THE READING JOURNAL

読書日誌と雑文

「クローズアップを撮ろう」

2006-08-31 | Weblog
「デジカメ時代の写真術」 森枝卓士 著

第三章 クローズアップを撮ろう ●思い出は「部分(ディテール)」に宿る、●接写モードで撮ってみよう

デジカメの時代になって、何が変わったって、もののアップを簡単に撮れるようになったことくらい、劇的に変わったことはないと思うのだ。

っと言うわけで、第三章は接写について。

ひと昔前だったら、プロのカメラマンがイロイロな機材を持ち込んで撮っていた料理の写真も最近のデジカメでは上手く撮れるようになった。

まず、接写モード(花のマークの部分を押す)にする。それから、料理を窓辺の明るいところに置き、横から光が入る状態で写す。
暗い方(部屋の方)に白い紙を置き光が回るようにしたり、暗い方から窓側を向いて撮るものよい。

注意としては、「自分が目で見た時の感じと同じように写真を撮る」法が良いということ。

アマチュアが撮って、ホームページに掲載していたりする写真をみると、あるいは、料理屋さんでメニューに写真を載せているものなどを見ると、たいていの場合、お皿全部を入れようとしている。・・・中略・・・それでは、説明的な絵柄になってしまう。

もっとぐっとよって(あるいは望遠で)主役の料理を切り取るくらいの方が良い写真になる。

そしてもう1つ大事な事は、

「ここでこういうセッティングで撮る」ということを、料理が出来上がる前に決めておく。

という事である。

小物も同じ要領で撮れる。特に小さいものを撮る場合は、バックは白や黒を避け、ある程度色味のあるもののほうが良い。もしバックを白や黒にしたい場合は、露出を補正する必要がある。

絵や習字のような平面の作品を時は、カメラのレンズと作品の角度が傾かないように、真正面から撮る。

もし、暗い場所で撮らなければならない場合は、まず、極力明るくする。ISO感度が変えられるタイプなどでは、高感度にする。
(暗い雰囲気をだしたい場合は、露出を一段くらいアンダーにする。)
もっと、良い方法は三脚を使い、セルフタイマーで撮る事である。
内蔵ストロボを使う事は避けたい。

最近は安価なライティングボックスのような物も売っていて、そのような物を使用して接写を行なうとプロ並みの写真が撮れる。

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【八月のまとめ】 
読み終わった本は以下の3冊。

「日の名残り」 カズオ・イシグロ 著 (読了06)
「日本残酷物語 第四部 保障なき社会」 (読了06)
「フランスの不思議な町」 巖谷 國士 著 (読了06)


「旅先や街角でのスナップ」

2006-08-30 | Weblog
「デジカメ時代の写真術」 森枝卓士 著

第二章 結婚式、運動会、ペット、風景・・・・・・スナップのコツ ●旅先や街角でのスナップ、●スナップショットの達人になろう

第二章の後半部。

まず旅先でのスナップ写真については、

一番のコツは、現地の人々から見て、こちらがカメラマン、あるいは絵に描いたような観光客に見えない、ということだろう。
・・・・中略・・・・
相手に意識させない。ということが大事なのだ。

さらに、カメラを構えたらすぐに撮っちゃうのがコツである。相手に写真を撮られる事を意識させないためである。そのために著者などはファインダーを覗く前にカメラの設定をしておき、ファインダーを覗いた瞬間にとってしまうという事である。

もう1つ必要なのが「自然な笑顔」であるという、盗み撮りのようにこそこそすると相手の心証を悪くしてしまうからである。

シャッターを押した後、目があったりしたら、一言、「撮らせてもらいましたよ」とその国の言葉でいうなり、相手が拒否できないおうな笑顔を振りまいたら、文句など出てこようはずもない。相手も笑顔で返してくれるはずだ。

スナップでは無いが風景写真の場合は、結局は場数を踏むしかないのであるが、定番といわれるスポットから構図を考えて撮るなどすると良い。
地図を見れば現地に行かなくても太陽の方向などが判るのでスジュールを組むときに参考にすると、ひと味違う風景に出会える確率も上がる。

