「しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。」哀歌3:21
人は望みがなければ生きることができません。それゆえ、どんなに困難や苦難があっても、なにかにすがって一縷の望みを持とうとします。“溺れる者は藁をも掴む”とはそのようなことではないでしょうか。しかし、「藁」ではどうにもなりません。ついには絶望です。この聖言は人が何に望みを置くべきかを語っています。「この事」とは神様の慈愛と憐みです。なにがあっても、とことん神様の愛を信じ続けることです。(KE)
「善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる。またあなたがたが言うように、万軍の神、主はあなたがたと共におられる。」アモス5:14
ところが「悪」は魅力的で、人はそれに惹かれやすいものです。しかし、長い目でみるなら、悪は必ず滅びです。一方、「善」とは神様が喜ばれるものですが、地味で、見栄えも悪く、魅力がありません。しかし、実は命と力と望みを与えてくれます。なぜなら、善を求める者と共に神様がいてくださるからです。善を求めて生きようではありませんか。(KE)
「人が自分で神々を造ることができましょうか。そういうものは神ではありません。」エレミヤ16:20
創世記には、神様が居られたから森羅万象が創造されたと語られています。人は神様によって造られたもの、被造物です。だから、神様を造るなどは言語道断です。ところが、人は神のようになるとの誘惑に負けて、罪を犯しました。それ以来、自分を神として自我に仕える者となった結果、様々な神々が祭られ、拝まれているのです。まことの神様はただ一人、万物の創造者、全能なる神様です。(KE)
「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。」詩篇126:5
農作物を育てるには大変な苦労を伴いますが、すべての始まりは種をまくことからです。種を蒔かずに収穫はできません。また収穫するまでには風雨炎暑に耐え、施肥、除草、防虫など休む間なく作業が続きます。そこを耐え忍んでやがて実を刈り取るのです。信仰も同じです。みことばを信じて、一心に主を信頼し続けるなら、時いたって、結果が出ます。その間に様々なサタンの妨害が起りますが、忍耐した者だけが収穫し、喜びを味わいます。(KE)
そばの花
「主よ、あなたはわたしを知り、わたしを見、わたしの心があなたに対していかにあるかを試みられます。」エレミヤ12:3a
私たちは神様に造られたものですが、神様は操り人形のように造ったのではありません。自由意志を与え、自らの選択と決断によって神様を敬い尊ぶことを願っています。ですから、神様は私たちの心がどこを向いているか、絶えずチェックしておられます。愛する人は相手がどこを見ているか気になるのと同じです。それほどに、神様はあなたを愛しているのです。(KE)
「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。」マタイ4:1
イエス様はヨハネによって洗礼を受けられたのち、荒野にあってサタンの試みにあいました。それは父なる神様のご計画によるものです。救われたら苦しみや悩みがなくなると期待しますが、そうではありません。この世にある限りそのような悩みから逃れられませんが、ただ、苦しみや悩みの意味が違ってきます。むしろ試練といわれることを通して、神様の祝福と恵みをうけることができるからです。イエス様も同じ体験をしました。(KE)
「あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。」 第一ペテロ1:23
イエス様の救とは生まれながらの生き方を捨てて、神様によって生きる者となることです。それは人間的な努力や修行、鍛錬などで得られるものではなく、ただ神様の言葉である聖書を信じるだけです。聖書の言葉は世間一般の言葉ではなく、そのなかに命が宿った種のようなものです。素直に信じ、心に受け入れるとき、あなたの心に命が働き始めます。(KE)
「神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。」ローマ9:24
「あわれみの器」とはなんと光栄なことでしょうか。神様からの憐みを受ける者として選び、召されたのです。自分の思うところ、考えることと違っていようと、主の憐みのゆえに今日も生かされています。しかも、異邦人であった私たちを選んでくださったのです。この恵みを感謝して、主の期待に応えたいものです。(KE)
「イエスは彼らに言われた、『よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない』。」ヨハネ6:53
イエス様の「肉を食べ、血を飲む」とはただ事ではありません。そんな馬鹿げたことと思われますが、実際に肉を食べ、血を飲むわけではなく、比喩です。食べたり飲んだりしたものは、その人の中に取り込まれて、栄養となり、エネルギーとなります。そのようにイエス様が内に宿って、あなたの言葉や行動の原動力になっていただくことです。(KE)
「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。」ヘブル3:13
人の心ほど掴み所のないものはありません。また扱いにくいものです。心がねじれたり、かたくなったりすると、元へ戻すのに一苦労です。「罪の惑わし」だと言われています。心が罪に惑わされないように守らねばなりませんが、自分の力ではどうにもなりません。惑わされやすいものであることを自覚して、神様の力に寄りすがり、素直な柔らかい心を持ち続けましょう。(KE)
「悪人の道がさかえ、不信実な者がみな繁栄するのはなにゆえですか。」エレミヤ12:1c
義人が苦しみにあい、悪人が栄える世の不条理を嘆くのは昔からのようです。確かに、この世は不公正や不公平がはびこって、その報いを受けないかのように見えます。しかし、それはこの世に限ってのことであって、人の魂は過去現在未来にわたって存在し続けるものですから、神様の義が貫かれるときが必ず来ます。悪人や不真実な者がさかえようと、それに惑わされず、しっかり見えないものに目をとめて生きてください。(KE)
「罪びとで百度悪をなして、なお長生きするものがあるけれども、神をかしこみ、み前に恐れをいだく者には幸福があることを、わたしは知っている。」伝道8:12
日本は長寿社会となって人口に占める高齢者の割合が年々高くなってきました。その背景に“長生きは善”という考えがあるようです。しかし、人の人生は長さによって評価されるのではなく、生き方によります。勿論、評価なさる方(神様)がおられることを知らねばなりません。常に神様が喜んでくださる生きかたを求めつつ日々を過ごしましょう。(KE)
「わざわいなるかな、おのが計りごとを主に深く隠す者。彼らは暗い中でわざを行い、『だれがわれわれを見るか、だれがわれわれのことを知るか』と言う。」イザヤ29:15
人の目だけを気にする生き方は不幸です。神様を認めず畏れないから、人の目だけが全てとなります。人の目はいくらでも誤魔化せますが、神様の目を欺くことはできません。すべてを見ておられます。また、神様は善悪ともに裁かれる方でもあります。ですから、神様の目を気にすることのほうが賢明です。主の眼差しを感じていますか。(KE)
「ヨタムはその神、主の前にその行いを堅くしたので力ある者となった。」歴代下27:6
ヨタムはユダの王でした。彼の治世は16年でしたが、その間、神様の前に自らの行いを正しくし、揺るぐことなく貫いたのです。外部に現れる行為はその人の内にあるものから生まれます。ヨタムは神様への真実な思いを持ち続けたのでしょう。その結果、力をいただいたのです。人は力を得て強くなり人生に勝利しようとしますが、問題はその力をどこから得るかです。学力、財力、体力などと違って、神様からの力こそ真の力です。(KE)
「あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり、欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり、清い者には、清い者となり、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。」詩篇18:25-26
神様は私たちの姿を映す鏡のような方です。私たちの信仰の有りようによって、ご自身を表してくださるからです。神様の力を信じて寄り頼むなら、そのように答えてくださるでしょうし、この程度だというなら、そのようになさいます。あなたはどのような方と信じますか。(KE)