに、思わず立ち止まったが。しかし、この哀れむべき婦人のために、意を決して、その白い人物の視線に立ちはだかる。
 「ここに居させてください。ご覧なさい。ご婦人はふるえている。」教育者は、自分の言葉の半ばにはもう、自信を取り戻していた。しなやかな姿勢で、その白い人物を見返す。
 「よかろう」と、白い人物は言った。そしてもう、教育者のことなど忘れたというふうに、その視線は婦人だけに向けられた。
 教育者は、休めの姿勢で足を出し、腕を組んで、婦人と白い人物との問答に耳傾ける。必要を感じれば、いつでも、婦人に加勢するつもりだ。
 白い人物の前に、厚い書物が開かれ、その指が、一行一行をなぞる。声には出されないが、婦人には、書いてあることが逐一、伝わっているようだ。段落を終えるごとに、婦人の姿勢が変わるので、それが知れた。白い人物が、やおら、顔を起こす。
 「間違いないか」と、白い人物が婦人に聞く。その高圧な態度に、教育者は怒りを覚えた。
 「はい。」とだけ、婦人は答える。そしてうつむいてしまい、その口から嗚咽が漏れるのを、教育者は聞いた。なんたる、痛々しい尋問だろう。教育者のみけんに、おのずとシワが寄る。こめかみに、細い血管が青筋を立てた。
 「ちょっと」と、思わず、教育者は言った。まだいたのかというふうに、白い人物が顔をあげ、教育者を睨む。関心は引いたと、教育者は思った。すかさず、教育者は言葉を続ける。
 「このご婦人は、生前、ずいぶん泣かされてきたのです。死んでなお、泣かされる必要がありますか。」相手が口を開く前に、まず論点をハッキリさせておかねばならない。教育者は、そこでわざと言葉を切り、相手から目をそらして見せた。眼鏡のつるをつまんで、位置をなおす。レンズがキラリと光る。
 しかし、白い人物は、何も言わないまま、分厚い書物へと視線を戻して、続く段落を、その指で追い始めた。婦人は顔をもたげて、両手を雲の上に突いたまま、ほかには聞こえない声に、聞き入っているらしい。
 教育者は、見るからにイライラした態度で、相変わらず腕を組んだまま、その様子を眺めている。こんな屈辱は、久しぶりだ。無名だった若い時分は、ずいぶんこういう目に遭ったが。しかし、世間に認められて以来、今日までなかったことだと、教育者は腹立たしく思った。
 「いえ、それは……」と、婦人は消え入るような、か細い声で言った。「それは……」と繰り返したが、上手く言えないようだ。
 この婦人も、十分な教育を受けられなかったのだなと、教育者は心の内で哀れんだ。なんたることか。教育者は、自分の努力が、まだ及んでいない人が、こうして目の前にいることを、深く悲しんだ。思わず膝を折って、教育者は、婦人と同じ目の高さに、自身の身を置く。
 「落ち着いてください。言葉を選ぶ必要はありません。ご自身の言葉でいいんです。言葉を重ねれば、あの人も理解してくれるでしょう。」教育者は、婦人に優しく話しかけて、白い人物の顔を仰いだ。
 「はい」と、婦人はようやくに言って、呼吸を整えながら、二言、三言話し始める。
 白い人物は、別に何も言わず、婦人の言葉に耳傾けている様子。相変わらず、教育者の存在を、忘れたような素振りでいるが。しかし、教育者にしてみれば、気にもならなかった。こんなこと、何度も経験したことだ。
 婦人のたどたどしい話を聞き終えて、白い人物は、ただ、「よろしい」と宣告した。教育者は、驚いて、一歩二歩、あとずさった。婦人の姿は、急に輝き始めて、音もなく、浮かびだす。
 「ありがとうございます。最後に、伝えたいことを、伝えることができました。」婦人は、教育者を振り返って、頬を涙で濡らしつつ、頭を下げた。その姿は、次第に形を失い、ついに光となって、大きな門へと入る。
 ああ、あのご婦人は、天国へ行ったのだなと、教育者は、にこやかに手を振りつつ、しみじみと思った。背後で、群集がざわめく。あの人はすごい。自分もぜひ、言葉添えを願いたいものだと、人々が口々に言うのを、教育者は満足して聞いた。
