今度、どこ登ろうかな?

山と山登りについての独り言

北アルプス 奥穂高岳

2005年11月20日 | 山登りの記録 2005
平成17年8月7日(日)~9日(火)

 はじめに

夏恒例の?アルプス登山は、去年とおととしが南アルプスだったから、今回は北アルプスにしようと計画を練っていた。何としてもテント泊だから、きついところはごめんだ。実は登ったことがない穂高にしようとずっと思っていたが、上高地から涸沢泊で行った場合、相当重い荷物を涸沢まで6時間ばかり担がなくてはならない。それで、躊躇して薬師岳にしようと子供たちに言ったら、薬師岳は3,000㍍に満たないし、有名ではない?からしょぼいそうで、あまり乗ってこない。まあ、薬師岳にしても結局は相当な登りを重荷を担いで登ることに変わりはない。テン場まで高低差が無くて、アプローチが短かった去年のような訳にはいかない。大体あんなにうまい具合にバスを降りて直ぐベースキャンプなら、どんなに沢山荷物を持っていったって良いわけだ。それに近い雰囲気を北アでというと、立山近辺だけど、調べてみたら乗り物代が馬鹿にならなくて、その上立山・剱は登山済みだからパパは別の所にしたい(希望)。で、また穂高が浮上してきたわけだ。

穂高は山登りをするものとしては、やはり一度は登っていないと調子悪いだろう?(山に登らない人が知っている山は、1に富士山2に槍ヶ岳で3が穂高かな…)あまりにも有名なため、人が多いことを思うとうんざりで今まで登っていなかった。そういえば、槍も穂高も富士山も登ってはいないのだった。

 いざ出発

6日の夜に出発。今年の夏は天候が安定しなくて、梅雨明け後もぱっとしない日が続いている。8月に入っても雷や曇天の日が多かったが、天気予報ではこの先安定して3日間そこそこの晴天予報だから、今回は出だしから好調。先月大滝山に行ったときのコースを辿って松本を過ぎ、上高地に向かう。松本辺りは夕立があったようで道が濡れていた。旧安曇村(松本市と合併)に入り、沢渡の市営第二駐車場というところに入った。沢山車が停まっているが、まだスペースの余裕は多いし、車の主は既に週末から山に入っているらしく、ほとんどの車には人の気配がなかった。割と早く到着したので、バスの発車時間前の5時まで寝ることにしてシュラフに入った。子供たちも眠っていた。空は星が出ていたから天気は大丈夫そうだ。

7日(日)

目が覚めると周囲が騒がしかった。まだ、時間は4時半くらいだが、どうもタクシーで出る人たちが準備をしているようだ。まだ早いし、子供たちも寝ているので、もう少し眠ることにした。ちっちの寝相が悪くて蹴飛ばされたりしてちっとも眠れなかったが、一度起き上がってしまったら周囲もにぎやかで、もう寝てはいられなかった。  

5時前にシュラフを出て外の様子を伺う。バスは当然まだだが、タクシーはもう乗場に集まってきていて、運転手が乗り手を捜していた。子供たちを起こし、朝飯は食べられるか?と聞いたら食べられると言ったので、朝食にする。この時期になると5時でもまだ日は出てこない、薄明るい程度だった。駐車場には車がたくさんあるけれど、やはり今日は日曜日、山に入る人は少ないようだった。沢渡は温泉場で何となく硫黄の臭いがたちこめている。ちゃるは例によって屁を疑われた(この方は車の中でこく悪い癖があるんです)。食事を済ませ、支度をしてザックを担いだら、タクシー乗り場の係員に呼び止められた。相乗りでタクシーに乗らないか?という。その時、乗り場に二人連れが相乗り客を待っていたから、それならと相乗りでタクシーに乗ることにする。一緒になったのは若夫婦?アベックかな…だった(大変おしとやかなお二人でした)。子供たちはタクシーに乗るのは初めてだと喜んでいた。バス乗り場まで歩いて、時間まで待つよりずっといい、タクシーの方が上高地に早く着けるから、出発も早められて両得だった。結果的にはバスより600円高かったけど。タクシーの運転手は丁寧で愛想の良い方だった。途中の滝や景色の説明をして、ものすごく急な新設の釜トンネルを抜けると、晴天が広がる上高地に上っていった。

