THE READING JOURNAL

読書日誌と雑文

「かくれキリシタンの祈りを感じよ」

2008-11-07 | Weblog
「長崎の教会」 NHK「美の壺」制作班 編

弐のツボ かくれキリシタンの祈りを感じよ、コラム 浦上キリシタンの苦悩と原爆

二つ目のツボは、かくれキリシタンの祈りである。そもそも、長崎に個性的な教会が多く残っているのも、長いかくれキリシタンの信仰にある。
ここでは、まず「大浦天主堂」や生月(いきつき)島にある博物館「島の館」に残されるかくれキリシタンの信仰の品が紹介されている。

長い鎖国の間に、潜伏していたキリシタンは、しだいにその信仰を変化させていった。人々は祈りのことばであるオラショを唱え、仏教徒を装っておいた仏壇も次第に信仰の一部として定着してくる。
そして、キリシタンの禁制が解かれた後も、カトリックの信仰に戻らず、そのままかくれキリシタンの信仰を守っている人々もいる。
(生月のかくれキリシタンについては、ココ参照)

キリシタンの禁制の高札が撤去されたとき、カトリックに立ち返り、教会建築に力を注いだ人も多い。一方でそれまで守り続けてきた、キリスト教とも仏教とも言い難い、土着した信仰のかたちを捨てきれなかった信者も多数いる。その大きな理由は仏壇の問題であったと、学芸員の中園さんは語る。
「仏壇といっても、そこに祀られているのは代々信仰を受け継いできた先祖であり、場合によっては殉教者たちだった。その仏壇を捨て、先祖を無碍(むげ)にはできないという気持ちが強かったと考えられます。」
彼らは結局カトリックにもどらなかった。そうした人々を「かくれキリシタン」、禁教時代に信仰を守った信者を「潜伏キリシタン」と呼び区別することもある。
全国でかくれキリシタンが残るのは長崎市、外海、五島、平戸、生月に限れれるという。生月では、いまも年中行事が盛んに行われている。先祖を敬う気持ちのなかには、アリア様への変わらぬ信仰心が刻まれている。

原爆で被害にあった「浦上天主堂」の話がコラムにある。
明治六年にキリシタン禁制が解かれるまで、キリシタンへの弾圧は続いた。浦上でも大量の検挙者を出す事件が起こった(ココ参照)。やがて許されて戻った信者たちにより教会が建築された。それが浦上天主堂である。建設開始から三十年を経て一九二五(大正十四年)に教会は完成した、しかし、この東洋一と言われた教会もその二十年後原爆により破壊された。(ココ参照)

信者一万二千人のうち八千五百人が犠牲となった。浦上の信者は再び絶望の淵に立たされたが、廃墟から拾い出された「アンジェラの鐘」が彼らに希望を与えたという。同じ場所によみがえった浦上教会には、いまもその鐘の音が力強く鳴り響いている。