THE READING JOURNAL

読書日誌と雑文

小麦とパンの博物館(エシャラン・ローザンヌ)

2007-03-31 | Weblog
今日は、ローザンヌとエシャランに行った。

まず、ジュネーブまでパスで行って、そこから電車に乗りローザンヌへ。
ローザンヌからエシャランへは郊外線に乗り換えるのだが、国鉄の駅から郊外線の駅まではけっこう遠い。
ローザンヌは坂の街で一番てっぺんに旧市街があり中間に国鉄の駅、そして、一番下のレマン湖沿いのウッシー地区というような感じに街が出来ている。そして、郊外線の乗り場は旧市街の近くにある。
本来なら一番下のウッシー地区から国鉄駅を通り旧市街までメトロが通っているんだけど、ただいま拡張工事のためお休み。
しかたなく、坂道を旧市街まで歩く。

郊外線に乗り、30分くらいでエシャランに着く。ここでの目的は「小麦とパンの博物館」である。
行ってみると予想どうりに小さな博物館でした、一階はパン屋兼カフェになっていて、それも観光客用でなく完全に村の人用。
博物館の受付に行ってみるとおばちゃんが一人。ママが入場券を買おうと話しかけると、早口のフランス語で話し始めた。(英語は全然出来ないらしい)
ボクはまるで何を言っているのかわからなかったけど、フランス語勉強中のママによると、
  • 映画は人が多くなったらはじめる
  • 昼まででなんかがやってる
  • おばちゃんは非常に忙しい
という事を言っていたような・・・気がする。との事でした。

早速二階に上がり展示物を見る。村の小さな博物館にしては展示もただ置いてるだけでなく、きちんと模型や解説もあって努力している。
また、スイス人やフランス人だったら見慣れているものなのかも知れないけど、小麦関係の資料なんて、見たことないからそれはそれでけっこう面白かった。
展示物を見ていると、映画のスクリーンの所に子どもたちがワイワイと集まっていたので、便乗して映画も見た。(フランス語だったのでいまひとつわからないけど、おじいちゃんが孫に小麦とパンの事を教えるような内容)
小麦の内容が多くてパンに関する資料はそれほど多くなかったような気がした。

博物館を見終わるとお昼になっていた。カフェで食事をしたかったが、満員状態だったのでそこでパンを買った。駅に行ったらちょうどよく電車が来たので、電車の中でお昼とする。

お昼を食べ終わったらローザンヌについた。
駅から旧市街へ向かった。聖フランソワ教会の横を通りブール通りを歩く。ここはローザンヌの目抜き通り、ウィンドーショッピングをしながら歩き、やっと大聖堂につく。
ガイドブックには入口にみごとな彫刻があるとある。入口で「教会は仰ぎ見るもの」という言葉に従って仰ぎ見てみた。中に入るとステンドグラスも素敵な感じであった。

大聖堂をでて、下に道を下ると小さな本屋兼おもちゃ屋があった。ウィンドーにはイロイロなオモチャが飾られている。ふとドアに貼ってある張り紙を見ると、オモチャのアコーデオンの宣伝があった。
それは30CHFくらい(三千円くらい)でけっこう安かった。日本ではオモチャのギターとか売ってるけどヨーロッパではアコーディオンなんだな、と思って何となく見たくなって中に入ってみた。
中に入ってみると、小さく見えた店内だったが奥に部屋があった、その奥にも部屋があり、またその奥にも部屋があった。小さいと思った店だが、実はけっこうな大きさのお店であることがわかった。
しかも、素晴らしいところは、本もオモチャもいわゆる教育的なものしかおいていない。そして品揃えがものすごく充実している。
オモチャの楽器コーナーでは、アコーディオンのほかにドラやら木琴やら豊富な品揃えがあった。
ところで、スイスの小学校では、簡単なフランス語の本を課題に朗読の宿題がでる。お兄ちゃんが読めるわけないので、まずママが読んでお兄ちゃんに教えているんだけど、この本屋には学校で使っている朗読用の小冊子がシリーズで置いてあった。早速ママが買い占めていた。
お兄ちゃんには、オモチャの望遠鏡を買ってあげた。

