THE READING JOURNAL

読書日誌と雑文

「沙漠の叙事詩」 2

2009-09-30 | Weblog
「アラビアのロレンス」(改訂版) 中野好夫著

沙漠の叙事詩 2

アカバ急襲の直前、サイクス=ピコ秘密協定の存在がロレンスの耳に入った。この暴露の発端はロシア革命であった。革命政府は旧帝政政府の公文書を捜査し、この背信的密約を入手した。この内容を察知したトルコ政府は、アラブ叛乱軍の後方撹乱のためにこれを利用した。
当然の結果としてアラブ人はロレンスに詰問した。アラブ人たちは、イギリス政府の約束を保証する事を求めた。彼はひとたび戦争が終わればアラブ人たちへの約束など死文字と化すことは容易に想像できたが、中東戦局の勝利にはアラブ人が欠かせないため、イギリスはその約束を必ず実行すると保証した。
彼は、誓った。列国も適切な対応をせざるをえなくするため、アラブ叛乱を中東戦局の一翼ならしる事を。

だが、それにしても、彼の良心はその負債(おいめ)を払ったことにはならなかった。「欺瞞という事実は依然として別の問題だった」からである。

六月十九日アカバを目指す進軍が始まった。連日六時間行動しては、一、二時間の休憩を取ることを日夜を通して続けた。そしていよいよアカバを急襲した。

闘士アウダを先頭とする五十騎のらくだ隊は、高地を下りなだれを打って殺到した。戦闘は数分にして決定した。

ついに七月六日、ウェッジ出発以来実に五十七日にして待望のアカバ入市は成就せられたのであった。アカバ攻略のもっとも重大な意義は、

この最初は渺たる一地方土民の蜂起にすぎなかったアラブ叛乱が、いまやある意味では中東戦局を左右しかねないフランケンシュタインの怪物に成長しかけたことである。


CHECK

2009-09-29 | Weblog
今日、先日行ったアメリカ出張(ココ参照)の相手先から手紙が届いた。
開けてみると、303ドルのCHECK(小切手)が入っている。手紙には、出張代をカバーするCHECKを確認してください。みたいな文章。

今回の出張は、滞在費・交通費共に相手が持ちだったのだが、別にこっちらで払った物はナシ。
いや、あった。帰りに頼んだはずのリムジンが来ないで急遽タクシーを呼んだが、その時のタクシー代(100ドル)はこちらで払った。(ココ参照)
(もっとも、文句を言ってないのであるが?)

なんだかよくわからないが、まあ貰えるものは貰ってしまおう。
でも、これってどうやって換金するんだろ?と思ってネットで調べてみると、銀行で換金してもらえるらしい。シティーバンクが手数料が安いとの事だったので、今度東京に行った時にでも換金してみようと思う。

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「分布定数回路のはなし」
伊藤健一 著 日刊工業新聞社(SCIENCE AND TECHNOLOGY) 1900円+税 2003年

はしがき、第1章 電波だって、伝わるのに時間がかかる 1.1 花火・・・・ピカっと光ってから、しばらくたって、ドン、1.2 彼と彼女の会話、1.3 光とか電気とか、1.4 プリント板上だと、電気は、1mmを3.33psでつっ走る、1.5 BSデジタル放送の場合、1.6 画像処理のためでも、時間遅れ、1.7 λf=c ・・・ という公式、1.9 波長短縮・・・・電磁波の波長が、絶縁物の中だと、空中より、短くなる・・・・

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【購入図書】09 (アマゾン)

「電磁場の古典論」
岡 真 著 倍風館(新物理シリーズ39) 3000円+税 2009年

「分布定数回路のはなし」
伊藤健一 著 日刊工業新聞社(SCIENCE AND TECHNOLOGY) 1900円+税 2003年


「断碑」

2009-09-28 | Weblog
「或る「小倉日記」伝」 松本清張 著 (読了09)

断碑、解説(田宮虎彦)

昭和十年十一月十一日にシズエは息を引いた。容態の急変を雇い婆さんが、木村の親に知らせ、親は京都の卓治に電報を打ったが、間にあわなかった。
晩秋の大和(やまと)平野に陽(ひ)が赤くなるころ、棺は鯨幕(くじらまく)を張った卓治の実家を出た。剣が賑やかなので喜んで笑っい廻っていた。その同級生の一年生が女の先生に引率されて、道傍に並んで棺を礼拝した。肌寒い風が吹いていた。
三輪山が東に見えるところに火葬場はあった。白い棺は暗い竈(かま)に入った。卓治は渡されたマッチをすって投げた。枯れた松葉が棺をめがけて勢いよく燃え上がった。
「シズエ」
卓治は泪(なみだ)が溢(あふ)れ出してうずくまった。

