Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

墓に入っても仲間だ

2008-03-23 14:59:43 | ひとから学ぶ
 中日新聞をたまにのぞいてみたら、またまたお墓のことが書かれている。どうもこの新聞、お墓に深入りしている。わたしも深入りしている方だからちょうどよいが、なかなかそんな記事がいろいろ考えさせてくれる。「結いの心 市場原理と街」という連載なのだろう、ちょうどお彼岸の中日の記事である。それによると、「都費で社会福祉法人が取り仕切る火葬は、棺がごみごみとした倉庫のような場所に置かれ読経献花もなかった」という。独り身の者が多くなるに従い、遺骨を供養してくれる身内もいないということは珍しくはない。こうした仏を無縁仏というのが正しいのかどうか知らないが、わたしの認識も無縁仏というと、供養する身寄りのいない仏だと子どものころは思っていた。しかし、実際聞き取りをしてみると、無縁仏とは不慮の事故で亡くなったような仏様で、いわゆる一人前でない仏様のと捉えられていることが多い。そして、そうした無縁様は、一人前で亡くなった仏様と異なり、供養の仕方が違ったりすることも、聞き取りをするようになって知ったことである。

 今や3人に1人が1人暮らし、などという見出しをどこかで見た。どういう枠組みでの比率なのかは確認しなかったが、そんな時代が少しも不思議ではないこのごろである。にも関わらず記事でも触れられているが、

「妹に、おれは無縁仏になるからって話してある。誰にも迷惑かけたくねえんだ」。(自分達の)墓を持つ計画を持ち出したとき、そう答える人もいた。だが、仲間が真意を代弁する。「みんな『共同墓地』でいい」『誰も来てくれなくていい』って言うけど、本音はそうじゃないって」、「お墓の中に入ってからも、みんなとあれこれ話せたら、うれしいな」

と無縁様でありたくない本音を語るという。

 必ずしも身寄りがないわけではない。身寄りがあってもさまざまな事情で遺骨が引き取られないということも当たり前のようにある。墓の現実、そして墓の考え方の変化、加えてそれをだれが供養するか、などなど墓の周辺は暗い事実ばかりだ。記事では、死後を予測した上での安心感を求めての真意だと捉えているが、それほど死後の自分に安心感が必要なのかどうなのか。身よりもないと認識している人たちの死後とはどんなふうに写っているのだろうか、などといろいろ考えがめぐる。非婚率が上がり、人口が減少する中、死者はしばらくは増え続ける墓に関わる問題はきっと緊急なものだと思うのだが、例えば葬儀社は、あるいは寺院は、どう考えているものなのだろうか。
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