THE READING JOURNAL

読書日誌と雑文

「近代やくざの登場」2

2007-07-30 | Weblog
「やくざと日本人」猪野 健治 著

第五章 近代やくざの登場 2.籠寅こと保良浅之助

吉田磯吉が民政党の暴力弁であったとすると、政友会の暴力弁は
保良浅之助であった。
彼は貧しい竹籠屋の息子であったが、大阪の南福組の親分・難波の福にサカズキをもらった。
彼は実業家としても才能があり、魚問屋用の木箱の製作で明治三十九年に下関に進出する。当時の下関は、発展途上で大小のヤクザが抗争をくりかえしていた。
浅之助は、たちまち下関でも有数の顔役となった。

彼の政界入りのきっかけとなったのは、昭和四年に内閣を解散して下野した田中義一の萩への帰郷であった。田中に代わり内閣を組織した民政党の浜口雄幸は政権を握ったのをきっかけに全国的な党組織の強化・拡大に乗り出した。田中はこの拡大の切り崩しのために、故郷の萩に帰ってきたのである。

博徒を利用するということは、当時の政界や軍上層部の常識であった。田中は、民政党の吉田磯吉に匹敵する人物を山口県で見いだした。それは、下関市議会副議長で、商工会議所副会頭を兼ねる籠寅こと保良浅之助であった。

田中にあった保良は、その人柄にほれ込み、政友会入りをした。
保良は、政友会の暴力弁として中央政界で活躍したが、昭和七年に行われた第十八回総選挙を最後に政界から身を引いた。
当時の政界は、政党政治が急速に終わりを告げ、軍部の天下ーーファシズムへと移行していた。

政党が「挙党一致」「救国協力」の名のもとに事実上の解体となれば、これまでのような、他党への「暴力弁」としての院外勢力は、もはや無用となる。同時に「侠気」だけが売りものの「任侠議員」の出る幕もなくなる。


「近代やくざの登場」1

2007-07-29 | Weblog
「やくざと日本人」猪野 健治 著

第五章 近代やくざの登場 1.吉田磯吉の登場

近代やくざの鼻祖吉田磯吉の話。
吉田磯吉は慶応三年(一八六七年)遠賀川の畔に生まれる。彼は遠賀川の川艜(かわひらた)の船頭からたたき上げ、筑豊の炭鉱に君臨し後に中央政界に進出した。
系譜的に見れば伝統的やくざ組織の大部分が吉田となんらかのつながりがある。

やくざ(博徒)の「業態」上の「近代化」」の先鞭をつけたのも、吉田であった。
すなわち明治初期までのやくざは、生活基盤を賭博や単純な用心棒に求めていたが、吉田は、賭博は「遊び」以外にはせず、胴元になってテラをとったりすることはなかった。そして、その勢力を花柳街、興行界、炭鉱、政界その他に広げていった。

吉田は民政党の院外勢力になり、その暴力部分を担当した。

「俠客議員」が中央政界に登場したのは、吉田が最初であり、吉田はその突破口を開く役割を果たした。そして、やくざと政財界との癒着は、選挙、院外団、「顔役」による「事後処理」といったさまざまなかたちをとりながら、以後急速に深まっていく。


「博徒指導の秩父困民党一揆」2

2007-07-28 | Weblog
「やくざと日本人」猪野 健治 著

第四章 博徒指導の秩父困民党一揆 2.困民党蜂起の光と影


博徒が指導した秩父困民党一揆の詳細について。

田代栄助は、一揆部隊の集結地を、窮民がもっとも多い吉田村の椋(むく)神社ときめた。白鉢巻に白襷、猟銃、刀剣、竹槍などで武装した窮民たちは、十月三十一日夜から、荒川をさかののぼって、吉田村にぞくぞくと集結しはじめた。窮民蜂起を探知した県下の警察は、あわてて吉田村へ警官隊を急派したが、窮民側に簡単に撃破された。

この一揆は、厳しい軍律をかけた一揆側が高利貸しの焼き討ちなどの実力行使をした。憲兵隊や軍隊が発動し激戦のすえ、主に武器の劣勢のために一揆側が敗走した。

この一揆は博徒、田代栄助が指導した、当初彼は窮民側に一揆発動までに時間的猶予をもらい各地の博徒に呼びかけ一斉に立ち上がるつもりでいたが、窮民側がそれを待てず一揆は準備不足のまま暴発した。しかし、田代は優れた指導力を発揮したそれは彼が親分子分のつながりが強い博徒であることに大きく寄った。