 しかし、群集の願いは、叶わなかった。教育者は、自分がいつしか、滑るように移動しているのに気がついた。いよいよ私かと、教育者は、背広の襟を正す。自分が引かれた先は、先の白い人物よりも、見たところ、ずっと若い人物のように思えた。なんだか、見たことのある顔だなという気がして、よくよく見れば、それは、かつて自分が教えたクラスの、落第生ではないか。
 「君は……」と、教育者は言って、その人物の名前を思い出そうと、指を額に添えた。しかし、思い出せない。この生徒が自分に関心がないのと同じく、自分もまた、この生徒に関心がなかったのを、教育者は、痛烈に思い出した。なんということか。若木の至りだと、教育者は唇を噛んだ。
 「すまない。君の名前を思い出せないんだ。あのころ、私はまだまだ若造に過ぎなかった。」教育者は、その若い人物に、頭を下げた。
 「僕も、あなたに興味ないです。」と、素っ気なく、若い人物は言って、先の婦人のものと変わらない厚さの書物を開いた。
 「それは、ありがとう。」とだけ、教育者は答えて、あとは黙って、ほかには聞こえない声の到達を待ったが。しかし、この人物は、普通に、みなに聞こえる声を出して、教育者との問答を始めた。
 「あなたは教育者ですね」と、若い人物が言う。
 教育者にしてみれば、これは答えるまでもない。皮肉かなとも思いながら、教育者は、微笑み返すだけで済ませたが。しかし、若い人物からの次の質問で、教育者は凍りついた。
 「あなたは、大勢の人たちから、訴えられています。」分厚い書物を指で追いながら、若い人物は淡々とそう言った。実際、そう言ってから、若い人物は黙ったまま、分厚い書物を三枚、四枚とめくった。
 「え……、なぜ?」とだけ、教育者は言うことができた。自分の人生を急いで振り返ってみても、そんな沢山の人たちから訴えられる理由は見つからない。現に、今さっき、ひとりの婦人を救ったじゃないか。
 「あなたは多くの子供たちから、学びの機会を奪ったのです。」と、若い人物は、罪状を淡々と述べた。教育者の顔が、にやけてくる。
 「ねぇ君、ちょっと、何を言われているのか、分からないが。」一体、この人物は、何を言っているのか。嫌がらせなのか。妬みからか。それなら、あるかもしれないと、教育者は真顔に戻った。仕返しというのなら、応戦せざるをえまい。なんてことだ。死んでまで、戦わねばならんとは。しかも相手は、落第生とはいえ、教え子だ。
 「あなたの教育の信条を、聞かせてください。」若い人物は、分厚い書物を閉じて、背筋を伸ばし、教育者と真っ直ぐに対面した。
 いいだろうと、教育者は思った。人生の集大成に、それを語る機会を設けてもらったというのならば、粋な計らいというものだ。教育者は、かつて教壇にあった時と同じに、両手を後ろに組んで、その場を逍遥しつつ、語り始めた。
 「子供の自主性を前提にすることは大事だが、ただ子供に任せてしまうのはよくない。経験ある者が、陰からサポートしなくては。課題の解決、コミュニケーション能力、洞察力、リテラシー。この四つの基本を軸にして、適当な機会に、子供の興味関心をそそるものを、与えてやらねばならん。安全な場所で、のびのびと育ちながら、将来を見据えた、子供ひとりびとりのための適切な課題を与えてやることで、この世界で生きる子供らが、みずからの未来を、希望のあるものにしていける。5Eとも言うが、有意な物事に関心を持たせ、探求させ、理由の説明を受け、みずから実践し、みずから評価する。それこそが、長い教育史を経て、ついに確立せられた、教育のスタンダードなのだよ。私の教育の信条も、その5Eにある。子供たちが、この世の必要とする産業や、社会の出来事にみずから関心を持ち、考案し、新たな常識を築き上げていくのを見るのが、私の人生の醍醐味だった。」
 若い人物は、何も言わずに、教育者が言うことを聞いた。それから、分厚い書物を開いて、おそらくは該当する箇所を指でなぞり、独り、うなずく。教育者を見て、「確かに、そう記されています。」と言った。
 それだけか?と、教育者は、やや、面食らった様子で、定まらない視線を、若い人物に投げかけた。若い人物は、教育者の視線など気にもせずに、次の質問を口にした。
