今度、どこ登ろうかな?

山と山登りについての独り言

蟻ヶ峰・大蛇倉山 その2

2005年11月30日 | 山登りの記録 2004
その1の続き

 蟻ヶ峰の山頂から東の踏み跡を一段降りると笹が切れて、露岩に展望が開けた。ここから北には男山まで続く支稜が派生している。真っ直ぐ延びた稜線の果て、八ヶ岳を背景にして小さく男山・天狗山の岩峰が見えた。御陵山からここまでの間には、また小さな岩峰もある。そして、その支稜の東側には高く見える御座山を挟んで真新しいダムが見下ろされた。それが南相木ダムで、上野村に作られている上野ダムと一対になった水力発電のダムであると言うことだ。そこにはもう水が貯められ、見た限りではもうすでに出来上がっているようだった。これらのダムとともに南相木と上野間に新しいトンネルが穿たれているということだ。近い将来、湯ノ沢トンネルと繋いで南牧・上野・南相木と裏を繋ぐコースでこの地方に早く行けることになるだろう。それはともかく、ここで初めて西方に大蛇倉山と手前の1,922㍍峰が姿を現した。やはり蟻ヶ峰と同じく長野県側は頂上まで落葉松の植林に覆われている。また、意外に近く見える上に、高低差も事前の下調べのとおりそれ程無いようだった。未知の山だけに今回事前にかなり下調べをし、地形図もかなり詳細に研究した。去年帳付から撮影した画像をプリントアウトしてこの山並みの群馬県側の様子を見たが、それは鬱蒼とした原生林に高く、人の来訪を容易にしない孤高な秘峰の雰囲気を漂わせるに十分なイメージを与えた。しかし、こうして長野県側から見ると、落葉松の植林された直ぐそこいらの小山のようにも見えてしまって、少しがっかりしてしまう。そんな具合だから、大蛇倉山への到達は問題ないと思われた。懸念していた大蛇倉山の岩場も、群馬県側に頂上部が出っ張った岩場がある様子が窺えるが、そこに登れないほどのものではないようだった。

しばし、行く手を窺った後進路を東に取る。男山方面に派生する尾根に向かう方が踏み跡もしっかりしていたが、東に下り始めると落葉松の急斜面に踏み跡は無くなった。テープも見あたらないが、とにかく県境の主稜線に忠実に方向を修正して行くと、群馬県境が急斜面になっている辺りに、また踏み跡やテープが見つかった。このテープだが主には赤い布テープ(リボン)で木の枝に縛り付けられていて、これは登山者のものではなく山仕事(おそらく測量関係者)の人が付けたものと思われた。テープ以外にもこの踏み跡には真新しい境界杭が多く見られた。他にも青いビニールひもや黄色いビニールひもがあったが、この方は登山者のものか?ネットで山岳会などがこの山域の県境稜線を手分けして辿っているらしい記述を見たので、或いはこれらの人たちのものかと思った。

このまま下り続け、背後に蟻ヶ峰が大きく全体を見渡せるくらいまで下った辺りから、露岩が稜線沿いに出始めた。稜線上の背骨の様な岩場を長野県側に巻いて、落葉松の斜面をほぼトラヴァースしていく。この辺りシカの獣道が交錯し、足元はシカの糞が一杯だ。時折、そのシカの警戒音のピーッという金属的な鳴き声が山間にこだまして、一層深山の趣を加える。とはいえ、落葉松はすっかり葉を落として樹林のなかは明るくてさわやかだ。気温は高めで、とても11月中旬とは思えない。

人がほとんど入らない山と思っていたが、赤テープは最近のものだし、あちこちに真新しい境界杭等があって、確かに登山者は少ないだろうが仕事のために山に入る人たちはかなり多いのではないかと感じた。辿る踏み跡が次第に不明瞭になり、獣道ばかりでテープも見あたらなくなる。踏み跡と見えるものの両側には高さ1メートルほどの所で間伐された落葉松の切り株が目印のようにもなっていた。また稜線に登り返すと、稜線の尾根に忠実にこれは間違いなく人間の踏み跡がテープとともに見つかった。この辺は群馬県側の展望が良く、ダケカンバの若木が多いところを見ても、過去に森林が皆伐されたように思われた。緩く上下し、シャクナゲやアセビが時折じゃまをするが、割合歩きよい稜線が続く。

