Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「生涯現役」とは

2008-03-09 21:11:12 | 農村環境
 同僚が憤慨している。何をそんなにと思って聞くと、「長野県政タイムス」の3/5号のマルチシンクといういわゆる社説のような記事を読んでのことのようだ。わたしもこの県政タイムスを会社で取っていて、時おり目にしてはいるのだが、この3/5号にはそれほど気を留めもしなかった。改めてその記事を読んでみると、確かに不思議な部分がある。内容は「泰阜村の「生涯現役」懇に期待する」というもので、ようは泰阜村の超限界集落の梨久保と漆平野で「生涯現役集落自立研究懇談会」を同村のゼロ予算事業で開くというものを扱ったものだ。地元新聞にそれが紹介されていて、このマルチシンクを書いた記者が「何かホッとするような、何ともやり切れないような気持ちにさせられるニュース」だというのだ。冒頭から何だろう、という疑問の湧くような始まりである。「ホッとする」と「やり切れない」という背景は何となく正反対なものである。では切ないとは何なのだろう、と疑問を抱きながら記事に入る。最後まで読んでも「やり切れない」という部分が何だったのか解らない。どうもこうした限界集落を温情の感覚でこの記者が見ているようにも捉えられ、その方が「やり切れない」とわたしは思う。

 同僚はこのなかのどこに憤慨したのかといえば、「役場の職員がそんな地域に入って、本当にその土地の人は喜ぶのか」という。これは同僚の認識不足であって、現実的には記事でも触れられているように、年寄りが話相手を求めていることは確かである。もちろんすべての年寄りがみなそうであるとは言えないが、求めている人も少なくはないはずだ。したがって聞き手が訪れることはけして悪いことではない。ただ同僚が言うのは、仕事がらお役所の人たちとかかわる中で、それらの人がムラの中に入って行ったら「むしろ雰囲気を悪くするんじゃないか」というのだ。これは常日ごろお役所の人たちに虐げられている証拠かもしれない。お役所の人たちは、山のムラを理解して懐には入れないと考えているのだ。だからこそ、「あんな対応をする人たちが、いったい何ができるんだということになる。お役所の人たちもさまざまだから、すべてということではないことを同僚も十分承知したうえでの正直な気持ちなのだろう。それも一理ある意見かもしれない。しかし、何もせずにいたからといって動くものでもないから、とりあえず動き出す必要が行政には求められていると、行政は考えているのだろう。それはそれでよいとして、やはり記事の書きぶりには気になる部分が多い。

 例えば、「過疎地の中でも限界集落のお年寄り達は、茶飲み友達も限られ、自分達の要望や希望などを本音で聴いてくれる。〝ムラのエライ人達〟も、まずいないのではないか」と記述する。そして「話を聴いてもらえる」ことが、どの位年寄り達をホッとさせることか、という。ムラの人達は「エライ人達」という形容もどういう意味なんだと思うとともに、そう年寄達が言ったのかどうかも胡散臭い。そんな書き振りがますます同僚の気分を悪くさせる。

 「生涯現役」という言い方もなじみ難い言葉である。では今までの年寄は現役ではなかったというのか。現役とは何かということになる。限界を突き進み、その集落に1人しか住んでいない状態になったとしても、現役には違いない。もしかしたら、現役とは病にかからず、人の手に頼らず自立できることをもってそう言うのかもしれない。そういう捉え方をすれば確かに意味は理解できるが、耳障りはとてもよくない。ようはどういう状態に陥ろうと死ぬまで玄沖に違いないからだ。いちいちそんな説明をしなくてはならないようなネーミングをすることはない。もちろん若い人達だってそれではかかわり難くなる。

 「生涯現役」という耳障りの良くないイメージはともかくとして、同僚のやりきれなさは、そんなムラの将来がどうみても明るいとは思えなかったからに違いない。
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