つばさ

平和な日々が楽しい

伝えるべき物語と、学びを望む人。両者を結ぶ工夫が被災地に育ちつつある

2012年11月25日 | Weblog
春秋
2012/11/25
 仮面ライダー、ロボコン、さるとびエッちゃん。漫画家の石ノ森章太郎さんが世に送り出した人気者たちだ。等身大の人形などで物語の世界を再現した宮城県石巻市の「石ノ森萬画館」は海に近い旧北上川の中州に立つ。昨年の津波で損傷し、休館を余儀なくされた。
▼このほど再開した同館は、一画を震災の日とその直後の状況を伝える展示にあてている。当日のラジオ放送。地元紙による壁新聞。1階が水没した館にとどまったスタッフの体験を漫画化した作品。ヒーローを目当てに遠くから訪れた親子連れが、じっくり見入り、聞き入っている。街はまだ復旧、復興のただ中にある。
▼震災の体験や記憶を、どう語り継ぐか。同じ宮城県の南三陸町では、あるホテルが「語り部バス」を運行する。チェックアウト直前の1時間、従業員が交代で同行し、街を回りつつ自らの言葉でその日からのことを語る。小高い場所に壊れた高齢者住宅が残る。ここまで水が来たんです、という説明に改めて慄然とする。
▼街を見た宿泊客から、もっときちんと知りたい、体験談を聞きたいと要望を受けたのがきっかけになった。団体バスへの同乗に続き、個人客の要望にも応えようと毎朝のツアーも開始。多い日は大型バス2台分、少ない日でも20人が参加する。伝えるべき物語と、学びを望む人。両者を結ぶ工夫が被災地に育ちつつある。

「溺愛するわがまま息子」といとおしんだ1冊が「フルハウス」だ。

2012年11月24日 | Weblog
春秋
2012/11/24
 2002年に亡くなった米国の進化生物学者、スティーブン・J・グールドは、文系の人も楽しめる科学エッセーで世界的に知られた。数ある著作のなかで、本人が「溺愛するわがまま息子」といとおしんだ1冊が「フルハウス」だ。渡辺政隆氏による邦訳が出ている。
▼この本は生命の歴史と米大リーグの歴史を同時に論じている。ハーバード大教授をつとめた優れた生物学者で、ヤンキースのファンでもあったからこその知的なアクロバットといえる。読む者を飽きさせない。と同時に、切実な個人的な体験の紹介が胸に迫る。30年前。40歳だったグールドは不治の病だとの宣告を受けた。
▼手ずから文献にあたったグールドは、その病気の診断から死亡までの日数の中央値(メジアン)が8カ月という「残酷な事実」を知った。だが、生物学者として育んでいた統計学の知識と素養を生かして、前向きにとらえ直すことに成功した。「抽象的な値」にすぎない中央値は「個々の事例とはほとんど無関係」だ、と。
▼中央値とはこの場合、患者の半数が亡くなるまでの日数を意味する。平均値とは違うが、全体の傾向を表す一つの物差しという意味では似ている。いずれにしろ、そんな数字は抽象的で自分には直接関係がない、とグールドは悟ったわけだ。そして中央値よりずっと長い日々を生きた。「フルハウス」もその間に生まれた。

「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは徳川」。

2012年11月24日 | Weblog
天声人語11/24
 損得に揺れない身の堅さはすがすがしい。戦国の昔、合戦で大手柄をたてて徳川家の最年少の部将になった成瀬正成(まさなり)に、豊臣秀吉が目をつけた。けた違いの俸禄を示して、「あの若武者をくれ」と家康に迫ったそうだ▼やむなく家康が承知をすると、正成は大泣きした。「どうしても秀吉の家臣になれというなら切腹する」。それを聞いた秀吉は「家康殿は良い家来を持たれておる。目をかけて使われよ」と言って諦めた――磯田道史(みちふみ)さんの『歴史の愉(たの)しみ方』(中公新書)から拝借した▼平成の日本も戦国なみ、まれに見る多党乱立のうちに総選挙が迫る。それだけ「脱出ボート」が多いわけで、すでに幾人もが、主に民主党から乗り移った。理を感じる離党もあるが、損か得か、保身丸見えの遁走(とんそう)も目立って情けない▼個人に限らず、第三極の離合を見ても信義や信念が軽すぎないか。群像劇として眺めれば面白いが、AKBの総選挙とは違って国の明日がかかる。信を置ける人と党の吟味はゆるがせにできない▼金(きん)と見えた人が実はメッキだったり、逆に、鉛のように思われた人がいぶし銀の光を湛(たた)えていたりする。乱立にもまれて、人も組織も地金(じがね)は出やすい。すでに化粧のはがれだした人もいるようだ▼「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは徳川」。3年前に天下餅を食った民主党は消化不良で日本の胃もたれは深刻だ。ここは口に苦くとも、健胃をしっかり促す良薬がほしい。留飲を下げる偽薬ではなく。