一部の論者は、困民党蜂起を博徒が指導したということにこだわっているが、これははなはだしい偏見である。困民党が結盟できたのも、短時日の間に多数の人員を結集し得たのも博徒社会の親分子分、兄弟分というタテヨコの人間関係が、「窮民救済」の大儀名分のもとに、義俠的に発動された結果であった。


「博徒指導の秩父困民党一揆」1

2007-07-27 | Weblog
「やくざと日本人」猪野 健治 著

第四章 博徒指導の秩父困民党一揆 1.蜂起前夜

明治維新後の博徒を取り巻く情勢と、秩父困民党一揆の前兆となった群馬事件について。

明治維新後、農民は地租に泣き、博徒は”賭博犯処分規則”のために賭場が開けず、また多くの没落士族が出た。かれらの利害は体制に逆らう点で一致した。
また当時の自由民権運動の嵐も彼らの団結を促す。

そんなおり群馬事件が起こった。これは群馬県甘楽郡下に起きた農民一揆である。
この指導に当たったのは自由党員で有信社に所属していたメンバーであった。
有信社は宮部襄が組織した自由党系の壮士団である。宮部は警察署長時代に、上野、信濃の博徒の決戦を単身乗り込んで和解させた反骨漢で関東博徒の間で彼の名を知らないものはいなかった。
そのため有信社には上州博徒の大親分・山田丈之助などの多くの博徒が集まった。
秩父困民党の一揆はこの群馬事件に強い刺激を受けた。


「アウトローの本流・博徒」2

2007-07-26 | Weblog
「やくざと日本人」猪野 健治 著

第三章 アウトローの本流・博徒 2.明治維新

アウトロー集団が凜然(りんぜん)と光芒を放つのは、時代が大きく変わろうとする動乱期である。それは社会から疎外されている彼らにとって、動乱期こそは、自ら浮かびあがる可能性を見つけ出す絶好の機会だからである。

幕末から明治維新にかけて多くの博徒が、勤王派と佐幕派に別れて行動した。彼らはそれぞれの才覚と思惑によって動乱期を生き抜こうとし、草莽(そうもう)隊に加わった。しかし、それは無用になれば捨て去られる存在でしかなかった。

明治維新が進むと、博徒は政府に対抗する板垣退助率いる自由党への流入していった。やがて政党政治時代に入ると博徒は院外団体化する。


鏡の間(ベルサイユ)

2007-07-25 | Weblog
今日は旅行最終日。パリに戻って、ベルサイユ宮殿に行った。
朝一番にホテルの朝食を食べ、チェックアウトしてレンヌ駅に向かう。
8時05分のTGVに乗ってパリに戻った。

今日は、ベルサイユ宮殿に行く予定。当初2日目に予定していたベルサイユ宮殿だけど、月曜日が休館のために今日になった。今日はジュネーブまで戻らないといけないので十分な時間が無い。
パリ・モンパルナス駅で荷物をコインロッカーに預け地下鉄・RER線と乗り継いでベルサイユに行った。

ベルサイユに着いたのは、ちょうどお昼頃、先のご飯と思い駅前のマクドナルドで昼食を取る。
ご飯を食べてから宮殿まであるって行くと・・・・なんと長い列があった。
(ゆっくりハンバーガーを食べていて失敗した。)

どうしようかと思ったけどやっぱり並ぶことにした。子供達はベルサイユ宮殿の正面の広い石畳で遊ばせて並ぶ・・・列は少しづつ進んでいく。並んでいるとお兄ちゃんがオシッコに行きたいといい始めたので、下の子のオムツ換えをかねてママと子供達がおトイレに行った。シバラク並んでいると、お兄ちゃんが帰って来た。
「パパ、凄い列だからコッチも時間がかかるよ~」
並ぶ事一時間、やっと順番が来た。大人2人(子どもは無料)の券を買って帰ってみると、ちょうどおトイレも終わったようでママ達が来た。

券を持っていよいよベルサイユ宮殿の入口へ。音声ガイドを借りて中に入る。

最初に礼拝堂があって、それから各部屋を回る・・・・部屋ごとにカーテンや壁紙などのデザインも微妙に違って面白い。そのうちに有名な「鏡の間」にはいる。当時、鏡は大変なぜいたく品でそれを部屋中に配置するこの部屋は、富の象徴だったらしい。入ると壁面には鏡反対側の窓からは広大な庭園が見える。
その後、王様のベッドやら机やらのある部屋とかを回る。結構広い。
ベルサイユ宮殿を一周したら、もう3時に近くなっていた。ジュネーブ行きのTGVに乗るためには3時半にはココを出てないと、乗り遅れそうなので急いで庭園に行った。
庭園は広い。はるか地平線までずっと庭園である。宮殿から眺めるように作ってあるらしく、地上から見ると・・・・・大きすぎてよく分からない。
ほんの15分くらいであったが庭園を眺めた。
(ガイドブックに庭園を見るのに半日かかると書いてあったが本当にそうである。)