「土器における可搬性と定着性の問題を進めるように。それは一方は文化における放浪性と定着性の問題になろう」
といったのが、聞きとれる最後の言葉となった。
昭和十一年一月二十二日に息をひいた。シズエの死から三か月後であった。三十四歳。
遺品は埃(ほこり)をかぶったマジョリカ焼の茶碗と菊判四冊分の切抜きがあるだけであった。


カレー屋さん

2009-09-27 | Weblog
昨日の落ち葉落としも上手く行ったので、今日は朝から帰り支度をする。
コインランドリーで洗濯をしたりして、11時に出発した。

さて、お昼はどこで食べようか?と思う。
子どもたちもそんなにお腹がすいてないだろうから、ちょっと走ってマックあたりにしようかとも思ったが、よく考えると1時になってしまう。
それでは、遅いのでわりと何度も来ているカレー屋さんでお昼とした。
ここのカレーは、なかなか美味しくって、お兄ちゃんはもとより、お腹がすいていないはずの下の子も、甘口カレーをちゃんと一人前食べた。
(おいしい物なら入るらしい)

それから、いつもの「なかがわ水遊園」で一休みする。もうそろそろ結構寒いのだが、まだ噴水もやっていて、お兄ちゃんも下の子も、やっぱりずぶぬれになった。


屋根の落ち葉

2009-09-26 | Weblog
連休に来たばかりだが、今週末も天気がよさそうなのでお山の家に来た。
今回のメインテーマは、屋根に積もった落ち葉を落とすこと。
昨年、木を切ったので供給は無くなったんだが、何と言っても長年にわたって積もっている。風で落ちるものでもないらしい。

一階の屋根部分には乗れるだが、二階の屋根部分には乗れないのでどのように落とそうかと思い、いろいろ考えたが、熊手の前と後ろにひもをつけて屋根に乗せ、それを引っ張って落とすのがよさそうである。

午前中、命綱をつけて一階部分の屋根に登る。とりあえず一階部分の落ち葉が熊手をひもで引いてどのくらい落ちるかをチェックした。(わりと落ちる)

お昼に買い物に行って、午後いよいよ二階部分の落ち葉を落とそうと屋根に登った。最初にボールにひもをつけて二階部分の屋根に投げる。ママがボールを拾ってうまくひもが渡った。ひもに熊手をつけて屋根に乗せた。
後は、家のむこうとこっちでひもを引いたりゆるめたりしながら屋根の落ち葉を下に落とすだけ、途中からひもが長いのでボクも屋根から降りて家のむこうとこっちでひもを引きながら、作業した。
2本のひもで熊手を操るのがけっこう難しく、少しづつしか落ち葉は落ちなかったが、休憩をはさんで午後4時くらいまでやったら、屋根の半面が終わった。
熊手で落とすのが有効とわかったので、後半面はまた今度にした。


「石の骨」

2009-09-25 | Weblog
「或る「小倉日記」伝」 松本清張 著

石の骨

それでも彼女の耳もとに、
「おい、石の骨が認められたよ」
とくり返し言ってやった。人骨化石とも腰骨化石ともいわず、ふみ子は「石の骨」といっていた。
もとよりそれが彼女の聴覚を通過しても意識に受けつけられる筈(はず)はなかった。が、何かそれも断続があるとみえて、ふとそれが通じたような返辞をした。
「うれしいわ」
と呟(つぶや)くような、緩慢な語調であった。


「笛壷」

2009-09-24 | Weblog
「或る「小倉日記」伝」 松本清張 著

笛壷

寺に着いた時はあたりが暮れなずみ、堂の内は暗かった。案内の僧は蠟燭(ろうそく)で国宝の釈迦(しゃか)を見せてくれた。俺は蠟燭の焔(ほのお)が三尺にも足らぬ黝(くろ)い白鳳仏(はくほうぶつ)を撫(な)でるように照らしとき、心の中で不思議な落着きができた。空虚な気持に変わりはなかったが、今までふわふわと浮いたものが沈潜したようになった。


風邪ひきでお帰り

2009-09-23 | Weblog
今日は、お山の家から帰る日。おととい来た時からなんだかのどノドが痛く、鼻もつまっていたが、今日起きると、ちょっと頭痛もする。
朝ごはんを食べてから、お昼まで寝かせてもらった。

お昼に起き、ご飯は食べないで薬だけ飲んだ。それから部屋の片づけ等々をして、2時半に出発した。
まっすぐには帰らずに、またも「南ヶ丘牧場」による。もちろんお兄ちゃんのたまごっちの虫判を買うためである。(ココココ参照)しかし、今回も入荷されていなかった。
下の子とお兄ちゃんは、当然のようにアイスを食べ、お菓子を買ってから帰る。