そうやって踏み跡を辿っていったら、急に目の前に鉄製の白い指導標が現れた。その出方が突然だったし、道など無いものと思っていたところに急に立っていたので面食らった。それは日航機の遭難地点に向かって長野県(南相木村)側から付けられた慰霊のための登山道の標識だったのだ。日航機が御巣鷹山に墜落した当時、上野村側からそこに到達する道は無かった。上野村の墜落地点は正確には御巣鷹山ではなく、多くの地図上では無名峰だった大蛇倉山と蟻ヶ峰(上野村では高天原山と呼ぶらしい)の中間にある1,922㍍峰から派生する尾根の1,500㍍地点付近の斜面だったのだが、そこに至る道はおろか、その尾根の取り付きに達する車道さえなかったようだ。当初はそこまで急遽上野村側から道を造ることが困難だったため、容易に県境稜線まで達せる長野県側から登山道を作って遭難地点に向かうルートとした。この標識はそのころに作られたものだろう。60年日航機遭難地点慰霊登山道と書かれてそれぞれ長野県側に三川、群馬県側に御巣鷹山とある。その指導標のあるあたりから群馬県側をのぞき込むと、遙か下の尾根の途中に台地状のはげた部分が見え、そこが墜落地点であるらしかった。そのまた遙か下のそこに繋がる尾根が沢にぶつかる辺りに駐車場らしいものが見えた。おそらくそこに慰霊の碑や何かがあるのだろう。だから、上野村に慰霊のための登山道や遭難碑が作られてからは、ここでいきなり現れた標識の立つ道は、廃道になってしまったものと思われた。現にはっきりとした道型は見えなかった。下っていく道も半ばは藪に埋もれ、今ここを下っていっても相当な藪漕ぎを強いられるのではないだろうか。

下の慰霊碑辺りからと思われる放送の音楽がかすかに聞こえた。標識からは登りになってシャクナゲやその他の藪が少しうるさい、倒木も多く乗り越えたり巻いたりしながら進むと、わずかで1,922㍍峰に着いた。三角点と赤白だんだらの蟻ヶ峰にあったものと同じ測量のものらしいポールが立っていた。シャクナゲ越しに群馬県側が見えた。西上州の山並みが遙か関東平野の方まで続いて見えた。榛名や妙義、浅間なども見渡せた。

1,922㍍峰から稜線沿いはますますシャクナゲやその他の灌木類の藪がうるさくなり、倒木も邪魔をして歩きづらくなったので信州側の落葉松林側を巻いて進む。大蛇倉山の頂上部は平らで広い感じで、群馬県側は出っぱった岩壁がバットレス状になっているが、信州側はなだらかに三川に下っていて斜面は落葉松の植林に覆われている。落葉松林を信州側に巻いてから、三川に落ちている尾根を上に向かった。

この尾根には下から踏み跡が付いていてテープもある、南相木からこの尾根を辿っている人達もいると見える。尾根をしばらくで明るい小平地に着いた。そこがダケカンバの若木が疎林になってシャクナゲの下生えのある大蛇倉山の山頂だった。

ダケカンバの若木に「大蛇倉山」という蟻ヶ峰にもあったプレートが木ねじで留めてあった。頂上はほとんど展望は無い、頭が赤く塗られた標石があったが三角点では無いようだ。よく見ると紛らわしいがこの手の三角点に似た御影石の標石はあちこちの山頂にあって、「山」等と書かれていたりする、国土地理院のものではないが、やはり標高や何かを測量するための基準の標石であるようだ。25,000図にはこの山には三角点のマークはなく、山頂部に露岩記号が描かれているのみだ。手前の1,922㍍峰には三角点があった。一番高いところはここだが、信州側に白っぽい岩頭が薮から突きだしていた。ここに来るまで期待と不安があった群馬県側のバットレス状の岩壁だが、残念ながら?シャクナゲの密薮にはばまれてそこまで行けない。しかし、薮を透かしてみた限りでは、岩壁というより岩が露出した斜面で、低木も薮状に生えているようだった。