次に運動会の写真のコツ

運動会のような場で、写真を撮る一番のコツは、モデルである我が子を素早く発見することである。

そのため、著者は自分の子に黄色い靴下をはかせて目印にしていたのだそうだ。
徒競走のようなものを撮る場合は、一眼レフなどについている追尾式モードで撮るか、「置きピン」(予めピントを固定しておく事)で撮るのがよい。
また、望遠レンズでもスローシャッターにして、カメラを構えて走る子を追いかけながらとる「流し取り」も面白い。
望遠でふつうに撮る場合も、自分の子を中心に他の子が脇役になるような構図を考えながらとるとよい。
また、運よく一番前から撮れる場合は、広角も面白い、その場合「置きピン」でピントが合うところでシャッターを押す。

結婚式の写真と同じように、記念となるもの撮っておくとアルバムにメリハリがつく。


「気の利いたスナップのコツ」

2006-08-29 | Weblog
「デジカメ時代の写真術」 森枝卓士 著

第二章 結婚式、運動会、ペット、風景・・・・・・スナップのコツ ●気の利いたスナップのコツ、●記念日を撮る・身近なものを撮る

第二章は記念写真とは対極にあるスナップ写真について

相手が、こちらの意図と関係なく、何か自然な行動をとっている時、それを切り取るように写真を撮ることを、スナップとうわけである。

まず「広角」と「望遠」の違いについて
  • 広角・・・広い範囲が写る。近くも遠くもピントがあう。遠近感を誇張する効果がある
  • 望遠・・・遠くの物を大きく撮れる。背景をぼやかすことができる。(一部の物だけ切り取って見せたい物だけを見せる事ができる)
スナップ写真もこの特徴をよく考えて撮ると、良い写真になる。

広角でとる場合は、主題に近寄り強調した方が良い写真になる。
すぐに動いちゃう子どもとかペットをとる場合は、あらかじめ1メートルとか2メートルとかにピントを合わせる(置きピン)もしくは全体にピントが合うように設定してから撮るのがコツである。
望遠の場合は、絞りを空け気味にして、ピントの合う部分を狭め主題を浮き上がらせるのが効果的。

広角系でスナップするなら、極力、絞り込んで、全体にピントが合うようにしておき、主役を大きく入れる。望遠はバックをぼかしつつ、主役を浮き上がらせるように撮るということが基本だということだ。

「一部しか見えない」ような写真が主題をはっきりさせてよい写真になる事が多い。たとえば穴からのぞくような構図や雪景色や夕景、夜景など。
雪景色のような真っ白なものを撮る場合、ふつうに撮ると露出がアンダーになりやすいので、露出計をいじれるカメラなら少しオーバー(+)気味にするとよい。逆の意味で夕景・夜景などは少しアンダー(-)気味にするのがよいかもしれない。

結婚式のスナップは、まずストロボを使わないで撮るのがよい。
新郎新婦がテーブルを回っている時のように他の人との絡みで撮る場合は広角でよって撮ってもよいが、花嫁の表情を綺麗に残すような写真の場合は、少し望遠気味で撮るのが良い。
また、周辺の小物も撮っておくと綺麗なアルバムが出来る。


「見違えるほど写真が上手になる、ちょっとしたコツ」

2006-08-28 | Weblog
「デジカメ時代の写真術」 森枝卓士 著

第一章 人にあげて喜ばれる記念写真の撮り方 ●見違えるほど写真が上手になる、ちょっとしたコツ、◎基本の「き」

第一章の後半、前半で書いてあったコツ。
  • 「撮りたい人物に近づいて、大きく撮る。撮った場所はそれと分かる程度でいい。」
  • 「全身を入れなければいけない、という考えを捨てる」
をもう少し詳しく。
まず、構図の話。前半で記念写真の場合は、全身を撮らずに半身位にするのが基本であるとありますが、では、どのようにしたら良いか。
まず、胸から上、ウエストラインから上が落ち着く構図であるそうです。全身を写したい場合は、中途半端に膝から切れていたり、靴の上で切れていたりするような事が無いようにすることが大切。

