岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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『坂の上の雲』・日露戦争の勝敗:斎藤茂吉、土屋文明はどう聞いたか

2011年12月10日 23時59分59秒 | 歴史論・資料
以前の記事にも書いたが、斎藤茂吉の二人の兄は日露戦争に従軍している。「赤光」のなかにも、それを詠んだ歌がある。日中戦争から太平洋戦争にかけての「愛国歌(戦意高揚歌)」とは違い、「出征した兄を案ずる歌」である。僕はこれを斎藤茂吉の「君死にたまふこと勿れ」と勝手に呼んでいる。このあたりの年譜は、岡井隆著「茂吉の短歌を読む」の表が便利だ。

 ところで日露戦争の勝敗はどうだったのか。これをどう見るかが、日米開戦をどう見るかに関係してくる。なぜなら日米開戦の時の日本軍にも国民の間に「帝国陸海軍の不敗神話」があったからだ。「日清・日露の戦役以降日本軍は連戦連勝」という「不敗神話」が、冷静な戦力分析、外交交渉への執着を妨げたからだ。また外交官や政治家より軍人の発言力が大きかった原因の一つを作ったのもこの「不敗神話」だった。

 日露戦争の性格については、「歴史に関するコラム/坂の上の雲の色は」に書いたのでここでは、勝敗に絞ってまとめる。

 日露戦争には、決戦場が3つあった。

 一つ目は、旅順港をめぐる攻防と203高地。二つ目は、奉天会戦。最後に日本海海戦である。

 結論から言うと、このうち二つの決戦に日本は勝利し、一つには勝てなかった。

 旅順港攻防では港湾封鎖にはかろうじて大型艦船の航行を困難にするのに成功したが、旅順港は落ちない。ロシア艦隊は港の奥に潜んでいる。バルチック艦隊が東欧から喜望峰まわりで到着するのを待っているのだ。到着後にバルチック艦隊とはさみうちにしようという作戦だ。そこで日本陸軍は、旅順港を見下ろす203高地のロシア側の要塞を落とし、そこからの砲撃と、艦砲射撃で旅順港の艦隊のせん滅を考えた。203高地の攻略は乃木希典が司令官だった。無謀な突撃を繰り返し多数の戦死者が出た。与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」はこのときのものである。司令官が児玉源太郎に替えられ、203高地は落ち、作戦通り旅順港のロシア艦隊をめぐる攻防は日本の勝利に終わった。115日を費やし参加人員累計約13万人、うち死傷者じつに59000名に達した。こうした惨状は内地へも伝えられた。

 奉天会戦。その前哨戦の遼陽会戦ではロシア軍22万以上に対し日本軍13万4500名。一進一退だったが、後方を断たれるのを恐れたロシア軍は撤退。だが日本軍は弾薬の不足などがあり追撃出来なかった。奉天会戦はロシア最強と言われたコサック兵などロシア軍32万に対し日本軍25万。10日間の激闘のすえ、日本軍の死傷者7万人、ロシア軍約9万人・捕虜2万余名。ロシア軍は打撃をこうむったが、日本は敵主力を殲滅するという目的は達せられなかった。満州軍司令官大山巌、満州軍総参謀長児玉源太郎ほか、大本営の山県有朋参謀総長は、ロシアの降伏ではなく、講和を前提とした交渉へと戦略を全面的に転換する必要に迫られた。

 日本海海戦は、遠く極東にまでやってきたロシアのバルチック艦隊(総勢50隻)に休ませずに、東郷平八郎率いる連合艦隊は敵艦隊の主力をほとんど壊滅させた。日本軍の勝利の原因は艦隊行動や砲撃の正確さ、開発したばかりの火薬の破壊力の大きさなどが挙げられる。この勝利が講和へ大きく接近させる条件となった。

 旅順陥落と日本海海戦の勝利で日本国内は湧きかえった。だがロシアにはまだ余力があった。事実、陸軍は壊滅的打撃をこうむってはいなかった。そして10年後の第1次大戦には「三国協商」の一員として参戦している。

 そのロシアの足を止めたのは、ロシア国内の事情、第1次ロシア革命(血の日曜日事件)があったからである。神父を先頭に総勢20万の民衆が皇帝への請願を行った。それはデモ行進というより、宗教儀式だった。聖像と皇帝の画像などをかかげて賛美歌を歌いながら人々は行進した。ところが皇帝(内相のミルスキー)は、歩兵の一斉射撃をもって応えた。(1905年1月9日)1000人が傷つき、200人が死んだ。国内の各派の活動が活発化し、ペテルブルグには人民戦線ができ、学生・農民・労働者の運動が激化した。革命各派(自由主義者・メンシェビキ・ボルシェビキ)の活動も活発化した。その時点での戦争続行は困難だった。

 一方の日本も国力の疲弊が激しかった。戦費は底をつき、「勝利の日まで」と辛抱していた国民も限界に達していた。

 そこでアメリカが仲介にはいって「ポーツマス条約」の締結に至るのである。日本国民は勝ったつもり、ロシア政府は余力を感じながらの止む無い措置。

 アメリカにすれば、ロシアの革命の進展・日本の国力の摩耗と国家財政の破綻、この二つは、避けるべきことだった。そこで仲介にはいったのだ。アメリカの国益から見て仲介が得策と考えたからだった。

 条約により、日本はサハリンの南半分・沿海州の漁業権・南満州鉄道の敷設権を得たが、賠償金はとれなかった。ロシアには「負けていない」という認識が強かった。だから、サハリンの南半分の割譲は不本意だった。後年スターリンが「北方四島」の問題を、「日露戦争に対する報復」といったのはこのためである。だから日露戦争の帰結は、現代の日露の領土問題の遠因ともなった。

(こういった事がどこまでどうドラマ化されたか注目点のひとつだ。)

 このように日露戦争は「日本の勝利」におわったのではなかった。その上そもそもこの戦争は、イギリス・アメリカの了解のもとに始まったものだ。日本が独力で戦ったものではない。戦費もおもにロンドンで発行された、国債により調達された。

 ところが日本軍のなかでは、「自力で行った戦争」「日本が大国ロシアを破った戦争」として伝えられた。そこで次の「神話」が生まれた。

「日本軍は日清日露の戦役いこう連戦連勝。寡兵よく大軍を制すとういのが皇軍の伝統だ。」

 実際は青息吐息だったのだが、それを知る指揮官は1941年の日米開戦の時にはいなかった。「不敗神話」の誕生を、斎藤茂吉や土屋文明はどう見たのだろうか。今の僕は判断材料を持っていない。

 それにしても思うのは「原発の安全神話」や「津波は来ない神話」。神話は人間の作るもので、時に人間の平穏な生活や安全を脅かす。日露戦争の勝敗をどうみるかは、それを現代のわれわれに語っている。


付記:参考文献・宇野俊一著「日清日露」、大江志乃夫著「日本の参謀本部」、大江志乃夫編「日本史を学ぶ・4」、松田道雄著「ロシアの革命」、歴史学研究会「日本史年表」。




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