その後、ちょこちょこと止まったわりには、早く8時半には家に着いた。

たき火とペンキ塗り

2009-09-22 | Weblog
今日は朝から忙しく働いた。
今回の目的は、昨年の木の伐採時に大量に出た枝の焼却と外階段の腐った部分のペンキ塗りである。

まず、朝からたき火をした。使っていたバケツくらいの大きさの焼却炉が古びて困っていたが(ココ参照)、ネットで探したらあった。「たき火どんどん」という商品名。(今使っているものもこの会社の物である。)
このシリーズは、ちゃんとダイオキシンが出ないように高温燃焼させる二次燃焼室を持つ物。しかし、枝やはっぱしか燃やさないので、その下部分だけの「B級ドラム」を買った。
大きさは、使っているものより一回り大きく、タルくらいである。大きくなったためか、作業は非常にはかどった。

午後になってからお買い物にいく。ご飯も食べようという事で、何軒かお店に寄ったが、連休のためか、全部混んでて入れない。しかたなく、スーパーでパンその他を買って公園で食べた。(子供たちはその方が楽しいみたいである)

帰ってから、いよいよ外階段の傷んだ部分のペンキ塗りをする。
ここは、階段の一番下の支柱。昨年の冬に支柱の裏部分が腐っていたらしく、雪を落としたらボロっと表面の木ごと剥がれた。よく見ると腐っていてアリが住んでいるような状態。
今日はまず、腐っている部分をごりごりと剥がす。虫歯の治療みたいである。大体はがれ終わってから、ペンキを塗った。
本当は、木工パテのような物で盛るとよいのだが、結構な体積になってしまう。


ぐるり森

2009-09-21 | Weblog
昨日の点滴が利いたらしく、お兄ちゃんの風邪はすっかり良くなった。
そこで、今日お山の家に行くことにした。

今日はいつもの道を通らず、まずお兄ちゃん念願の「ひたち海浜公園」に寄る。ここでは、「ぐるり森大冒険」という新しいアトラクションが目当てである。(ついでに、お兄ちゃんのスタンプラリーも押せた)

風邪の様子を見てたりしたので、出発は10時過ぎになった。「ひたち海浜公園」までの道は、連休中とあって非常に混んでいた、何度か渋滞を避けて抜け道を行く。途中、お昼御飯をはさんで、1時半ごろにやっと「ひたち海浜公園」に着いた。ところが、駐車場がいっぱいで、ちょっと離れたところにある臨時駐車場に駐車する事になる。結局、園内に入ったのは、2時を回ってしまった。

園内に入ると、すぐに「ぐるり森大冒険」に行く。このアトラクションは、なんだか迷路をめぐって、クイズに答え、最後にカードを貰えるというもの。
料金は500円・・・高い。下の子は保護者と一緒でないと入れないので、ママと一緒に行って、ボクだけ外で待っていた。
しばらくすると、お兄ちゃんが出てきた。手にはなんだかカードを持っている。それから、もうしばらく待つと、ママと下の子が出てきた。
お兄ちゃんはママが持ってるカードをもらいたそうだったが、結局それは下の子のモノになった。
迷路とカードで500円は、高いなと思っていると、手に何枚も何枚もカードを持って並んでいる子供が結構いた。手首に1日券を買った時に貰える腕輪のような物をしている。(みんなカード欲しさに、一日券を買ってぐるぐる回ってるんだ。)

その後、「クレーター」や「面白チューブ」などで遊ぶ。ここには、お兄ちゃんが小さいころに何度も来たが、下の子は初めてであった。なかなか楽しそうに遊んでいた。

閉園の5時までたっぷりと遊び。近くのショッピングセンターで夕御飯を食べてから、お山の家へ向かった。



点滴

2009-09-20 | Weblog
昨日運動会を休んだお兄ちゃんだったが、なかなか風邪が良くならない。
今日午後診察をしたら、お山の家へ行く予定だったが、どうもいけない感じである。

午後、お兄ちゃんとママは病院へ、ボクと下の子と留守番をした。
留守番中は、ボクも疲れていたので外出をせず、下の子の世話。
なんだか、御ままごとが気に入ったらしく、ずっと料理を作ったりしている。
ちょこちょこ、「パパ、ご飯できたから食べて」とか言っていた。

そのうち、ママから電話がかかってきた。
「今日決着をつけちゃおう、と言う事で点滴になった」
との事。(御ままごとはまだまだつづくらしい)

