岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

斎藤茂吉の言葉を手掛かりに:短歌表現の多様性ということ

2012年01月22日 23時59分59秒 | 茂吉:佐太郎総論
先ず斎藤茂吉の歌論から抜粋してみる。

「流行を追ふといふ事が自らの感じに忠実でないのは言ふ迄もないけれども、また反対に他は尽く顧みないで、何だ異趣味か、などと頭から概念的な趣味で片付けてしまふのもあぶないに極まっている。予は予の周囲の先輩諸同人から『異趣味』の名称はもらっても、願わくは予の直接の感に忠実であり専念でありたいのである。」(「童馬漫語」)

「作歌の道に就いて、歌つくりの覚悟について僕のいふべきことは以上に尽きた。おもふに、『あが仏たふたし』の説である。僕のはそれをも越えて、『あれ尊し』になってゐる。歌つくりの覚悟はそれでいい。」

「流派の旗幟は鮮明なほど面白い。・・・ただ無意味に流派を笠に著るのは下等であるが、さういふ弱者は勘定に入れずともいいであろう。」(「短歌一家言」)

「自分はいよいよとなれば自分の歩む道よりほかにはない。けれども何もほかの人まで自分の後へを歩んで来ることを強いようとは思はぬからである。」(「気運と多力者と」)

「伊藤左千夫先生は、『堀内は写実派、斎藤は理想派』などといって、私のさういふ臭味をも全くは否定されなかった。これは忝いことで、さういふ師匠の励ましがなかったら、私は遠のむかしに作歌を廃していただろう。」(「『斎藤茂吉集』巻末の記」

「現代の健康無類の歌人は、何物をも畏怖することなく、何物をも回避することなくこれを摂取せよ。巨大豪壮なるレツエプトールたれ。」(「小歌論」)

 抜粋がながながとなったが、茂吉の思考は柔軟だったことが見てとれる。第一、茂吉本人が「アララギ」の「異端」だったのだ。

 だから全ての歌人が「写生・写実」を旨とせよ、とか「写生」以外は短歌ではない、などとは言わなかった。「あが(=わが)仏尊し」とはそういう意味で、自分の覚悟を述べているのである。

 ただし「旗幟は鮮明にせよ」という。一派を構えるからは、芯が一本通っていなければならないということだ。何でもありではない。

 そのかわり、身の回りのあらゆるものから摂取せよとも言う。不断に「新」を積めということだろう。

 短歌表現にはさまざまな姿がある。写実・写生、浪漫、リアリズム、象徴派。モダニズム短歌、プロレタリア短歌などもある。そのなかでどういう傾向が大勢を占めるかは、その時々の事情による。色々あるから面白いし、さまざまな潮流が入れ替わり立ち代り、注目を集める。

 そういう多様性があらばこそ、短歌の伝統もまた引き継がれていくのだろう。

 そのさまざまな表現方法のよる近現代短歌の秀作をできる限り書き出した。その時、尾崎左永子・佐藤佐太郎・斎藤茂吉の作品が心に響いた。それで「運河」、ついで「星座」「星座α」を自らの意思で選んだのである。

 どこにいけば有名になれるだろうかとか、どこが居心地がいいかなど考えもしなかった。そういう意味で、よい選択だったと思う。

 岡井隆は「斎藤茂吉と塚本邦雄を杖として作歌する」(「歌を創るこころ」)と言っているが、それも「学べるものからは何でも学ぶ」という「短歌の多様性」を積極的に是認することではないだろうか。






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