大正池から焼岳は見えていたが、明神や穂高は霧をまとってうっすらとしか見えなかった。でも、この抜けるような晴天は何よりも嬉しい。ちっちと助手席に二人で座った。ちっちは見えるものをいちいち質問していた。というより、話をしていないと車に酔いそうだったのかも?まだ、人気の少ない朝の上高地バスターミナルに着いて、降りるなりゲロ袋にゲーしていた(おいおい、またかよ…)。でも、本人によればこれですっきりしたそうだ、?。靴ひもを結びなおしたりして早々に出発した。

 上高地を出発です

上高地は2回目のはずだ。昔蝶ヶ岳から徳沢に下り、上高地からバスに乗って帰ったはずなのだが、まったく記憶がない。上高地のことも、バスで松本まで行ったか、島々で降りて松本電鉄に乗ったのか、など全く記憶に残っていなかった。バスターミナルから車も走れる幅広の道をこれから横尾まで11㌔歩かなくてはならない、そこから本格的な山道になり、涸沢まで更に6㌔・2時間半登るのだった。どこまで行くのかは分からないけど、もう沢山の人がその道を軽装で、或いはかなりの大荷物ですたすた歩いていた(だって、早いんだもんみんな…)。取りあえず明神まで1時間だが、幾らも行かないうちに新調のダナムの革靴が足に当たって痛くて仕方がない。そのうちもう靴擦れで皮がむけてしまった。最初からこれでは堪らないな…もっと軽い靴にしておけば良かったとくやんだ。今時はみんな軽登山靴だ。重荷を背負っている若い人たちも、履いているのは軽快な靴ばかりだった。年配者に昔ながらの登山靴が多い。とにかく、絆創膏を貼って、この先が思いやられるが進むことにする。左足は靴擦れだけでなく、くるぶしの前面が合わせベロの堅い革に押しつけられて歩くたびに痛いのも閉口だった(日本人足型じゃないもんな)。今回の登山は靴が当たって痛いこととの格闘だった。とほほ…。

 梓川沿いを歩いていくよ

明神、徳沢と過ぎて、晴天は気持ちいいが、足はますます痛くて余り楽しめない。思ったほど荷物は重く感じなかった。同じようなファミリー登山者が結構沢山いる(意外?でもないか)うちの子供たちよりでかい荷物を背負っているような子供を見ると、まだうちなんか甘い方だなと思う。子供に重いものは持たせたくないけど。でも、みんなが涸沢や穂高に行くわけでは無さそうだ。徳沢や横尾にキャンプだけしに来ている、或いは涸沢止まりの者もいるのだろうし、槍ヶ岳や蝶ヶ岳に向かう人たちもいるだろうから。梓川の流れは茶色っぽい川底の石がきれいに見えるくらい透明だった。その梓川を挟んで聳える明神岳が上部に雲を載せて、時々森の切れ間に姿を現す。朝のひんやりした空気の中をほぼ平坦で、少し退屈な森の中の道はずっと横尾まで続いていた。

梓川が大きく湾曲した見晴らしの良い道になり、左手に屏風岩が望めるようになると、間もなく横尾山荘がある横尾のキャンプ場だった。避難小屋の前で小休止した。子ども達はハイシーレモンを水で溶かして満足そうだった。ちっちもゲーをしてどうかと思ったが、その後は調子も戻り、おにぎりやお菓子を食べて快調だ。ちゃるは今回「さかいやザック」を背負っているが、パッドが硬くて肩が痛いと言っている。(ここいらへんで行き交う人たちは、ミレー・カリマー・グレゴリーといったブランドモノばかりです。だって上高地だもの)でも、ここまで概ね二人とも好調だ。むしろ靴が当たって痛いこちらが一番調子悪かった。こんな有様で明日明後日と山に登れるのだろうか?。本気で泣きムードだよ。