夕方、お兄ちゃんが帰ってきた。
今飲んでいる抗生剤とは、別の種類のモノを点滴して来たらしい。
明日、治るかなぁ~。


桃太郎ガ島

2009-09-19 | Weblog
編集手帳 読売新聞 2009年9月19日

今日は、お兄ちゃんの小学校の運動会だった。でも、火曜日から風邪をひているお兄ちゃんは、熱が下がらずお休みだった。

今日の新聞のコラム「編集手帳」に面白い話が載ってたので、書き写してみる。

学芸会で「桃太郎」の劇を演じようとしたら、どの親も「うちの子を主役に」と言う。困った先生は台本を書き直し、桃太郎が3人の桃太郎を連れて桃太郎ガ島に桃太郎退治に出かけた・・・という小話がある。


「菊枕」

2009-09-18 | Weblog
「或る「小倉日記」伝」 松本清張 著

菊枕

昭和三年か四年の秋であった。ぬいは布で作った嚢(ふくろ)をもってしきりに出歩いた。帰ってくると嚢の中は、大小の色々な菊の花が入っていた。それを縁側にならべて陰干(かげぼ)しにした。大輪の花でも干すと凋(しぼ)んで縮まる。それを香りがぬけぬよう別の布袋に入れ、さらに花を摘んできては乾した。何をするのだと圭助がきくと、
「先生に差上げる菊枕です」
といった。
「これをするととても寿命が永くなるんだそうです。陶淵明(とうてんめい)の詩文の中にあるそうです」
この菊の花が一杯詰った枕は長さ一尺二寸ばかりで、普通の枕の上に重ねて頭を載せるのだと説明した。

ある日、圭助が面会に行くと、非常によろこび、
「あなた菊枕を作っておきました」
といって布(きれ)の嚢をさし出した。時は夏であったから、菊は変だと思い、圭助が内部(なか)を覗(のぞ)くと、朝顔の花が凋(しぼ)んで一ぱい入っていた。看護婦がぬいにせがまれて摘んできたのである。
圭助は泪(なみだ)が出た。狂ってはじめて自分の胸にかえったのかと思った。


「沙漠の叙事詩」1

2009-09-17 | Weblog
「アラビアのロレンス」(改訂版) 中野好夫著

沙漠の叙事詩 I

一九一七年、ロレンスはワディナ・アイスの盆地に無為の日を送っていたアブドゥラに対して一日も早くメディナに向かって行動するように要請に向った。わずか10名ほどの従えての強行軍であった。しかも彼は赤痢を患っていた。そして、極度に衰弱してアブドゥラのテントに入った。

不死身にちかい彼の肉体は、静かに休養をとるとともに、着々と回復に向かうのであるが、この静養中の思索こそ、今後の彼の叛乱指導に対して、英仏軍部の方針とは全然別に、ロレンス独自のゲリラ戦術の確信に到達させたものであり、その消息は『智慧の七柱』第三十三章、病中の瞑想としてもっとも興味深い一章になっている。

彼は、近代戦術が到達した「近代戦の本質は敵戦力に捕らえて、これを戦闘手段によって撃滅することである」という不動の鉄則に対し一つの懐疑をもった。彼の頭に浮かんだのは「青年ナポレオン自身が学んだ戦術」つまり機動戦で、アラブ土民兵に適当したゲリラ戦術の真髄であった。

この考えに従えば、メディナを取ってはならない。できるだけ多くの敵がメディナその他の無害地に膠着してくれることが大切であった。そのためには、敵の鉄道にできるだけ損害を与える必要がある。

ロレンスはウェッジのファイザルの許に帰り。メディナ攻略に変わってアカバ攻略の新戦略を打ち出した。アカバは海面からの攻撃では落とせないが、背後からの急襲には弱いと思われた。

ロレンスが考えたゲリラ戦術の当面の方針は、できるだけ戦線を拡大し、そうすることによってできるだけ多数の敵戦力を、「まったく前線のない、いわばすべてが腹面を敵に暴露した」ような、きわめて拙い状態に膠着させることであった。もしアカバ攻略が成功した暁には、メディナからマアンに至る順礼鉄道の大半は、腹面からする絶えざるアラブ軍の脅威におびえなければならない。

こうしてアカバ攻略が行われた。ロレンスはアカバ近郊のネブクに到達し、ここでアカバ急襲の最後の準備を整えることにした。

この地における約二週間の滞在が、ロレンスの歴史に二つの異常な事件をもたらしたことである。


「父系の指」

2009-09-16 | Weblog
「或る「小倉日記」伝」 松本清張 著

父系の指

父の実母はそこ頃までこっそり父に会いに来た。年に二、三度くらいであった。矢戸からこの鉄山まで十里の山坂をこえて上がってきた。養母への土産(みやげ)の反物はむろんのこと、わが子に与える着物、下駄、下着などの品を背中に負った唐草模様の風呂敷包みから取り出すのであった。そして、その夜は一晩中、わが子をかき抱いて寝た。