「日本残酷物語 第三部 鎖国の悲劇」
第二章 国を恋う人々 漂流の記録 船頭重吉の物語
ここからは、漂流者の記録、まず船頭重吉の漂流記を国学者池田寛親(ひろちか)の『船長日記(ふなおさにっき)』にそって。
文化十年(一八一三年)二九歳の重吉は、女房と乳呑児を故郷に残し督乗丸(とくじょうまる)に乗って出港した。
しかしその船は、陰暦十一月四日に御前崎付近で、嵐のために漂流した。
舵も壊れ、転覆を防ぐために帆柱も倒したので、ただ流されるに任せるだけだった。
彼らは赤道付近までながされ漂流を続けた。米に大豆の粉をまぜ食料とし、大釜で海水をたき、真水を手に入れた。
しかし、だんだんと水夫達の健康が蝕われる。
そして、次々に水夫達が亡くなるっていく、ついには、音吉と半兵衛の水夫を残すのみになった。
八月一日、待望の雨が降った。また、船の周りに魚が集まりカツオを釣ることができた。それから、毎日魚がつれ、生き残った水夫達もみるみると元気になった。
しかし、魚を追ってサメが集まるようになり魚はつれなくなる。そうすると、音吉と半兵衛は、また病に伏せる事になった。
そして、その後二月八日に重吉達は、イギリス船、ホーストン号により助けられた。一年五ヶ月の漂流であった。
彼らは、南アメリカの赤道近くで救出されたのであった。
ホーストン号の船長ぺゲツは、大変親切は人であり、三人を手厚く迎えた。
重吉達はホーストン号とともに北上し、他の漂流者とともに北海道経由で日本に戻った。途中、カムチャッカの冬の寒さで半兵衛は亡くなる。重吉はふるさとに戻った。
その後、重吉は供養碑をたてるために寄付金を集めた。
第二章 国を恋う人々 漂流の記録 船頭重吉の物語
ここからは、漂流者の記録、まず船頭重吉の漂流記を国学者池田寛親(ひろちか)の『船長日記(ふなおさにっき)』にそって。
文化十年(一八一三年)二九歳の重吉は、女房と乳呑児を故郷に残し督乗丸(とくじょうまる)に乗って出港した。
しかしその船は、陰暦十一月四日に御前崎付近で、嵐のために漂流した。
舵も壊れ、転覆を防ぐために帆柱も倒したので、ただ流されるに任せるだけだった。
だが船頭の重吉は、沈着で思慮のある男だった。
彼は水夫たちが心細さに泣き沈むなかで、毎日磁石を頼りに船の流されていく方向を克明に日記につけはじめた。・・・中略・・・船中の五ヶ所に不断灯をおい
て、夜昼ともしつづけることにした。・・・中略・・・・そそてそれから一年五ヶ月のあいだ、彼が無事に救われるヒまで、このともしびは消えることのなく、
いのちの灯をともしつづけるのだ。
彼らは赤道付近までながされ漂流を続けた。米に大豆の粉をまぜ食料とし、大釜で海水をたき、真水を手に入れた。
しかし、だんだんと水夫達の健康が蝕われる。
三月ごろになると一同は目に見えて体力がおとろえ、皮膚は黒ずみ体ははれむくんで、ついには重吉をのぞく十二人が、そろって病みふしてしまった。
そして、次々に水夫達が亡くなるっていく、ついには、音吉と半兵衛の水夫を残すのみになった。
八月一日、待望の雨が降った。また、船の周りに魚が集まりカツオを釣ることができた。それから、毎日魚がつれ、生き残った水夫達もみるみると元気になった。
しかし、魚を追ってサメが集まるようになり魚はつれなくなる。そうすると、音吉と半兵衛は、また病に伏せる事になった。
文化十二年(一八一五)、洋上で迎える二度目の元旦である。・・・中略・・・今残って
いるのはたった三人、それも二人は病人である。そのあいだ、船は海上を何千里流されたことか。もう日本に帰ることもおぼつかない。故郷の人々も自分たちの
ことは死んだとあきらめていることだろう。みんなが首をくくるというのを、言葉をつくしてとめたものだが、その連中も仏になってしまった。自分もいっそ首
をくくって死のう。そうすれば、この苦しみからおがれられるのだ。---重吉は泣く泣くそう思いさだめたが、それが最後の命さかいのくじと、神のお告げを
うかがってみると、嬉しや、正月二十七、八日ごろには助かると出た。
そして、その後二月八日に重吉達は、イギリス船、ホーストン号により助けられた。一年五ヶ月の漂流であった。
彼らは、南アメリカの赤道近くで救出されたのであった。
ホーストン号の船長ぺゲツは、大変親切は人であり、三人を手厚く迎えた。
重吉達はホーストン号とともに北上し、他の漂流者とともに北海道経由で日本に戻った。途中、カムチャッカの冬の寒さで半兵衛は亡くなる。重吉はふるさとに戻った。
この満三年半の恐怖にみちた経験が真実とも思われないような、むかしのままの静かなふ
るさとであった。重吉の妻は、彼が消息を絶って以来、たびたび再婚の勧めもしりぞけて、夫のかりそめの位牌を守りながら、ひとり、子どもを育ててきた。重
吉が帰ってきたとき、彼女は、ただおし黙って、夫の前に両手をついておじぎをした。やせた肩が、細かくふるえているようであった。
その後、重吉は供養碑をたてるために寄付金を集めた。
帰国後七年目の文政七年(一八二四)尾張四観音の一つとして名高い笠寺に、念願の督乗丸供養碑を建てることができた。この碑は、いまは名古屋の成福寺に残っている。