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現代の道祖神⑤

2012-01-12 12:36:32 | 民俗学

 窪田雅之氏が現代の道祖神について触れるようになったのは1996年ころから(「現代の道祖神―その役割と性格を中心に―」『松本市史研究』6)のことである。当初は「現代の道祖神」として戦前までに建立されたものとは区別して扱っていたものの、建立の背景が多種多様であることから考えれば現代の道祖神の意図もけして以前のものと区別して扱うものではなく、その背景を素直に受け止めてみようと試みたわけである(「現代の道祖神事情―新たに建立される神々をどうとらえるか」『信濃』60-1)。とはいえ社業にちなんで新聞を読む道祖神を会社の前に建てたり、カメラ屋さんだからといって店の前にカメラを持った道祖神を建てるのと地域の共同体が建てるものを同一舞台にのせるのは適当ではない。やはり区別が必要だと思うのは、神として建てられたものなのかそうでないかの違いである。信仰対象であるのか、そうでないのか、場合によっては前回も触れたように建てた際には信仰対象ではなかったものが、のちに信仰対象に変化していくものもあるだろう。確かにその背景をたどると区別する必要はないという考えも当てはまるが、橋梁の親柱に彫られたものや、公園の標柱的意味合いのものをいわゆるこれまで捉えていた「道祖神」と等しく扱うのは正しくなく、「道祖神」にも2種類の道祖神が存在すると捉えた方がよいのではないだろうか。ようは信仰対象としての従来の扱いによるもの、いっぽうは「道祖神」という商品名として存在するもの、という具合に。そして背景の民俗性を探る意味では、どちらも民俗学の対象として存在しても良いわけである。

 窪田氏は平成時代以降に建立された道祖神の数は、確認できるだけでも旧松本市域において22年間に49基を数えるという。かつて道祖神の建立が盛んに行なわれたという文化文政時代の26年間で41基を上回るペースだという。あくまでも基数だけでの比較ということになるが、その実態をもう少し確認してみると、例えば今町に平成4年に町会が建てた数は5基、同じ今町に平成6年に大手商店街振興組合が立てた数は8紀、同じ組合が平成15年に分銅町に建てた数が4基、といった具合に複数建てられているものを見る限り、信仰ではなく振興の対象であることはいうまでもない。そこには同姓とか集落といった一定の道祖神を建てる法則はない。窪田氏はマチの道祖神の信仰についても『松本市史』において調査研究されてきていて、マチには造碑ではなく木造の道祖神が保存され特徴的な信仰を展開してきている。その中で「道祖神」というものの共通化・常識化のなかで商売の道具として道祖神が商品化されてきていることを浮き彫りにしたような現代の道祖神建立なのである。もちろんそれもマチの民俗としてとても興味深いものであることは事実であるが、やはりそれらを同じ対象として捉えるには道祖神そのものの存在に混乱を与えてしまうような気がするわけである。平成以降のものではないが、窪田氏が一覧化した昭和後期(戦後)以降の道祖神には、例えば昭和53年から54年にかけて建てられた浅間温泉の観光協会の10基という例もある。同様に美ヶ原温泉組合が昭和62年に3基建てており、道祖神のイメージをより商品化する意味での建立背景が色濃いわけである。それら多様な建立意図も道祖神らしさと言えるだろうが、こうした背景を知るほどに、むしろ「現代の道祖神」として区別する必要性を抱くわけだがどうだろう。

 続く

現代の道祖神④


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