次に逆光(光がカメラの前からくる時)の対処法については、本当はプロが使うようなレフ板を用いるのがよいのだが、大げさになるので、強制的にストロボをつけるだけでも効果が大きいとのこと。
最近のカメラはオートフォーカスで強制ストロボにするだけで自動的に露出が補正されるのである。
もっと、高級なテクニックは、人物をシルエットにしてしまうというのもある。逆光のとき全部シルエットでは困るけど、アルバムにいくつかそういう写真があるとアルバムにも変化がつくとのことである。

最後に基本の「き」として、ピンボケと手ブレのことが載っている。
ピンボケの原因はたいてい、ピントが自動的に合う真ん中に対象物がない場合、このようなときは、真ん中に寄ってもらったり、一度対象物を真ん中にして、シャッターを半押ししてピントを固定してそのまま横にづらして撮るといい。
手ブレの問題は、何といってもカメラをがっちりと持つ事。
特に望遠では、三脚の使用が望まれるが、三脚がない場合でも壁や机などを使って身体を固定するだけで大きく違う。

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「ゼロから始めるフランス語 -文法中心-」 猪狩廣志 著

第33課 関係代名詞(2)/指示代名詞、 第33課 条件法


加納の時間

2006-08-27 | Weblog
昨日、今日と近くで開かれたお祭りに行ってきました。

お祭りと言っても、神社仏閣があるわけでなく、市が主催してるイベントです。
中心は大通りで開かれる、ねぶたと神輿のパレードでしょうか?
市の中心地を通る道沿いに、出店が並んでいたり、ステージがあったり、大道芸がやってたりします。

毎年見に行っているので、ボクは別に行きたくないんだけど、うちのお兄ちゃんが好きなので行ってきました。(2日も!)

屋台で食べ物を食べ大道芸を見るのがコースでして、今回も見てきました。
全部見たわけでないけど、パホーマーの半分くらいは毎年くる人のようです。
「この人、もう5回ぐらい見たから、もうイイ」と思う人や「何度見ても、たいした芸だなぁ~」と思う人までさまざまです。

中で面白かったのは、加納真実ってお姉さんでパントマイムを下敷きにしたパフォーマンスをしていました。大道芸は、会場が数箇所あり時間もまちまちなので、2日行っても同じものを2回見ないんですが、偶然、昨日、今日と2回見ました。

ネタ的には、男に振られた女の話みたいな、子どもに分かりづらいネタなんだけど・・・お兄ちゃんも爆笑してました。
ワタクシ的には、一番冒頭のお客さんの周りを一周回る動きで、これは面白そうだと思わせるところあたりが、なかなか良い感じです。
(昨日と今日でネタを少し変えていました。)

終了してから一緒に写真を撮ったりする人が多いから、「この人有名なのかな~」とママが言っていたのですが、とりあえず「ヘブンア-ティスト」=東京都公認の大道芸人 であるようです。

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【購入図書】06

「スイス」
海外情報部 著 JTBパブリッシング(るるぶワールドガイド) 2006年 1600円+税


「記念写真を失敗しないコツ」

2006-08-26 | Weblog
「デジカメ時代の写真術」 森枝卓士 著

第一章 人にあげて喜ばれる記念写真の撮り方 ●記念写真を失敗しないコツ

まず、記念写真の失敗が載っている。写したい対象物の横に人物がちっちゃく写っている写真である。これでは、写ってる人の表情も分からない。
そこで、どういう風に撮れば良いかというと、人物がカメラにぐっとよって撮ればよいそうです。

つまり、記念写真の一番のコツは、
「撮りたい人物に近づいて、大きく撮る。撮った場所はそれと分かる程度でいい。」
あるいは、
「全身を入れなければいけない、という考えを捨てる」
ということなのだ。

このように、人物に近づいてとる場合、レンズは広角がよいそうで、それは、遠くまでピントが合い、人物の表情と背景の両方ともピントが合うためである。

また、人物の写し方は半身・・・胸から上くらい が基本である。
(全身を写してはいけないと言うわけではない)

