今度、どこ登ろうかな?

山と山登りについての独り言

・武甲山、小持山、大持山、武川岳

2008年04月08日 | 山登りの記録 2008
平成20年4月6日(日)
武甲山1,295.4(1,304)m 、小持山1,273m、大持山1294.1m、武川岳1,052m

 1月の末に多高山等に登ってから、2ヶ月以上山はご無沙汰だった。年度末の忙
しさに加え、2月は週末になると雪が降って登れないこともあり、3月は休みどころではなかった。そうこうする内、もう桜が咲いてすっかり春になってしまった。桜が咲いてからみぞれが降ったりして、例年ながら花冷えもお決まりか。

 お正月に奥多摩に行った時のサブコースとして保留してあった武甲山。ブランクの足慣らしとしては丁度良いだろう。金曜の夜に出て、土曜に登ろうと思ったのだが、寒気が入って夕立の様なお天気。土曜は当然風が吹くだろうから、山が山だけに混雑することも予測できたが、日曜に登ることにした。

 土曜はゆっくり家で休んで、夜に出た。秩父のスーパーで食料を調達し、生川に向かう道に入る。セメントプラントは夜も休まず稼働して、昼間さながら。こうして武甲山は、その姿をやがて削られ尽くされて消えてしまうのだろうか。

 道の終点は橋の手前で車両通行止めになっていた。脇のスペースに車を停めてシュラフにくるまった。アラームは6時半、少し早いだろうか。当然登る人は多そうだが、前夜から登山口で待機するのはぼくだけのようだ。

 明ける時間が随分早くなったようだ。アラームが鳴る前に、明るいので目が覚めてしまった。外に出ても寒いという程ではない。今日は20℃を越す気温が予報されている。パンを食べ、支度をして6時半に出発した。

 車止めの先も、橋を渡ってから別荘みたいな家や、夏季営業?するらしい釣り堀などを過ぎて、崩落した復旧工事中の対岸の林道が合流する地点が本当の登山口のようだった。横瀬町で作った木製の指道標は、初心者一般ハイカー向けのようで、親切な表示だ。余りありがたくない階段なんぞも設置してあって、公園の遊歩道の様な登山道。30分ほど杉の林を登ると不動滝にでる。残念ながら、この時期は水量が少なくて滝と呼べるようなシロモノではない。屋根付きの小さな不動さんが傍らに佇む。

 杉の植林の中をぐんぐん登って、「三十二丁目」の石柱が立つ「大杉の広場」という平坦な地点を過ぎ、またジグザグに登る。杉の植林は相変わらずだ。丁目の石柱があるところには、意図的に残したのか、杉の巨木が一本立っている。ところが、これらの巨樹は樹齢数百年は過ぎているようだが、周囲の若木(30年くらい)と樹高は同じ様だ。樹頂を切って揃えているのだろうか?不思議な光景だ。当然、幹の太さに比して異様に樹高が低い。この登山道は、数ある武甲山の登山道の中でも頂上神社の参拝路として一番歴史もあり、また一番登られている道のようだ。丁目の石柱も、この山が地元で信仰を集め、親しまれた証。その石柱には寄進した人の名前が彫られていた。

 大分登りが緩くなり、西側に回り込むようになると、樹間から小持山と大持山が姿を現した。そのまま進んで直ぐに「武甲山の頭」という地点にでる。ここは表参道と裏参道の東西と、小持・大持山方面、武甲山頂上方面への南北の道が合流する四辻になっている。落葉松の向こうに奥多摩や奥秩父の山が春霞にややうっすらと、まだ雪を多く残して見えていた。四辻から一登りで真新しい立派な頂上トイレを過ぎ、鳥居がある比較的大きな御嶽山神社を上に抜けると、フェンスの張り巡らされた頂上の一角に出た。フェンス沿いを少しで頂上展望台に8時16分に到着。やや霞んで遠くは見えないが、眼下に秩父市街と秩父盆地の景色が広がった。フェンスの向こうは崩壊斜面で、下に小さくダンプやショベルカーが見える石灰採掘現場なのだった。こうしてみると武甲山は東側半面が既に消失しているというのが良くわかる。いずれ崩され尽くされて、残りの山も消えてしまうのだろうか。えらいことをしたものだ!

 折角の頂上だけど、あまり気分が良くないので、早々に展望台は退散して御嶽山神社の鳥居のところで休んだ。日だまりで暖かい。8時42分に頂上を下りシラジクボ(小持・大持山との鞍部)に下っていく。数人のハイカーとすれ違う。東側は杉の植林だが、西側は落葉松の植林でそちら側の眺めはよい。遠く奥秩父の山並みと、奥多摩最奥の長沢背稜の山並みが手に取るようにパノラマで広がる。酉谷山付近が正面に見える。1月に登った三ツドッケも東端に見えた。小持・大持山はなかなか立派な山容。

 シラジクボから再び上り返し、背後になった武甲山を振り返りながら急な登りに一汗かいて9時46分に小持山到着。だれも居なくて静かだった。ここでまた一休み。
武甲山方面しか展望はない。行く手の大持山へは途中岩混じりの小さなピークがある。

