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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

『西天龍』の回顧談から⑤

2010-07-27 12:47:18 | 西天竜

『西天龍』の回顧談から④より



 南箕輪村と箕輪町の境、通称春日街道と言われる幹線道路の脇にとてつもなく大きな石碑が建っている(地籍では箕輪町になる)。開田した地域の50アールほどのスペースを使って建てられている石碑、西天竜開田を記念して用意されたこの石は遠く仙台の稲井村というところから運ばれたものだという。今なら無駄と言われてこのような記念碑を建てることもなかっただろうが、後世に確実に伝承していくモノとしてはけして無駄とは言い切れないものだとわたしは思う。公共事業全盛時代に建てられたおびただしい記念碑があるが、確かに時の権力者の名を知らしめる遺物になっているものの、意識としてその物体がその地域のその後の過程に何かを残すことは必ずあるもの。それを「こんなものを造って」といって周囲が捉えるようになれば、きっとその世の中は、その地域はとうてい歴史を重んじることはできないのではないかと思ったりする。それにしてもこの巨大な石碑、高さ28尺(8.5メートル)、厚さ2尺(60センチ)と言われる。南箕輪村大泉の原孝也氏は「記念碑について」(『西天龍』北部教員会西天龍調査研究委員会編/昭和29年)において「七千円」とこの石の金額を記している。また「この石を駅迄運ぶのに鉄のコロを使って虫の動きのようなものであり、この村は石で生活をしている人達であり全村挙げて協力してくれたものである」と記されており、記念碑そのものの工事も大事業であったことがうかがわれる。鉄道に載せられたのが昭和19年の3月26日のことである。間もない4月1日には「戦時の重点的な方式に変わった」と原氏は述べており、戦争真っ只中の大事業がいかに重大なことなのかもそこから知られるいっぽう、時を逸すればこの碑はここには建っていなかったということになるだろうか。

 原氏は次のようなことも記している。

 さて碑文を誰が書くか相談したところ東条大将がよかろうということになった。さて誰が行ってお願いするかと考えた末、井沢先生(井沢多喜男)に労をとってもらうことになり先生にお話した。すると井沢先生「己は東条には頭が下がらん。」木下信氏に行って貰うようにといわれた。この時井沢先生が不機嫌であり容易に誰に書いて貰えとおっしゃらない。私達も大変困ってしまい、最後にこの問題は私どもには分かりません先生におまかせしますというと先生は撰文は木下信にさせて自分が題を考えらるとおっしゃったそこで木下先生に撰文していただいて井沢先生にみていただいた。四個所訂正していただきこの文に最もふさわしい「鐘水豊物」の題をかいていただいたわけである。

 現在も西天竜を表現する言葉として使われる「鍾水豊物」の四文字。「水をあつめ、物を豊かにする」という解説がされているが、その誕生の背景をここから読み取ることができる。建立されたのは昭和26年10月23日であり、戦争中に始まった碑の建立は長い年月の末に成し遂げられたわけである。


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