店をでてから駅を抜け、レマン湖沿いのウッシー地区を目指して歩いた。下り坂であるが歩くとけっこうな距離である。目指すはオリンピック博物館、レマン湖畔で休憩してオリンピック博物館に着く。
よく知られているようにローザンヌにはIOC国際オリンピック委員会の本部がある。
オリンピック博物館はとてもきれいな施設で、展示物も充実していた、過去の名場面をテレビに映していたり、名選手の靴や衣装、道具なども飾られていた。

オリンピック博物館をでたあと裏道に出るために、施設の脇の道を通ったら、桜と思われる木があって、満開であった。
駅まで上り坂を登るのは大変なので、バスに乗ってローザンヌ駅に向かう。

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【3月のまとめ】 
読み終わった本は以下の2冊。う~ん2冊かぁ~

「パリ」  木村 尚三郎著 (読了07)
「星の王子とわたし」 内藤 濯 著 (読了07)


「マドリード 新しい美術空間」

2007-03-30 | Weblog
「ヨーロッパ 夢の町を歩く」 巖谷 國士 著

II マドリード 新しい美術空間

世界の五指に入るプラド美術館を筆頭にマドリードにはさまざまな美術館がある。そこにもう二つ「ティッセン-ボルネミッサ・コレクション」と「ソフィア王妃アートコレクション」の二つが加わった。(この文は、1993年のもの)
「ティッセン-ボルネミッサ・コレクション」は、

行ってみて驚いた。まるで西洋美術史のデパートである。十三世紀プリミティフから現代のポップアートまで、ほとんど欠けている時代や地域を見つけにくいほど網羅的な大コレクションで、しかも巧妙に秩序だてた配列法をとっているから、ひとつひとつの展示室が美術史の一ページずつに対応しているような印象すらある。とくにイタリアと北方のルネッサンス(ペトルス・クリストゥスやメムリンクやキルランダーヨが記憶にのこる)をはじめ、十七ー十八世紀(オランダ派からロココまで)、二十世紀(エゴン・シーレからタンギー、バルチュスまで)あたりが充実しているようだ。もちろんその質においてプラド美術館にはおよばないにしても、後者では見られない地域や時代を補い、この二つのギャラリーだけで西洋美術史の全貌に近いものを見わたせるという仕掛になっている。

「ソフィア王妃アートコレクション」は、現代美術の「殿堂」として建てられたものでパリの「ポンピドゥー・センター」に対抗しようという意図がある。

だが一歩なかに入ると印象はまるでちがう。どこもかしこも白っぽく薄暗く、カトリックの病院に特有の重厚で瞑想的な回廊をそのままのこし、中央の広い中庭は彫刻などの野外展示に用いている。三階が常設展示場。天井の高い回廊をかこんで計四十ほどの部屋があり、二十世紀の美術作品多数がひっそりとならぶ。当然だがスペインのものが圧倒的に多く、ピカソ、とくに「ゲルニカ」は特別あつかいだ。あとはミロ、ダリ、ドミンゲス、タピエスなど、シュルレアリストたち、およびシュルレアリズム系の画家たちのものが目立つ。なかでもジョアン・ミロの作品群には、久しぶりに心ひかれた。真っ白でやや暗い、古い構造をのこすどっりしとした石造建築のなかで見るミロのあざやかな色彩と形体は、あらためてその表現力の強さ烈しさを印象づけた。


「フェティマ 聖地の変わりやすい空」

2007-03-29 | Weblog
「ヨーロッパ 夢の町を歩く」 巖谷 國士 著

I フェティマ 聖地の変わりやすい空

著者のフェティマ、バターヤ、ナザレの紀行文

フェティマは、ポルトガル最大のカトリックの聖地で、メキシコのグアンダルーペ、フランスのルルドとならんで法王庁のお墨付きの三大聖地の一つ。
そして、奇跡が20世紀に属していて、当事者が今でも生きている。(この文は1993年の文章)

