「詩人でそして思想家である方がなほ好い。」(「童馬漫語・130」)岩波文庫「斎藤茂吉歌論集」72ページ。
斎藤茂吉の言葉だが、以前、別の記事に書いたように、「思想のない人間はいない」。僕の場合、大学で歴史学を学んだので、思想は歴史観としてあらわれる。
ところで「歴史に if はない」とよく言われる。これは一面において真実であり、一面において誤りである。
過去の歴史的事実は動かせない。そこにいたずらに空想を持ち込むのはナンセンスだ。その意味で「 if はない」。
しかし歴史は、ある運命に従って決まったコースを歩むのではない。さまざまな可能性のうち、その時代の人間が選んだり、一つの事件が別の事件の行方を左右しもする。
これは一般に「歴史の可能性」と言われ、遠山茂樹ほか著「昭和史」をめぐる「昭和史論争」以降、目が向けられるようになった。この論争は、遠山茂樹・今井清一らの歴史学者と亀井勝一郎らの文学者の間でたたかわされたもので、その結果岩波新書「昭和史」は全面的に書きなおされ、「昭和史・新版」として刊行された。この論争の中心点は「歴史もの」を読んで面白いかどうかではない。「ノンフィクション文学」と「歴史学者の著作」との違いを超えて、「歴史過程における個人や人間の役割をどう考えるか」という有意義な論争であった。それを面白いかどうかという問題に矮小化するのは、論争の意義を理解していないと言って過言ではない。
ところでその「歴史の可能性」を15年戦争(満州事変から太平洋戦争まで)の時期で考えると、戦争をやめる機会が何回かあったと考えられる。
長くは書けないので列挙しよう。
・1932年:満州国建国の前後。
・1936年:2・26事件の直後。
・1937年:日中戦争の前後。
・1941年:日米開戦の直前。
・1945年3月:東京大空襲の直後。4月:沖縄戦直後。8月:広島への原爆投下直後。
日本軍は「皇軍」と言われたように「天皇の軍隊」だった。満州事変が「事変」と呼ばれ、日中戦争が「戦争」と呼ばれる根拠のひとつは、満州事変には「奉勅命令」がなく、日中戦争には「奉勅命令」があったことだ。2・26事件は「勅命」によって、クーデター軍は反乱軍として鎮圧され、日米開戦は「奉勅命令」と「宣戦布告」があった。つまり、「奉勅命令」「勅令」という「天皇の命令」がなければ、軍は行動を起こせなかったのだ。
戦闘中止の「勅令」さえあれば、戦争終結の機会はあったのだ。逆に言えば、「勅令」なしに戦争を終結する方法はなかった。特に2・26事件以降は内閣は無力で、軍部の発言権が大きかった。その軍隊の統率者が天皇だったのだ。
上記の事件は戦争終結のきっかけたりえたもので、「勅令」を出すことが可能な時期だった。(ABCD包囲網< A=アメリカ・B=イギリス・C=中国・D=オランダ >の経済封鎖のためやむをえなかったというのは理由にならない。この経済封鎖は日米開戦の直前で、それ以前に戦争回避の可能性はあったのだ。そもそもこの包囲網が日本の国際的孤立を意味している。それも日本が呼び込んだ孤立であり、イギリス・アメリカのあと押しもしくは黙認のもとで、日清・日露・第1次大戦を戦ってきた日本が独力で戦争をすること自体無謀だったのだ。)おまけに日米開戦は、アメリカとの本の国力の桁はずれの差を無視した「国策の誤り」だった。
「勅令」の力は、軍部の思惑に反して、2・26事件の「決起部隊」が一夜にして「反乱軍」となるほど強力だった。
15年戦争(アジア太平洋戦争とも言うが)の結果、日本は焦土と化した。「戦争終結」の「勅令」が早ければ早いほど、犠牲者は少なかったことは明らかで、戦争の「泥沼化」もなかっただろうし、避けえた戦争もあっただろう。
こういうと必ずこういう声が聞こえてくる。
「始めたからは容易に終わらせられないのが戦争だ。死んだ兵士らは犬死だというのか。」
僕はこう思う。容易に終わらせられない戦争を必要とあれば終わらせる勇気を持つのが国家の指導者の役割である。そしてこういうことを繰り返さないことを戦死した兵士らも望んでいるだろう。そのためには、過去に何が起こったか、日本人がどういう選択をしてきたか、ということから目をそらさないことが必要なのだろう。そこに未来への希望がある。
*付記:参考文献:永原慶二著「歴史学序説」、大江志乃夫著「天皇の軍隊」、江口圭一著「15年戦争の開幕」、木坂順一郎著「太平洋戦争」、藤原彰著「日中全面戦争」「太平洋戦争史論」、藤原彰・吉田裕ほか著「天皇の昭和史」、遠山茂樹ほか著「昭和史・新版」。