横尾までほぼコースタイムどおりで問題なかったが、ここからが山登り。梓川を吊り橋で渡り、シラビソやブナが混交する森の中を、左手に屏風岩を見上げながら緩く登っていく。屏風岩の上部をクライマーが登っているのが見えた。2人ともすげーと興奮。本谷橋までは緩い登りだったが、本谷橋を過ぎると沢から離れ、ぐんぐん登るようになっていく。さすがに長いアプローチで荷物も重く、この辺りから汗びっしょりでバテ気味になった。行く手高く涸沢とおぼしき雪渓が見え始めるが、足取りは重くなりペースは落ちてくる。ガスをまとってはいるが、穂高の峰々も見え始めていた。ちゃるはやや余裕があったのか?少しペースを上げて先に行ってしまった。涸沢から流れてくる渓流と登山道が合わさる頃、直ぐそこに涸沢ヒュッテらしい石積みと少し高くに涸沢小屋の建物が見えているが、少しも近づかない。それらの上には穂高の連嶺がずらりと姿を現していた。さすがに写真では見慣れている実物に初めて見参するわけだが、やはり見事な眺めだった。成る程日本離れして、人気があるのも頷ける光景だった。

渓流のほとりで小休止。ちっちと2人で冷たい水でタオルを洗って顔や首を拭くと気持ちが良く、元気が出てきた。そこからも、ゆっくりペースで最後に階段状にきざみが入った雪渓を登って、どうにか涸沢ヒュッテに辿り着いた。時間は12時半で、休憩時間を入れてもコースタイムをそれ程上回らない早い時間で到着した。重い荷物と靴が当たって痛いのを考えれば上等だ。ちゃるは先に着いて大分待っていたと言った。

 涸沢に着きました…疲れた

こうしてかの有名な涸沢カールに辿り着いた訳だが、思っていたイメージの涸沢よりもそこは狭い感じがしたし、カールになっているので高い樹木は無いが、標高から言えば森林限界を超えては居ないので、全体として高山のイメージではなかった。しかし、ぐるりと囲んでいる北穂高岳・涸沢岳・奥穂高岳・前穂高岳はあちこちに残雪を配置した岩峰で、さすがにずっと見ていてもこれ程の山に囲まれたところは他には無い。見飽きない眺めだった。

涸沢ヒュッテのホームページ情報では、テン場は一部雪渓の上ということで心配していたが、ヒュッテから見る限り、張ってあるテントは少なくて大丈夫そうだった。確かにテン場は残雪で二分されていて一部には雪が残っている。東大診療所は閉まっていたし、テン場の受付小屋も閉まっていた。長野県警の山岳指導所は開いていて、その小屋の前には、いつも人が何人かたむろしている。テン場の受付は3時にならないと開かないそうで、取りあえず適当な所を見つけて、テントを早めに張ることが第一だった。テン場はみな岩がごろごろした所で床面がなるべくフラットな場所をと思うが、なかなか良い場所がない。やや下った中段下にテントを張った。テントを張ると取りあえずすることはないが、残っていた昼飯のおむすびを食べて、少し周辺を探ったりした。

穂高の連峰は上部にガスが懸かり、段々下に這い降りてきた。2時頃になると、早い雷がやってきて雨になった。疲れているから、雨にたたかれているテントの中で3人とも昼寝をした。雷はそれ程でもなかったが、一時かなり強く雨が降っているようだった。ばらばらと叩きつける様な雨粒の音がテントの中に響いていたが、強力防水スプレー(800円相当)を一本使い切って、フライシートを中心に本体もたっぷり吹き付けてきたから、ま、雨漏れの心配は無いのだった。テントの下も石が寄せ木細工のように積み重なっているところだ、雨はみな下に直ぐ流れ込んでいって、グランドシートの上を流れたりする懸念は皆無だった。ちっちは寒いと言ったので、念のため持ってきていたインナーダウンジャケットを着せた。夏にダウンジャケットかよ。

穂高の荘厳な眺め…すごいね

目が覚めると雨は止んでいた。ほぼ1時間眠ったことになる、雷も収まりガスは急速に上空に昇っていって、また穂高の峰々が少しずつ姿を現してきた。テントの中で寝腐っているちゃるをおいて、テント受付の時間になったという放送があったので、押っ取り刀でちっちと二人で受付小屋に行った。さっき到着したときよりも、少しテントは増えたが、まだまだこのテン場の半分にもなっていなかった。やはり、お盆休み前で本日が日曜ということもあり、空いているようだった。2日間3人でテント張り代2,200円也だった。高校の山岳部が直ぐ上でテントを数張り、大学のワンゲルか同好会レベルのグループがいた他は、ほとんどがファミリーか数人の個人グループだ。若夫婦や熟年夫婦というのも結構見かけた。どっちにしても、かつては大学や社会人山岳部のメッカだったこの夏の涸沢も、今は時代も変わってファミリー登山のキャンプ場となっているようだった。