人物に近づいて撮ると、話しながら撮れるので、相手も身構えたりしないというメリットもある。


『デジカメ時代の写真術』

2006-08-25 | Weblog
「デジカメ時代の写真術」
森枝卓士 著 NHK出版(生活人新書) 2003年 680円+税 (ブックOFF 105円)

はじめに 

ジュネーブでは写真も撮るだろうな、と思ったので、この本を買ってみた。
写真は詳しくない。いや、写真も詳しくない。

世の中には、多芸な人がいてカメラはマニュアルで、車の運転も上手。スポーツは万能でスキーもテニスも何でもこい。映画や音楽を語らせれば飽くこともなく。・・・・のような人もいる。

でも残念ながら、ボクはそういう人でなく、どちらかと言えば何にもできない方の人である。

う~む、でも・・・ま、チョッとだけ写真の撮りかを覚えようかと思ったわけです。

序は、素人の人のアルバムを見ることほど苦痛な事はない。という話から始まっている。
ようするに、撮影のチョッとしたコツを勉強して、人様に見せても恥ずかしくないアルバムを作りましょう。っていうのがこの本のコンセプトである。

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「ゼロから始めるフランス語 -文法中心-」 猪狩廣志 著

第31課 半過去/大過去、 第32課 強調構文/疑問代名詞(2)

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【購入図書】06

「疲労とつきあう」
飯島裕一 著 岩波書店(岩波新書) 1996年 631円 (ブックOFF 105円)

「デジカメ時代の写真術」
森枝卓士 著 NHK出版(生活人新書) 2003年 680円+税 (ブックOFF 105円)


「秩序なき秩序」

2006-08-24 | Weblog
「日本残酷物語 第五部 近代の暗黒」

第一章 根こそぎにされた人々  東京の奈落 秩序なき秩序 

ここでは、スラムの事に関していろいろと書いてある。
はじめは、東京のスラムの移動について。

東京のスラムの発達は大正十二年の関東大震災前と、昭和二十年の戦災前と戦後の三つの時期に区切られて大きな移動をしめしている。

震災前にスラムであった、四谷鮫河橋(鮫ヵ橋)、下谷万年町、芝新網などは、震災で壊滅し、火災の被害が少なかった、三河島、日暮里、南千住、西新井、吾嬬、板橋などに移動した。

このような貧民窟の住宅は、

棟は波打ち、軒は垂れ下がり、瓦ははずれ、壁は落ち、柱はかたむき、床は根太が落ちており、ちょっとした雨でも雨もりする老朽荒廃した住宅である。このような家は、家としての寿命を越したもので今となっては修理も不可能である。

このような、不良住宅に多くの人間が住んでいた。便所、台所、給水設備も満足に設備していない家が多かった。

仮小屋式のスラムとしては、上野公園寛永寺境内に萩、お茶の水の崖下の「自由学校」、墨田公園の蟻の町などがあった。
ここでは、萩の事が詳しく書いてある。

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「ゼロから始めるフランス語 -文法中心-」 猪狩廣志 著

第29課 単純未来/前未来、 第30課 中性代名詞

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【購入図書】06 (アマゾン)

「ヨーロッパ・ドライブ旅行」地球の歩き方プラス・ワン
「地球の歩き方」編集室 著 ダイヤモンド・ビッグ社 2003年 1640円+税

「トーマスクック・ヨーロッパ鉄道時刻表」日本語解説版2006年夏
「地球の歩き方」編集室 編集  ダイヤモンド・ビッグ社 2006年 2095円+税

「THE THOMAS COOK RAIL MAP of EUROPE」
1558円 Thomas Cook Publishing


「日ぐらしの里」

2006-08-23 | Weblog
「日本残酷物語 第五部 近代の暗黒」

第一章 根こそぎにされた人々  東京の奈落 日ぐらしの里 

前半は、貧民の多かった日暮里のルポルタージュ(S35年当時)、後半は草間八十雄の『どん底の人達』(明治43年)などにより、東京の貧民の暮らしについて。

むかし日暮里は日ぐらしの里といって、ゆかしい地名の代表であったが、明治になると焼場の代名詞になり、いまは貧民窟の代名詞となった。この地の由来を知らないならば、あるういは、「その日ぐらしの里」と思いあやまるかもしれない。