3時半前に急いで駅に向かう。駅に着いたらちょうど一本前の電車が行ったばかりで、少し待たされた。
RER線に乗り、地下鉄でモンパルナスへ行き荷物を出して、また地下鉄に乗り、パリ・リヨン駅に着いたのはTGV発車30分前であった。広いリヨン駅を歩いて、夕ご飯のパンを買ってTGVに乗り込んだのは、10分前。ギリギリって感じだった。

TGVの中では、子供達は隣の席の子供達と遊んだりして・・・ジュネーブに帰った。


西洋の奇跡(モンサンミッシェル)

2007-07-24 | Weblog
いよいよ今日は「西洋の奇跡」モンサンミッシェルに行く日。
朝、ホテルで朝食を食べてから、レンヌ駅横のモンサンミッシェル行きのバス乗り場へ急いでいった。

9時40分出発のバスだけど9時にはバス停に到着。このバスはパリのモンパルナス駅7時05分発のTGVにうまく連結するようにダイヤが組まれている。ガイドブックには、バスの一番前に乗ったほうが良いと書いてあったので、パリからのTGVが到着しないうちのバス停に来た。
意外にもレンヌに泊まってる人は少ないらしくバスが来た時も何人も並んでいなかった。・・・・(予定通りに一番前の席に座れた。)
そのうちに、TGVから来たと思われる人がどやどやってきてようやくバスが動き始める。

バスはフランスの田舎道をドンドンと進んでいった。一時間半あまり走った後、バスの運転手がマイクでなにやら言ったと思ったら、目の前にモンサンミッシェルが見え始める。(バスの前方に見えるため一番前の席が特等席になる)
なるほど、中々の威容であった。
11時ごろやっとモンサンミッシェルの入口に到着した。

さっそく島の入口から中に入る。結局ここから修道院まで「グランリュ」と呼ばれる一本道を登るのみである。フランスでも有数の観光地とあって細い通りいっぱいに人が溢れていた。
通りの両側にはお店屋さんが並んでいる。お土産などを見ながらドンドンと進む、でももうすぐお昼なので、ここでスタンドバー見たいなお店に入ってホットドックとピザで昼ごはんを食べた。

店をでるとやっと修道院の入口に到着。長い長い列を並んで中に入る。変に大きな蛇口が壁についているとおりを抜けて上まで進んだ。
ここでトイレがあったのでトイレに入ってから島の外を眺める。残念ながら潮が引いていて海は見えず延々水が引いた海のそこ見たいな浜辺が続いている。
修道院の中は、よく保存されていて見ごたえがある。グルグルと1周回った。途中修道院内の教会があってそこの椅子が妙に幅が狭い。お兄ちゃんはその幅が狭い事を意識しないで座ったため体が反対側にくるっと回って頭を床にぶっつけって泣いていた。

修道院をぐるっと回って出てきたら、そろそろ下に行って帰りのバスを待つ時間となっていた。またアイスなどを食べながら下まで歩いて言って3時のバスでレンヌに帰る。

レンヌに戻ってから、ホテルに帰り、また外に出てレンヌ観光に行くことにした。ただガイドブックを見てもあまり面白そうな所が無いので、子供達が喜びそうな「タボール公園」に行った。
この公園は整備のよく行き届いたきれいな公園で、公園内にはいろんな人たちが散策していた。公園をゆっくり歩いてから遊具のある所で遊んだ。
公園からの帰り道偶然にレンヌの川沿いの噴水にであう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
仁義なき戦い―美能幸三の手記より (決戦篇)」 飯干 晃一 著 (読了07)

17.山村組へのクサビ 18.美能幸三への破門状 19.戦闘の発端 20.打越会の優柔不断 21.深夜の激突 22.打越信夫の立場 23.逮捕状 24.山村組の攻勢 25.戦線の錯綜 26.不徹底な終息 あとがき


ポンピドーセンター(パリ)

2007-07-23 | Weblog
パリ2日目。
当初の予定では今日はベルサイユ宮殿に行くはずだった。ところがベルサイユ宮殿は月曜日はお休みという事に昨日気がついた。
そういうわけで、ベルサイユ宮殿は最終日に変更して今日はポンピドーセンターに行くことになった。
もっとも、今日は朝から雨、月曜日がお休みと気がつかなくっても予定を変えていたような気もする。

