岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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短歌の表現での肉親の死を虚構をどう考えるか

2014年12月13日 23時59分59秒 | 私の短歌論
短歌の表現での肉親の死の虚構をどう考えるか (加藤治郎と大辻隆弘の論争を巡って)

 今、歌壇とネット上で、議論がされている。2014年12月号の『現代詩手帖』にも紹介され、詩人の間でも話題になっている。フェイスブックの友達である加藤治郎と大辻隆弘。二人の、タイムラインを、閲覧し、僕なりのコメントもしてきた。ここへきて、僕の意見も固まってきたので、意見をまとめておきたい。


 僕の知る限り、加藤と大辻の主張は以下の通りだ。

・加藤治郎

「肉親の死を虚構としないことは、歌壇の暗黙の了解事項として存在する。」

「前衛短歌を通り抜けた現代の歌人には、肉親の死をフィクションとして、短歌にする動機がない。」

「アララギの現実主義は『作品の主題、作品の文体、作者の生き方』が三位一体となっていることだ。」


・大辻隆弘

「肉親の死を虚構としないという、歌壇の暗黙の了解(タブー)はない。肉親の死は、疎かに出来ないものだが、それは作者の判断にゆだねられていて、誰かに強制されるものではない。」

「アララギの現実主義は、生き方などという甘っちょろいものが、はいる隙はなく、『主題、文体、生き方』を三位一体とするのは間違いだ。」

 「アララギは『生き方』を、歌壇制覇の『方便』として使ったのであり、その『方便』を、アララギの現実主義とするのは、アララギズムの俗説だ。」

 大まかに纏めるとこうなるかと思う。

 虚構の問題はもはや、議論するまでもなかろう。岡井隆の『現代短歌入門』を始め、現代短歌では、決着済みだ。
 
 問題は、「肉親の死の虚構」の問題だ。万葉集以来、短歌は一人称の文学だった。この詩形の伝統的な側面から言って、読者は短歌に詠みこまれた内容を、作者の体験として受け取る。これは短歌特有の、性格から来るもので、素直に考えれば、生きている人間の死を虚構とするのは問題がある。このことについて、加藤と大辻の見解には、それほど違いはない。

 ただこれを、歌壇の暗黙の了解とするかどうかで、見解が分かれる。加藤は「暗黙の了解=歌壇で一般的に認められた事柄」とするのに対し、大辻は、作者の判断に任される者であり、加藤の言い方は、短歌表現にタブーを作るものだとした。

 僕はどちらかと言うと、大辻の意見に近い。肉親の死の虚構は、表現次第では、短歌の表現領域を広げる。「歌壇の了解事項」と決めてしまっては、可能性を否定することになる。今度の問題の受賞作は、受賞目当てに、父の死を虚構としたので表現としては問題がある。これに関し、鵜飼康東が、大辻のタイムラインに、「作品の芸術性が低いから、スキャンダルになる。」と指摘しているが、けだし名言である。

 加藤はまた、「現代歌人には、その動機がない。」と言っているが、それは言い過ぎだろう。象徴詩の技法を使い、明らかに虚構と分かったかたちで、一つの美的世界を構築するのは可能だ。

 事実、僕はこの方法で、同居している母の死の虚構を詠みこんだ7首の連作を作った。正確には「母の死」という言葉を詠みこんだ作品だが、これは「現代歌人には、動機がない。」という加藤の言葉に応えたものだ。だがこういう具合に即時反応が出来るのは、「肉親の死の虚構を詠んだ作品が出来ない」とは断言できないと言うことだ。

 アララギの現実主義について。「三位一体説」は、明らかに違う。加藤の文体は軽くて、世俗的だ。だが加藤の生き方は、軽くて世俗的なものではあるまい。「三位一体説」を主張するということは、加藤が自分自身を、軽薄で世俗的な人間と言っているのに等しい。

 だが大辻の「生き方は甘っちょろい」、アララギは「方便」として使った。というのにも賛成できない。作歌と生き方は結び付いている。僕は表現方法と作品に、作者の生き方が、するどく投影するという意味で、生き方と作品は連動すると思っている。これはアララギにとどまらず、芸術一般に言えることだ。

 「方便」というのも言い過ぎだろう。アララギの現実主義は「万葉調」である。「万葉調」とは、万葉集の模倣ではなく、「雑巾を固く絞ったような切実感」だ。

 これは小学生に、短歌の単元を教えていて気が付いたのだが、小学生はこう言った。

・「雑巾を固く絞ったような感じがあるのは?」・・・志貴皇子、正岡子規、斎藤茂吉。

・「スマートに整った美しさが、あるのは?」・・・藤原敏行、与謝野晶子、北原白秋。

・「どちらでもない物は」・・・木下利玄、佐佐木信綱。

 この小学5年生は、短歌の抒情の質の相違を理解していた。子どもの感性はときに驚くほどの鋭さを見せる。

 
 この切実感を表現するには、精神の集中力が必要だ。『星座』の尾崎左永子が、「短歌を詠むときほど、おのれに真向かう時はない。」「短歌の原稿依頼があるときは、散文をはじめ他の仕事は出来ない。」としばしば述べているのに符合する。


 そのような意味で、アララギの現実主義が、生き方と密接に関係していると、僕は思う。その生き方は、決して「甘っちょろいもの」ではない。

これは「生き方」と言うよりも、「作歌に当たっての覚悟」と言ったほうが適切か。もちろん「生き方」と密接にリンクする。



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