まず、貧民窟における住宅事情が書いてある。貧しい順に
  • 大部屋・・・四十畳あまりの部屋に多数の人が雑居している。一畳一人にかぎりフトンつき一日三銭。
  • 仕切場・・・一軒の家が三畳とすれば一畳半ずつ二組、六畳なら二畳ずつ三組というように屏風で境界をたてて一軒の家を借りる。一組に夫婦に子ども二人などというものもあるので、畳み割にすれば大部屋より狭いが、一軒の家を借りているところに彼らの誇りがある。家賃一組十五銭ただしフトンは別
  • 家持ち・・・これは家を持っているわけでなく一家族で一軒の家を借りている事。一日二十銭。
稼業には、まず乞食があり、これが彼らの社会では幅をきかせている。乞食の中では人のもっとも嫌うナリンボ(癩病)がもっとも収入が多い。

この莫大な日銭をもらうナリンボが、家に帰ると身体を洗って、小ざっぱりした衣服に着かえて、冬ならば火鉢の向こうにすわって馬肉の鍋をつつき、夏ならば安肴に舌つづみを打って酒を飲む。そうして暇さえあれば人をあつめてバクチをうつという。

寺社の境内は橋の上などで、大地に座り同情を集めるものを、張り店(みせ)という。これは、小さい子どものあるのがいっそうおもらいが多い。

ところがこの子どもというのが自分の子でない。たいてい借りっ子である。彼らの仲間に子どもを貸すのを営業としているものがある。
「今日は上を貸しておくれ」
「今日は中でよい」
「今日は銭がないから下にしておこう」
といって、借賃をはらって子どもをつれてゆく。上というのはめくらの子どもである。これが一番同情をひいてもらいものが多いので上物という。一日の借賃は八十銭である。中というのはピイピイとよく泣く子、よくお辞儀をする子である。下というのは何も芸のないふつうの子である。中は三十銭、下は二十銭・・・・後略

人通りの多い吾妻橋のうえを一年中の店としている五十ばかりのひげの長くはえた、小さな子どもを側においている老乞食を知っている人もあろう。彼などは一日四、五円のもらいものがある。家へ帰れば金貸の旦那だ。

その他に、御詠歌屋、女性のよいとこらなどがある。

稼業としては屑拾いも多く、紙拾い、木拾い、何でも屋などがある。

この何でも屋が割合にまじめに臭い溝の中で働いているに反して、木拾い屋というのはやや泥棒に近いことをやっている。

貧民窟では飯屋が歓迎される。飯屋とは残飯屋のことであり、他の貧民窟では残飯を車で売りにくるが、日暮里では店が三軒ある。そして、それは上・中・下の3段階がある。
  • 下・・・大学病院などの大きな病院の弁当の残り物。
  • 中・・・市中の弁当屋の残り物
  • 上・・・帝国劇場の弁当の残り。
またこの残飯の残りの行方であるが、

おどろかされるのは食パンの残りが固くなるとこれを臼で挽いて、パン粉と化けて市中に売出され、残飯の売れ残りは、神田大和町の菓子問屋へ飛んでいって、駄菓子のおこしに姿を変えてしまうことである。残物の残物が姿を変えて吾人の口にはいるところに社会のうらのおもしろ味がある。

次に草間八十雄の『どん底の人達』(明治43年)などの資料により、貧民窟の教育に関して書いてある。

まず、明治期には新宿旭町天竜寺かいわいの「一銭学校」のような施設が、各地に存在した。当時貧民窟はシマと呼ばれ社会から隔離された存在であり他の地区の子どもと同じ学校に通う事を嫌がり、嫌がられた。
明治三十五年に東京市は十一の特殊学校を開く計画をたて貧民の教育を始めた。しかしシマの子どもに教育をしても世間に相手にしてもらえないと、なかなか子どもを通わせる親がいなかった。
特殊学校も学業と授産を同時に教えたりと工夫を行い徐々に就学希望者が増えていった。