政権交代は間違っていなかった」と強弁したのには驚いた

2012年11月24日 | Weblog
【産経抄】11月24日
 お天道様も粋な演出をするものだ。きのう野田佳彦首相は、民主党が選挙目当てに掲げる「脱原発」をアピールするため川崎市にある日本最大級の太陽光発電所に出向いたのだが…。
 ▼残念ながら朝から冷たい雨が降りしきり、発電量は微々たるものだったらしい。昔に比べれば太陽光パネルも格段に進歩したが、お天道様が雲に隠れればどうしようもないことを改めて教えてくれた。
 ▼民主党が政権を担当した3年余は、内政外交ともに失政の連続だったが、中でもひどかったのはエネルギー政策だ。福島第1原発事故への対応のお粗末さは言うに及ばず、安全性が高いとみられる原発も含めて大飯原発以外は世論を恐れていまだに休止させたままだ。
 ▼おかげで電力会社は、火力発電所をフル稼働させるため高い石油や天然ガスを大量に買わざるを得ず、空前の赤字を背負わされた。赤字の穴埋めのため電気代は上がり、家計だけでなく円高で青息吐息の企業を直撃するのは必至だ。
 ▼民主党はマニフェスト(政権公約)に「2030年代に原発稼働ゼロ」を盛り込むそうだが、3年前の失敗にまだ懲りていない。自分たちが政権を取りたい一心で月2万6千円の子ども手当、高速道路無料化、最低保障年金導入などなど、できもしない世迷い言を乱発して人心を惑わし、マニフェストの名を汚した。
 ▼有権者をだました詐欺罪で、当時の鳩山由紀夫代表が逮捕されても驚かないが、彼が不出馬を表明した会見で、国民にろくにわびもせず、「政権交代は間違っていなかった」と強弁したのには驚いた。ならば、民主党を飛び出しても国民に信を問うべきだ。来月16日には「間違っていた」と身に染みて感じるはずだ。

「古本屋に出されないようにね」

2012年11月21日 | Weblog
春秋
2012/11/2
 石牟礼道子さんの随筆「食べごしらえおままごと」を読んでいて、父親に「死なれて二十年近くなる」というところでふっと止まった。死なれる。そういえば最近ほとんど使わなくなったが、かつては大切な人を亡くしたときによく聞かれた。そんな記憶がよみがえる。
▼「この方に死なれて10年になる」と書いてお許しいただけるだろうか。スカッシュのプレー中に倒れ、47歳で急逝した高円宮さまの、きょうが命日である。天皇陛下のいとこにあたり、皇太子さま、秋篠宮さまのよき相談相手でもあった。これからの皇室はどうあるべきなのか。意見をうかがいたいことが今、山ほどある。
▼関心の深かった環境問題を語って、著書「オーロラが消えぬ間に」にこうあった。「皇族の一員として、活動には幾つかの制限があることを知っています。しかし許される行動の範囲内でできる限り学びたいし、また人々と話し合いたい」。時代にふさわしい皇族の役割を果たそうと、自らに厳しい考えを持ち続けられた。
▼もう手元の著書は少し黄ばんでいる。扉には「憲仁」と万年筆の署名がある。それを見てある日を思い出した。署名は何人かでお願いしたものなのだが、その一冊に「古本屋に出されないようにね」と笑いながら「転売禁止」と書き添えられた顔のなんと楽しげだったことか。固くて柔らかくて。どちらも等しく懐かしい