涸沢ヒュッテにたくさんいる泊まり客は、やはり今の山登りの中核である中高年がほとんどだ。テントの受付をしてから、夕飯の支度をして(もちろんカレーです。今回は軽量化のためジフィーズのアルファー米と、さんざん選んで一番軽かったハチ食品のレトルトカレーだ。アルファー米は昔と比べたら数段旨い、カレーの味はともかく具がやや寂しかったが、子供たちの評判は上々だった。)さっさと食べたら後はやることもなく、ヒュッテの広いテラスに行って、暮れていく涸沢からの穂高連峰を楽しんだ。ヒュッテのテラスには沢山人がいたが、すっかり雨が上がり、晴れてずらりと周りを囲む穂高の峰々の夕暮れに皆酔いしれているようだった(確かにここはいいところだね)。妻には、ここに着いて直ぐ、小屋の衛星電話で連絡をしておいた。

向かいのチロルの山小屋風涸沢小屋の窓に灯りが点り、その小屋を背にしている北穂高の景色にしても、ここが日本ではなくヨーロッパアルプスのような錯覚を起こさせるのだった。景色が青く沈む頃、テントに戻り早々に明日の準備をして寝ることにした。もう子供たちが大きくなってきて、このテントでは狭くて限界だ。2人ともあっちに行け、とののしりあいながら「仕方ねえだろ、狭いんだから…」その上、テントの下の石がぼこぼこしていて穴に落っこちてしまうようで、どうにも寝にくかった。でも、直ぐ隣のテントから星が凄いよと言っているから、星でも見させようかと思ったら、2人とも既に眠っていたのだった。明日でいいや、と思ったが残念ながら次の日は星なんか見えない曇り空だった。明日は早起きして(4時起き)奥穂高の往復だ。天気は良さそうなので何よりだ。いつの間にか眠った。

8日(月)

目が覚めると、まだ外は薄暗かったが、早出をするグループの話し声が聞こえた。子供たちを起こし、外の様子を伺うと快晴だった。もうそこには朝日を浴びる前の穂高の連峰が青空を背景にしてくっきりと見えていた。

朝食の五目ご飯(ジフィーズ)に沸かした湯を注ぎ準備をするが、子供たちも何とか朝ご飯が食べられそうだという。珍しく、五目ご飯は結構うまかったので全部食べ、みそ汁は全部飲んだが、さすがに冷たくて魚の缶詰は要らないと言った。やはり朝は涼しいのを通り越して寒い感じだ。ちっちはまたインナーダウンジャケットを羽織っていた。早々に支度を済ませ、ぽつぽつ出発する人たちに混じって奥穂へ向かう道に入る。テン場から雪渓の上を歩いて涸沢小屋に登る。そこに長野県警の腕章を付けた若い男女の警察官?(には見えない、山岳警備隊の様な制服を着ているが)が「今日のご予定は?…午前中は晴れるが、午後は雨が降る予報が出ているから気を付けて下さい」と言った。大変ご苦労様です。

涸沢小屋のテラスの中を通り、北穂高の斜面を斜めに登って行く道に入る。岩のがらがらした道を、あまり急ではないので快調に登っていった。ここまでのところ、子供達は調子が良い様だ。一応今回は携帯酸素を2本持っている、2人はそれぞれ自分専用だと勝手に自分のものにしている?。斜上し終わるとザイテングラードという名の付いた岩尾根に取り付く、そこには上から降りてきた人たちと、これから上に行く人たちが沢山休んでいた。休まずにそのまま岩尾根を登り続けた。北穂高に沿った道から白出のコルに登るアングルに替わり前穂高が見事な眺めになってそこにあった。前穂北尾根は階段状に高くなって前穂高に高まるが、その形のいい姿は山岳写真で飽きるほど見ている。それが今、目の前にあって、少し不思議な感じがした。見下ろすと、スプーンでくり抜いた様な涸沢カールの末端に色とりどりのテントが点々になって見えていた。その背後には黒々とずんぐりした屏風の頭があって、遠くに形の良いピラミッドの常念が聳えていた。ザイテングラードは途中に鎖場もあったが、特に問題なし。降りてくる中高年や、先行している人たちを次第に追い抜き、ぐんぐん登って白出のコル・つまりは穂高岳山荘に着いた。