新宿区旭町の分教場も特殊小学校であった。(昭和九年に廃止)
ここでは、子どもたちに昼食を与えた。この給食は子どもだけでなく一家のものに待たれていた。

ガクカウデ、オヒルゴハンヲクレルカラ、アリガタイデス。オカアサンモタイヘンニ、ヨロコビマス。オトウサンヤ、オカアサンヤ、ボクガアリガタイデス。ウチノオトウサンガ、ガクカウニアガッテヨカッタ、ボクハホントウニウシイデス。(一年男子)

この子の家族は田舎で食いつめて、東京へでたら何とかなるだろうと上京した。しかし職がなく貧民窟にくらすようになった。母親は乳飲子をかかえて乳がないので困っていた。金がたりなくなると絶食するためである。学校から給食の残飯をもって子どもが帰るようになってからは、乳もでるようになったと母親は泣いて感謝していたそうである。

震災前の貧民窟には手紙したため所という看板を掲げて営利的に代書する者があった。これは字をかけない人が多かったからである。
また、学校に行かなかったために主婦が困るものが裁縫である。貧家庭では裁縫ができないばかりに衣類が破れてもつくろう事が出来なかった。

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「ゼロから始めるフランス語 -文法中心-」 猪狩廣志 著

第27課 複合過去(2)/副詞的代名詞、 第28課 関係代名詞(1)

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「アメリカ口語教本」入門用 新訂版 W.L.クラーク 著 

Lesson SEVEN HOW HAVE YOU BEEN?

サイクル1回目
  1. テキストを見ながらリピーティング(5回)
  2. 音読(15回)
  3. テキストを見ないリピーティング(5回)
  4. シャドーイング(5回)
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【購入図書】06

「スイス鉄道の旅」地球の歩き方 BY TRAIN
「地球の歩き方」編集室 著 ダイヤモンド・ビッグ社 2006年 1800円+税

「フランス鉄道の旅」地球の歩き方 BY TRAIN
「地球の歩き方」編集室 著 ダイヤモンド・ビッグ社 2006年 1800円+税


「港町スラムの顔」

2006-08-22 | Weblog
「日本残酷物語 第五部 近代の暗黒」

第一章 根こそぎにされた人々  都会の島々 港町スラムの顔 

神戸のスラム新川、および番町の話。

新川は賀川豊彦の『死線を越えて』に描かれている。
明治期の新川は

乞食もいたし、泥棒を渡世とする者もいたが、主たる仕事といえば、屠畜、沖仲仕、製茶、マッチ工場の職工、物売りなどであった。都会の落伍者の吹き溜まりというより、無一文で、貧窮の農村をあとに、なんのあてもなく神戸へ出てきたものが多く、はじめから失業者でありはじめから落伍者の群れであった。

新川を見渡して注意を引くのは、四階建ての新川アパート七棟である。新川アパートは昭和八年に神戸市が国の補助を得て立てたもので、賀川豊彦などの奔走が大いに力となっている。

今、家賃は最低百円、最高三百八十円である。それでいて数年前における家賃の滞納は百二十万円にのぼる。
・・・・・中略・・・・・
職業の大半は職安に職を求める日雇いである。男四百五十円
女三百八十円、指命となるれば月二十五日近く働けるから、ここでの生活ならば十分に支えられる。ましてや労働手帳をもらうために「離婚して共稼ぎ」をやっておればテレビの一台くらい買えようというものであろうか。しかしそうした生活を支えるための労働は、以前新川の人たちがあじわった苦しみにくらべて、そうなまやさしくなったとは思えない。
(この本はS35年初版)

