Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ケイタイという窓

2008-06-24 12:26:49 | ひとから学ぶ
 「知らない人とつながりたい」「自分の存在を多くの人に知ってほしい」そういって子ども達はケイタイというメディアにのめりこんで行く。現代の病といわれるケイタイ依存の世界は、子ども達が悪いわけではない。そう思わせる環境、背景はけして理解できないものでもないし、それを提供してきたのは大人たちである。にもかかわらず「ケイタイをいじるな」といっても、そこが子ども達のよりどころだとしたら、その世界を否定できるものでもない。秋葉原事件の実行予告のようなものがケイタイサイトに羅列された。それを奇異の目で見るほうが不思議であって、凶悪犯罪にはならない場面で、そんなことは日常的に展開されている。それだけをもって奇異に捉えるのは、事件を正確に捉える術を失わせる。だからといってケイタイというメディアを廃止することができるのか、ということになる。

 これほど小さくて、これほど機能豊富な機械が、かつて自分の子ども時代にあったら、必ず利用していたと思う。もちろんその利用の方法はさまざまだろうが、月々の利用料さえ親と契約が結ばれれば、手に入れる際の購入費など高額ではない。小遣いのない子どもたちにとって、利用料という壁さえ取り外されれば、使い放題になるのは当たり前のことである。もちろんそうした人の心を読んでこの商売は成長してきた。高額な機械ではなく、手に入りやすくして利用料で稼ごうとした。そしてその支払い者の意識を分割させたわけだ。簡単にいえば分割払いのようなものなのだが、必ずしも分割払いではない、そこに騙されてしまうわけだ。そしてその小さな機械は世界へとつながる。冒頭の気持ちは、この小さい機械へと込められるのである。

 機械へと込められることにより、現実社会からの逃避とも捉えられる。しかし、どこかで誰かが覗いているとしたら、必ずしも現実社会からの逃避ともいえない。ただいえることは、生身の言葉を交わすことがなくなるという事実だ。「知らない人とつながりたい」と思い、この機械がないとしたら、外へ向かうしかないし、また生身の声を発するしかないのに、この機械は文字というもので不特定多数に公開されていく。そうした不特定多数の人たちへオープンすることを嫌う人たちによる別のサービスも話題にはなるが、つまるところ人は他人と接したいと思う部分が強く、冒頭の思いに結論付けられていく。

 この偉大なる小さな機械がなかっだ時代、自らは何をして、どう行動したか、それを考えてみれば、現代の病とたいして変わるものではない。身近ではない他人との接点を望む子どもたちにとって、通信手段は郵便というものしかなかった(それ以外にまったくないとは言わないが)。死語になりつつある文通というものは、そんな手段であった。投稿欄に掲げられる「文通希望」という文字を頼りに、見ず知らずの人との接点を望んだ。その根底は、冒頭の思いと変わらないとわたしは思う。そしてわたしもそれを実行した。身近に飽きたり、他国を覗きたいと思えば、まったくの未知の人との接触を期待することになる。その接触が期待できなくなるとすればどうだろう、かつても文通の相手とのトラブルで発する事件はあった。よりいっそうおとなたちが歪んでいる証拠に、この窓口は奇異に捉えられているのかもしれない。さまざまな問題はあるにしても、その窓口そのものを否定しまってはいけないのだろう。
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