goo blog サービス終了のお知らせ 

時代のウェブログ

イマを見つめて
提言します

坂東真砂子「子猫殺し」へ。その4

2006年09月20日 01時02分02秒 | 生活・娯楽
ソース・資料はこちら→

連日のように報道される凄惨な殺人事件。その度に聞くコメントが「ひとの生命が軽くなった」という内容。確かに、それは実感する。ひとに限らず、全ての生命が軽くなってきたように思える。
その1で猫を飼っている話を書いたが、実はこれが原因で色々と苦労している(笑)。どうも現代は動物にとって住み良い社会とは言えないようだ。
筆者が幼少の頃は、多くの家で猫が飼われていた。理由は「鼠取り」のため。多くの家に鼠がいた。故に猫は実用動物だった。飯を食わせて養ってもらうに見合う役目を果たしていた。だから猫は堂々と生きていられた。
最近では、猫を「害獣」と位置付ける人間もいる。鼠を取る「益獣」という立場は、とうに失われてしまっている。「汚す」、「荒らす」、「汚い」から「害獣」なのだろう。

少年によるホームレス殺害事件なんかが起きる。今のところ、ブログなどでは犯人擁護論を書いてる人間は(見る限りは)ない。しかし、匿名掲示板では「別に殺されたって良くね? 社会に役立たないし、生きてる価値ないし」なんていう意見を目にする。それも多数……。彼らにとっては、さしずめ「害人」なのか。

「お前は他の生命を奪っていないのか?」と問われれば、「奪ってる」としか答えられない。蠅やゴキブリが出れば殺虫スプレーを掛けるし、夏は蚊取り器を使う。肉も食うから間接的に家畜の生も奪っている。内心で謝罪している――とか、食に感謝している――なんていうのは、免罪符にならないと心得ている。すでに万単位の生を奪って、筆者は今日を生きている。多分、それは罪かもしれない。

ただし、どんな小さな生命でも奪う時には一瞬の躊躇を覚える。また奪ったあとには小さな後悔も感じる。そういう感情は、本来「生」を全うする者のDNAにプログラムされているように感じる。
動物の生と人間の生を同列に論じる事が、飛躍しすぎている事は充分に承知している。しかし、今日の生命の軽さは、どこかで共通している部分が感じられてならないのだ。



【お知らせ】
一身上の都合で、当分ブログを書けません。決して辞める訳ではありません。落ち着いたら、また再開したいと思います。どうかご了承ください。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする