つばさ

平和な日々が楽しい

余録:「海に降る雪」と聞けばロマンチックだが、その正…

2012年11月11日 | Weblog
毎日新聞 2012年11月11日 
 「海に降る雪」と聞けばロマンチックだが、その正体はプランクトンだ。動植物プランクトンが死ぬと粒状になり、ふわふわと海中を舞う。半世紀前、北大の潜水艇「くろしお号」に乗った科学者が「マリンスノー」と名づけた。神秘的な光景に殺風景(さっぷうけい)な名前は似合わないと感じたらしい▲海中には他にもさまざまな浮遊物がある。変わったところではオタマボヤの「衣」。動物プランクトンのオタマボヤは餌をこし取るためゼラチン質の衣をまとっている。これが目詰まりしやすく日に何度も着替えるので、「脱ぎ捨てた衣」が海中にたくさん漂っているというのだ▲想像するとおかしいが、ウナギ研究者にとっては笑い事ではない。ニホンウナギは日本から2000キロ離れたマリアナ海溝付近で産卵する。そこでかえった幼生はいったい何を食べて育つのか。マリンスノーか、オタマボヤの衣か、ごく小さなクラゲか。仮説が林立し、決め手に欠けていたからだ▲最近、海洋研究開発機構と東大のチームが出した答えは「マリンスノー」。食物連鎖に注目した分析方法を使った。謎に包まれていたニホンウナギの生活史の輪を完成に近づける成果だ▲謎解きは単なる研究者の酔狂ではない。ウナギの完全養殖の鍵も握る。実験室では人工授精した卵からウナギをふ化させ育てることに成功しているが、成長が遅い。餌を改良すれば産業化に一歩近づくと期待される▲ここ数年、ニホンウナギは激減し、絶滅危惧種に指定されかねない。天然ウナギの食にも異変が起きているのか。マリアナ海溝に降る雪の研究を養殖だけでなくウナギ保護にもつなげたい。

「命のかたち」

2012年11月11日 | Weblog
天声人語11月11日
 望遠鏡の中の火星は色あいが変わるため、そこには季節があり、カビやコケが反応しているとも考えられた。生き物への期待が膨らんだのは1965年、マリナー4号が初接近した時だ▼米航空宇宙局(NASA)の研究所に留学していた大島泰郎(たいろう)さんは興奮した。「地球外生命の姿を見る最初の人類になる」と。しかし届いた画像は隕石(いんせき)の衝突跡で荒涼とし、皆を落胆させた。大島さんは、手違いで月の写真が出たかと目を疑ったそうだ(『火星に生命はいるか』岩波書店)▼赤い荒野に「命の痕跡」を追う旅は続く。夏に火星に降りた米探査機キュリオシティが、名に恥じぬ、好奇心をそそる仕事を重ねている。土はハワイの玄武岩に似ると突き止め、水が運んだらしい丸い石も見つけた▼かつては海や川に恵まれ、命を保てる環境があったのではないか。六つの車輪による放浪はカメの歩みながら、一歩一歩が未知との遭遇になる▼タコ似の火星人は望めないが、「命のかたち」は地球でさえ私たちの想像を絶する。例えばコケなどに棲(す)む緩歩(かんぽ)動物(クマムシ)は、ひどい乾燥、数百度の温度変化、真空、強い放射線に耐え、宇宙空間にさらされても生き延びるとされる。火星に出没した生命も「常識外れ」に違いない▼マリナーが鳥の目なら、今度は虫の目。まさに緩歩ではい回り、動くものがいたという動かぬ証拠をつかんでほしい。孤独な訪問者による「孤独にあらず」の知らせは、人類を少しばかり謙虚にするように思う。

「内助の功」をいかに生かすかも、リーダーの条件だと言っていい

2012年11月11日 | Weblog
【産経抄】11月11日
 戦後の大宰相を描く工藤美代子さんの『赫奕(かくやく)たる反骨 吉田茂』は雪子夫人との別れから始まっている。牧野伸顕伯爵の娘、つまり維新の立役者、大久保利通の孫である夫人は昭和16年10月、がんのため52歳で亡くなった。吉田は63歳、すでに外務省を退官していた。
 ▼吉田といえば首相時代には「ワンマン」といわれ、傲慢なイメージがつきまとった。しかし夫人の入院中は、好きだったバラなどの花を照れくさそうに買って見舞った。教会での葬式の後、樅(もみ)の大樹の蔭でひとり、あふれる涙をふく姿もあったという。
 ▼雪子夫人は結婚するまで外国生活が長かった。そこで培った語学に加え父や祖父から受け継いだ教養も備わっていた。駐英大使などで吉田が海外に赴任中は、人脈づくりを大いに助けた。そんな「内助の功」への感謝の涙だったといえる。
 ▼その吉田や佐藤栄作と同様に、長く首相をつとめた中曽根康弘氏の蔦子夫人は先日、91歳で亡くなった。首相在任中、気さくな人柄で番記者らにも人気があったという。来日したレーガン米大統領夫妻を山荘に招いてもてなすなど、名ファーストレディーとしても知られた。
 ▼葬儀での中曽根氏のあいさつは泣かせた。蔦子夫人の名前は「ツタのように木に寄り添って、倒れないように守るために名付けられた」と由来を披露した。その名の通りの「糟糠(そうこう)の妻」だったことだろう。中曽根氏も「よくやってくれた」と感謝の気持ちを表した。
 ▼吉田に戻れば、雪子夫人は首相夫人になることはなかった。だが夫人の協力で得た外国要人とのパイプが、日本の再建に役立ったことは間違いない。「内助の功」をいかに生かすかも、リーダーの条件だと言っていい。