「自分が表舞台に立てないから、ちょっと気の合ったもんで、党をつくろうよってえのがみえちゃった」

2012年11月20日 | Weblog
【産経抄】11月20日
 古今亭志ん朝さんは昭和37年、入門わずか5年、23歳という異例の若さで真打ちに昇進している。父親が「昭和の名人」志ん生だったゆえに、「親の七光」との陰口もたたかれた。終生のライバル立川談志さんからは、面と向かって辞退を迫られたそうだ。
 ▼もちろん雑音はすぐに消え、やがて人気、実力ともにトップに上り詰める。志ん生襲名の話が出たとき、誰よりも強く勧めたのが、談志さんだった。亡くなってから11年たつ今も、CDやDVDが売れ続けている。
 ▼民主党は、総選挙に向けた街頭演説で自民党に対して、「親の七光」、つまり「世襲」批判を繰り返している。民主党は、3親等以内の親族が同じ選挙区から立候補することを禁じている。確かに自民党の公認候補を見ると、かつて同じようなルールを検討したのを忘れたかのようだ。
 ▼もっとも民主党にだって、政権交代への国民の期待を見事に裏切った鳩山由紀夫元首相はじめ、世襲議員は少なくない。世襲は古くて、新しいテーマだ。他分野から政界への人材登用の道を閉ざすリスクがある一方、ポピュリズムに流されない信念をもった政治家が育つメリットもある。
 ▼そもそも今回の選挙では、尖閣諸島問題をはじめ、消費増税、原発、TPPと大きな争点がめじろ押しだ。「そこしか攻めるところがないのか」などと、自民党から皮肉られても仕方がない。
 ▼世の中の動きにも敏感だった志ん朝さんには、国民の政党離れについて、こんなコメントがある。「自分が表舞台に立てないから、ちょっと気の合ったもんで、党をつくろうよってえのがみえちゃった」。こんな浮ついた議員が淘汰(とうた)されないのは、世襲のせいだけではあるまい。

眺望の魅力

2012年11月20日 | Weblog
春秋
2012/11/20
 もう何十年も前の話だが、東武鉄道の浅草駅に行くのが楽しみだった。百貨店を併設した駅ビルだったし、屋上遊園地にも心が躍った。屋上に遊園地をつくったのはここが日本初だったそうだ。今では変哲もない正面のエスカレーターでさえ、果てしなく長く思えた。
▼そして、建物の2階から列車がきしむ音をたてながら隅田川に飛び出して行く。旅の第一歩がそこにあった。そんな思い出深い浅草駅ビルがあす、新装開業する。すでに外観は1931年の開業当時のネオ・ルネサンス様式に復元されている。これで、5月に開業した東京スカイツリーとの相乗効果も一層高まるだろう。
▼再開発が相次ぐ浅草では凌雲閣を復活させる計画もあるらしい。別名、浅草十二階。明治半ばに建てられた八角形のビルだ。高さはスカイツリーの十分の一もないが、当時の人々には十分だった。「十二階から見た山の眺めは日本にもたんとない眺望の一つである。それは秋の晴れた日に限る」と田山花袋も書いている。
▼眺望の魅力。それは鳥の目をもつ爽快感か、地上を見下ろす小さな優越感か。東京では100メートルを超す高層ビルが急増し、400棟近くになったそうだ。こんな変わり続ける東京で来月半ばに知事選がある。衆院選との同日選だ。秋の晴天ももうわずか。誰に今後を託すのか、ここはしっかりと目を凝らさねばなるまい。

歴史は、くめども尽きぬ教訓の泉だ

2012年11月19日 | Weblog

余録毎日新聞 2012年11月19日

 東京の書店で「東京満蒙開拓団」(ゆまに書房)が平積みしてあるのを見かけた。9月の刊行前に小紙は東京紙面で紹介している。朝日新聞と読売新聞も10月末の書評欄で高く評価した▲旧満州(現中国東北部)への移民である満蒙開拓団は東京に集まる生活困窮者の送り出しから始まった。商店街ぐるみで海を渡りソ連参戦後の逃避行中に多数が惨死した例もある。戦争末期には東京大空襲の被災者たちが「疎開」のための移民を勧められた▲こんな今やほとんど知られていない史実を市民グループが追跡し、国家による「棄民(きみん)」を告発している。5年がかりの努力が実を結んだ▲もちろん首都がらみの歴史ばかりが重要なのではない。全国最多の開拓団員などを送り出した長野県の飯田・下伊那地方。10年余り前に結成された「満蒙開拓を語りつぐ会」の聞き書き報告集は実に痛ましい▲今年7月に出た第10集(飯田市歴史研究所発行)だけ読んでも、逃避行の際などに大家族の大半を失い、中国残留孤児として、次は中国人の妻として生きるしかなかった女性をはじめ、あまりに過酷な体験の数々が語られている。国策による先住民からの農地獲得など加害の側面に関する率直な証言もある▲このように満蒙開拓団の悲劇を記録し忘れまいとする努力は今もあちこちで続いている。歴史は、くめども尽きぬ教訓の泉だ。関係者に敬意を表したい。同時に、過去とは違う形態であれ国家が国民の一部を「見捨てる」事態が繰り返されはしないか、いやそれは現に起きていることではないか、という疑念を禁じ得ない。改めて国家と政治の責務を思う。