やがて聖堂前の広場に出た。
すばらしく広い。幅二百メートルはど、奥行き五百メートルほどもありそうなコンクリートのゆるやかなスロープで、物の本によれば三十万人(別の本では百万人)を一時に収容できるというのだが、どちらにしても、とほうもない集会のありさまを想像させてしまう大空間である。
正面には新古典様式のバジリカ聖堂がそびえる。両翼の円柱の立ちならぶ回廊が長くひろがり、どこもかしこも白い。周囲には木立のほかになにもない。
他ではめったにみられないがらんとした世界である。とくに空が圧倒的に広く、薄い雲の筋におおわれてはいるものの、いまとつぜんに光り輝きはじめ、旋回する火の玉があらわれたとしても不思議ではないような気がする。どこかSF的な情緒もただよう。火の玉にせよ異星のマザーシップにせよ、聖なるものを天から迎えいれるのにふさわしい大空間のイメージがあって、私はしばらく中央のキリスト像の下に建ちつくした。

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「基礎からよくわかる 英文法」 綿貫 陽 著

第12章 名詞冠詞   第1節 名詞 第2節 冠詞 

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【購入図書】07 (アマゾン)

「基礎からよくわかる英文法問題集」
綿貫 陽 著 旺文社 2002年 700円+税 


「フランス〈’07〉」パリ、イル・ド・フランス、ブルゴーニュ、コート・ダジュール、プロヴァンス
海外情報部 著 JTBパブリッシング(るるぶワールドガイド) 2006年 1600円+税

「スイス・アルプスを撮る―やさしく学ぶ写真教室」ベルナー・オーバーラント山群の特選コース23
小川清美 著 新潮社(新潮文庫) 2006年 666円+税

「どんどん話すための瞬間英作文トレーニング」
森沢 洋介 著 ベレ出版 2006年 1800円+税


「エヴォラ 遺欧少年使節とともに」

2007-03-28 | Weblog
「ヨーロッパ 夢の町を歩く」 巖谷 國士 著

I エヴォラ 遺欧少年使節とともに

夢の町リスボンに遊んだ後、著者はエヴォラに向かう。ここは十六世紀に天正遺欧使節がヴァチカンに行く前にしばらく滞在した土地である。
ローマ時代からの歴史を持つこの小さな町は、イスラム教徒の支配を脱してからはポルトガルの国土回復運動の戦略拠点となった。そして遺欧少年使節が訪れた大航海時代には文化的中心都市であった。今では「博物館都市」の呼び名さえある。

なるほど「博物館都市」とはいいえて妙である。ただ、それはここに各時代のモニュメントがみごとに保存されている、という理由だけではない。むしろ、どこへ行っても真っ白な立体が並列しつづけるこの町全体が、一種の野外ミュージアムのイメージを喚起するからなのだ。おまけに人通りが奇妙に少ない。ほとんど人間の匂いがしない。窓の奥に人が呼吸しているとも思われない真っ白な家の戸口からふいに人影があらわれたとしても、それは、「人」である以上に「影」でもあると感じられるほどだろう。
この不思議な空漠感、がらんとした博物館さながらの空気は、たまたま土曜日の午前にここへやってきたためかもしれない。それにしてもこういう空間には誘惑を感じずにはいられない。私はもはや天正遺欧使節のようにではなく、自分もまた影になった無名の放浪者のように、建物の由緒などよりも形や色あいのほうにひかれながら、路地から路地へと歩きつづけたものだった。


誕生日

2007-03-27 | Weblog
今日は、ボクの誕生日だった。
アパートに帰ると、ちゃんとケーキが用意されていた。

「パパ、ろうそくは何本?」とお兄ちゃんが言うので、
「42本かな?」と言うと、

一応、考えたようで六本ろうそくを立ててくれた。
(4+2=6)

ケーキを食べた後、鳥の焼いたのと、お赤飯で夕食。

ついでながら、プレゼントは何もなかった。

『ヨーロッパ 夢の町を歩く』

2007-03-26 | Weblog
「ヨーロッパ 夢の町を歩く」
巖谷 國士 著 筑摩書房 1993年 円 (アマゾンマーケットプレイス 248円)

