あんなこと。こんなことがありました。

NTT労組退職者の会神奈川県支部協議会の活動状況をご報告致します。

情報労連2015沖縄ピースすてーじに参加しました(戦跡めぐり)

2015年06月29日 | Weblog

 嘉手納基地周回行動も予定通り12時には昼食休憩地(八重島公園)に到着、昼食休憩になりました。私たち退職者の会メンバー9人(大阪地区協の退職者の会メンバー2名が合流)は午後体調を考慮し別行動をとりました。

沖縄戦とは1945年3月下旬から8月までの戦いをいう。3月23日、米艦隊」が沖縄本島の南海上に出現、激しい空爆を開始、翌日から徹底的な砲爆撃をあびせた。特に座間味・慶留間・渡嘉敷の島々では住民の集団自決が発生、孤島の戦闘の惨劇がはやくもあらわれた。4月1日以降沖縄本島南部を攻撃した。この間、守備軍の主力は宜野湾~浦添の丘陵地帯に地下深く陣地を構えて息を潜めていた。守備軍は首里城に司令部を置き、主力部隊を首里周辺に配置していたが、2カ月の激戦の末、守備軍の主力部隊は壊滅状態となり、5月末、首里城は陥落した。だが、残存部隊はなお島の南端まで退いて抵抗したが、6月初旬、東西7Kmの喜屋武半島には約3万の残存兵と避難住民が袋のネズミになっていた。6月18日に米軍のバクナー中将が牛島司令官に降伏告状を送ったが、牛島司令官はこれを拒否した。しかし、司令官は第10方面軍宛に決別電報を打電、19日には「各部隊は各地における生存者の中の上級者を指揮し最後まで敢闘し、悠々の大儀に生くべし(天皇のために死ね)」という軍命令を下し自決した。日本側の戦没者18万8136人、県外出身日本兵戦没者6万5908人、沖縄県出身軍人軍属2万8228人、戦闘協力者住民5万5246人一般住民3万8754人、米軍の戦没者1万2520人であった。

旧海軍司令部壕 戦争中の昭和19年(1944年)に日本海軍設営隊によって掘られた施設で、かまぼこ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと杭木で固められた地下陣地には4000人の兵士が収容された。

資料展示館

壕内部

壕内部医療室

 

嘉数高地の戦闘(嘉数高台公園) 日本軍は、嘉数高地に防衛拠点のひとつとして、強固な洞窟~トンネル~トーチか陣地を構築していた。4月8日からこの嘉数・西原で待ち構えていた日本軍の激しい抵抗にあい、以後16日間も一進一帯の攻防戦を展開した。

 

生死を分けたガマ(壕)

糸数壕(アブチラガマ) もともと糸数集落の避難指定壕だったものが、日本軍の陣地壕や倉庫として使用され、米軍上陸には南風原陸軍病院の分室となった。軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、全長270m壕は600人以上の負傷兵で埋め尽くされた。全長270mもある糸数壕には小川も流れており、軍は壕の中間辺りに井戸を掘り大かまど6個も作り、長期戦に備えた。しかし、部隊は米軍上陸を予期し、部隊は中部戦線に移動。放置された地下陣地は付近の住民の避難壕としてりようされた。糸数壕は軍の食糧、軍靴などの大倉庫ともなっており、数名の兵士がその管理にあたった。4月24日には、糸数壕は南風原の陸軍病院・糸数分室としても利用されることになり、軍医・ひめゆり学徒とともに重症患者が多数担ぎ込まれてきた。壕内には集落内の製糖工場を分解してきて2階建ての病室などが作ってあった。負傷兵の数は増していき、1000名近い患者たちで地獄のようなありさまだった。

5月25日ごろ、米軍が南下。病院は解散。重症患者などは青酸カリで処置。病院が撤退したあとは、糸数の住民役200人と生き残った負傷兵、日本兵がガマで雑居。

6月1日前後 米軍の馬乗り攻撃(注 地下陣地や壕の上を乗っ取り、洞口から爆雷を投入したり、洞口に向けて火炎放射するなどの攻撃戦法)にあう。年寄り、子供に多数の死者が出た。糸数壕内では、米軍が洞窟内まで進出してきたら200名近い軍民は全員自爆する予定で爆雷を準備していた。

8月22日 生き残った住民200人と負傷兵は、米軍の投降勧告に従って壕を出た。

私たちは、この壕を見学し無言のまま壕を出て来ました。あまりにも無残で残酷な仕打ちを、旧日本軍が行った行為に腹立ちさを覚えやりきれない気持ちとなりました。(このような壕のため亡くなった御霊に対しカメラを向けることができませんでした。壕内が撮影禁止となってますが・・・)

ひめゆりの塔

第三外科壕跡

沖縄県立師範学校女子部と沖縄第一高等女学校の生徒たちによって編成された看護部隊「ひめゆり学徒隊」。彼女たちは軍とともに最後まで行動し、献身的に看護活動にあたった。激戦のなかで、多くの生徒が砲弾に倒れ、あるいは自決を余儀なくされた。終戦後まもなくの1946年4月に第三外科壕跡に良好の戦没者が祀られた。

平和祈念公園

沖縄復帰記念事業の一環で、沖縄戦跡国定公園の中心として整備された。敷地内には沖縄平和祈念堂、沖縄県平和祈念資料館や平和に礎、慰霊碑などを有する緑豊かな祈りの場。

毎年、6月23日、沖縄「慰霊の日」と定めて慰霊祭が催されている。

魔文仁丘

沖縄戦跡国定公園の中の魔文仁丘周辺は平和祈念公園として整備されている。その中心を成すのが魔文仁以下である。ここは沖縄守備軍が最後に軍司令部を置いたところで牛島満司令官と長勇参謀長が自決した所。いわば帝国陸軍の最期を象徴するような戦跡である。

平和の礎(へいわのいしじ)

平和の礎には、沖縄戦で犠牲となった沖縄県民、国内外すべての人々の氏名が刻まれている。

平和の礎の植栽

沖縄の方言では「クファディーサー」と呼ばれているモモタマナ。最近では街路樹とした植栽されているが、昔はお墓のみに植えられていた。「ハガキー」とも呼ばれている。ここには各都道府県の慰霊塔・碑が建立されている。

逓魂の塔(慰霊祭)

沖縄戦で犠牲となった逓信職員428柱を祀る逓魂之碑。

慰霊祭は参加者全員で、恒久平和を実現するため黙祷を捧げた後、主催者を代表して、春木中央本部書記長より「平和は誰かが創ってくれるものではありません。一人ほとりがその気にならないと絶対に訪れません。今日参加されたみなさま方は本当にその思いを持ち続けて頂くこと。そして行動に移していくことをこの『逓魂之塔』に捧げていただきたい」との挨拶があった。引きつづき代表者による焼香と献花を行い、各組織代表より献鶴台へ千羽鶴。(退職者の会では久保川さんと星さん(宮城協議会)が献鶴した。)

退職者の会参加者全員で記念撮影を行いました。

戦跡めぐりは体力的にも疲れましたが、精神的なプレッシャー大きかったです。

 


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