「(実相観入のありようは)個人にもより、集団にもより、国民にもより、時代にもよる。同じ個人でも生涯のうちに幾とほりもこの観入の傾向には変化があるものである。」(「短歌初学門」)・・・岩波文庫「斎藤茂吉歌論集」308ページ。
「正岡子規は、かつて< 明治29年の俳句界 >と云ふ文章を書いた。・・・その特色の一つは< 印象明瞭 >といふことである。」(「短歌に於ける写生の説」)・・・同書117ページ。
斎藤茂吉の写生論は「実相観入」の四文字であらわされるが、「実相」とは「客体・客観的存在」、「観入」は「実体の把握、ものごとの核心を捉える」という意味である。そこで「こと」よりも「もの」を詠むのを基本とする。
必然的に叙景歌が基本となる。その景、その捉え方は時代によって変化するから、それを実行するとなると、茂吉の時代の見方や、表現上の言葉も変わってくる。情景が鮮明なもの。この視点から「運河」332号の「作品批評」を書いた。
・( 金沢港:蟹漁解禁の歌 )
蟹漁が解禁となった。冬の到来である。船が次々と戻って来た。さそかし大漁であったろう。船の音、にぎやかな声までが聞こえるようだ。金沢港という固有名詞によって鈍色の日本海の色、灰色の空の色まで連想が広がる。活気溢れる冬の湊の情景である。
・( 戦艦大和沈没の歌 )
大和は戦艦大和であろう。先の大戦で沈没したが、三千余人が死に、生存者は一割に満たない。結句が字余りだが、この具体的人数が一首をリアルにした。思い歴史である。
・( 眠れぬ夜の歌 )
心晴れやかに眠れれば幸せだが、そうはいかない時もある。眠れぬ夜もある。夜明けまで二時間さあ眠ろう。実際には眠れなかったかも知れぬが、それは一首に入れる必要はない。三句目と四句目の句またがりと四句目の字余りも心の屈折をあらわしていて切実な一首となった。
・( 倒産マンションの歌 )
不動産デフレの世である。建設途中の倒産もあると聞く。おそらく無住のマンションだろう。指先の無き手袋が象徴的であり暗示的である。優れた社会詠は抒情性に満ち、象徴性も高い。
・( 葉を落としたユリの木の瘤の歌 )
冬の到来である。葉が繁っていた頃は目立たなかった瘤もあらわとなった。そこに朝日が差す。瘤に日が当たる。寂莫たる冬の景が顕ちあがる。情景の情は「こころ」の意。情景をしっかり詠めれば、立派な抒情詩と言える。
・( 放置田に雑草を刈る歌 )
減反政策による休耕田であっても草刈はする。その刈った草の香がする。本来なら稲穂であるはずなのに。それでも草は生い繁り伸びていく。結句によって一首が立ち上がったと言える。
・( 年末の魚市場の歌 )
年の瀬の市場は賑やかだ。御節料理の食材を買う人、仕入れる人。そろそろ今年も終わると思えば声に力もはいる。その声が「早朝に澄む」という。活気溢れる情景だ。
