THE READING JOURNAL

読書日誌と雑文

「電気と磁気の謎を追う」

2006-02-23 | Weblog
「人物で語る物理学入門 (上)」 米沢 富美子 著 

第5章 電気と磁気の謎を追うーーージェームズ・C・マックスウェル (途中)

今日の部分は、電磁気学の理論を築いたジェームズ・クラーク・マックスウェル(一八三一~一八七九)について。

ガリレイ・ニュートン・ホイヘンスなどが活躍した一七世紀は「科学革命の一七世紀」である。一方、一八世紀は基礎科学的には足踏みをしたが応用面では大きな発展を見せた。
一七一二年にトーマス・ニューコメン(一六六三~一七二九)により蒸気機関が発明され、一七六五年にジェームズ・ワット(一七三六~一八一九)が蒸気機関に効率の良い物に改良した。
一八〇四年にレールの上を走る蒸気機関車がつくられ、一八二五年にストックトンーダーリントン間で鉄道の営業運転が開始され、一八二九年にリバプールーマンチェスター間が開通する。
すなわち、一八世紀は「蒸気機関の一八世紀」である。

そして、一九世紀は「電気と磁気の世紀」であり、その立役者がマックスウェルである。

マックスウェルは一八三一年に裕福な荘園領主の家に生まれる、彼の父は弁護士であり、また、仕事の合間に科学実験をするのが趣味という科学好きな人であった。そして、エディンパラ王立協会の定例会議に聴衆の一人として参加していた。
マックスウェルは小さい頃から好奇心イッパイの少年であった。八歳の時に教育係であった母がなくなると家庭教師が雇われる。しかし十歳の時には家庭教師による教育では無理とわかり、エディンバラ中学に入学する。
有名な最初の論文に関する逸話はこうである。

マックスウェルが一四歳のある日、例のごとく父親と共に出かけたエディンバラ芸術協会 の定例会議で、有名な美術装飾家のD・R・ヘイが講演しました。講演の内容は、美しい色や形には数学的な規則があり、数学的な説明が可能だ、というもの で、卵形をしたエトルリアの壺の絵が示されました。ヘイはその話のなかで、完全な卵形を描く方法はまだ見つかっていないことにも触れました。
マックスウェルはその問題を考えて、卵形曲線の作図法を発見します。
・・・・・中略・・・・
マクスウェルはこの方法を「卵形線と多焦点曲線の作図法」という題の論文に仕上げます。一四歳のマックスウェルが書いた最初の論文です。この論文は、エ ディンバラ大学で物理学教授フォーブスが代読して、一八四六年四月六日(月)にエディンバラ王立協会で発表され、注目を浴びます。
・・・・・中略・・・・
論文は『エディンバラ王立協会紀要』にも掲載されました。

その後、マックスウェルは十六歳でエディンバラ大学に入学し、フォーブスの指導を受ける。
一七歳で第二論文「ころがり曲線の理論」を書き、一八歳のときに第三論文「弾性固体の平衡について」を発表する。

一八歳でケンブリッジ大学に移り翌年にはトリニティー・カレッジの奨学生になる。

マクスウェルが入学したころ、「ルーカス教授職」にいたのは、ストークスの法則で有名なジョージ・ガブリエル・ストークス卿(一八一九~一九〇三)であった。

トリニティー・カレッジの卒業時には、「スミス賞」と呼ばれる有名な競争テストがあ り、マクスウェルの卒業の際の出題者はストークスでした。「ストークスの法則」についてまだ思案中だったストークスは、子のテーマについて論文を書くよう にと求めます。独創性が試されるテストですが、マックスウェルと友人のラウスが賞を獲得しました。マックスウェルにとって、学生時代に「ストークスの法 則」と出合ったことは、後に電磁気学の基礎方程式を導く際に大きな助けになりました。

彼は二三歳で卒業し、そのままフェローとしてトリニティーカレッジに残り研究を続ける、二五歳でアバディーン大学の教授に迎えられる。
そして、その二〇余年をへてロンドンのキングス・カレッジの教授、そしてケンブリッジ大学付属キャヴェンディッシュ研究所の開設に力を注ぐ。

次にマックスウェルの電磁気学以外での重要な研究である気体分子運動論と光の三原色説について書いてある。

気体分子運動論にかんしては、まずダニエル・ベルヌーイ(一七〇〇~一七八二)は熱を考察し熱は構成要素である個々の分子の振動運動に基づくものであると論じる。ベルヌーイは分子はすべて同じ速度を持つと仮定する。
これに対し、マックスウェルは一八五九年、二八歳の時に分子の速度はすべて同じでなく、速度零(ゼロ)のまわりに正規分布で広がっている個とを理論的に導く。(マックスウェル速度分布)
これは後に『熱の理論』という本にまとめられる。

かれはまた一八六〇年二八歳の時に光の三原色が赤、緑、青であると提唱した。

以後、電気と磁気の研究の歴史が述べられる。