Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

全体主義への歩み

2008-06-20 12:31:04 | つぶやき
 信濃毎日新聞に大塚英志氏(マンガ原作者)が宮崎勤死刑囚の死刑執行について触れている(6/19朝刊)。正義感が強いのか、はたまた全体主義に走る風潮なのか、こんな記事を気分よく思わない人たちも多いのだろう。それどころかこの時代、どれほどの人がこの記事を目にするかも疑問でもある。総じて背景やその理由を学ばなくてはならないと口にするわたしには、そんな大塚氏の記事が、少しばかり学びの部屋を貸してくれる。しかし、そんな学びの部屋は、すでに絶滅危惧的存在になりつつあるような気がしてならないし、宮崎事件そのものよりも、世の中の流れを危惧するばかりである。何度も触れながらも、何度も同じことを思い、またそんな考えが正当ではないと打たれると、また自らの自問自答の先が見えなくなるのである。

 大塚氏はきっと言い尽くせないほどのものを持っているのだろうが、その中から2点ほど取り上げている。ひとつは「青少年の犯罪と「おたく」系サブカルチャーを結びつける報道は宮崎事件をきっかけに始まったもので、ぼくはそれに異議を唱え」るという。宮崎死刑囚の所有した六千本のビデオのうち、性的な表現やホラー映像を含むものは、百本前後だったという。そしてメディアの影響説のなかで事件を理解したつもりになるのは妥当性に欠くと主張してきたという。報道の繰り返す原因のメディア説は、表現の規制を強化する法改正の動きに結びつき、こうした凶悪事件が起きるたびに、世論を引き付けながら別の意味で規制強化をしようとする動きを牽制している。問題発言の多い鳩山法務大臣にあって、死刑執行については支持する人が多いと聞く。執行を着々と実行し、加えて誰を執行したかを明確に報じている。最近はそんな死刑執行の日が、自然と受け入れられている。すでに死刑執行は日常のことで、二ヶ月に一回定期的に行われ始めているとはいえ、さらなる死刑執行を望む声も大きい。人の死などというものはとくだん稀な事態ではなくなっているようにも受け止められる。犯罪を肯定するものでもなく、殺人者に対しては厳罰であるべきだと思うが、果たしてこの風潮はいかがなものだろう。

 大塚氏は二つ目として「事件から学びうる多くの事実がそこにあり、「何も明らかにされなかった」と切り捨てて終わるのは事件を「おたく」と結びつけて理解した気になるのと同じ怠慢さであるということだ。理解し学ぶことへのサボタージュが「理解できない犯人像」を創り出しているにすぎないことに気づくべきである」という。死刑囚が死刑執行されるたびに、説かされぬまま闇の中に事件は葬られたがごとく報道されているが、それでは目を閉じているに過ぎず、そこから何も学んでいないということになる。大塚氏は裁判において「彼がなぜこのような不幸な事件を起こすに至ったのかについて理解する努力は相応になされたと受けとめている」という。審議し尽くしても尽くせるものではないだろうが、公判の中ではその理由を解明するべく努力はされていたと捉えている。にもかかわらず、何も解明されなかったとくくってしまうのは、実際の事件を閉じてしまっているに過ぎないわけだ。すぐにでも死刑にしろという意見もあるが、その背景を何も見ようとせず、「死刑、死刑」と合唱する人々を見ているといったいどこへ向かおうとしているのだと思うのは、わたしだけだろうか。

 ニュース23において、この死刑執行に対しての街の意見を聞いている。ほとんどの人たちはこの流れに沿って答えてり、もしも死刑執行に異論を挟むような意見があったら、ちまたでは生きていけないほどに世論は統一されているように思う。報道は適正なのだろうか、またそうした報道に国も、民も間違った捉え方をしているのではないだろうか、などと思えてくるこのごろの動きなのである。
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