I リスボン - 夢の町を歩く

著者の夢にあらわれる不思議な町は、幾つか実在の町と似ている。そ
の一つがリスボンである。
歴史が古く大航海時代の哀愁をとどめるリスボンは誰にとっても「懐かしい町」である。

けれどもそればかりではない。リスボンのなつかしさを、その歴史的・地理的条件だけで説明してしまうのは口惜しいし、そのそも妥当ではないだろう。この町はすでに人格として不思議な哀愁をたたえている。ポルトガル人みずからの国民感情をあらわすためにしばしば用いる。「サウダーデ」という言葉が、その大きな部分を形容してくれるだろう。
この言葉は翻訳できない。ラテン語源では「孤独」を意味するが、いまではもっと複雑なニュアンスがこもっている。「哀愁」という訳語でもじゅうぶんとはいえない。あえていえば、(永遠に)失われてしまったものへの愛惜の情ーーーに近いかもしれない。去っていった愛する人、遠くはなれた母国、はるかむかしの出来事への想いが、「サウダーデ」の内実を占めている。リスボンの夕陽と、夕陽にそまる街路の色合いのなかに、まさしくその心情がうつしだされる。ポルトガル人にしか理解できないといわれるこの「サナダーデ」を、風景のなかに思いやること自体が、私たちにとっては大いに感動的である。
・・・・・中略・・・・・
夢にあらわれる町リスボンのなつかしさは、風のように、空気のように、私の想像にまつわりはじめている。歴史的・地理的な条件のふかく溶けこんだ「サウダーデ」の気分が、想像の眼に作用してきそういなる。しかしそれだけではすまない。不思議な町の魔法というものは、眼をもういちど心情から解きはなち、いわば無一物の、裸の、野生の状態にもどしてくれるだろう。


軍事博物館・鉛人形歴史図博物館・砲術博物館(モルジュ)

2007-03-25 | Weblog
昨日、お兄ちゃんに「今日はどこかに行く?」と聞いてみたら、「いかな~い、ずーとお家で遊んでる!」
と言うので土日とどこにも行かない予定にしていたら、今日のお昼ごろにになって、
「やっぱり、電車のたびに行く」と言いだした。

急いで準備をして、ご飯を食べて・・・・モルジュに行ってきた。
ジュネーブのコルナバン駅から30分。モルジュに着いた時は3時くらいになっていた。

ここにあるモルジュ城には、「軍事博物館・鉛人形歴史図博物館・砲術博物館」と三つ博物館がある。(実際には博物館が三つのパートに分かれている感じ)
入ってみると、まず鉛人形歴史図博物館がある。ここは、戦いの場面などを人形で再現している物、有名な戦いの場面なのだそうだが、フランス語が読めないのでいまひとつ何の戦いだかわからない。
次に進むと「軍事博物館」がある、鎧や剣からはじまって現代の装備まであった。鎧などはパリのアンバリッドをはじめとして各地で見たのだけど、ヨーロッパにはいっぱい残っているみたい。
ここで一旦中庭に出る。そこから地下にもぐると「砲術博物館」がある。大砲の本物やミニチアがいっぱい並んでいた。(ヨーロッパでは大砲もいっぱい残っているみたい)昔の大砲からかなり近代の物まであって、どうやって大砲を運んだか、見たいな解説も充実していた。

モルジュ城を出てから裏にある公園に行く。レマン湖沿いとあって風が冷たく結構寒い。ヨットハーバーにいっぱいヨットが泊っていた。
ココの公園は、四月からチューリップが咲くようだけどまだ、幾つかしか咲いていなかった。

帰りは日曜なので店はやっていないが、モルジュの中心街を歩いて駅まで行った。


「本物があるぞという実感」

2007-03-24 | Weblog
「パリ」  木村 尚三郎著 (読了07)

