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岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

津波の教訓は古代史のなかにあった

2011年04月18日 23時59分59秒 | 歴史論・資料
「わが古代人は純にして撲、健にして剛、直にして真であった。」(「短歌初学門」)岩波文庫「斎藤茂吉歌論集」348ページ。

 これは歴史学の立場から言うと大いに異論のあるところだ。おまけに茂吉は西洋のルネッサンスと重ねて考えている。だがルネッサンスの古代回帰と万葉集の再評価では全く意味が違うと僕は思うのだが、茂吉は歴史学者ではなかったから責めるのは少し酷かと思う。

 しかし、古代人が或る意味純僕で「自然と共生」していたのは事実だろう。「」をつけたのは、「自然を征服する」と錯覚するほどまでの生産力をもたなかったからだが、それだけに自然の脅威から逃れる知恵は持っていたようだ。

 今回の津波が「想定をはるかに上まわっていた」と言われるが、それは現代人のものの見方であって、古代人は「想定」していた。平安時代初期の9世紀後半のことである。「貞観津波」。高さ20メートルに達したもので、江戸城の文書のなかの「三代実録」に記録されていて、地質学的にも証明されている。(20メートルと言えば福島原発をおそった津波よりはるかに高い。)

 貞観は平安初期の元号で859年から875年にあたる。今回の津波による浸水地域はこれにほぼ当てはまるそうだ。地質学者の研究成果で、津波の痕跡が地層の堆積物に見られるという。とするとその原因になった地震も同じくらいの規模だったか。

 古代の東北地方は、古くは「道奥国」のちに「陸奥国」と表記され、「みちのくのくに」「むつのくに」と呼ばれた。平安中期に至っても中央の支配がいきわたらず、「蝦夷」(えみし)の支配する地域だった。この「蝦夷」(えみし)は政治的文化的概念で、人種的概念の「蝦夷」(えぞ)=「アイヌ」とは違う。辺境の地にあって中央の支配に服さない人々を「蝦夷」(えみし)と言った。この蝦夷(えみし)の長には、安部氏、清原氏、奥州藤原氏がはいる。

 安部氏の支配地域は奥六郡と呼ばれる北上川沿いの盆地で、北から岩手郡・紫波郡・稗貫郡・和賀郡・胆沢郡・江差郡と呼ばれる。陸奥国の国府はこの南、多賀城に置かれた。中央の支配の北限は磐井郡で江差郡との境に北上川の支流・衣川が流れている。

 1051年(「この世をば・・・」と和歌を詠んだ藤原道長の息子たち藤原頼通・教頼の時代)の前九年の役で安部氏は滅び、清原氏がこれに替わった。清原氏の本拠は山北三郡(せんぽくさんぐん)で、現在の湯沢・横手・大曲に当たる。ここは現在の秋田県の内陸部である。これによって「蝦夷」(えみし)の単一支配地域は衣川以北の陸奥・出羽の両国に広がった。多賀城の国府は形骸化したが、この多賀城もやはり現在の多賀城市の市街地にではなく、標高50メートル以上の高台にある。

 1087年(古代末期の流行歌を集めた梁塵秘抄を編纂した後白河上皇の曾祖父の時代)の後三年の役では清原氏にとって替わり藤原氏が白河の関から、外が浜(現在の津軽)までを支配する。つまり生産活動の中心は内陸部の盆地だったのだ。北上川の様子は現在の仙台平野にはいると、

「氾濫して川というよりは湖沼中の水路のようになる」

という状態だった。大規模地震が起こると、太平洋側では地盤が約80センチメートルほど沈みその半分ほどは間もなく戻るが、残りの半分は何百年もかけて戻るという。

 17世紀に伊達政宗が仙台に城を築くまで、政治の中心が沿岸部に来なかったのは、そのせいかも知れない。(それまでの居城・岩出山城は標高50メートルの内陸部にある。)東北地方には巨人が身を横たえて津波から村民を守るという民話が残っている。太平洋側の牡鹿(おじか)半島の「三こ」と、日本海側の男鹿(おが)半島の「八郎」である。ともに斎藤隆介が現代風の「創作民話」にしているが、貞観津波の「伝承」をもとにしているのではないかと思う。

 その「記憶」と「伝承」は、沿岸部には住むなという民の知恵だったのかも知れない。その伝承は、江戸時代初期に忘れられた。それがすなわち仙台築城と東廻り航路による平野部の市街化と三陸沿岸の港町化である。

 東廻り航路の港町を南から順に言うと、荒浜(阿武隈川河口)・石巻・宮古・八戸・青森となる。ともに今回の津波の被災地。この港を拠点に沖合漁業が発展する。三陸沖産の魚は「三陸俵物」と言われ、江戸で高く売れたという。東北諸藩は年貢の一形態として、三陸沖産の魚を競って江戸へ送ったという。

 17世紀から18世紀は米の生産を中心とした「経済の高度成長期」にあたる。貞観津波の警戒感はうすれ、沈下した地盤も元に戻った。そこに農業・漁業・海運が発達し、沿岸部はますます市街化する。

 そして「貞観津波」から1100年。同規模の地震と津波が来襲した。まさにスパンの大きな「忘れた頃にやってきた天災」である。さきほど地質学者たちは次のように言っている。

「被災地の冠水部分を除いて、新しい市街地を作るべきだ。」

 これは復興というより街づくりの基本構想の大転換だから困難を極めると思うが、こういう事を通して人間が試されているような気がしてならない。


・みちのくの森の奥へと入る真昼チゴハヤブサの鋭(と)き声を聞く・「オリオンの剣」


参考文献:有斐閣新書「日本経済史」、高橋富雄著「奥州藤原氏」「藤原氏四代」、高橋崇著「蝦夷(えみし)の末裔」、竹内誠著「江戸と大阪・体系日本の歴史10」、斎藤隆介著「ベロ出しチョンマ」、北山茂夫著「万葉の時代」、直木孝次郎著「神話と歴史」。





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