月子日記

思うこと、好きなもの

酔ってぼけぼけ。

2006-12-25 23:27:55 | 思い
父のところで飲んできた。
兄もきていた。

娘はいつものように父の布団の横へ早くから行って
しまうから、わたしはひとりぽつん。
上の男たちは音楽ジャカジャカ。
さっきまで父のところで飲んでた。
後片付けはわたしの仕事。
大量の食器を洗い、片付け、いまひとり家のなか。

今日も7時まで残業。
明日もきっと。

いつもは転寝してしまうので、夜中目が覚めたら
がぜん元気なので、余計なことも考えてしまう。
でも今日は転寝なし。
もう寝るから。
かなりぼけぼけだし、余計なこと考えるまもなく
きっと寝てしまうでしょう。

寝ます。

♪さびしいひとなのね 笑わせるなよ~

コンポジション・南佳孝。
いま聴いてた。ただそれだけ。

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イヴの夜に

2006-12-25 02:10:21 | 思い
ずいぶん書かなかった。
書けなかった。

12月6日母が亡くなった。
最後の更新の翌日、会社で危篤の知らせを聞き、
かけつけたら、心臓マッサージされている母がいた。
朝までは話もしていたらしかったのに、突然の病変だった。
その危篤から奇跡的にもちなおし、30時間ほど後まで母は頑張って
くれた。そして亡くなる1時間前にはうっすらと目をあけ、
必死でみんなの顔を見ようとしているようだった。
30時間、病院で過ごした。
兄弟みんな集まり、孫も集まり、最期のときは
多勢に囲まれて母は逝ってしまった。

もうどれだけ泣いたか、わからない。
病気で苦しみながら逝ってしまった母の無念さと
そして自分の後悔で....。
わたしほど親不孝な子供はいない。
心配ばかりをかけて、なにひとつ返せないまま母はいなくなった。
最期のお見舞いの日、ベッドでわたしたちを見送った目は
わかれを告げていたんだ。

危篤から一週間後の火曜日には仕事へ復帰した。
恐ろしいくらいに仕事は山積で、それをこなすことに必死
だった。そして帰って父のところへ行く。
父はひどく落ち込み、ときおりナミダを流した。
父が泣くのを見たのは姉の子が6歳で亡くなったとき以来。
今回はそのとき以上に憔悴しきっている。
火葬場の最期のスイッチを父が押し、母の名前を呼んで
サヨナラといい泣き崩れた光景が頭から離れない。

娘はじいちゃんがかわいそうだといって、毎日父の布団の
横で寝ている。
わたしは家でひとりで寝る日々になった。
そして寝る前にはいろんなことが思い出されて涙が出る。
外の仕事に出て一年。
わたしにできるかな?と心配していた母だったけど、
それだけはどうやら大丈夫だったみたい。
それがたったひとつ母を安心させてあげられたことだった。
と同時にいつもわたしをまもろうとしてくれた母には
ひどく寂しいことだったと思う。
仕事に出て会社に出ると、笑ったりもする。
笑顔で接客している。そして12月、ピークに忙しい。
でもそれでまぎれているところは確かにある。
毎日父と葬儀のあとのいろんな手続きをしたりカラダをこわした
父を見守る妹はもっと毎日が辛いだろう。
ごめんね。

ひとりぼっちのイヴの夜。
娘は父のところ。長男はギターを弾きに父の家の離れを
借りてて夜通しやるつもりらしい。次男は明日部活なので、もう寝ている。
年々寂しくなるクリスマス。
一年前には思ってもなかったことも起こる。

でも生きてる限り生きていくんだ。
残された父ももう少ししたら元気になってくれるかな。

毎日わたしも子供も妹んちも父のところでご飯を食べている。
帰りの遅いわたしは後片付け役。
わいわいと囲まれている父はまだ幸せだよね...

最期子供のように小さい頃のことを話し出した母。
お父さん、お母さんが迎えにきたんだと義父が言ってたけど、
ほんとうにそうかもしれない。
苦労ばかりの人生の最後に...
大阪の此花区生まれで戦前4歳のころの母はスカートをはき、
赤いバッグをもっていつもちんちん電車に乗ったりして
遊んでいたらしい。戦争で疎開する前のそのころが一番幸せだったと
母のお姉さんが話していた。
いもたこなんきんでべそ・子供のころに返って母はきっと
そんな子供の囃子言葉を口にし、空の上で両親といるのかな。
両親と先になくなった3人の兄弟とともにお正月をむかえるのでしょう。

そう思えば少し救われます...
苦しみばかりの人生の終わりだったから。
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