5. 二十一世紀に向かうパリーー五本の柱 百年に一度の歴史的な転換期、現代の箱舟 グランド・アルシュ、ユニークな「アラブ世界研究所」、美術、音楽、そしてスポーツ都市の創造、過去の知恵、勇気、愛情を掘り起す、本物があるぞという実感

パリには、歴史に培われた本物がある。世界の誰にでも通じる本物の人情、本物のサービス、本物の生きる知恵がある。新しいパリを形づくるコミュニケーション、美術、スポーツ、科学・技術、歴史の五本の柱は、現代世界の誰もがもっとも求める価値である。しかも今日はじめて出現したものではなく、一千年の歴史を通して、繰り返し追求され、磨きぬかれてきた価値である。
その本物感覚、ここには本物があるぞという実感が、パリを訪れる人の心を素直にする。異邦人でありながら、町の空気を過去の人たちとともに吸い、人間として互いに親しみあうことができる。歴史が過去のものではなく、親近感をもって現代とともに生き、ともに新しい未来を形づくっていくのだ。ちょうどルイ王朝時代の家具が、凛(りん)とした存在感をもって、現代に生きつづけているように。

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「基礎からよくわかる 英文法」 綿貫 陽 著

第11章 前置詞 第1節 前置詞の種類と用法、第2節 重要前置詞の用法、第3節 群前置詞と成句

「パリを一変させたセーヌ県知事オスマン」

2007-03-23 | Weblog
「パリ」  木村 尚三郎著 

3 パリ の原風景ーー中世のパリ  古代ローマいらいの道、サン・ジャック通り、パリ唯一、モンマルトルのぶどう畑、王家の菩提寺、サン・ドニ修道院への道、サン・トノレを攻撃したジャンヌ・ダルク、橋の上に、美しい夢の街があったーーノートル・ダーム橋、サント・シャペルーー十三世紀パリの輝き 4.十九世紀の輝きーー近代のパリ パリは三度光る、エッフェル塔ーー鉄文明の到来、真昼の照明、ムーラン・ルージュ、「世紀末」の光と影、一九〇〇年のパリーーベル・エッポック、空飛ぶ列車ーー大観覧車、オルセー駅の誕生ーー美術館へ、アサンプトの孤独、雨傘革命、若者が一杯、自動車・旅・映画・電話、パリを一変させたセーヌ県知事オスマン、「至福の野」シャンゼリゼ、世紀末の輝き、パリの二十四時間

パリの輝きを社会的に準備したのが、セーヌ県知事オスマン(一八〇九-九一)であった。彼は第二帝政下にナポレオン三世の支持を受け、一八五三年から一八七〇年初めまで、十七年もセーヌ県知事をつとめるあいだ、パリの徹底的な大改造を行なった。
彼は結果として八億フランの負債を残すことになったが、オペラ座をはじめとする公共建築物の建設、上下水道と橋、広場と道路の整備を、過去の破壊によってつきつぎと大胆に実現しえいった。・・・・中略・・・・・
それまで、街の多くを占めていたのは中世パリの顔であった。道は細く曲がりくねって不規則に走り、市民がバリケードを築いて反乱を起すには、恰好の場であった。それがときの皇帝ナポレオン三世の憂鬱(ゆううつ)であり、オスマン皇帝の意向を受け、中世の翳(かげ)を色濃く落とすパリを、明るく「風通しのよい」近代パリに一変させたのであった。
道を太く直線状の、反乱を未然に防げる見通しのよいものとしたのであり、ここに合理主義的・古典主義的な、幾何学的に均整のとれた、現代パリが姿を現すことになった。それはまさに、「都市計画」と呼ぶにふさわしい最初の大規模なものであった。

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「基礎からよくわかる 英文法」 綿貫 陽 著

第10章 関係詞 第1節 関係代名詞、第2節 関係副詞

「パリの頭脳、カルチエ・ラタン」

2007-03-22 | Weblog
「パリ」  木村 尚三郎著 

3 パリ の原風景ーー中世のパリ 枝の主日、通り(リュ)、大通り(アヴェニュ)、並木大通り(ブルーヴァール)、エチエンヌ・マルセルの改革、城壁に囲まれつづけたパリ、いまのパリは、ダブル十字にかけられた、パリの守護聖者、聖女ジュヌヴィエーヴ、パリの頭脳、カルチエ・ラタン、ソルボンヌーー学寮から大学へ

