Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

駅のある風景

2008-03-27 12:31:23 | つぶやき


 駒ヶ根市内広小路を久しぶりに訪れる。もちろんいつものように髪の毛のカットのためである。日々、ほとんど会社の中に住んでいるわたしにとって、久しぶりの日中のプライベートな行動である。伊那市駅から乗って駒ヶ根駅まで約25分。やはり30分未満という時間は、中途半端な時間で、慣れないとこの時間内で何かをしようとしても中途半端になるのは分かりきっている。やはりこ時間では本を読むとか新聞を読むのが良い時間の使い方なのかもしれない。

 用事を済まし、駒ヶ根駅で次の電車を待つこととなる。すでに暗くなった広小路に、音楽が鳴り響くが、人通りはいつものごとくまばら、というよりはほとんどない。土曜日の夜ということもあって、それでも飲み屋を目指す人影が視界に入る。駅で約30分ほど待つことになるが、ふらふらといろいろ見学することになった。なぜかといえば、待合室に入ろうとしたら、電気は点いているのにドアに鍵がかかっている。この駅、切符の販売は午後6:20までである。それに合わせたように、駅員もいなくなるし、駅そのものがほかの無人駅と同等に変化する。以前にも触れたように、わたしにとっては駒ヶ根という街は、子どものころからの〝目指す街〟だった。だから昔の面影を抱いているが、すでにそんな思いははかないものとなっている。「夜間の進入お断り」というような紙が貼られている待合室。それなら電気を消せばよいのに、煌々と明かりが点いている。一応市の中心駅なのだから、イメージというものもあるのだろう。

 ところで、このごろの駅は駅舎に時計などというものはない。駒ヶ根駅くらいの大きさなら当然あるものだと思って見回すがそんなものはどこにもない。時計すらない駅。わたしは腕時計をポケットにしまい込んでいるからよいが、待合室に駆け込んできた客が「54分発の宮田行きはいつですか」とわたしに聞く。まるで駅員のごとく「今来ます」と応えるわたし。見ているとけっこう間際に駆け込んでくる乗客がいる。きっと焦っていたりすると、時計を見たくなると思うのだが、そこに時計はない。これも赤字線だからしかたないと思えばそれまでだが、客にとってはどこか不安である。そんな不安な様子がほかにもうかがえる。やってきた乗客が、券売機の前で立ち止まっている。切符を買おうとするのだが、「あれっ」という感じなのである。ふだん飯田線の駅で切符を買うことがほとんどないわたしには知らなかったことであるが、前述したように6:20には券売機が停止する。したがってそれを知らない客は、立ち止まってしまうのである。駅を見回すと、そうした説明もあれば、ワンマン電車の乗り方、あるいはボタン式でドアが開閉することなど説明されているが、焦って駆け込んできた人たちには、認識できない世界である。ふだん電車に乗らない人たちにとっては、ますます電車が遠のいてしまうことは確実である。

 さて、ようやくやってきた午後7時の電車に乗る。客は5人ほど乗ったが、まもなく降りてゆく。まるで平日の飲み会帰りの客がいない終電のごとく、電車内は空っぽである。だれもいない車内でひとときの自由時間を過ごす。

 追伸 行きつけの本屋に立ち寄ると、またまた前回より本が減っていた。いよいよ、という感じになっていて残念至極。この街はどこへ行く。
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