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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

下伊那の道祖神⑪

2015-11-05 23:18:46 | 民俗学

下伊那の道祖神⑩より

 

 現在は飯田市となっているが、遠山谷は周囲のほかの町村が合併しなかったから、果たして合併が適していたかどうかについて疑問符がいくつも湧いてしまうような存在だ。そんな遠山谷には道祖神がほとんどない。旧南信濃では無いとされている。上村については、飯田風越高校郷土班の『風越山』30号(1985)に2基の道祖神が報告されている。ひとつは小川路峠を超えて遠山に下ったところの清水に、もうひとつは程野の事例が掲載されている。清水についてはかつての赤石林道沿いにあたり、何度が探してみたがわたしには解らなかった。いっぽう程野道祖神はコールタールで書かれた文字碑と前掲書に書かれているが、わたしの見たときはコールタールなのかどうなのかはっきりとは解らなかった。いずれにしても刻んだものではなく、石の面に文字が書かれた道祖神で、冒頭の写真のようなものだった。ところがこの道祖神のあったあたりは国道の改修が行われ、ずいぶん様変わりした。もう20年近く前のことなのだが、わたしがこの道祖神を訪れたのはその改修が行われる前のこと。程野神社から少し地蔵峠に進んだあたりにあったのだが、それがどこなのか記憶にはっきりしない。おそらくこのあたりだったのだろうと思われるあたりで何軒も訪ねて聞いてみたのだが、結局この道祖神は見つからなかった。95歳、あるいは90歳を超えている方に何人か聞いて解らなかったから、簡単にいうと、もしあったとしても信仰は無かったといっても差し支えないのだろう。文字で書かれたというあたりからして、個人が建てていたものと推測される。

 前掲書にはこう書かれている。「地元の人の話によると、今から350年前に流れ着いた道六神がなくなり、その代わりに建てた」と。風越高校の生徒が調査したのが1985年だから350年前と言うと、1635年と寛永年代となる。その際に「流れ着いた」となれば、建立はさらに遡るわけであるが、現実的に道祖神の存在が希薄地帯だけに、その時代に道祖神なるものが信仰されていたのかどうなのか。

 上村にはもうひとつ墨書きの道祖神なるものがあった。これは竹入弘元氏によって『伊那谷の石仏』に報告されたもので、風越高校の生徒たちは見つけられなかったと記している。実はこの程野道祖神を訪れたころ、上の役場の横に流れ下る沢沿いで竹入氏が報告している道祖神をわたしは見ている。対岸の岩の上にあったのだが、現在その岩らしきあたりにその道祖神は存在しない。岩から転げ落ちると危険だということで撤去されたのか、ただの石ころとして叩き落とされたのか定かではない。いずれにしても現存しない。

 書かれた石碑については「筆書きの「家内安全」碑」で触れたことがある。意外に世の中には筆書きされたものは多いのかもしれない。かつてわたしが発行していた『遥北通信』という同人誌に諏訪の平出一治氏が「ペンキで書かれた水神」というものを寄稿してくださった。「水神」と銀色ペンキで書かれたもので諏訪市豊田有賀の下村にあったという。果たして現存しているのかどうか。

 さて、程野で道祖神を探していたら、かつての道祖神があったと思われる近くで別の道祖神に遭遇した。側面に「昭和六十二年」とあるから、かつて訪れた際にすでに建立されていたものと言えるが、「祭奉 道祖神 水ノ神」と書かれている。どういう意図で建てられたものなのか、まだそれほど古いものではないが、路肩の危うい場所に建っていて、地震でもあると川に転げ落ちそうで、もちろん現在その存在に気がついている地元民も少なそうである。

 なお、わたしは『遥北通信』134号(平成5年)へ「下伊那郡上村の筆書き道祖神」を報告した。その全文を参考に掲載する。

「下伊那郡上村の筆書き道祖神」

 長野県下伊那郡上村は、遠山川や上村川添いの山肌に住む舞台を求める平坦地のほとんどない村である。例えば遠山川添いの下栗では、傾斜度三十度近い畑地を生産の場としているわけである。平坦部に住む人には考えられないような土地を有効に利用しているわけである。そこでは、ヨソモノが畑地を歩くことを嫌う。なぜかというと、そこにある耕土が慣れないものが歩くことで川底に落ちていってしまうからである。一度落ちてしまった耕土を、再び上まで運べるものではない。こうした舞台に住む人々には独特の信仰がある。もともとこの谷に入るには、天竜川と遠山川の合流点から入る道が一般的であって、それ意外には飯田市上久堅(かみひさかた)から小川路峠越えに歩いて入る道が最も利用されたものである。また、北側に隣接する下伊那郡大鹿村から地蔵峠を経て入る道もあった。しかし、自動車というものが交通手段になり始めた時代には、ほとんど天竜川と遠山川が合流する下伊那郡天竜村平岡から、現在の南信濃村を経て入る道しかなかったわけである。郡の中央部にある飯田市から行くにも日帰りは大変だった地域である。戦後下伊那郡喬木村から赤石林道が開かれ、交通事情も大きく変わり、人々が容易にこの村に入ることができるようになった。また、まもなく三遠南信自動車道のトンネルが開通することにより、さらに身近な地域になりつつある。

