Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

長野県の今を紐解く①

2010-06-08 12:30:23 | 歴史から学ぶ
 長野県には企業局というところがある。有料道路や別荘地といった経済成長下における“開発”を手がけてきた部署である。すべてとはいわないまでも今ある長野県のありかを描いてきた一公的な部署といえる。この企業局が今、いろいろ整理しているわけであるが、所有する発電所は平成23年度をもってすべて手放すという方向で進んでいるようだ。そもそも企業局は1958年に美和ダム(現伊那市)が竣工され県営美和発電所が発電を開始した際に設立された電気部が始まりである。そんな企業局にかつて相沢武雄という企業局長がいた。わたしの年代であるとすでにその名を知らない人も多いが、わたしより古い時代の人たちにはよく知られた名前である。それほどかつての企業局は目だっていたとも言える。そんな相沢武雄から検索していたところ新津新生氏が公開している「戦後長野県政と田中県政」(信州現代史研究所)という論文に行き着いた。新津氏は長野県内の現代史に詳しく、とくに堰に関する歴史にも明るい。

 新津氏の同論を読んでいてわたしが忘れかけていたことをよみがえらせてくれた。なにより先ごろ話題になった社民党の前身である社会党のことである。前田中県政を迎える際に盛んに言われたのは、官僚による県政の長きにわたる停滞というものであった。わたしの子どものころといえば、首相といえば佐藤栄作、知事といえば西澤権一郎と決まっていた。毎年トップがころころ代わる今の政治とは違い、内容はともかくとして“安定”していた時代といえる。その西澤権一郎と次の吉村午良という2代で県政は半世紀近く保たれていた。いってみれば長きに国政を握っていた自民党時代に平行するように横たわっていたわけであるが、そもそも2人は自民党籍ではなかった。そして西澤権一郎にあっては初の知事選に挑むにあたり、前社会党知事林虎雄を引き継ぐという形で社会党の「党友」として出発している。新津氏によると「適当な機会に入党する」というのが社会党が推薦する条件だったともいう。ところが西澤は入党を拒みつづけ、結局社会党という色合いから自民党という色合いに変色していったということになる。同じような政治リーダーは他にもいくらでもあるのだろうが、いずれ社会党もかつての自民党とそう代わらない色合いをしていたといっても良いのだろう。村山内閣が誕生した際に、自民党と社会党がくっつくなんて考えもでなかったような声が聞こえたが、こと信州社会党に限ると、そんな流れはけして不思議ではなかったのかもしれない。

 さて「よみがえらせてくれた」という部分であるが、そういえばと気がつくのは、わたしがまだ社会人になったばかりの長野県政には社会党の有力議員がたくさんいた。それもただ有力というだけではなく、かなり灰汁の強い今で言うなら自民党並の権力を秘めていたとも言える。わたしの見ていた県政における社会党の力は西澤権一郎時代に築きあげられた関係だったのだろうが、新津氏も指摘するように林虎雄社会党知事時代より続く信州社会党の歴史的背景を担ってのものだったのだとあらためて教えられるのである。

続く

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