 10時3分に小持山を下り、大持山目がけて幾つかのコブを上下する。丁度中間のピークは岩場があり、ここから西面にこの日一番の展望があった。下って上り返した大持山に10時40分着。ここにはハイカーが数人いた。三等三角点と横瀬町の標識があり、樹間から少しだけ展望があった。西にかなり遠く武川岳が低く見えていた。10時50分大持山を下る。

 一下りした鳥首峠分岐は、伐採されて見晴らしが良かった。この付近でも沢山のハイカーがすれ違う。奥武蔵の山並みが青く霞んで、低く連なっていた。妻坂峠に向かって長い下りを下る。奥多摩辺りと同じ、ナラの雑木林はとても雰囲気が良かった。
 11時半妻坂峠に到着。そのまま、また武川岳に上り返す。この上りは結構きつかった。11時55分武川岳着。平坦で広々した(樹林で眺めは良くない)頂上は沢山のハイカーで溢れていた。多くは名栗側から登ってきた人たちのようだった。ぼくは良く知らないけれど、この山は人気の山らしい?頂上から離れて山伏峠の登山道側で休んでカップ蕎麦を食べのんびりした。そうするうちにも、後から後からハイカーがやって来る。そんなにみんなで登るほどの山なのかなあ…?。

 12時34分に武川岳を下り、後は一気に生川まで下った。妻坂峠登山口1時34分着。少し歩いて車に戻った。一応予定したコースを周回した。久しぶりだったが、楽なコースだったので、足慣らしには良かった様だ。大して疲れもない。

 帰りは2度目の武甲温泉に浸かる。武甲温泉も人でごったがえしていた。丁度桜が満開の日曜で、どこも人で一杯だ。道の駅秩父で蕎麦を食べて、帰路につく。道路は大渋滞で、家まで3時間も掛かってしまった。

 半分無くなった武甲山は痛々しいものだが、半分はまだ今のところ昔のまま?で残っている。でも、これもそのうち無くなってしまうのだろうか。勝手な野次馬的感情を排しても、やはり名山を葬る正当な口実は見あたらないと思えるのだ。答は未来に出るのだろうが、正しかったという「答」がその時にでるとは思えない。失ったものは、もはや取り返す術もないだろう。悲しいかな武甲山。

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4 コメント

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春山 (重鎮)
2008-04-09 22:40:51
久しぶりの山歩きを楽しまれたようですね。
武甲山は削り取られた部分と、そうでない部分の差が極端ですね。
穏やかな山行を楽しまれた事と思います。

さあ、今度は残雪期の山でしょうか?
花の咲く山でしょうか?

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行きたい山は沢山ありますね (あさぎまだら)
2008-04-10 01:03:03
ご無沙汰してました。
重鎮さんはぽつぽつ登っておられたようですが、
ぼくはお正月以降、山どころではない日々でした。
ストレスも溜まるし…。ガス抜き必要ですね。
登りたい山はいつも一杯ですが、日程がなかなか。

お天気も味方してくれないと。桜が咲いてからお天気は不安定ですね。例年のことですけど。

残雪期でなければ登れない山。検討中です。
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物言わぬ武甲山  (kawasaki)
2008-05-18 03:47:30
ずっと、当たり前に、削られた山容を「あれは、セメントのためにけずられているのだ」とただ単純にかたずけていましたが、改めて、誰が、何故、なにゆえにと考えてみました、そう、コンクリートに囲まれて生きている今の私たち全員が、結局は山を削っているのではないでしょうか、物言わぬ武甲に思いがあるとすれば、まさに気高きもの、
もう、やめようと声をだしてみたくなりました
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武甲山が教えるもの (あさぎまだら)
2008-05-20 00:31:06
 そうですね。明治以降、富国強兵政策から全てが始まり、変わったのですね。「近代化」と「文化生活」が何よりも優先され、「錦の御旗」として振り続けられて来ました。
 同じ埼玉県の和名倉山もそうして全山伐採という愚行が行われ、鬱蒼たる原生林を失って荒廃して殺伐とした雰囲気を感じる山になっています。

 武甲山はやってはいけないこと、大切なものを失うことのむなしさのシンボルとして、秩父の町の背後に聳えています。いつかは消えてしまうかも知れない、その山体を身をもって教えてくれているようです。
昔の秩父の写真を見ると、握りこぶしのような武甲山が背後にあって、きっとそれは秩父の町に住む人にとって朝夕眺めたふるさとそのものだったに違いありません。橋になり、ビルになり、消えていく武甲山。

 わたしたちにできることは、事あるごとに発言し、目先の利便や快適さ追求の犠牲として第二第三の武甲山を作らないようにすることですね。大きな力で蛮行が行われます。でも、失ったものは二度と元には戻りません。抵抗が大きくなれば蛮行も思い通りにはならないでしょう。目立たないけれど、西上州の叶山も武甲山と同じ運命を辿っています。でも、お隣の二子山はセメントにされることを免れました。これは地元の運動の結果だったと聞いています。

 快適さに慣れてしまった私たちが、だからといって今更生活を明治以前には戻せません。何でも許されるという行為に一定の歯止めをして、それをボーダーにすること。してはいけないことには、声を大にして反対すること。
「あやまちは繰り返しませんから…」というあの有名な碑の言葉を、ぼくは武甲山に捧げたいと思います。
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