Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

日々と自らを思う

2008-03-20 18:19:09 | つぶやき
 毎日が短いというか長い。こう毎日のように終電をめがけて乗っているのに、間もなくその終電ですら帰るのが早すぎるというような情況になってくる。自宅でも可能な仕事でも、そうはいかないこともある。そんな季節がやってくるのだ。どうあがいても、我々の仕事の所在が見えない。それを「甘い」と言ってしまえばそれまでなのだろうが、多くはお役所の下支えのような仕事で、つまるところそんな仕事をしていながら収入はない。にもかかわらず、今年も55歳で定年してゆく。頭数が減るのだから、収入のない下支えを減らしてくれればよいのだが、そうはいかない。

 人間はいくらでも働けるものなのだろう。よく過労死ということを言うが、よほどのことがなければ身体を壊すことなどない。節制していれば、そこそこは持つものである。むしろ精神的な部分の方が身体には応えるだろう。はけ口のない日々が連なり、心は晴れないものだ。加えて家庭内に問題があったりすれば、心も重い。よくも同僚たちが日々過ごしていると思えば、まだ幼い子どもたちがいれば、そんなことも言っていられないだろうし、子どもたちの顔でも見れば、それは晴れるのかもしれない。一時的な人生であるならば、それもよいだう、などと飛ばすこともできるが、日常的な苦痛は、どうしてもその路線から外れたいという気持ちへ誘う。いかにその気持ちを晴らすか、などと思うが、毎日は繰り返される。身体を壊さない以上、毎日が普通にやってくるのである。

 さて、そんな日々を過ごしていると、こんな短い日記を綴ることもままならなくなる。かろうじて電車を利用しているから日記を書いているが、そうでもなければ日夜仕事が頭から離れない。こんなオープンな日記でなければ、仕事にかかわる悪口や役所に対する悪口を五万と書くのだろうが、どこかで差し控えている自分がある。そう考えてみると、もし懐に納めている日記なら何を書いていただろう。半分は人の悪口なのか、それともその日に起きた出来事なのだろうか。いずれにしても今までそんな懐に納めるような日記を書いてこなかった。自分の人生に悔いはないものの、果たして良い生き方をしてきたのかと問われると、なんともいえない。心中は蜘蛛の巣の張ったように荒れ果てた廃屋の中である。1ヶ月20日程度と言う役所の勤務日数で割ると、年間にしたらどうだろう、6ヶ月分くらいよけいに働いているが、この下支えのために、わたしは一銭も報酬をもらっていない。そんなことはちまたでは当たり前だといわれるかもしれないが、いけないのは、役所の下支えだということである。役所がそんな仕事は自分でするといえば、わたしたちは廃業となる。それでも仕方ないと思っているのに、いつまでたっても、そう言わない。だから廃業すればよい会社なのに、なかなかそれができないのである。不安な心持でありながら、我々は誰のために働いているのだろうと常に心の中で葛藤を続けるのだ。そんな曖昧な心持で手を抜いたりすると、すぐにしっぺがいしがくる。自業自得といわれれば、それもその通りである。しかし、それが毎日の現実である。それがためのこのところの終電暮らしであり、その先に見えてきた、終電以降への足掛かりなのである。
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