ホテルをチェクアウトして、とりあえずモンパルナス駅へ行く。明日モンサンミッシェルに行くために今日夕方レンヌまで移動しなければならない。
レンヌ行きのTGVがでる駅の下見をかねて荷物をコインロッカーに預けようと思う。
地下鉄に乗ってモンパルナス駅で降りる。国鉄の駅まで長い長い通路を通ってやっとモンパルナス駅に到着した。ガイドブックによるとモンパルナス駅はかなり大きいとある。駅案内板で電車の乗り場などを確認した。
次にコインロッカーに荷物を預けに行く。フランスではテロ対策のためにコインロッカーが撤去されているようで今まで行ったほとんどの駅には無いんだけど、さすがにパリのモンパルナス駅にはある。前回のパリの時に使ったリヨン駅のコインロッカーと同じく、入口で荷物をX線検査を受けて、本人は金属探知機を通って中に入る方式である。
ロッカーに荷物を入れてコインを入れ鍵をかけると、開ける時に必要な番号が書かれた紙が打ち出され、それをもらう方式。
荷物を預けてから、ポンピドーセンターの開館時間(11時)まで時間があったので、駅カフェで朝ご飯を食べた。

また、長い地下鉄の通路を通って地下鉄に乗りポンピドーセンターに11時15分前ぐらいについた。雨が降っていたがすでに列が出来ていたので、ママと子供達をぬれないとこに待たせて、列に並んだ。ちなみにこの列は、セキュリティチェックの列だった。
中に入って、近代美術館の入場券を買って荷物を預けたらお昼も近かったので、先に2階のカフェでお昼ご飯とした。
ポンピドーセンターの一階に何かオブジェが釣り下がっていて、時々それが落ちたりしていた。

ご飯を食べてからいよいよ4階5階にある、近代美術館に入った。
まずエスカレーターに乗って一番上まで行った。ここでは企画展がやっていたので入ってみた。入口に変な自動車のオブジェがある。下の子が妙に気にいったようで中々離れようとしなかった。
次にいよいよ常設展に入る。ガイドブックには「まず階段を登って5階から見よう」と書いてあったので上に行ってみた。なるほどなるほど、良く知っている名前の人の作品が並んでいた。ポロックなどあまり見たことの無い人もあった。っが、しかし、いわゆる教科書に載っているような代表作のような作品は少なかったように感じた。バルチュスの作品が印象に残る。5階を回っているうちに下の子もおにいちゃんも飽きたようでママと一緒に端っこの休憩できるところで待たしてとりあえず1周した。
次に下の4階に行く。5階は1960年代までで4階はそれ以降から現在まで。下の階の作品は新しいので、あまり聞いたような名前は無かった。何処かでこれ見たな?というのが何点かあった。
飽きた子供達を残して駆け足で回った。

近代美術館を出てから一階の子どものための企画の部屋に行った。
ここでは、積み重ねるをテーマにした作品とその写真が飾られてあり、また紙とサインペンが置いてあって子どもが絵を書けるようになっているのと、プラスティックのボールやコップなどがいっぱい置いてあってそれを子どもが積み重ねて遊べるようになっていた。
お兄ちゃんが積み重ねているのを見て、下の子もさっそく挑戦。ボールをそのまま積み重ねただけだけど、何とか積めたみたい。

3時ごろレンヌ行きのTGVに乗るためにポンピドーセンターを出てモンパルナス駅へ。荷物をコインロッカーから出してきて、夕ご飯を買ってTGVに乗った。

レンヌについてからホテルに入った。予約したホテルは二つ星だったので、どんなところかちょっと心配したんだけど、予想外に良いホテルだった。バスタブが無かったのはしかたないとして、チャンとお兄ちゃんのエクストラベットも入れてあったし、なによりお茶を沸かせるポットがあった。(インスタント・コーヒーとクッキーも置いてあった。)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
仁義なき戦い―美能幸三の手記より (決戦篇)」 飯干 晃一 著

9.新生山村組 10.打越組の窮地 11.張りつめた空気 12.山口組の重圧 13.打越組から打越会へ 14.本多会の出現 15.山口組対本多会 16.二転三転


凱旋門(パリ)

2007-07-22 | Weblog
今日から3泊4日のパリ・モンサンミッシェルの旅に出る。
まずは、7時50分のTGVに乗ってジュネーブを出発。

パリに行くのはこれで2回目前回は1月の寒い中だった。今回の目的はパリで前回行きそびれた凱旋門と中に入れなかったポンピドーセンターに行くこと。ママの希望のモンサンミッシェルに行くこと。ぼくの希望のベルサイユ宮殿に行くこと。それからそれからお兄ちゃん希望の「ラーメン屋さん」に行くことである。
お兄ちゃんは前回のパリ旅行では、3日続けてラーメンを食べたが、今回もラーメンを食べるのが待ち遠しいようで、「ぼくが、パリで一番すきなのはね。しょーゆらーめん!」などと叫んでいた。

