THE READING JOURNAL

読書日誌と雑文

「安積開拓の悲劇」

2006-02-15 | Weblog
「日本残酷物語 第四部 保障なき社会」

第2章 ほろびゆくもの  士族のゆくえ 安積開拓の悲劇 

今日のところは、明治初頭に不平士族対策のために行なわれた安積開拓(あさか)について。

明治七年から、十年にかけて不平士族による反乱があいついで起こった。明治政府は士族授産のため、福島県の中央にある安積地方の開拓を明治11年から始める。しかし、安積地方は、

もともと極端な水不足の地域であったから、何千町歩という地域が明治の初頭までほとんど放置されていたのである。

といったところだった。
明治十一年から明治十四年にかけて、各地の士族がそこに移住してきた。みな下級士族で

官吏や軍人・教師になることすらできなかった微禄者と、一部の久留米士族のように郷里で反乱を企て政治犯に問われて入獄していた者などが含まれていた。

しかし、土地は痩せていて、ほとんど収穫らしい収穫はえられなかった。

移住のときは持参した若干の金と政府の補助金や旧藩主からの慰労金等があって、何とか糊口をぬらすことができたが、移住してから四、五年もたつと、彼らの生活はようやく窮乏を告げるようになってきた。

そのため、彼らは高利貸しから金を借りざるを得ず、結局、開墾した土地の八十ー九十パーセントは高利貸地主の手に渡ってしまった。

開拓地を失った者は、故郷に帰ったり、台湾に渡ったり、また夜逃げしたりする者もあった。
そして、ある者はアメリカに渡っていった。

二町五反の自作農を夢見て、十年に余る苦労に報えられたものは、おのれの拓いた土地の 小作人となることであった。開拓地の青年たちは、前途に希望のない開拓村の生活に甘んじることができなかった。雪だるま式にふくれてゆく負債を、開拓地の 生活で返済することはまったく絶望的であったから、渡米して負債を返済し、失った土地を買いもどすために、たくさんの青年がアメリカに渡ったのであ る。・・・・中略・・・・大蔵坦原の久留米士族四十戸のうちから、じつに二十八人もの人々がアメリカに渡っている。そのうち十一人が金を蓄えて帰国し、残 りはアメリカで物故者となっている。