 「あなたが言う、安全な場所、ここにはキャンパスと書かれていますが、それはどういう場所ですか。」若い人物は、また、分厚い書物を閉じて、教育者の語るのを待った。
 君にも教えたじゃないかと、言いかけて、この場の趣旨を思いなおし、教育者もまた、淡々と話すことにした。何十年かぶりの授業再開だな。
 「キャンパスとは、本来、野原というくらいの意味がある。子供たちが、あたかも野原で元気よく駆け回るみたいに、好きなことに、自由に興味を発揮して、そこから、学びの機会が拓けてくる。しかし実際には、野原で駆け回るわけにはいかない。野獣が狙っているし、先生にとって予測不可能な出来事が起こるからな。整えられた環境、教室などで、安全にそして自由に子供たちが活動して、十分に用意された教材によって、無駄を省いた実りある教育が与えられる時、子供たちの生きる能力は、飛躍的に伸びる。そうした子供たちが、将来の世界の指導的立場に立ち、すべての人々のための、新しい社会を創っていくんだ。」
 群集は、ざわめきをやめて、この問答に関心を寄せている。さすがに、群集を振り向いてはみなかったが、どうだ、と、教育者は思った。しかし、若い人物の反応は、教育者の思いのほか、薄いようだ。
 「確かに、そう書かれています。」若い人物は、さっきと同じことを言う。ちぇっと、教育者は思った。しかし、それでモチベーションを下げられることはない。多くの先生がたを悩ますシチュエーションを、この教育者もまた、幾度となく打開してきた。
 「ところで」と、若い人物はまた、分厚い書物を閉じて言った。「僕はそういう教育も受けず、そういう育てられかたもしてないですが。こうして、あなたばかりでなく、あなたが育てた人たちをも、裁く立場にいるのは、どういうわけですかね。」
 教育者は、笑って答えた。「それは君が、私より先に死んだからだよ。」
 「ごめんなさい、何言ってるのか分からない。」と、若い人物は面を伏せて、片手を振って見せた。
 「私が先に死んでいたら、私がそこに座っていたってこと。」と、教育者は、少しイライラした気分で、若い人物を指差した。若い人物は、ただ、従前のように、まっすぐに教育者を見たまま、ハッキリとこう告げた。
 「もしもあなたが、誰からも訴えられていなくても、私が死のうと死ぬまいと、ここに座ることは、けっして許されません。」
 なぜ?という顔で、教育者は、若い人物を睨んだ。
 「自然が、あなたにとっての敵だからです。」
 何を言われているか分からないというふうに、若い人物を睨んだままの教育者に、若い人物は、ためらっていたが、ふと、何かを聞いたように天を見上げると、教育者の視線を避けて、うつむいたまま、こう宣告した。
 「あなたが育てたのは、この地上の、生きものの子供ではなく、自然を拒絶するこの世が続いていくための、部品としての子供だからです。」
 教育者は、叫んだ。「動物の子供を人間の子供に育てるのが、教育の使命だ!お前は、それすら知らないのに、そこに座っているのか!」その開かれた口から炎が吹き出して、教育者は、真っ赤に燃えながら、墜落していった。若い人物の濡れた瞳に、その光跡が一筋、淡く輝いた。


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過去の記事を見てました

2024年01月07日 | 小金井充の

このブログを見返していて、

思いました。

つまるところ、

創成川の近所しか

歩いてないな、と。

三昧は言い過ぎ。

それでまた題名を

変えようかと思います。

 

 

 


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本やらTシャツやらお便りやら

2018年01月01日 | 小金井充の

小金井 充の本

プログの記事にするにはやや長いので、アマゾンのkindleを使った電子書籍にしました。

 

小金井 充のTシャツ

ユニクロがTシャツの通販サイトを立ち上げたので、久しぶりに作ってみようかと。

 

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