11時過ぎにTGVはパリのリヨン駅に着いた。早速地下鉄にのりオペラ座近くの日本通りに行って中華屋さんに入った。ここは前回パリに行ったときも入った店。お兄ちゃんはさっそくしょうゆラーメンを注文。ボクは、チャーハンを食べた。

店を出た後、ホテルまで歩いていった。今回はルーブル美術館至近のホテル。チェックインして荷物を置いて、さっそくパリの街へ。

まずはループル美術館内のお土産屋さんに行こうと思って、ルーブル美術館の入口のピラミッドまで行ったんだけど、どうやら切符を買わないとお土産屋さんのところに入れないみたいだった。
しかたなくルーブル美術館前のチェイルリー公園に出ていた大きな観覧車のところへ行ってみた。しかし、けっこう値段が高いので、お兄ちゃんは横にあったトランポリンで我慢してもらった。

その後、今回の目的の一つの凱旋門に行った。地下鉄から降りて地下道を通って凱旋門へ。中々大きい。上までのぼるための券を買って歩いて登った。天気もよくパリの街が一望できた。
凱旋門からシャンゼリゼ通りを歩いてみる。日曜日なのにやっている店も多く。人で賑わっている。アイスを食べながら歩いた。
途中、日本語を含めて各国語で「公衆トイレ」という看板があった。お兄ちゃんもトイレに行きたそうだったので行ってみると、高級ショッピングモールのトイレであった。入口におじさんがいて1ユーロで入れる。トイレの中には入らなかったけどお兄ちゃんが言うにはピカピカであったそうだ。それより面白いのが、入口におしゃれなトイレ用品が売っていて、炭を練りこんである黒いトイレットペーパーとかヨーロッパで流行っている「SUDOKU」付きトイレットペーパーなど面白いものが置いてあった。

シャンゼリゼ通りを抜けたら公園があったので休憩をした。公園には自動車などの乗り物系のメリーゴーランドがあってお兄ちゃんと下の子と二人を乗せてあげた。下の子は乗り物が好きらしく随分と楽しかったみたい。
その後、また日本人通りに戻り日本食品店でオヤツなどを仕入れてまたラーメン屋さんに入ってラーメンを食べた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
仁義なき戦い―美能幸三の手記より (決戦篇)
飯干 晃一 著 角川書店
1980 500円+税

1.サカズキ外交 2.山口組との結びつき 3.山口組の大構想 4.山村辰雄の思惑 5.博多事件 6.事態の急転回 7.広島の暗雲 8.岡組相続の披露

TGVの中で(決戦篇)読みはじめ


「アウトローの本流・博徒」1

2007-07-21 | Weblog
「やくざと日本人」猪野 健治 著

第三章 アウトローの本流・博徒 1.博奕の流行

明治維新前までの博徒について。
幕府が直轄する江戸では、町奉行の目が光っているので大きな博徒集団は成立できなかったが、町奉行の目をかすめて、博徒は流行した。
当時関八州は天領や寺社領が多かった。そのために多くの博徒が発生した。大名領、旗本領、寺社領などでは取り締まり権限が違うために、博奕をやって追われても隣の領地へ逃げてしまえば、逮捕される事はなかったからである。
幕府もその対策として「八州廻り」を置いて、領地の別に関係なく取締りをしたが、八州廻りの低賃金と地元の代官などの汚職によりその機能は半減してしまった。

関八州に博徒が集中的に横行した因は、一に同地域は天領、大名領・旗本領、寺社領が混在していたこと、ニに天領はその石高、領域に比し、人員が少なく、かつ代官が小禄旗本で、増税と賄賂政治に憂き身をついやした結果、治安が悪くなったこと、三に関八州は五街道が縦横に走り、宿場、産業地(生糸、絹)、漁港にめぐまれ、貨幣経済の発達が早かったこと、四に江戸に近く浪人の流入が激しいため、特異な侠的気風がつちかわれたこと、五に農村疲弊により、"田捨て百姓”があとを絶たず、博徒の人的資源である無宿者(あるいは、他地域からの遊俠無頼の流入)を数多く生み出したこと、六に風水害・旱魃などの天災が博徒の新たな人的資源になったこと、富が町人特権階級、大地主に片寄り、貧富の懸隔がはなはだしくなり、それが投機思想を呼び起こし、賭博を流行せしめたことーーーの六つに要約できる。



