THE READING JOURNAL

読書日誌と雑文

「ある会津藩士の日誌」

2006-02-01 | Weblog
「日本残酷物語 第四部 保障なき社会」

第2章 ほろびゆくもの  士族のゆくえ ある会津藩士の日誌 

ここでは、戊辰戦争で敗れた会津藩士のありさまを、荒川類右衛門勝茂(あらかわるいうえもんかつしげ)の日誌にからたどる。

戊辰戦争で敗れた会津藩士は、越後(新潟県)の高田藩と信濃(長野県)の松代藩にあずけられた。明治二年一月、勝茂は家族と離れ高田に収容された。
一方、前会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)は隠退、子の容大(かたはる)が南部斗南(となみ)に三万石の封知があたえられ知藩事に任命された。
旧会津藩士の一部は藩主に従い移住が許されたので、明治三年五月、勝茂一家も斗南に移住した。

野辺地より大湊線で下北半島を北上すると、田名部(たなぶ)に達する。この田名部の東 方一帯の斗南ガ丘と大湊の松ガ丘が会津藩士たちにあたえられたあたらしい天地であったが、この一帯は一年中強風が吹き、その上水の便が悪いため、むかしか ら不毛地としてかえりみられなかった土地である。

勝茂一家8人は田名部在田屋村の平七という百姓にあずけられた。なれない農作業のため日誌の量が激減する。また、四歳になったばかりの三男三郎が病死する。
このころになると、斗南藩は開墾事業を始めた、勝茂一家も田屋村を出て開墾村に移った。明治四年の事である。
開墾は思うに任せず、また、藩からの支給米も減らされた。この時、母が病死した。
明治六年になると移住藩士の生活はどん底になってきた。青森県は移住藩士の他県移住を認めた。勝茂は、会津に戻ることにした。

故郷はなつかしかった。しかし旧士族がちりぢりに離散してしまった現在では、もはや知 る人とてすくなく、どのような生活保障のきずなも断ち切られてしまった。旧馬場に桑を植える人夫をしたり、傘轆轤(ろくろ)の目立てを業としたりしてみた が、収入はとぼしく、その日その日の米銭にもことかくありさま。加えて運命の神は、失意の底にあえぐ勝茂に長男、妻、長女の死とあいつぐ痛棒を見舞ったの であった。
・・・・・中略・・・・・
斗南移住のとき七人だった勝茂の家族はたちまち五人を失って、二男乙次郎と次女キクを残すのみとなった。ときに勝茂四十六歳。
のちに再婚し、小学校教員に応募して須賀川へ赴任、六十六歳で辞職するまで約二十年を律気な教師としてすごしたが、あとはただ時間にさらされて風化してゆくだけの凍結した余生であったことを、わたしたちは日誌の事務的な記載の文字に見るのである。
勝茂の没年はあきらかでない。

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「狭き門」 ジッド著

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