一年を俯瞰すると「短歌」誌は、「新しい短歌」の方向性を模索していることが分かる。
4月号。佐佐木幸綱による、「平成25年の短歌史」が掲載された。内容は、
・大正世代の他界(上田三四二、大西民子、武川忠一)
・生活の中での些事、私事の深化(身近な発見を詠う)
・文語・口語の併用の広がり(口語の多様から始まった新人が文語を取り入れる)
・中堅女性の熟成(水原紫苑、栗木京子、永井陽子、俵万智)
・二大震災の経験(阪神淡路、東日本)
・前衛短歌の見直し(「短歌」誌上の特集)
短歌史を踏まえた上での「新しい短歌」が模索されている。4月号の佐佐木の指摘に沿う様な形で、特集が組まれた。
1月号:「新しい短歌とは何か」
2月号:「東日本大震災から二年、いま、歌人が思うこと」
5月号:「北原白秋『桐の花』Х斎藤茂吉『赤光』」
6月号:「文語に親しむ」
9月号:「歌壇の歴史と現在」(島田修三、大野道夫、岩内敏行、大井学)
10月号:「佐藤佐太郎 純粋短歌60年」
12月号:「歌壇史をひもとく」(岡野弘彦、篠弘)
また1月号から連載されている、岡井隆の「詩の点滅 現代詩としての短歌」も記憶にとどめて置くべきことだろう。
「短歌」は2014年に創刊60年を迎える。「短歌」2014年1月号には「『短歌』60年を読む」という特集があり、創刊号の重要論文が付録にある。共に戦後短歌史に残る論文だ。
岡井隆は「新しい短歌」とは何かを常に考えよ」という。現代の短歌界が抱えている課題をこれからも追及していくようだ。その意味で、目が離せない。
(だが気になったことが一つある。記事の執筆者、座談会の出席者の多くが、短歌を表現内容ではなく、文体論、テクニックで論じていることだ。これでは内容のない、奇異な文体、奇を衒うことにもなりかねない。奇を衒う「言葉遊び」となれば短歌は滅ぶ。)