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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

『西天龍』の回顧談から⑥

2010-07-29 19:57:23 | 西天竜

『西天龍』の回顧談から⑤より

 前回南箕輪村大泉の原孝也氏の「記念碑について」(『西天龍』北部教員会西天龍調査研究委員会編/昭和29年)から西天竜開田事業の記念碑について触れた。同書の中の回顧談は12編あるが、この原氏の「記念碑について」には、奥様である原美寿ゞさんが書き加えている。回顧談に唯一の女性の寄稿なのである。彼女の記した文を引用してみよう。


 この大泉の開田前は150戸の農家があり田は十町歩そこそこで殆どどの家も粟を主食に大豆、稗を作って混食にしておりました。米のご飯は粟の中にちらほらあるのがあたりまえであったわけです。何んとかして米のご飯をたべたいと私共婦人のはかない望みであったのはたしかだと思います。又水にも大変な不自由をしていました。水くみも家事の大きな仕事の一つであり、朝顔を洗いその水を掃除用に使ったり、又にまでもするような生活をしていました。このような生活をしていた大泉の人々が西天龍の開田の工事には実に真剣そのものであった事は事実でした。開田々々と言ってまるできつねにでもつかれた人のようでした。中でも主人は工事に最初から出通していました。毎日のように技術者や県の役人の方が来られる、お茶又昼のもてなしなどで大変でした。それからとまられる事もあり、家では養蚕を広くやって居りましたから忙しい時には接待に、くい蚕、すて拾いなどでほんとうになくような忙しい時もありました。しまいにはお茶の用意をしておいて野へ出なければならないことが毎日のようでした。
 このような生活をしたのですが今でも主人と苦労した話をするのですが、近所の人は西天龍には日曜はないのですかときかれました。後には家に雨が降ればあっちにもこっちにも「おけ」や「バケツ」を置いて雨もりを防ぎました。倉も雨のためにかべは落ちてしまう始末でした。
 又水騒動の時は主人に刑事がつきまとっていて口にはいわれないいやな思いをしました。二人の刑事が来て昨日は何時に長野を出たわけだが家に帰らなかったかなどときかれ「まだ帰って来ませんか」とこたえました。「そん事はない」などといわれて何とも言えない苦しい思いをして来ました。(後略)


というようなものである。回顧談を寄稿された方々は、これまでに触れた内容でも解るように事業を中心的に担われてきた方々である。反対される方々もあっだだろうが、それよりも大きな壁は対外的な対応だっただろう。この幹線水路ができたことによる水争いの激化は何度も項を改めて記してきた通りである。川岸頭首工での警察が介入しての騒動は新聞に年中行事と書かれるほど恒例のものだったという。何より開田を支えてきたのは家族だったかもしれない。奥様の寄稿にその思いがよく現われているといえる。今でもなぜここに集落ができたのかと少なからず疑問の浮かぶ大泉。地名は「大泉」とはいうもののその実は「尾泉」と言われ、水の乏しい地域だった。確かに川の端に位置するものの、その集落は川に沿って展開されるのではなく、直角方向に広がる。集落内では井戸に水を頼った。中には灌漑用にと横井戸を掘った人もいる。水を求める思いが結実した大事業だったわけであるが、それは大泉だけの願いでは叶わなかった大きなもの。書かれていないが単に開田されただけですぐに思うような水田になったわけではないだろう。開田後の苦労もまたあったはず。何事もなかったように今は春になれば水田に水が浸くが、その歴史に刻まれた人々の思いは計り知れないほど重かったはずである。


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