 素晴らしい奥穂の眺めだ

山荘の前は広いテラスになっていて、まばらに登山者が休んでいた。ここから奥穂に向かうルートは小屋の脇からいきなり岩場になり鎖やハシゴがあるが、今そこをのろのろと人が2人登っているのが見える。少し休憩、穂高岳山荘の中に入ってみたりして帰りに買うおみやげなどを物色してから、その岩場に取り付いた。

天気は上々、何と言っても3日間の今回の登山中、頂上を踏めるのは今日だけだから、その日の天気だけでもどうか晴れて欲しいと思っていた。午後のにわか雨や雷雨はこの時期のアルプスでは仕方がないが、折角の登頂日だけでもの願いが通じ、いわゆるドピーカンに近い真っ青な青空が広がっている幸運に感謝した。2カ所のハシゴとトラヴァースぎみの鎖を慎重に越す。ここは足元に穂高岳山荘が見下ろせ、結構な高度感だ。その先はもう危なっかしい箇所もなく、2コほどコブを越して、行く手に最後のがらがらの岩の登りを終えれば頂上だ。ここから振り返る背後には涸沢岳や北穂高岳の奥に槍の穂先がくっきりと姿を現した。全くこの時期としては最高の展望だった。

奥穂高の山頂に立った、思いっきりミーハー

パノラマがぐるりと周囲に広がっていた。下の方から早くも雲が湧きだして、這い上がってくるのも見えるが、少なくとも頂上に着いてしばらくは大丈夫そうだった。頂上の右手には、特徴のある岩峰のジャンダルムが黒々と見えている。最後は右手から回り込むようにして、展望盤のある岩の高みと祠がある岩の積み重なりの2つの絶頂に立った。3,190㍍は日本で三番目の標高を誇る。さすがに展望は雄大で、直ぐ近くに前穂高、右手にジャンダルム、真下に上高地を挟んで低く霞沢岳が見下ろせた。槍ヶ岳はくっきり見えていたが、笠ヶ岳には雲が頂上部にまとわりついていたし、東の常念山脈は大天井岳から常念・蝶ヶ岳・大滝山までよく見えていた。遠くに燕岳や餓鬼岳も望める。西側の方が雲が多く、三俣蓮華あたりは雲の切れ間から見えているが、余り多くの山は見渡せなかった。夏山の最盛期とはいえ、今この奥穂の頂上には10人そこそこの人しかいなかった。上の大きい祠の下にも穂高神社嶺宮と書かれた小さな祠があって、その前で休憩した。

子ども達も今回は酸素の助けもいらず、絶好調のままで登頂できた。持ってきた行動食を次々に平らげていったので、食欲も上々だった。休んでいるうちにも次々に人がやって来るが、頂上にいる間はそれ程多くの人たちで溢れはしなかった。老若男女、韓国からの観光客まで頂上にいた。さて、大分休んだしそろそろ下ろうか、次の涸沢岳もあるからと、腰を上げる頃になるとガスが這い登ってきて展望は大分怪しくなってきた。降りはじめるとますますガスってきて、ほぼ眺めは無くなった。まだ時間は9時を少し回ったばかりだが、早くにやってきて大正解だった。登るときと違い、これから頂上に向かう人たちが次々に登ってくるので、見上げる奥穂の頂上は人で溢れていた。良かったね、頂上が空いていて展望もある時に登れて。

