「ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた。」ルツ2:3
モアブ人のルツは夫を失いましたが、姑ナオミについてベツレヘムに戻ってきました。落ち穂をひろいながら「はからずも」舅エリメレクの縁者の畑に導かれました。この背後に神様のご計画があったのです。思いがけない、予期しないことに狼狽して不安になり思い煩いますが、そのときこそ神様の隠されたわざが進行しているのです。ルツはキリストの系図に名を残すことになります。(KE)
「しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、『神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う』とある。」ヤコブ4:6
神様は私たちを愛するゆえに恵み、祝福したいと願っておられます。ところが、それを受ける側の準備がないのです。恵みの法則はみ言葉のように「へりくだる者」に与えられます。神様からの恵みと祝福がなければ生きることが出来ません。恥も外聞も、名誉も誇りもかなぐり捨てて、なりふりかまわず、へりくだって求めましょう。(KE)
「あなたは人をちりに帰らせて言われます、『人の子よ、帰れ』と。」詩篇90:3
例外なくすべての人は死を迎えます。これほど確かなことはありません。しかし、それがいつであるか分らないのです。健康だから、若いから、死なないとは言えません。それを決めるのは神様だけです。人は病気や怪我や事故で死ぬのではなく、神様が召されるからです。そのときまで、どんなことがあっても生きる責任があります。また、生かされている使命を果たさなければなりません。だから日々、命を大切にして。(KE)
「あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」第一コリント10:13c
私たちのことを一番良く知っているのは神様です。短所も長所も、裏も表も、なにもかも知り尽くして、試練によって新しく造り替えてくださるのです。試練は道具のようなものですから、本体が壊れては目的を果たせません。必ず、逃れる道も備えておられます。神様の深い愛によるお取り扱いを信じましょう。(KE)
「キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」ローマ8:34b
イエス様は神様と私たちの仲立ちとなって執り成してくださっています。私たちは弱くて、罪多い者ですから、いつ神様の怒りを受けるか分りません。しかしイエス様は常に私たちの側にたつ弁護人です。これほど心強い味方はいません。しかも、主は私たちを決して見捨てず、また父なる神様はイエス様のとりなしを拒むことはありませんから、遠慮なく、神様に心を打ち明けましょう。(KE)
「主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。」詩篇104:24
神様のなさるわざは人の知恵や知識では到底知りえません。特別な事象だけではなく、私たちの日々の生活諸般にわたる一切のことです。人は自分が考え、計画して事がなっているように錯覚しますが、私たちを含めて地は神様の造られたものばかりです。たとえ自分の願いと違っても、主のみわざであると信じ続けましょう。(KE)
「イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』。」ルカ23:43
イエス様が十字架にかけられたとき、両脇に犯罪人も一緒でした。その一人は主をののしり、他の一人は主の前に謙りました。罪を悔いて謙遜になった犯罪人にイエス様が語ったのがこの言葉です。どのような境遇におかれても、主の御前に謙遜になり、憐みを求めるなら、そこがパラダイスです。たとえ十字架にかけられながらも、主と共にあることがどんなものにも勝った恵みです。(KE)
「その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。」マルコ5:33
十二年間病苦に悩まされた女の人がイエス様の衣に触ったとき全く癒されました。彼女は密かに喜び隠れていましたが、身に起ったことを隠すことができず、イエス様に全てを告白しました。神様の恵みを受け、信仰を確かなものにするために全てを主に打ち明けることは大いなる祝福です。恥ずかしくても主に申し上げるとき、平安と確信が与えられます。主はすべてを受け入れてくださるからです。(KE)
「いっその事、われわれはスリヤびとの陣営へ逃げて行こう。もし彼らがわれわれを生かしておいてくれるならば、助かるが、たといわれわれを殺しても死ぬばかりだ。」列王下7:4cd
サマリヤの町がスリヤ軍に包囲され餓死寸前になりました。物乞いをしていた四人はどっちみち死ぬのならと敵陣へ憐みを求めたのです。まさに一か八かの大勝負です。神様に信頼するのも同じです。自分を頼んでも何もできないのですから、命を賭して神様に任せてみようではありませんか。死んだ者となって。(KE)
「また牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わるとき、おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう。」申命記8:13-14a
人の最も弱い点は「たかぶり」やすいことです。困難や悩みがあると謙遜になりますが、状態が良くなるにつれて心が高ぶり、自分の力を誇るようになります。その時が大変危険なときです。救のめぐみも同様です。これから実りの季節を迎えます。稲穂の如く恵まれれば恵まれるほど、ますます心を低くして、主に感謝しましょう。(KE)
「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。」第一コリント3:16
私たちは神様の宮であるとはなんと驚くべきことでしょうか。神様が住まれるところとは!人も自分の住むべき場所を快適にするように、神様も私たちをご自分の住まいにふさわしく、内外共に清め、整え、快適なものと造り替えます。また、手入れし、管理しておられます。うちに宿っている御霊の意向を無視して、勝手な使い方をするなら叱られます。御霊の声に従順に従いましょう。「神の宮」なのですから。(KE)
「見よ、わたしが大いなる苦しみにあったのは、わが幸福のためであった。あなたはわが命を引きとめて、滅びの穴をまぬかれさせられた。これは、あなたがわが罪をことごとく、あなたの後に捨てられたからである。」イザヤ38:17
「苦しみにあう」ことは人生の貴重な時間を無駄にしているように思われます。しかし、実はそれによって多くのめぐみを頂くのです。苦しみを通して人は練り清められます。ただ、そのときにはそれがわからないのです。小さな苦しみによってもっと大きな災いから逃れることができるのです。(KE)
「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。」第二コリント6:8a
今、自分はどういう者として生きているか、常に自覚しておきたいものです。パウロは「神の僕」と告白しました。それは誰が自分の主人であるかを表明したのです。しもべは主人に忠実でなければなりません。また、主人を喜ばせることがしもべの役割でもあります。周囲の人々がどんな評価をしようとも、主人に受け入れられなければ使命を果たせません。私たちも「神の僕」として生きようではありませんか。(KE)
「神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか。」使徒26:8
キリスト教のつまずきの石として、処女降誕、イエス様の復活などが言われます。しかし、そのようなことが信じられない人はそもそも神様自体を信じられないのです。まず神様を信じるなら、神様は全能者ですから、人の知恵や知識を越えたどんなことでも出来ないことがないと信じるはずではないでしょうか。否むしろ、人が真似の出来ないことだから、神様はなさるのです。(KE)
「命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」マタイ7:14
永遠の命を得るにはイエス様に従う以外にありません。しかし、それは世間の大勢に逆らうことになるから、困難の多い道です。一方、時流に流され、情欲のおもむくままに生きるのは容易いことです。その結果、人は少しでも楽な道を選び、結局滅びに向かうことになります。狭い門、細い道を通るには、その目標がはっきりしていなければ挫折します。私たちの求めているものをしっかり自覚して、命の道を進もうではありませんか。(KE)