Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

終焉を迎える常識

2008-06-11 12:30:30 | つぶやき
 「死にたい」「みんな俺を敵視している」派遣社員を4分の1にされる不安のなかで、自虐的な意識を持ちえていく流れは、けして解らないものではない。事件前の会社での行動は確かなる変化ではある。工場の空調機の不調にいらだち「ふざけるな」と大声をあげたり、始業前の更衣室で「おれのつなぎがない。この会社はどうなっているんだ」と暴れ、工場を飛び出したまでは理解できる範疇だ。しかし、まもなく青年は秋葉原の歩行者天国に車を突っ込み、加えてサバイバルナイフによって殺傷事件へと突き進む。異常というキーワードでくくるにも度が過ぎている行動である。なぜそこまでに至るのかという部分を、世間は疑問符を並べて騒ぎ立てる。亡くなられた方たちは、不慮の事故としか言いようのないものであった。こうした世の中を単に荒んだ人間関係と言ってしまうといとも簡単なことなのであるが、「世も末」と書いた新聞の投稿欄には、教育の再生をという言葉が踊る。教育をどう再生するかといっても、おとなたちがそれを導くことは、すでにできない状態になっている。

 リストラ対象ではなく、「継続ですよ」という言葉を聞いていたのに、自分は完全なる負け組みと判断した青年。派遣社員というかたちで、安定しない環境に横たわっている事実を負け組みという理由にしたのか、それとも「継続ですよ」という言葉では信用できないほど、悲観的な意識に陥っていたのか、さまざまな感情が考えられるが、「なぜ」を後にわたしたちは明確に聞くことはできない。そういえば今までの凶悪事件でも、犯人そのものがどういう意図でそうした行動に出てしまったのか、という部分についてあまり耳にすることはないし、わたしたちも意識しないでいる。事件報道のみがインパクトが強すぎて、背景は知らされない。もっといえば、さきごろの判決でもあったが、裁判そのものの現場で語られるものも、「本当にそうなの」と首を傾げるような理由が登場してしまっていて、裁判が物語化してしまって、どうもうさんくさくなってしまう。すでにその段階で真意はだれにも解らなくなっている。

 一過性の報道では、その「なぜ」の部分を取り上げようとするが、違和感ばかりである。事件後直近のニュース23では、「キレる」という言葉を協調した。今時の子どもたちに限らず、おとなでもそんな人間はどこにでもいるし、誰にでもあるものである。また中学生までは優等生、高校に入って一変したというフレーズも常に聞くものであって、それらがそうした背景にあるかのごとく強調されるのはどうも違和感が強い。今回の青年、中学までの人とのかかわりをみるにつけ、他人とも十二分に会話のできる少年期であった。進学校へ進み、そんな目立つ存在が挫かれたときにまずもって悲観的になることは自ずと推定され、そうした子どもたちは数え切れないほどいる。挫折はあってもそれを超えられる環境や人間関係が存在するかがポイントのようにも思う。そういう意味では、確かに荒んだ空気の流れる時代になっている。従来のような「働いて、恋愛をして、結婚をして、家庭を継続していく」というごく当たり前だった定規がなくなった現在、誰もが隣り合わせの事件背景だとわたしは思う。もちろんわが家においても・・・。
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