「火消人足全盛時代」

2007-07-20 | Weblog
「やくざと日本人」猪野 健治 著

第ニ章 火消人足全盛時代 1.遊俠無頼から火消しへの系譜 2、新門辰五郎

旗本奴、町奴の消滅の後に、無頼化した火消人足について。

旗本奴、町奴が消滅したのち、登場したのが火消人足である。そして、江戸中期以後の親分子分集団の主流となる。
火消人足は武家火消しと町火消しに二分された。武家火消は旗本、御家人の次男三男を主体に構成され、町火消は、高所作業に従事する鳶(とび)人足が主体であった。

当時の火事場は戦場であった。
現場に到着したら、まず消し口(消化目標)をきめる。消し口がきまったら、纏持(まといも)ちが梯子(はしご)でのぼって、燃えあがる建物の屋上に、組の纏を立てる。これを目標に消火作業がおこなわれる。纏は、組の紋章であり、心意気の象徴である。纏持ちは、組頭が命令するまでどんなに火勢が強くなっても逃げることは許されなかった。纏持ち自身も逃げることを恥として、建物が焼け落ちるか、鎮火するまで地上へはおりないのが普通だった。だから纏持ちには、組内でもっとも度量のある若者が選ばれた。地上にいて水をくみ、直接消化にあたる者も、纏持ちを殺すまいと必死であった。

このような状況下で自然に親分子分の情義がうまれ、また「太く短く」の刹那主義は、賭博、酒、女へと駆り立てていった。

武家火消の最下層の臥煙(がえん)達は、もともとが無役の旗本・御家人の次男三男であり、以前の旗本奴と同じ層である。かれらは、やはり無頼化していった。

臥煙は、大名、旗本の丸がかえだから、専属の火消屋敷に泊まり込んでいた。・・・・中略・・・・
臥煙の服装は季節にかかわりなく、フンドシ一本に法被(はっぴ)一枚、頭は助六のセリフに出てくる生締(なまじめ)に結っていた。足のつくりは真新しい白足袋一足である。
臥煙は、素肌に法被一枚というのがトレードマークだったから、肌の手入れは入念だった。その一つが刺青(いれずみ)である。
・・・・中略・・・・
給金は、一ヵ月にニ朱から一両二分で、火事のないときは、屋敷へ博徒を引っ張り込み博奕を打った。銭湯へ行ってもカネを払わず、芝居小屋は木戸ご免、商店では酒代をタカリ、料理屋では無銭飲食やツケで飲み食いした。

町火消は、平時は本職の鳶などを営んでいた。しかし、町火消制度が整うと、町費から捨銭とか足留銭を支給される共に、法被、股引などの必要品は支給された。
火事の時には、彼らが頼りであるため町内では彼らを優遇した。そしてその結びつきはしだいに彼らを町内の市民兵的存在に変えてゆき、もめごと、喧嘩の仲裁や商家にきてユスリ、タカリを働く無頼漢を追っ払うことまでが仕事に一部となっていった。
「町内の治安を守っているのはおれたちだ」という特権的な意識は、彼らを無頼化していった。そして、祭礼に際しての酒手の無心、芝居小屋、興行場の木戸ご免、銭湯の無銭入浴の習慣化、博奕の公然たる開帳、喧嘩なおりの盃代の要求など臥煙と変わるところが無かった。

当時の劇場は多数の観客が集まるため、火事が多かった。そのため文化ごろから劇場に限らず興行元は、地元の鳶頭のところに包み金を届けるようになった。これはその後、「ショバ銭」「ゴミ銭」となり鳶の親分は防火をかねて人を出し、場内整理、客制限、警備を引き受けた。


「カブキ者と遊俠無頼」2

2007-07-19 | Weblog
「やくざと日本人」猪野 健治 著

第一章 カブキ者と遊俠無頼 3.旗本奴の形成土壌 4.町奴の台頭の基盤

今日の部分は旗本奴、町奴の形成と消滅について。

まず、旗本奴の構成は、旗本および家禄を継ぐ権利のない旗本の次三男、御家人等である。当時は旗本と言っても小禄者はカユをすすって生きなければならない困窮振りであった。
彼ら旗本奴は異風俗・意地の形骸になりはて、弱いもの(町人)に無理難題をふかっけることに始終した。

旗本奴の日課は、<賭博を打つ事、喧嘩をする事、喧嘩口論の調停をする事、また試し切・辻斬等の狼藉は勿論の事、常に結党、交遊、花町に遊ぶ>(尾形鶴吉『本邦俠客の研究』)ことであった。意地と異装と、奇矯をつらぬくことによって、旗本奴は、自由な空間―――仲間だけの世界を得ようとしたのであった。