この人たちを支えていた、港湾の荷役の仕事は、もっとも過酷で危険な労働のひとつである。

次に全国第一といわれる未解放番町の歴史・様子などが語られている。番町では貧しさの他に差別も大きな問題である。


「大阪の最底辺」

2006-08-21 | Weblog
「日本残酷物語 第五部 近代の暗黒」

第一章 根こそぎにされた人々  都会の島々 大阪の最底辺 

大阪のスラムの話。
前半部は、スラム街釜ヵ崎(この本の出版当時‐S35- )、後半部は明治期のスラム街長町(名護町)の話。

釜ヵ崎には、ドヤ、日払いアパートが二百軒以上ある。
最低のは、一泊30円。

泊まっているのは仕事にアブれつづけた立ちんぼ(職安を通じないでもぐりの労務あっせん者、いわゆる”手配師”を通じて仕事にありつく日雇い)がほとんどである。

五十円から七十円だすと、上下二段のカイコ棚式のドヤがある。

ベニヤ板の「穴」の中に、親子二人で住んでいる父子もある。ほとんどが中年以上、職安の失対労務者である。

80円だすと三畳の「あい部屋」(三畳に二人)がある。
家族持ちは、この一間を借り切るか、日払いアパートに入る事になる。

ここに住む人たちは、職安の日雇いが多いが、平均20日就労で月収は七千円、おかみさんもドヤの洗濯婦などの仕事があり日に百円にはなるので収入面では、そこまで貧しく無いように思うが、問題は日払いのアパートにある。

古板とトタンのを張りつけ、窓ひとつ満足にない小屋。三畳ひと間で日払い家賃が百円、四畳半で百五十円、一日単位で考えると安いような錯覚におちいるが、月にすれば、三畳で三千円、四畳半で四千五百円、アパートなみの家賃である。
この「日払い」というシステムが、貧しい人々を誘いよせ、しめ上げるからくりなのだ。日払いだからこそ、貧しい人々は入る。そして貧しい稼ぎはその日その日の家賃にしぼりあげられる。

この後、日払いアパートに住む人たちの生活が語られている。

三畳の部屋といっても、炊事道具や衣類をおけば二畳くらいしか残らない。そこへふつう四、五人、多いといには七人が住んでいる。どうして寝るかというと、棚をつりつくし、子どもの寝台まで棚に作ってもまだ満員のときには「交替」で寝るのである。

日雇いアパートには世帯持ちが入ったが、ドヤには独身者が入った。彼らの多くは転落の後に流れ着いた者である。生きる気力も失いその日の食料を求めてゴミ箱をあさるだけである。

人間はどうしてここまで落ちるのか。なんとか働いているところから、働く意欲をまったく失うようになる別れ道のひとつは、「ひとりぼっち」になることのようである。失業、病気、災害、失敗、原因はさまざまとしても、そのとき襲いかかった貧乏が、家族を解体しないところでかろうじて持ちこたえる程度ならよい。だが一家が離散し、ひとりぼっちでとり残されると、その男には生きる目的がなくなってしまう。

以後、明治期のスラム長町(名護町)の様子を鈴木梅四郎の『名護町視察記』と桜田文吾の『貧天地飢寒窟探検記』からの引用で書かれている。

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「ゼロから始めるフランス語 -文法中心-」 猪狩廣志 著

第25課 非人称構文/受動態、 第26課 複合過去(1)


「六日目ーー夜 ウェマスにて」

2006-08-20 | Weblog
「日の名残り」 カズオ・イシグロ 著 (読了06)

四日目ーー 午後 コンウォール州リトル・コンプトンにて、六日目ーー夜 ウェマスにて、訳者あとがき、旅の終り/丸谷才一

人生が思いどおりにいかなかったからと言って、後ろばかり向き、自分を責めてみても、それは詮無いことです。私どものような卑小な人間にとりまして、最終的には運命をご主人様のーーこの世界の中心におられる偉大な紳士淑女のーー手に委ねる以外、あまり選択の余地があるとは思われません。そえが冷厳なる現実というものではありますまいか。あのときああすれば人生の方向が変わっていたかもしれないーーそう思うこともありましょう。しかし、それをいつまで思い悩んでいても意味のないことです。私どものような人間は、何か真に価値のあるもののために微力を尽くそうと願い、それを試みるだけで十分であるような気がいたします。そのような試みに人生の多くを犠牲にする覚悟があり、その覚悟を実践したとすれば、結果はどうあれ、そのこと自体がみずからの誇りと満足を覚えてよい十分な理由となりましょう。