穂高岳山荘の上の岩場を帰りも慎重に下って、山荘で一休み。中に入るとカレーやら名物?飛騨寿司とやらを食べている人たちが結構一杯居た。おおっ、食堂じゃん。子供たちはおみやげにそれぞれバッヂやキーホルダーを買った。妻にかわいらしいオリジナルの赤いバンダナを買った(しっかり点数稼ぎ?)。さて、山荘から急な岩稜を登っていくと、20分のコースタイムを25分かかって涸沢岳に着いた。この山頂は狭くて、山頂と言うより登山道の一部という感じ、休む場所もほとんど無かった。ガスは濃くなったり薄くなったりして時折向かいの奥穂が姿を現すが、朝の眺めはもう無かった。北穂へ続くコースから全員メガネの学生5,6人(ワンゲルか山岳サークルかな?)のグループがやってきたり、ぽつぽつ上がってくる単独行の登山者がやってきたりして、着いたときは無人だった狭い山頂はたちまち賑やかになった。少しゆっくりしていく筈だったが、落ち着かない山頂で、眺めもイマイチだから早々に下ることにした。足下にはイワギキョウが咲いていた。

テントに急降下だ
山荘からは一気にザイテングラードを下った。高校のワンゲルか?山岳部?だかは、引率の教師も含めて「ゆっくり軍団」で後になり先になりしていたが、正直言って○○だった。子供たちも山岳部にしては○○過ぎと○○にしていた(○○はちょっと書けません)。帰りはパノラマコースを下った。

下り着いて、テントに戻ってから昼食と決めていたから、少し昼食にしては遅かったけれど、スパゲッティを茹でて明太子ソースを絡めて食べた。まあ旨かったけれど、はんぱじゃなく辛くて子供たちには不評?だった。食べた後はテントの中で休んでいたら、雷なしのにわか雨がざーざー降りになり、この日は5時近くまで降っていた。

夕飯はまだ雨が降っていたが、テントで作った。実は味付けを失敗したピラフで…。まずー。

その晩は雨は上がったものの、晴れなかったので星空にはならなかった。テントの下の石を少し動かしたから、昨日よりは少しましになってどうにか眠れた。

9日(火)

いよいよ今日で最後、後は下るだけなのでゆっくり起き出した。昨夜はテン場もその前の日より賑やかになった。とは言うものの、まだ全体の半分程にもなっていない。多分明日辺りからお盆休みで、人が増えるんだろうな。朝ご飯は、ふりかけと卵スープ、魚の缶詰。子供たちも特に卵スープ(例の会社のやつです)は好評、2人ともちゃんと食べた。

その後ものろのろしていたから、出発は7時半過ぎになってしまった。もう陽は高く上り、今朝が最高のお天気だった。ぐるりと取り巻いた穂高の連嶺に別れを告げ、横尾目指して下った。普通のペースで横尾を過ぎ、ほぼコースタイム通りで徳沢まで来た。行きの時より人が多くなっている様だが、まだ人出のピークではないだろう。徳沢園でオリジナルマグカップをおみやげに、ちゃるはカウベルを買った。カロメイだのおかしで空腹を満たし、長い長い道のりを上高地まで歩いた。明神を過ぎると、人の多さも半端じゃなくなり、観光客がメインになって登山者はむしろ少数派になった。大きな荷物を担いで、汗くさい変な奴らという視線を感じる。ちっちによれば上高地なんて、何でこんなところが面白いのだろうとのご感想…有名な観光地だからですよ。河童橋なんか落っこちそうな程人がたかっていた。ちっちは買いそびれていたステンのマグカップをここでゲットして一応満足そう。バスターミナルにもたくさんの人がいたが、まだ観光客が帰る時間帯ではないので、ほとんど待ち時間もなくシャトルバスに乗れた。2時半に沢渡の駐車場に戻って、やれやれ無事降りてきました。駐車場前の酒屋で2リットルのジュースを買い、車の中で一気にみんなで飲んでしまった。

帰りは、旧四賀村(松本市と合併)の「湯多里山の神」という名前の日帰り温泉で汗を流し(みんなで800円とは安かった)、青木峠越えの道がトンネル崩壊とかで、迂回路になり、ますます距離が長くなり時間がかかった。上田の市街に出ないで浅間ビューラインを通ったので夕飯になかなかあり付けず、子供たちは腹ぺこでブーブー言っていた。食事の後は、ひたすら17号を飛ばして、家にはどうにか10時前に着いた。やっぱり、高速にした方がよかったな。

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