Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

訃報がない

2021-05-11 23:06:37 | ひとから学ぶ

 先日“「近親者のみ」という告知の不思議”で触れたとおり、妻にとってはおばさんが亡くなった。妻にとっては実家からすぐ近くに嫁に行ったおばさんで、95歳だった。わたしにとっても、かつては一緒に農作業をしたこともある、身近なおばさんだった。

 ところがである。亡くなった当日、妻は近くで農作業をしていた妻にとっては親しい友人のご主人から、「○○(おばさんの家)で人が集まって掃除やらしていて、何かあったのかな?」と聞かれたという。おばさんの家は、直線距離で100メートルほどと近い。背向かいのため、ふだん生活している視界からは見えないが(とはいえ、わが家の畑は裏側にもあって、妻は頻繁にそこで働いている)、すぐそこの家。妻は驚いておばさんの家に農作業をしていた格好で訪ねると、おばさんが亡くなったと初めて聞いた。もう親戚中(娘兄弟の家族など)が集まって、葬式の準備をしていたという。おばさんの在所の家になる妻は、何もしないわけにはいかないと、それから庭の草むしりなどをしたという。

 親戚中といっても、その家から出た娘たちや、その家の親戚であって、妻の家筋の親戚は誰もいない。当然のことで、そもそもおばさんの在所に亡くなったことを告知してなかったのだから、妻の系統の親戚には誰にも知らされていない。高齢だからもう世代が代わっているからだろう、と思われるかもしれないが、確かにおばさんにとっての兄である妻の父は亡くなっているが、おばさんの妹が3人健在。にもかかわらず、亡くなったことが知らされていなかった。妻はおばさんが亡くなったことを知ってから、それら妹さんに連絡したわけだが、それにしてもすぐ近くにある在所に連絡がなかったことに憤慨。確かに足を運べない妹もいるが、年齢的にはまだ若い妹さんもいた。湯灌にはには在所である妻の実家の現在の主に当たる義弟が顔を出したが、最初は「来なくても良い」と言われたほど。結局、湯灌に妹さんたちは参加されなかった。

 さらに、葬儀ではこの状況下(コロナ禍)ながら近親者による精進落しが行われたというが、在所にも妹たちにもそのことは知らされていなかった。ようは出席無用というわけだ。もちろん話があっても遠慮したが、まったく話がなかったというあたりに、またまた妻は憤慨。けして仲たがいしていたわけでもないのに、喪主である当主の考えなのだろう、またそれに異論をはさむあちらの親戚筋もいなかったというわけだ。世間に名の知れた関係者がいるにもかかわらず、これが現実なのである。世間がともだち関係の社会生活になりつつある中での、「義理」の変容と捉えられるかもしれない。都合の良いときには「家」を口にするのに、自らの都合には自らの論理を口にする。今の世らしいといえば「らしい」が、こうした人たちが当たり前のような顔をするのは、残念なこと、であるが現実の地域社会の事例である。


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