パリ大学の学生・教師はいずれも各地からの流れ者であり、土地の人とは無関係の、いわば外国人流人(るにん)集団であった。そこから流れ者同士の仲間意識、助け合い心と、ラテン語による国際性・普遍性がともに発生する。
かれらが身を守るために結束して作った、「組」「組合」を意味する言葉が、ラテン語のウニウェルシタス、英語のユニヴァーシティであった。ユニヴァーシティは「総合大学」と訳され、いろいろな学部が集まっているから、と何となく受けとられているが、本義はやくざと同じく、地元から離れた人びとが結束した、「組」である。
江戸時代の日本も、方言ばかりで統一の国語はなく、共通語を持っていたのは、やくざと遊女だけであった。共通語がなければ仲間同士の確認と交流が出来ず、客との営業が成り立たたなかったからである。パリ大学の場合も、似たような状況から一七八九年までラテン語で講義しーー最初はしばしば青空教室だったり、学生がわらを敷いて土間で講義を聴いたりしたーー、ラテン語で日常会話を行なった。今だったら、英語で話し合うのと同じである。
そのような彼らだけの「組」が自治団体として、法王インノケンティウス三世から公認されたのは、一二一五年のことである。フランス最初の大学、パリ大学はこうして正式に成立した。

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「基礎からよくわかる 英文法」 綿貫 陽 著

第9章 接続詞 第1節 等位接続詞、第2節 従位接続詞

「仰ぎ見るノートル・ダーム」

2007-03-21 | Weblog
「パリ」  木村 尚三郎著 

2 才子は馬車に乗り、天才は歩くーー十八世紀のパリ生活文化 グルグル巻きの赤ん坊、十八世紀パリの一日、中央市場から一大ショッピング・プラザ、フォーラム・デ・アールへ、西へ、西へ、第二の民族移動期、座り読みOKの書店、頭がよくなる広場、3 パリの原風景ーー中世のパリ 仰ぎ見るノートル・ダーム、堂内は耳と鼻の別世界、美しさを支える公共性観念、行きつづける、人情の住居共同体

教会堂は、遠くから離れて眺めるものではない。すぐそばから、仰ぎ見るものである。少なくともこれを建てた中世人は、そうやって見ていた。広場の必要などなかったのである。
カテドラル(大聖堂)の真下から真上を仰ぎ見ると、何が見えるか。もしそれが晴れた夕方なら、入口上部空間のタンパンで演じられる、夕日に照らし出された石の彫像によるドラマが見えるはずだ。キリスト教は光を求める宗教であり、入口から中央通路(身廊)を真直ぐ奥に行ったところにある祭壇(内陣)は太陽の出る東を向いているーーノートル・ダーム大聖堂の場合は、少し南に傾いてはいるがーー。したがって入口(ファサード)は、当然西向きということになり、夕方にならないと陽光が回ってこない。これは、ヨーロッパのどこの教会堂でも同じである。
タンパンというフランス語は、楽器のティンパニーとか鼓膜のティンパヌムと同じ語源の建築用語で、教会の入口上部に、ちょうど鼓の上半分のような形をした空間があることから、名づけられた。ノートル・ダム大聖堂の場合は、三つあるファサードすなわち入口のうち、右入口のタンパンにあたる彫刻が、大聖堂のなかでもっとも古く、一一七〇年ころの作である。タンパンには物語やドラマが刻みこまれており、ノートル・ダーム大聖堂では、左のタンパンが聖母マリア、中央が最後の審判、そして右が聖母マリアとキリストの情景となっている。
そしてこれらの彫刻は、赤い夕日に浮彫りされて生き生きとよみがえり、これを真下から仰ぎ見るとき、そこには映像では味わえぬ、迫真のドラマが展開されることになる。同時に、大聖堂の建物全体が圧倒的な力で私たちの身も心も圧倒する。それが正しいというか、素直な教会堂との接し方である。
・・・・中略・・・・・
真下から上を仰ぎ見れば、垂直線はしなやかな木のようにたわみ、中世の神が見えてくる。ぜひ、周りに家が建て込んでいた十二、十三世紀から十六、十七世紀のころと同じく、ファサードの真下から真上を見上げてほしい。首は痛くなる。しかし別の世界が見えてくる。

