「やくざと日本人」猪野 健治 著
第五章 近代やくざの登場 2.籠寅こと保良浅之助
吉田磯吉が民政党の暴力弁であったとすると、政友会の暴力弁は保良浅之助であった。
彼は貧しい竹籠屋の息子であったが、大阪の南福組の親分・難波の福にサカズキをもらった。
彼は実業家としても才能があり、魚問屋用の木箱の製作で明治三十九年に下関に進出する。当時の下関は、発展途上で大小のヤクザが抗争をくりかえしていた。浅之助は、たちまち下関でも有数の顔役となった。
彼の政界入りのきっかけとなったのは、昭和四年に内閣を解散して下野した田中義一の萩への帰郷であった。田中に代わり内閣を組織した民政党の浜口雄幸は政権を握ったのをきっかけに全国的な党組織の強化・拡大に乗り出した。田中はこの拡大の切り崩しのために、故郷の萩に帰ってきたのである。
田中にあった保良は、その人柄にほれ込み、政友会入りをした。
保良は、政友会の暴力弁として中央政界で活躍したが、昭和七年に行われた第十八回総選挙を最後に政界から身を引いた。
当時の政界は、政党政治が急速に終わりを告げ、軍部の天下ーーファシズムへと移行していた。
第五章 近代やくざの登場 2.籠寅こと保良浅之助
吉田磯吉が民政党の暴力弁であったとすると、政友会の暴力弁は保良浅之助であった。
彼は貧しい竹籠屋の息子であったが、大阪の南福組の親分・難波の福にサカズキをもらった。
彼は実業家としても才能があり、魚問屋用の木箱の製作で明治三十九年に下関に進出する。当時の下関は、発展途上で大小のヤクザが抗争をくりかえしていた。浅之助は、たちまち下関でも有数の顔役となった。
彼の政界入りのきっかけとなったのは、昭和四年に内閣を解散して下野した田中義一の萩への帰郷であった。田中に代わり内閣を組織した民政党の浜口雄幸は政権を握ったのをきっかけに全国的な党組織の強化・拡大に乗り出した。田中はこの拡大の切り崩しのために、故郷の萩に帰ってきたのである。
博徒を利用するということは、当時の政界や軍上層部の常識であった。田中は、民政党の吉田磯吉に匹敵する人物を山口県で見いだした。それは、下関市議会副議長で、商工会議所副会頭を兼ねる籠寅こと保良浅之助であった。
田中にあった保良は、その人柄にほれ込み、政友会入りをした。
保良は、政友会の暴力弁として中央政界で活躍したが、昭和七年に行われた第十八回総選挙を最後に政界から身を引いた。
当時の政界は、政党政治が急速に終わりを告げ、軍部の天下ーーファシズムへと移行していた。
政党が「挙党一致」「救国協力」の名のもとに事実上の解体となれば、これまでのような、他党への「暴力弁」としての院外勢力は、もはや無用となる。同時に「侠気」だけが売りものの「任侠議員」の出る幕もなくなる。