岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

文体と素材:斎藤茂吉は文体、素材、内容も新しかった

2011年12月31日 23時59分59秒 | 私の短歌論
「素材と題材の違いを考えなさい」と言われたことがある。また「文体論で話をするな」と言われたこともある。それが実例を挙げてわかり易く言えるようになったので記事にしようと思う。なぜなら「文体」「素材」に新しさを求める歌壇に、或るあやうさを感じるからだ。「落とし穴」と言ってもいい。


1・文体:

 「サラダ記念日」20年周年のとき、「短歌研究」誌上で藤原龍一郎と穂村弘の対談が連続して行われた。藤原は「『サラダ記念日』は俗だ。俗は文学ではない」と主張し、穂村弘は「すっごく新しい文体で」と「文体論」しか展開しなかった。

 この対談は論争のような体をなしてきたが、どこか噛み合わなかった。何故なら、藤原が作品の内容つまり文学性を問うていたのに対し、穂村は内容でなく外観である文体の話しかしなかったからだ。

 文体のみで評論をすすめると、実はおかしなことになる。三枝昂之はやはり「短歌研究」誌上で、関川夏夫との対談で、「文体を見ていると、子規から啄木への流れが見えてくる」と述べた。文語と口語の混合文体の共通点を見ているのだが、混合文体は何も、子規と啄木だけではない。斎藤茂吉も佐藤佐太郎も文語だけでなく、口語や口語的発想の作品を残している。最も肝心なのは、表現の軸となる基本的考え方であり、文体という外観ではない。

 穂村弘は「星座10周年パーティ」で、尾崎左永子・馬場あき子の対談のコーディネーターを務めた。尾崎・馬場の二人が、戦後短歌の流れを懸命に話すのに対し、二人が「口語文体」を使っているのを話そうとして、二人に話しを遮られた。その場に居あわせた僕は、「文体論」でしか話のできない穂村の論の稀弱さを感じるとともに、その表面的な読み方に疑問をもった。

「あの場によく穂村さんは来ましたね。」とはパーティ参加者が後日語ったことである。

 また「角川短歌」誌上で、小島ゆかりと奥田亡羊は、「塚本邦雄からライトバース・ニューウェーヴへの流れ」を強調する。特に小島ゆかりは「文体」を中心に考えている。この表面的共通点でくくるのも説得力のないものだと率直にそう思った。

 ある雑誌の新人賞はすでに、「誰が一番珍奇なことをするか」の文体の競い合になって、目を覆わんばかりだ。


2・素材の新しさ:

 「角川短歌」誌上の「共同研究・前衛短歌は何だったのか」で、永田和宏は「家族という素材」を強調している。素材の新しさというのは確かにある。だがそれだけで作品が語れないのも、また事実である。

 佐藤佐太郎が珍しく「素材負け」した実例は「鱒(ます)の歌」をめぐって、既に記事にした。(「カテゴリー/佐藤佐太郎の短歌を読む」を参照。)

 素材の新しさを求めるのは、文体の新しさを求めるのと同じ結果を導き易い。評価基準のひとつではあるが、それで全体は語れない。短歌の新しさとは何かということを問いなおす必要があるのではないか。



 なお塚本邦雄が俵万智の作品の「素材と文体の新しさ」をなぜ評価したかについては、来年改めて記事する予定。(「カテゴリー/短歌史の考察/近現代の短歌滅亡論」も参照。)


 何度も引用するが、岡井隆は次のように言う。『作歌の基本十箇条を考える』

「一つは、歌の新しさとはなにかを知ることである。・・・古代から現代までに、どのような短歌(近世までは和歌とよばれた)が作られたか、を知らないことには、自分の歌の新しさを知ることができない。」(岡井隆著「短歌の世界」)




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