 さて、前置きが長くなってしまったが、こういった地域の道祖神とはどういったものなのだろうか。ここでは、この地域にあるめずらしい筆書きの道祖神を紹介する。

 上村と下流域にある南信濃村は、総称して「遠山谷」と呼ばれている。遠山での道祖神を探した場合、数が少ないことと、信仰の薄いことに気がつく。特に下流域の南信濃村では、一体の道祖神もなく、人によっては観音様を道祖神と呼んだりしている状態のである。ここでは正月の松飾りを焼く火祭り(ドンドヤキ)が、最近になって行われるようになったといわれ、これだけ道祖神が共通語になった時代背景から考えると、道祖神はありますか、と問えば、路傍に立つ石仏をさして道祖神と答えても何等おかしくないのである。そう考えると、南信濃村には長野県内で一般的にいわれる道祖神信仰は、なかったともいえるだろう。ところが遠山川をさかのぼった上村には、数は少ないが道祖神がある。ここで周辺地域の道祖神数を調べてみると、北側の地蔵峠を越えた大鹿村では十三体の道祖神があり内二体は双体道祖神である。しかし、それらは大鹿村の中央より北側にあって、上村よりの南側には道祖神がないのである。一方先にも述べた西側の小川路越えの地域には、飯田市上久塾に三体、下久堅に四体[①]といったところである。ちなみに小川路峠を下った上久塾にある道祖神は、双体一体と「道禄神」二体である。

 このような周辺の状況も把握したうえで上村の道祖神をみてみる。飯田風越高校郷土恵が一九八五年に文化祭で発表した「下伊那の道祖神」によると、上村には二体の道祖神がある。その他に竹入弘元氏が『伊那谷の石仏』で紹介した上村上町(かんまち)の筆書き道祖神を加えると三体ということになる。飯田風越高校郷土班ではこの上町の道祖神について、確認できなかったと報告している。わたしはこの三体について確認してみた。このうち小川路峠道に沿った清水という地区にあった道祖神については、紛失したという話を聞き、調べてみたが見つからなかった。また、飯田風越高校郷土班が確認できなかった道祖神については、地元の山口儀高さんに教えていただき所在がわかった。『伊那谷の石仏』で紹介されているように、赤石林道を下っていって上町に着く間近の川の向こう側の巨岩の上に載っていた。たしかに墨で「道祖神」と書かれているのである。高さ三十七センチの自然石で、遠くから見ると地震でもくると転げ落ちてしまいそうな感じである。この道祖神についても地元の人に忘れられているといった感は否めない。ここでは松飾りを焼く行事を「どんど焼きさぎっちょ」と呼ぶといい、小正月の十四日に行われるという。十四日というと、先に「造北通信」で紹介したこともある「御祝い棒」がある日である。この一年間に嫁を迎えた家に子どもたちが行き、ハチンジョのついた祝い棒でその家の縁側を叩くという行事である。他の同様の行事を今日まで伝承している場所では(南佐久郡川上村や下水内郡栄村)、道祖神祭りの一環として行っているものであり、必ず火祭りとつながっているわけである。ところが、ここでは火祭りとのつながりもなければ、道祖神とは何等関係がないともいわれている。この辺の点については、上村へ道祖神信仰が入ったルートや、周辺地域の信仰圏なども考慮して調査しなくてはならないわけである。

 ところで筆書きの道祖神であるが、「伊那谷の石仏」では他に飯田市鼎町名古熊、同鼎町下伊那農業高校東方、上伊那郡高遠町東高遠さいのかみ坂にあると述べているが、わたしは未見である。なぜ彫るのではなく、筆書きなのだろうか。竹入弘元氏は、かつて双体像や文字碑を建てる風習の生まれる前は、神域を示すため、あるいは神の依代として奇石を建てたもので、やがて誰がみても判るように文字を刻むようになったといっている。そのうえで墨書き道祖神は過渡期のものではないかと述べている。それにしても珍しいもので、今回上村のもう一体の道祖神をたずねたところ、やはり筆書きの「道祖神」(写真)であったため、どういう意味があるのだろうと改めて考えさせられたわけである。この道祖神については、飯田風越高校郷土班の報告では、コールタールで書かれた「道祖神」と紹介しており、「交通安全」と書かれていたことも紹介している。しかし、わたしが見たものには、「交通安全」はなく、コールタールで書いてあると断言もできなかった。おそらく薄くなった字をなぞったものであろう。ここの道祖神については、三五〇年前に流れついた道六神がなくなったため、その変わりに建てたものといわれている。信仰などについて聞きとってないので、そのへんについてもう少し調査をしなければならない。

 写真の道祖神は碑高五十五センチのもので、上町から地蔵峠に向かって程野神社を過ぎて少し行ったところの右手、地蔵堂跡にある。

註、①長野県飯田風越高等学校郷土クラブ『風越山1第三〇号-下伊那の道祖神』一九八五年より

 

続く


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