中学生の国語の単元に「辞書上の言葉の意味と、文脈上の言葉の意味」というものがある。この単元が難しいのは、皮肉にも「辞書に解答がのっていない」からである。かといって全ての人が納得する具体例をあげることも、これまた難しい。
昔こんなことがあった。ある「事件」の被害者の話を聞く集まりをひらくことになって、その資料作成の担当となったときのこと。配布資料のタイトルをめぐって議論になった。
僕の原案は「・・・事件・・・周年」だったのだが、ある人から「事件ではなく事故だろう」との意見があがったのだ。
その人が言うには、
「事件というのは< 起きたこと出来事 >という意味で、事故は< さしさわりのある出来事 >という意味。どの辞書にもそう書いてある。広辞苑もそうだ。」
家じゅうの国語辞典を調べてみた。「さし障りのある出来事、困った出来事」は全ての国語事典で「事故」となっていた。しかし、何か違和感が残ったので、辞書の上での言葉の意味を離れて、実際にどう使い分けられているかを考えた。
「警察が事件として立件した」「警察は事件性はないと判断し、事故として処理した」「あれは事故だったのだ」・・・。国語辞典の定義とは全く逆の使い方だ。それを伝えると、
「交通事故とはいうが、交通事件とは言わないだろう。」と相手は必死の反論。しかし、提示できた実例はこれだけ。
結局、被害者のかた本人が「あれは事故ではなく事件だったし、私たちも事件と呼んで来た。」という発言が決め手となった。
ところで、このブログのタイトルは「工房」。辞書をひけば「絵画彫刻などを製作するアトリエ」とある。文芸の創作は含まれていない。しかし、これは辞書の上での意味。ためしに調べてみたら、ある短歌結社の「選者の注目作」の批評欄に「工房」という名前が使われていた。「創作活動をする場」という広い意味で使っているか、もしくは暗喩だろう。
このブログのタイトルの「工房」は「場」という意味。ぼくにとっての「場」は、月に何回か出席する「歌会」であり、所属する「運河の会」「星座の会」の発行する雑誌であり、僕の家の書斎であり、僕自身の感性の働きの中にある。つまり暗喩。僕は、短歌を詩=文学と考えるから、こういった暗喩もふさわしかろうと思う。(ちなみに「場」の変革を唱えたのは岡井隆。これは余談。)
暗喩が読みとれなければ、前衛短歌も現代詩も理解できなかろうと思うのだが、これもまた余談か。