Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

旧河野村を望む丘で

2015-11-06 23:17:23 | 歴史から学ぶ

慰霊碑(豊丘村旧神稲村地積)

旧河野村中平を望む

 

 ここもまた段丘の突端である。林原と言われる中段のなだらかな平地は、豊丘村の中心から2段段丘を上ったところにある。この突端にも象徴的な空間がある。「豊丘霊園」である。いつごろ整備されたか知らないが、ここにはいわゆる満蒙開拓による犠牲者を刻む慰霊碑がある。今、この地域は滿蒙開拓の歴史に対して盛んだ。何より阿智村にできた満蒙開拓平和記念館の存在が大きい。俄かにと言って良いかは解らないが、滿蒙開拓を学ぶ機運が高まった。戦後70年もしてようやくという感がする。まるで最近建てられたかに見える慰霊碑には次のように刻まれている。

正面

海外犠牲者
 慰霊碑
  長野県知事
   西沢権一郎

向かって右側面

昭和の中世 時の國策の悠久大義なるを信じ それに順応し祖國を離れて
海外の新天地に活躍中 太平洋戰争の悲惨なる終結に伴ない雄國空しく挫
折し凡そ文明社会の想像し得ざる悲惨な現実に直面し幾多の同志は想を故
郷に馳せつヽ異郷に散華し 生あるものは辛うじて身をもつて故山に帰るの
止むなきに至れり 今茲に平和なる母村の清丘に碑を建設して異郷に眠る
同志の声なく帰郷を希い以て慰めんと欲す

向かって左側面

想を馳すれば吾等の雄國は事志と違い悲惨なる結末を告げたりとはいえ決
して無為にあらず 必ずや後世の歴史は平和日本建設の礎たりしことを証
明するであろう この丘に立ちて眼下に天龍の清流と榮ゆく母村の姿を
見 仰いで青天に一片の白雲悠々たる故山の姿を眺むる時 遠き想新にし
て感無量なるを覚ゆ
  御霊よ 安らかに永眠されんことを  一九七四年八月一五日

 滿蒙開拓に多くの村民を送った、長野県はとりわけ国策に応じたところだった。満州へ渡った村民比率(渡満者比率と言うらしい)が佐久の大日向村が多かったことはよく知られている。大日向村以外ではとりわけ下伊那郡に満州へ渡った人々が多かった。下伊那町村会が挙げて満州移民を送ったことによるものだが、そのいっぽうで大下條村(現阿南町)の佐々木村長は、移民計画が無謀なことを理由に村として移民を送り出すことをしなかった。当たり前のように、平坦地の少ない山間農村部のため、とその理由にあげられるが、けして山間が貧しいと決めつけるにはどうかと思う時代であったようにわたしは思う。もちろん分家を出すことはできない、となれば地元には残れない。すると新天地を求めるのは自然の流れであったかもしれないが、それだけではなかったはず。県民性としても、下伊那に集中したことをそれだけで説明することはできない。

 こうした慰霊碑などの関連石碑から計量的分析を行ったものが“「満州」記憶に冠する計量的分析の試み 長野県の碑を中心に”(南誠)である。当然のごとく長野県にそれは多く、もちろん南信に集中する。またそれらは1970年前後を中心に建立されているようだ。

 さて、ここの慰霊碑は昭和48年に犠牲者の遺骨が送還されたのを期に建てられた。その当時のここの景観がどうだったかは解らないが、現在は霊園の西側には高い樹木が立ち並び、天竜川や対岸を正面に望むことはできないが、北側に谷があってそちらは広く展開している。いわゆる集団自決者を大勢出した旧河野村を望む。碑文の想いはここにある。とはいえ、「決して無為にあらず 必ずや後世の歴史は平和日本建設の礎たりしことを証明」しているだろうか、今の日本国において。


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