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「基礎からよくわかる 英文法」 綿貫 陽 著

第8章 疑問詞 第1節 疑問詞の種類と用法、第2節 間接疑問 

「カフェ・オ・レーの哀歓」

2007-03-20 | Weblog
「パリ」  木村 尚三郎著 

2 才子は馬車に乗り、天才は歩くーー十八世紀のパリ生活文化 甘草水売りの文化、カフェ・オ・レーの哀歓、パリのカフェは分けへだてがない、革命のモットーは「兄弟愛」、「自由の木」、誤伝「パンがないなら、お菓子を食べればいいわ」、クロワッサンと「三日月パン」のこと、コンシェルジュリーの囚われ人たち、フランス革命は交通事故?、ルイ十五世広場からコンコルド(和解)広場へ、馬車に気をつけろ!、子供受難の時代

ところで十八世紀パリのセーヌ河畔には、新しい飲み物売りがお目見得えした。それは、カフェ・オ・レー(ミルク入りコーヒー)売りである。
コーヒーは、一六八六年にカフェ・プロコップが出来てから、たちまちパリ市民の心を熱狂的に捉えた。メルシエによれば、プロコップから一世紀後のパリには、カフェが六、七百店を数えるとある(現在は一万一千店)。十八世紀半ばからは、コーヒーの入れ方そのものが一変した。
それまでは、炒(い)ったコーヒー豆を碾(ひ)いて、煮出したものをそのまま飲む、ドロットしたトルコ風コーヒーであった、それが変わって、今日のようにコーヒー液を漉(こ)し、カスを取り除いてから飲むようになったのである。
・・・・中略・・・・・
十八世紀セーヌ河畔に現れた新商売のカフェ・オ・レー屋が売っていたのは、要するに、コーヒーの煮出し汁のカスを牛乳と混ぜて、風味をつけたものであった。つまり新しいカスなしの上等コーヒーを飲めない人用の、ごくごく庶民的な、コーヒー風味牛乳であった。これが、カフェ・オ・レーの、そもそもの起源である。これに対して懐にゆとりのある市民は少なくとも十八世紀半ばから、カフェでカス抜きコーヒーを飲むようになった。

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「基礎からよくわかる 英文法」 綿貫 陽 著

第7章 仮定法 第3節 仮定法(II) 第4節 仮定法の条件節と帰結節

「パリ最古の橋、ポンヌフ 」

2007-03-19 | Weblog
「パリ」  木村 尚三郎著 

2 才子は馬車に乗り、天才は歩くーー十八世紀のパリ生活文化 「成功した時代」--今日に生きるよりも、明日に生きる、「成功しなかった時代」の生き方、都市の時代、十六世紀、パリは美しくなり出す、チェイルリー --フランス最初の散策用庭園、優雅なヴォージュ広場ーー遊歩の文化、才子は馬に乗り、天才は歩く、シンメトリーの美しさ、パリ最古の橋、ポンヌフ -- 橋、歩道、そして広場、セーヌ川の水を飲んだパリ市民、川と親しむ都市空間