幕府はこのような旗本奴を弾圧した、そして貞享三年九月の大禁圧をもって、旗本奴は掃討された。

一方、旗本奴に対抗した町奴の本業は口入れ業であった。当時の江戸は千代田城など建設ラッシュであり、三千石以下の無役の旗本は「小普請入」と称して、百石につきニ、三人の人足を千代田城の修理、改築、幕府直轄の土木工事に出すことになっていた。しかし、常時人足を抱えていては大変なので、必要に応じて人足を口入れ屋に依頼していた。また、口入れ屋には浪人をはじめ田を棄てた百姓、借金に追われた者、農民町民の三男以下の厄介者などが多数集まり、口入れ屋は、割元、元締と呼ばれて彼らを大名、旗本などに斡旋していた。
武家の家に出入りするため、口入れ屋は元武士の浪人がなることが多く、また血気盛んな者を統率しなければならず相当の度量と統率力が無ければ勤まらなかった。

口入れ屋は、いつでも武家の求めに応じられるよう一定の人数を常時大部屋に住まわせていたが、血気の若い連中のことだから、仕事がないときは、武術を習得したり、酒や賭博、女遊びにときをすごしていた。

口入れ屋の親分は寄親と呼ばれ、そこに籍を置くものは寄子と呼ばれた。
そして寄子や寄親に従属した。この寄親の絶対的権威化のなかに、後の博徒社会における親分子分の関係の萌芽があった。
このような町奴は町民側にたち、旗本奴と対立し喧嘩や抗争事件を起こす。

幕府は町奴を弾圧したが町奴は消滅しなかった。しかし元禄二年に小普請の義務が金納制に改められると口入れ業が成り立たなくなり町奴は衰退した。


「カブキ者と遊俠無頼」1

2007-07-18 | Weblog
「やくざと日本人」猪野 健治 著

第一章 カブキ者と遊俠無頼 1.下級武士に発した無頼 2.旗本奴・町奴登場の社会的背景

今日の部分は、やくざの発生と江戸初期のやくざについて。

まず、日本におけるやくざの起源は室町ー戦国末期の遊俠無頼である。このころは日本中が戦乱にみだれていた彼らはチャンスがあれば上位に上がれるとの気概にあふれ、暴れまわったカブキ者であった。戦国末期におけるカブキ者は、武家の奴僕、下級武士を核とする武家社会の内部に生じた八方破れの抵抗集団だった。しかし彼らの行動は「風のふくまま」「気のむくまま」であり単に「男をタテル」ことを売り物にした。

地域社会に根ざした今日のような職業やくざの原型は江戸期以降であり、賭博が組織化され、専門家(やくざ)によって経営されたのも江戸期以降である。

江戸初期には、まだ戦国の遺風もあり下克上の気風も残っていた。そのころのカブキ者は反逆精神にあふれ約束ごとを重視した。また主従の関係よりも、仲間とのヨコのつながりを重視し、その血誓の実践に命をかけた。主君が下僕を手打ちにした時、その下僕の盟友に切り殺されるという事件も多く発生した。
江戸幕府もこのように幕政の権威に反抗するカブキ者に警戒感をもち、カブキ者の取り締まりをおこなった。

政保・慶安(一六四四~一六五二年)には、このような武家社会の底辺層のカブキ者に加えて、旗本奴、町奴が登場する。
旗本奴は太平の世に倦怠した旗本や御家人達であった。この旗本奴に対抗して町人側についた無頼を町奴と呼んだ。町奴の首領は多くは、太平の世になり必要がなくなった浪人たちであった。


『やくざと日本人』

2007-07-17 | Weblog
やくざと日本人
猪野 健治 著 筑摩書房(ちくま文庫)1999 780円+税

プロローグ

ここでは、やくざについての短い文章をならべてある。
まずその構成要素はいつの時代においても、社会から疎外された被差別階層である。

封建時代においては下級武士、浪人、人足、農民、職人等であり、明治以降は没落士族、中小鉱山・港湾・土建業関係者、土方、農漁民、職人層、被差別出身者の一部であった。第二次大戦後は、これに在日朝鮮人、在日中国人(旧台湾省民)の極貧層が加わる。日本帝国主義の手で、軍需工場・鉱山・炭鉱等で苦汁労働を強いられていた彼らは、解放されるまでは、やくざになることさえ許されなかったのである。

やくざはかつては独占資本や政治に有用であったが、すでにその蜜月時代はさった。警察のやくざの取り締まりは厳しくなりやくざ組織は解散させられているが、しかし構成員は減ることは無かった。

