Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

情報保護という選択

2008-06-05 12:22:18 | 民俗学
 『日本民俗学』の最新号(253)では、「民俗学と研究倫理」について特集している。近ごろの情報制限のなか、学術分野においてもその表記方法については注意が払われている。「共同幻想の喪失と「個」への対応」において八木橋伸浩氏は、報告書から発生した不信感について触れている。

 ひとつは話し手のしゃべりをそのまま記述したもので、よく昔話などの報告書で採用される方式である。話の合間に登場する「あー」とか「うーん」という言葉ともなんともいえないものをそのまま記述するのである。再現ということになるから、思い出しながら話をしていれば、話が通じないような箇所があっても不思議ではない。こうしたありのままを再現することが何の意味があることか、という人もいるが、やりとりの中の微妙な雰囲気や人柄までを知る上では必ずしも意味がないとは思わない。しかし、この事例の中で指摘されているように、話し手が印刷されたものを読んでみたら恥ずかしい思いにならないとも限らない。この事例では前述した「あー」とか「うーん」という言葉があまりにも目だち、聞きづらいと話し手も感じているのである。加えて何度も同じことを繰り返していて、それを読んだ孫に「少しボケてきたんじゃないの」と言われ、二度とその本は開きたくないというのである。その手法に意味はあるとは思うが、こういうケースの場合、明らかに話し手に対しては不快感を与えることになるだろう。話し手への還元をすることが多い民俗研究報告書においては、話し手への配慮も必要である。また、臨場感という意味では確かにそのまま記述するのもよいが、わたしは好まない方法である。

 そういう意味でいけば、民俗社会の再現をする際の固有名詞の記述方法はとくに問題となる。二つ目の事例で八木橋氏が述べているが、実名表記の場合で、とくに利害関係などがあったりすると、「誰が言ったんだ」という問題になることはとくに民俗学の世界だけのことではない。とくに差別的な問題と取られがちな部分は注意が必要で、そうした問題はわたしも実際に経験してきた。ところが、一つ目の問題とは異なり、実名、あるいは固有名詞でないと何を意図しているのかまったく解らなくなってしまうこともよくある。これについては同じ253号において「民俗学の研究倫理をめぐる諸問題」において八木透氏が述べているが固有名詞がなぜ付けられたかという疑問を扱った場合、その名詞が実際の名称でないと解りづらいということがある。八木氏は「大地」という同属に、後に加えてもらった人たちを区別するために「中地」と名乗らせた事例を取り上げている。この場合は旧家の「大」に対して新参の家をわざわざ「中」にしたところに意味があるわけで、これをОとCと表記しても何の意味だか理解できないというのだ。個人情報保護というものが介在してきたなかで、その手法にいずれも慣れていないがための問題のように思う。実名を前提に記述したあとに、それを修正して消そうとするから意図が見えなくなってしまうのであって、最初から実名はないものとして表現方法を検討していけば、筆者の意図は解ってもらえるように思う。それでも名は体を現すというように、姓名そのものがなにやら意味を持っているように感じることもある。共感度は下がるが、それも致し方ないことである。
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