岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

好きになれない言葉

2010年12月23日 23時59分59秒 | 日本語をめぐって
少年時代から凝り性で、何かに熱中するとそれに入れ込んでしまう性質だった。夢中でやるものだから、他人から見ると奇異にみえるのかも知れない。そこでいろいろな「特殊」な言葉がかけられることがあろ。相手は誉め言葉として使っているのだろうが、当の本人は心安んじてはいられない。

 例えば、

「君の真骨頂は、< 地を這うような活動 >だ。」と言う言葉。

何だか上から見下されているような気になる。「じゃあ彼方はどうなのか。高見の見物か?」と言いたくなる。腹が立つ。別のひとから「そんなに怒ってばかりいると、病気になるよ。」などと言われても、腹が立つ。(その通り病気になったが、後の祭り。)

 この件は、

「私には地面を這いつくばった記憶はありません。」それでおしまい。その人から、時々思い出したように連絡がくるが、沈黙するだけである。それほど僕は怒っているのだ。だが相手には通じないらしい。それはそれで可とするか。


 物事に熱中するから上達も早い。そんなとき、こんな年賀状をもらった。

「短期間によくここまで這いあがって来ましたね。」

はて、這いあがったという意識は全くないのだが。第一、何かをやって立身するとか有名になるなどとはこの35年一度も考えたことがない。だから次の年の年賀状には、

「私は何かに這いあがったことはありません。」と書いた。今度は相手から返事がなかった。「あれ、今度は相手が怒っちゃったかな。」と思っていた。

 先日その人と会う機会があったのだが、その席でこう言われた。

「岩田さんって、もっと怖い人かと思った。」????である。こわもてのひげ面には違いない。知人の子どもをあやして遊んでいたら、こどもはけらけら笑う。そこでその子の親から言われた。

「ほら、鬼瓦おじさんだよ。」鬼瓦はなかろうと言い返そうとしたら、相手はニヤニヤ笑っている。顔を見れば、怒ることもできない。

 そういえば、最初の二件は、手紙・葉書のうえでのものだった。

「目は口ほどにものを言い。」という諺があるが、顔もしかりである。ましてメールは。誰が書いても数種類の企画の文字に表示される。初めてメールを受信したときは、

「これからメールを送る。」と電話があった直後だった。だから安心したのだが、誰が打っても企画文字。慣れるまでにやや時間がかかった。やはり重要なことは、直接会って話すに限るようだ。



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