やくざをやめようとする者に行きどころがなく、やくざでない者をやくざに追いやる社会状況がある以上、やくざがなくならないのは、あたりまえである。

暴力団新法後は警察の追及のため、本来は秘密結社で無いやくざの社会にも変化が出てきた。

これからのやくざは、二つの方向に流れていく。
一つはフロント企業を通じて、経済界の深部にまで深く食い込み、浸透していく経済指向型であり、いま一つは従来型の市民社会に根ざした資金源にしがみつく伝統指向型である。この二つの流れとは別に、完全マフィア型の新勢力が台頭することはほぼ間違いない。

だからといって私は、やくざの存在を是認しようというわけではない。ただ日本のやくざには約五百年の歴史があり、長い間、権力・市民社会の双方から利用されてきた。やくざはまぎれもなく一定の役割を果たしてきた。決して百パーセント社会の敵でありつづけてきたわけではない。その歴史や構造を洗い直すことなしに、一片の法律だけで押しつぶしても、かえって副作用のもたらす害毒のほうがひどくなるーーーと警告したいのである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【購入図書】07 (アマゾン)

英文の読み方
行方 昭夫 著 岩波書店(岩波新書)2007年 740円+税

人物で語る物理入門〈下〉
米沢 富美子 著 岩波書店(岩波新書)2006年 740円+税

仁義なき戦い―美能幸三の手記より (決戦篇)
飯干 晃一 著 角川書店
仁義なき戦い―美能幸三の手記より (決戦篇)(角川文庫)1980 500円+税

旅の指さし会話帳〈21〉JAPAN
榎本 年弥  著 情報センター出版局 2001年 1,500円+税

やくざと日本人
猪野 健治 著 筑摩書房(ちくま文庫)1999 780円+税


ミニ鉄道公園(Le Bouveret)

2007-07-15 | Weblog
今日は電車に乗って、船に乗ってレマン湖の反対側にある「ミニ鉄道公園(Swiss Vapeur Parc)」に行ってきました。
8時にバスに乗り出発。ジュネーブ駅でミニ鉄道公園と電車+船のディスカウントチケットを買う。
9時ちょっと前に電車に乗った。買ったディスカウントチケットの経路はモントルーから船に乗って対岸にあるLe Bouveret(←発音がわからん!)まで行くコースを通る。Le Bouveretは途中で川があり、またフランスとの国境沿いのため電車の便が悪く、船で行くのが一番簡単である。
モントルーで降りて船着場まで歩く、そしてやってきた船に乗った。この船もこの前ルツェルンでのった船と同じように外輪船だった。
この船は、シオン城にもとまる。湖がわからのシオン城の眺めもなかなか良い。

11時ごろやっとLe Bouveretにつき、さっそく「ミニ鉄道公園」に入った。施設としては中規模で施設の中をミニ列車が何台も走っている。まずは入口にある駅から蒸気機関車に乗った。
ココですごいのは、蒸気機関車はチャンと石炭で走る本物。(以前ルツェルンの交通博物館にあったミニ機関車も本物だった。)チャンと駅で給水していた。
「ポッポ~」と汽笛を鳴らしてから出発。コースは長く途中に橋があったりトンネルがあったり。長いつり橋まであった。風景もミニ鉄道に合わせてスイスの建物のミニチアになっている。知ってるだけで「エーグル城」、「シオン城」、それからレザンにある有名な「展望台レストラン」などなど、電車も「氷河急行」、「ゴールデンパス パノラマティック」、「ロシュドネ鉄道」などがあった。(しかも電車は凝っていて細部の絵までそっくり)

長い一周が終わったところでお昼も近いので、ベンチでお弁当を食べた。このころ下の子もやっと状況を把握したらしく。しきりに「あ・・」と言って、電車のほうを指差していた。

お土産屋を見て、その後何周か電車に乗って、オヤツを食べにセルフのレストランに入りアイスなどを食べた。
コースは同じ所を通るんだけど、ふと気がつくと一部小高い丘になっていて登山鉄道のラックレールがあるコースがある。あれは、きっと登山鉄道の車両に乗ると走るに違いないと思い。レストランにママと下の子を残して、お兄ちゃんと「ロッシュドネ鉄道」に乗った。
しかして、やっぱり途中から丘の上に行くコースに入った。(本物っぽさに妙に感心した)

その後、ミニチアの建物を見たり、電車に乗ったりしてすごす。(下の子は電車に乗りながら寝ちゃったので、ママとベンチでお休みした。)
船の時間が4時くらいなので3時半に「ミニ鉄道公園」を出る。

お兄ちゃんもだいぶ疲れたと見えて、帰りの船の中で寝てしまいました。