留守電に元気な頃の母の声「あれ?居らんがな」消せずに五年

2012年11月19日 | Weblog
【産経抄】11月19日
 向田邦子さんは、最も早く留守番電話を取り付けた作家の一人だった。初めのころは、慣れない人が残した個性的なメッセージを大いに楽しんだという。なかでも傑作なのが、親友の黒柳徹子さんからの電話だ。
 ▼例の早口で9通話分もしゃべりまくったあげく、「用件はあとでじかに話すわね」となる。向田さんは、来客にこのテープを聞かせて、もてなしのひとつにしていた(『父の詫び状』)。
 ▼〈留守電に元気な頃の母の声「あれ?居らんがな」消せずに五年〉。先日発表のあった第1回「河野裕子短歌賞」の「家族の歌」部門で、「選者賞」に選ばれた作品だ。5年前に亡くなった母親のテープを残したのは、もちろん人に聞かせるためではない。家族にとって何よりの宝物だからだ。
 ▼〈寄港する夫に届ける子の写真ばんそうこうの訳を書き足す〉。最優秀に輝いた、下町あきらさん(71)の作品である。半年も帰らない船員の夫に、手紙や写真で子供の成長ぶりを伝えていたころの思い出だろう。審査員の一人、河野さんの夫で歌人の永田和宏さんは、「『書く』のではなく、『書き足す』の『足す』がいいフレーズだ」と評していた。
 ▼手紙といえば、河野さんも筆まめな人だった。恋人時代の永田さんへの手紙には、永田さんになぞらえた、みの虫のイラストが描かれていたそうだ。アメリカ滞在中は、サマーキャンプに行った2人の子供に毎日書いていた。
 ▼河野さんが平成22年8月に亡くなる直前、自宅で作った歌は200首近くにのぼる。手帳やティッシュの箱、薬袋などに書き残された文字の判読は、困難を極めた。それでもわかってくれるはず、と信じた家族への究極の手紙でもあった。

震災を経て、一段とむずかしい問題を地域が背負っている。

2012年11月19日 | Weblog
春秋
2012/11/19
 日の丸の小旗を打ち振る人々がホームを埋めつくしていた。鼓笛隊のマーチ。風船。駅前には1万の群衆。そして「焦茶(こげちゃ)色に日焼けし海風に鍛え抜かれたおばさんたち」が喜々として踊りを披露する――。紀行作家の宮脇俊三が、その日の情景を生き生きと描いている。
▼1977年、宮城県の気仙沼線が開通したときのルポだ。国鉄全線を乗りつぶす「時刻表2万キロ」の旅を終えた著者は新たな路線の誕生に駆けつけ、最終章に置いた。その気仙沼線はいま、大部分が津波で不通となり、復旧の見通しが立っていない。そこで登場してきたのが、BRTと呼ばれるバス高速輸送システムだ。
▼被災した鉄路を専用道に造り替え、そこにバスを走らせる。まだ専用道はわずかな区間しかできていないが、試みに乗ってみれば停留所も真新しくなかなか快適ではある。バスはバスでも、かすかに鉄道の雰囲気が漂うのは「線路の上」だからか。JR東日本はこれをほかの被災路線でも代替交通として推進したいという。
▼けれども、あくまで鉄道の復旧を求める沿線自治体もある。BRTの固定化は困るという声もある。35年前の熱狂が示す、鉄道への抜きがたい思いかもしれない。かの宮脇は、開通の日の騒ぎと赤字必至の現実とを見据えて「むずかしい問題ばかりだ」と記した。震災を経て、一段とむずかしい問題を地域が背負っている。