信州側の白い岩頭(石灰岩だった)に登ると、素晴らしい展望が広がった。そこはせりだした飛び込み台のような岩頭で、群馬側はやはりシャクナゲやツツジなどの灌木がびっしり生えて這い入り込むことも難しい薮だが、西面から北面・東面は全く遮ることのない大展望だった。ああ、この大展望を目の前にして「ここが今年一番の山だった」そう思ったほどだ。直ぐ下に南相木ダムが真新しいコンクリートで白っぽく見えている。落葉松は完全に葉を落とし、枯れ色のけばけばに山の斜面は覆われている、所々に常緑樹の緑が点々として見える、これら佐久の山の背景は西の奥秩父連嶺から始まって、南アルプスは白根三山・鳳凰三山・仙丈・甲斐駒・鋸岳、御嶽、中央アルプスの連山、大きく正面に八ヶ岳、北アルプスの白い山並みがずらりと長く、浅間山や草津白根など上信越の山々、日光方面の山々、榛名・赤城、西上州まで、くっきりとして澄んだ青空にそれこそ山岳展望のシュミレーションの様にパノラマが広がっていた。おそらくこれ程の大展望の山も、そうないのではなかろうか?この位置は、考えてみれば日本の高山がずらりと見渡せる好位置だ、富士が見えれば二重丸で完璧だ。そうして、この人知れず広がっている大展望台の枯れ木に、大蛇倉山というかなりくせ字の、でも何となく味のある青いプレートが付いていた。こうやって、人の行かない秘峰に登っては、山頂に山名板を付ける趣味の人達がいるのだろうか?何となくそれは誰でも思いつきそうで、或いはささやかな自己顕示のようで面白かった。証拠写真ではないが、登頂の記念写真を撮るにしてもこういったプレートがあった方がいいかも?何もない山を夢見て登ってくる人達もまたいるだろうから、そういった配慮も忘れずに余り大げさなものは遠慮して欲しいが…。

いつまでも、こうしてただ眺めていたいようなパノラマを前に、ここまで来られた喜びをひしひしと感じていた。蟻ヶ峰は、まず行けると思ったが、そこから更に道無き稜線を約4㌔の大蛇倉山は正直言って全く情報もなく、また頂上付近や稜線の岩記号も懸念されたし、その頂に立てるかどうか来てみなければ判らないという状態だっただけに、案外短時間で、それ程の障害もなくここにこうして立てたことは何よりも嬉しかった。同時にこれ程の展望を持つこれ程の山々が、全く人に知られず、登山道さえ開かれずに、ここにこうしてひっそりとあることが、この周囲の山々の賑やかさと比べても奇跡と言って良かった。いつまでも、ここくらいはこうして静かなままであって欲しいとそう思うのだった。

一人きりの、本当に一人きり、間違っても人が後から登ってくることはないと思われる山を独り占めして幸せに浸ったのだった。登り初めから僅か3時間15分ほど、そこは年間何人の人が来るのだろうか?一応県境稜線の山だから、両県(群馬・長野)の物好きな人達が一ヶ月にほんの何人か通り過ぎるだけだろうと思われた。このぼくでさえ、ほんの一ヶ月前まで名前も知らなかった山なのだから。たかがカップそばが、たまらなく旨かった。この静かな岩の上に、こうして何時までも座っていたいと思った。八ヶ岳は朝の白さが無くなって黒っぽく見えていた。ここまで来て初めてケータイが繋がったので、妻に電話した。あまり嬉しかったから、少し興奮して話していたかも知れない。妻は帰りも気を付けてね、と念を押した。

何時までもいたかったが、そうもいかない。でも、思いの外早く着いてしまったので、その分少し余計に大蛇倉山の頂上にいられた。ここから見える下の南相木ダムと反対に木々に隠れ気味に見えている遥か下の上野ダムが完成し、丁度この真下を通るであろうトンネルが開通した後、この辺りに変化があるだろうか?このままであって欲しいと、願うばかりだ。

帰りは一度辿った道だ。行きよりも稜線上を忠実に辿った。あっという間に蟻ヶ峰に戻った。もう、大蛇倉山は遠くなっていた。蟻ヶ峰も速攻で通過、行きにがさごそやった笹藪はこのコース唯一の薮だった訳だ。そこも難なく通過し、まだ時間的に余裕があったので三国山まで行ってから、朝登ってきた落葉松の斜面をざくざく下って、車まで戻ってきた。それでもまだ時計は2時を少し過ぎた程度だった。距離としては往復15㌔くらい、累積標高差で600㍍そこそだから、登山コースであればらくちんコースだが、登山道もない情報もない山をこうして短時間で往復出来たことは本当に満ち足りた思いだった。登らされているのではない、自らが選び調べて手探りで登った山だから手応えも充分だったという訳だ。山登りの本道はこういう行為にこそあると思う、木暮理太郎の頃の登山をまだこうして意外に近いエリアで実現することも、しようと思えば可能なのだ。

南相木の滝見の湯に寄った。ここから峰雄山の素晴らしい眺めを愛で、4回目にしてほとんど人のいない静かな滝見の湯で、心地よい疲労感に浸るのだった。
薄暗くなったぶどう峠を越え、夕日でシルエットになった御座山や赤火岳の尖峰を見て家路についた。最近通っているこの地域だが、上野村は何度通っても山峡の奥地というイメージを変えない所だ。トンネルが抜けて便利になってもこの雰囲気は容易に変わらないのだろうなと思った。特に信州側から峠越えをすると、谷底に落っこちていく様な感覚は独特のものだった。

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