岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

獅子のたてがみの歌:馬場あき子の短歌

2010年01月10日 23時59分59秒 | 私が選んだ近現代の短歌
・しずめかねし瞋りを祀る斎庭あらばゆきて撫でんか獅子のたてがみ・

      瞋り=いかり・斎庭=ゆにわ

 「瞋り=怒り」「斎庭=神を祭るために浄めた場所」。

 「容易ならぬ怒りを祀る聖なる場所があるなら、行って獅子のたてがみを撫でたいものだ。」

 そんな場所はあるはずがない。だがあるならば、出かけて行って獅子のたてがみを撫でてみたいものだ。獅子のたてがみ?まさか狛犬じゃあ面白くないし、第一、怒りって作者の?神の?わからないなあ。

 こんなことを疑問にもつ人がいる。

「作者が容易ならざる怒りを感じていて、それを鎮めたい。それが出来る場所があるなら、獅子のたてがみでもなでるのだが。」

とも読めるし、

「ひたぶる神の怒りを鎮める方法があるなら、どんなことでもしようではないか。」

とも読める。

 また「神の怒り=不条理な世界への怒り」と読むこともできる。読めば読むほど想像が膨らむ。これが一首の魅力であり、意味なのだ。

 結局は「未知なるものへの憧れ、畏れ」を暗喩を用いて表現した作品と言えよう。(「憧れ」と「畏れ」とは、鏡の表裏の関係。)

 こう思うようになったのは、「かりん」が象徴派と呼ばれていること、「かりん」に所属する歌人から「言葉の意味に寄りかからない歌を」という葉書を頂いてからだった。

 これが写実派だったら、「わが怒り」とか「心しずめて」とか「祈りを捧ぐ」といった言葉で表現するだろう。そうしなければ「表現が曖昧だ。」といった言葉を浴びせられるだろう。

 短歌作品の表現には様々あるものだと、かえすがえす思う。



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