「三日目ーー夜 デポン州タビストック近くのモスクムにて」

2006-08-19 | Weblog
「日の名残り」 カズオ・イシグロ 著 

三日目ーー夜 デポン州タビストック近くのモスクムにて

ミス・ケントンとの関係に多少の混乱が生じても、私にはその混乱を整理していける無限の時間があるような気がしておりました。何日でも、何ヵ月でも、何年でも・・・・・。あの誤解もこの誤解もありました。しかし、私にはそれを訂正していける無限の機会があるような気がしておりました。一見つまらないあれこれの出来事のために、夢全体が永遠に取り返しのつかないものになってしまうなどと、当時、私は何によってしることができたのでしょうか。



『日本残酷物語 第五部 近代の暗黒』

2006-08-18 | Weblog
「日本残酷物語 第五部 近代の暗黒」
監修 宮本常一他 平凡社 昭和35年 

近代の暗黒 序

この巻では、主に貧しさゆえに都会に出てきた人々が転落していく様子を描く。

労働の供給地であった田舎から都市へ吸収されるおびただしい人たちが、むざんな消耗にさらされ破壊されたあげく、ふたたび都市から田舎へ排泄されるか、もしくは残滓として都市の最下層に沈殿するか、このもっともありふれた二つのコースをとおって、都市の下層と田舎のあいだに親密な交流の回路が開かれていた。こうするほかない人たちの運命が、一見なめらかにみえる都市の深部を、意外なほどはげしい波となって、たえず外から内へ内から外へ動かしてきた。

ここでは特に女工の例にとり、統計的データーを基づき当時の現状を示している。

明治末から大正にかけてのころは、全国でおよそ二十万の娘たちが村から都市の工場に出ていった。そしてそのうち十二万人ぐらいが村を出たっきり帰ってこなかった。帰った娘たちのうち一万数千人は重い病気にかかっており、その四分の一は肺結核であった。一年間にすくなくとも三千人が肺結核のために帰郷したと官庁統計でさえはっきりいっている。

都会に出てきた人たちは、小さなつまづきでも奈落のそこまで落ちていった。

都会の最底辺に沈湎したおのは、ふたたび田舎に帰れるはずはなかった。都会の蟻地獄を脱出しようとするならば、そのときは田舎よりも、少し遠くまでゆくことを覚悟しなければならなかった。かつてその名を聞くだけでも労働者の背骨を戦慄させたタコ部屋は、こうした都会脱出者をまちかまえては噛み砕いた。女たちは満州や南洋にまで売り飛ばされた。地のはてまで逃げる道はなかった。

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「日の名残り」 カズオ・イシグロ 著 

二日目ーー午後 ドーセット州モーティマーズ・ポンドにて
三日目ーー朝 サマセット州トーントンにて

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「ゼロから始めるフランス語 -文法中心-」 猪狩廣志 著

第23課 補語人称代名詞(2)、 第24課 代名動詞


「二日目ーー朝 ソールズベリーにて」

2006-08-17 | Weblog
「日の名残り」 カズオ・イシグロ 著 

二日目ーー朝 ソールズベリーにて

「あなたには悲しい思い出かもしれません。そうだったら、お許しください。でも、二人であなたのお父様を見たときのことは、いつまでも忘れられません。お父様は、まるで落とした宝石でも捜しているかのように、ずっと目を地面に向けたまま、あずまやの前を行ったり来たりしておられました。」

「さらに、ミスター・ルーイス、私にはあなたが”プロ”という言葉で何を意味しておられるのか、だいたいの見当はついております。それは、虚偽や権謀術数で自分の言い分を押し通す人のことではありませんか?世界に善や正義が行き渡るのを見たいという高尚な望みより、自分の貪欲や利権から物事の優先順位を決める人のことではありませんか?もし、それがあなたのいわれる”プロ”なら、私はここではっきり、プロはいらない、とお断り申し上げましょう」

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「英語口 初級編①」 市橋 敬三 著 

Lesson19 動詞の語尾にesが付くとき、 Lesson20 「これは・・・です」、 Lesson21 「あれは・・・です」、 Lesson22 「この・・・は・・・です」、 Lesson23 「これは・・・です」

第2セグメント、10サイクル