ポン・ヌフは「新橋」の意味であるが、これも一六〇三年、アンリ四世のときに出来た、現存するパリ最古の橋である。中世以来橋といえば、その上に家屋、とくに貴金属商の家々が立並ぶのが常識であった。その姿はいまでも、たとえばフィレンツェのアルノ川にかかる、ポンテ・ヴェッキオ --こちらは「古橋」の意味である --に見ることができる。敵が橋の向う側から攻めてくれば川のこちら側へ、川のこちら側から襲ってくれば川の向こう側へと、いつでも貴金属を手に逃げられたからである。
つまり橋の上が、長いあいだ市民にとって、もっとも安全な「高級住宅地」であった。日本の橋が、大水に備えていつも仮橋で、いざ出水すれば川の水とともに流れてしまう造りであったことは、まことに対照的である(上田篤『日本の橋』岩波新書)。
・・・・・中略・・・・・
ポン・ヌフ橋は橋の両側に家々がなくなり、その代わりに歩道がつけられた、最初のパリの橋である。人びとが「歩く」ということが、市民生活にとって不可欠となったからであり、これによってはじめて、セーヌ川をはさんだパリの北とパリの南は一つに結ばれ、一つの都市となるこtができた。今日のパリはしたがって、中世いらいというより、事実上、近世の十六ないし十七世紀、とりわけ十七世紀からはじまったといっていい。
ポン・ヌフは、橋であるとともの歩道であり、そして広場でもあった。ところどころセーヌ川に向かって半円形につき出しているところは、今は通行人が立ち止まったり休んだり、恋人同士が抱き合ったり、小学校の女の先生が生徒たちを座らせて川を写生させたりしているが、むかしはそこに、様々な露店が出ていた。道化役者もいれば、歯医者も営業していた。


スキー(アヴィリア)

2007-03-18 | Weblog
今日は、日本人会のスキーツアーに行った。今回が今シーズン最後。
朝、6時50分にアパートを出発。今回の目的地は、フランスのアヴィリアスキー場
バスに乗っていると、高速道路はチョッとしか乗らずにすぐに山道に入る。山道をドンドン登っていってやっと9時ごろスキー場へ着いた。

駐車場からロープウェイに乗りスキー場まで登った。ここのスキー場はゲレンデの真ん中にホテルだかレジデントだか宿泊施設が多数並んでいた。お客さんの荷物を運ぶのであろうか?そりを引いた馬車が道を歩いている。

1本リフトに乗って子供の練習に適した緩斜面のあるゲレンデに向かう。
今回は子供連れの二家族と一緒だった。午前中はボクが赤ちゃんをダッコして休憩していてママとお兄ちゃんが滑った。他の二家族はお父さんお母さんともにそれほど滑れないらしく、ママは子供に教えたりして大活躍であった。
ココの斜面はどこまでも緩斜面が続く、お兄ちゃんは今までスキーがハの字に固定されるジグを付けていたが、今日ははずして滑ってみた。

ゲレンデのカフェでお昼にした。午後はママがお留守番になりお兄ちゃんと滑る。お兄ちゃんはだいぶ自信がついたみたいで、短いTバーでなく結構長いリフトまで行くといって、そのコースを2本一緒に滑った。
2時をこえると風が強くなったので早めにパスに帰った。

集合時間になると、今季の最後のスキーツアーなので幹事の人がワインやパン、ハムなどを用意していて、駐車場の近くの芝生で打ち上げを行なった。
7時にはジュネーブに着いた。


モーターショー

2007-03-17 | Weblog
今日は、ジュネーブで開催されている「モーターショー」に行った。
朝9時にアパートからバスに乗ってジュネーブ空港へ。
空港駅からショッピングセンターを通って会場へ向かった。

まず入ると、自動車ではなく工具とか洗車機とか周辺機器のブースが並んだゾーンに入った。ガレージ用シャッターのブースでは、自動式シャッターがガシャガシャ開いたり閉まったりして赤ちゃんが興味深げに見ていた。いい車はもっと先なのでドンドン進む。すると人がドンドン増えてきた。途中カフェで一休みをしてまた進んでいった。お兄ちゃんは車よりもエンジンの模型の方に興味があったみたい。
一番先まで行くともう人が多くて身動きができない。赤ちゃんとママを休憩所に残してお兄ちゃんと進む。フェラーリやランボルギーニなどのブースは人が一杯でおにいちゃんをダッコしてみたりした。

あまりに人が一杯なのと、赤ちゃんが泣きモードになったため昼を待たずにアパートに帰った。